シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚- 作:ヒュペルボレイオス
タマゴの甘さとチーズのしょっぱさが混ざり合うリゾットを完食し、器からも熱が消えた頃。
ようやく腹の虫も落ち着いたおれは、これからの方針について教えてもらえることになった。
「あたしたちを頼ったおぬしの慧眼は褒めてやろうかの。如何にも、妾たちにはこの空の解決方法が古より伝えられておる」
「お、教えて下さい」
「うむ。三つの湖を巡り試練を受けよ。そこで授けられた“証”を『霧の遺跡』に持ってゆくのじゃ。そこで得られる『あかいくさり』なら、世界を正しく繋げられる」
「……はい?」
「うん?」
その説明を理解するまでにかなりの時間を要した。
出てきた単語を嚥下することができなかったんだと思う。
あかいくさり。
それはかつてアカギがリッシ湖を爆破して連れ去った湖の三匹から無理やり作り出した物体で、ディアルガを呼び出し荒ぶらせた道具の名。
「ちょっ……ちょっと待ってください。あかいくさりってディアルガを無理やり従わせる道具じゃないですか?」
「え?」
「は?」
「あかいくさりを作るために必要なものだって、あの三匹を苦しめないといけないんですよね? できればそういうのは無しにしたいって言うか……それ以外の方法って無いですか!?」
「まってテルお兄さん、なんの話?」
おれとしてもこの異変は一刻も早く収めたい、けどそのためにあの三匹が苦しむことになるのは嫌だ。
妙な装置に押し込められて、他のポケモンだったら目も当てられないカタチになるような方法で、無理やり体から何かを抽出させられる──そんな目に遭わせて作り出される道具なんて、おれはできることなら作りたくない。
その思いを込めて、かつてシンオウ地方で起こったことを必死に話した。
リッシ湖を爆破されたこと、三匹が連れ去られたこと、あかいくさりが作り出され、テンガン山の山頂でディアルガが呼び覚まされ、あかいくさりに縛られながら力を使わされ、新しい宇宙が創られようとしたこと。
話すにつれてコギトさんは何やら思案顔になっていくし、クレィアちゃんは悲しそうに目を伏せて微笑むし、ウォロさんは……何だろう、無表情だけどキレてそう。多分そういう顔。
「……あのな、テル。まずあかいくさりとは神々を従わせるものではない。あかいくさりとは、世界を正しく“観る”ためのものじゃ」
「世界を……正しく、みる?」
「昔々、まだ世界がひとつの大陸であった頃の話になる」
──その時代、人もポケモンも風も朝露も石塊も、全てが等しく互いを敬う友であった。
──だが人は次第に驕り始め、神々や自然への敬意を忘れていった。木々を切り倒し、山を掘り穿ち、石を削り研いで武器を作り、血に塗れた刃を洗い、数多の水を濁らせた。
──凄惨な有り様に変わっていく世界を観たアルセウスはそれに嘆き悲しみ、雷で空と地を裂き、涙で全てを流したという。
「あのアルセウスが……嘆き悲しんだ……?」
「ふむ……よいか、心を持たぬのであれば世界は無いも同義。世界で何が起ころうと無関心なのであれば、その者の“観る”世界とは無に等しいのじゃ。故にこの世全てを見るアルセウスの心は、この世の何より強く色めいていると考えるのが道理。人とポケモンが美しい自然の中で手を取り合い生きていくことを何よりも善しとされているのなら、その調和を破壊された時こそがアルセウスの嘆き悲しむ瞬間であろう?」
その言葉に、きうっと胸が締め付けられた。
アルセウスが、あの万能の神が、全てを超越した創造神が嘆き悲しむのは、自身の眺める世界が、その調和が破壊される時。
──じゃあ、おれの領域侵犯は?
──あれは、アルセウスにとって何だったんだ?
アルセウスにとって心を乱すものではなかった?
あの侵犯も因果として折り込み済みだったのか?
だとしたら──だとしても──この、強烈な罪悪感は何。
おれはアルセウスに、
「世界が混沌のうねりに戻らんとした時、乱れ荒んだ神の御心を鎮めるために人々が捧げた贖罪の祈り。その結晶こそが『あかいくさり』じゃ。悔い改めた人々の心の在り方を表した神具、嘆願の書にして新たな調和の誓い。神に希うことはできても……神を従わせることなど、できるものか」
「……そっか。アカギの心を受けた湖の三匹から作り出されたあかいくさりの在り方は、本来のものとは掛け離れている……あの時のディアルガが荒ぶったのは、捧げられた祈りの結晶が世界への絶望で満ちていたからなんですね」
彼の慟哭は今もよく覚えている。
くだらない争いを無くし、理想の世界を創ると言っていた彼の言葉にはいつも計り知れない絶望があった。
特に「心」を強く憎んでいたことを考えれば、「心」を司るユクシーたちへの仕打ちも、その理由が見えてくる。理由があろうと納得はしないけど。
「あれ、待てよ。コギトさんの話では荒ぶったのはアルセウスで、アカギがくさりを届けたのはディアルガで……今この空が赤くなっているのは……アルセウスが嘆いているから? それとも、ディアルガが……?」
「それは今考えることじゃないよ、テルお兄さん。」
思考の海に身を投げようとしたおれの手を、鈴の音の様な声が掴んで引き戻す。
「今すべきなのは、あかいくさりを作り出すこと。三つの湖をまわり、心をささげ、荒ぶる神を鎮めるための神具をさずかることです」
「あ、そ、そうだね」
彼女にしては有無を言わせない強い声色に慌てて頷く。
いけない、すぐに自分の世界に入り込んで考え出すのがおれの悪い癖だ。
「そう。そしてその湖を周る使命を宿すのが、時空の迷い人であるそなたじゃ」
「え?」
「うん?」
今なんかおかしなことを言われた気がする。
ちょっと一度訊き直そう。
「おれ?」
「うむ」
答えは変わらず。
幾拍の間を設けて目を瞬かせ、ゆっくりと自身を指さした。
「おれェ!?」
「そうじゃ」
「おれなの!? おれ自分のルーツとか知らないけど絶対カミナギの民じゃないですよ!?」
「この世界は元々ひとつの大陸だったのだから、まあ軽く原初まで辿れば皆カミナギの民であろう?」
「いやいやいやいや!! おかしい絶対おかしい!! カミナギの民、古代シンオウ人の末裔こそが神々の代弁者でしょ!?」
「ああ……ふむ……。如何にもカミナギの民は神々の代弁者。つまり人々の祈りを神に捧げる存在ではない。妾たちは神々の意向をそなたら人間に伝えるためのものじゃ」
「オイ原初まで辿れば人類皆カミナギの民説どこいった!?」
「そなた中々に頭が切れる奴じゃのう……」
言いくるめに疲れる、とコギトさんが溜め息を吐きながら遠くを見つめる。
そうは言われてもおかしいだろう。神々との交信こそ、神薙の名を冠すカミナギの民の真髄。神々を祀り神々に仕え、神々の声を伝える者──それこそが巫・覡であり、古代シンオウ人の特色だ。
……いや、まあ、でも確かに。
アカギが古代シンオウ人の末裔かって言われたらちょっと素直には頷けないが、それでも彼はあかいくさりをディアルガという神に届けた。
いやでもそれは……ええ……?
「まあ、ジブンとしても時空の裂け目から落ちてきただけの異邦人の心を、何故うちの神具に用いなければならないのか疑問ではあります」
「仕方なかろう? あたしたちの祖先が言い残したことじゃ。
「え?」
「うん?」
「……祖先?」
「うむ。と言ってももう千年も二千年も前の話じゃ」
点と点が接続する。
何故、“この”バクフーンの逸話が今に伝わっているのか。
──ヒスイのバクフーンは世界で唯一にして初めて確認されたポケモンであり、彼を表す古代シンオウ人の言葉が残っているはずがない。
何故、神さまに捧げる“贖罪の結晶”に用いる心がおれでないといけないのか。
──神さまに懺悔し悔い改め、罪に傅く理由があることを、おれはただひとり以外に明かしていない。
何故、“時空の迷い人”なんて単語が残っているのか。
──千年も二千年も遥か昔から、異なる時代からの来訪者を表す概念が残っているのは、何故か。
「あっ……ああああああ~ッ!?」
「どうしたテル」
「おっ……おあーっ!? あの子っ!! あの子かーっ!!」
“では
この世界で
歪んだ時空の向こう側、『カミナギ寺院跡』がまだ『カミナギ寺院』だった頃に生きていた、遥か昔の古代シンオウ人こそが、この世界で
“たとえ神が赦さずとも。ワタクシだけは、アナタを赦してあげましょう。”
おれが神さまに謝らないといけない人間であると、唯一告白した相手だ。
「なるほどね!? あの子がくれた神さまへの贖罪の機会ってワケ! じゃあこの赤い空って本当におれにブチギレてるんじゃないか!? 団長の判断は正しかった!?」
「お、おちついてテルお兄さん」
「そのままでいいですよクレィア。見ていて面白いので」
あの子はウン千年間、おれという罪人を赦すための口伝を残し続けていたんだ。
こうなることを予測していたのか、それともこうなることを神さまから聴いていたのか、はたまた三つの湖を巡って神具を授かることが贖罪の汎用的な手順なのかは分からないが──時空の迷い人であるおれのために、あの子が子々孫々に伝えていたもの。
全身の血液に撃鉄が下りる。
火花を散らして神経が鳴動する。
おれはその場で立ち上がって、衝動のままに宣言した。
「行きます今すぐ!! 湖に!!」
*
コギトさんの庵、もとい『古の隠れ里』から最も近いリッシ湖を眼下に見渡した。
小さく生唾を飲むおれを気遣う様にウォーグル様が喉を鳴らす。
ムクホークに乗るウォロさんと頷き、湖真ん中の小島に降り立った。
「心奥が一体──
「湖の底で眠り続けて世界のバランスを取っている……って聞きました。あと、アグノムが生まれたことで人々に意思が生まれ、何かを決意し行動するようになったとも」
「その通りです。アグノムを傷つけた者は七日にして意思を奪われ、一切が叶わなくなります」
小島には相変わらず入口が無い。
そもそも、この中が空洞だなんて信じられないくらいの大きさしかない。それはシンオウ地方でも同じだけど。
「クレィア」
ムクホークの嘴に顔を寄せていたクレィアちゃんが杖の
それはいつだったかの──初めて出逢ったときの、シンジ湖に捧げていた音と似ているようで全く違う。あれが心に染み入る流水だとすれば、これは心に訴えかける小さな滝のようなもの。
清涼は凛と響いて、一瞬で場の空気を支配する。
「“時の乱れ、空の歪み、破れた世界を糺す者よ。”
“太陽が消え、月が血に染まり、裂けた大地をなお駆ける者よ。”
“立志司る我らが神よ。その門を、彼の者に開き給え。”」
巫の声が鈴音に続く。
声が消えたのと同時に、アルセウスフォンがリーッリーッと聞き慣れた電子音で応えた。
アルセウスフォンは金色に染まり、おれは導かれるまま画面を小島に向ける。また雷では、と身構えたものの別にそんなことはなく、輝く光輪が小島に吸い込まれていく。
岩壁にぶつかり光が霧散する。
そこにはぽっかりと、先程まで無かった入口が出現していた。
「……あの。これ……直りますか……?」
「さあ。」
「直らないんスね……」
アルセウスフォンを帯に引っ掛けて入口を潜る。
ヒスイ地方を表すような水溜りはシンオウ地方で見たそれと何も変わらない。違うところと言えば空洞をぐるりと囲む柱。隠れ泉の『戻りの洞窟』で見た
「オヤブン……ハリーマン?」
今の今まで出入り口など存在していなかった空間に一般ポケモンがいるとは考えにくい。
ただならぬ雰囲気を纏い、荒々しい気性のはずなのに静かにおれを見つめて待ち構えていることからも、その“ハリーマン”はおれの知る“ハリーマン”とは一線を画している。
「テルお兄さん、彼は門番です。アナタに立志の神と相対する資格があるか、それを見定めるためのもの」
「……なるほど」
観察すればするほどに、ハリーマンの違和感が如実になる。それは忌避ではなく、ハリーマンの姿、佇まいに対する敬愛からくるものだ。
生物として生きていく以上、個体差というものはどうしても出る。それはハリーマンで言うと毒針の長さや太さだ。同じ種族で同じ育て方をしても、環境や泳ぎのクセで微妙に偏りが出る。
だけど。
今おれの眼前に佇むハリーマンにはそれが無い。
まるで方位磁針の如く均衡の取れた美しいフォルムはついつい惚れ惚れしてしまう。
「……行こう、ヌメルゴン」
ハリーマンは水タイプを持っていないが、水棲ポケモンとして“みずのはどう”や“アクアテール”を修得する。不用意に地面タイプのマンムーを出すと手痛い反撃を貰うはずだ。
ヌメルゴンはクレィアちゃんを視界に収めると一瞬動きを止めたが、微笑みにはにかみで応えてハリーマンへと意識を向けた。良い子だ。
「っし行くぞ! “たてこもる”!」
ぬめりけを帯びた肌を硬質化させる。
おれの声に動いたのはヌメルゴンだけじゃない。
ハリーマンは即座に赤い眼光でヌメルゴンを射抜くと、次の瞬間には“あくのはどう”を放ち終えた。
──ヒスイのポケモンたちは“はどう”という独特の概念を持っている。
ルカリオが使う
この地において、“はどう”と呼ばれる技は「必中」だ。
なんでかは知らん、そういうものだ!
「“りゅうのはどう”!」
ハリーマンが覚える技の中でヌメルゴンにまともに通るのは“あくのはどう”だけだろう。水タイプは半減、毒タイプは無効、となれば悪技しか選択肢が無い。
そしてシンオウ建築を傷つけたくないおれとしてもハリーマンに回避されたらどこに余波が飛んでしまうか分からないので、戦いの運びは必中技の打ち合いとなる。
ハリーマンはオヤブンと言えど膨大な力を得ている訳ではないようで、二発ほど“りゅうのはどう”を浴びせれば青色の粒子状にほどけて消えていった。
──本題は、その直後。
空を映す湖面の化身が如き青い頭部に深く輝く紅の宝石と、大きく開いた金の眼がおれの全身を映し取る。
宙を揺蕩う一対の尾。その先端にも額と同じ色の石が埋め込まれ、表すものは三位一体。
金の眼がほんの一瞬だけ紅に瞬いた刹那、反応もできない速度で額を水晶に穿たれた。
「ん……?」
ぱち、ぱち、とまばたきを繰り返す。
少しずつ定まる焦点の中に、青い蒼い半透明な水晶の空間があった。
ひんやりと冷たい体を起こして立ち上がる。地面も透き通った真っ青な色で塗り上げられた神秘的な場所の奥には深い湖があって、その至るところから大きな水晶の柱がいくつも突き出していた。
「ここは……」
「かつて“ボク”は、ここでたいせつなものを守っていた」
声に振り向いたが誰もいない。
洞窟に、湖面に、水晶に響く音はおれの息遣いの他に確かにあったはずなのに。その認識を咎めるかのように、空間には誰もいなかった。
「時の神の塔に納めるたいせつなもの。世界を動かすための大いなるもの」
湖の底が青緑色に発光する。半球状の光が湖面を覆い、水中の闇を照らし出す。
水の中に──きらきらと煌めく歯車が見えて、全身の産毛がざわついた。禁忌にはじめて触れた時の感覚と似ている。触れてはいけないけれど、どうしようもなく美しくて永遠に眺めていたくなるようなもの。
あの歯車に触ってはいけない。
知らないはずの宝物を前に、おれではない誰かが警鐘を鳴らしている。
「諦めない意思を確かめたい」
耳元で鳴る少年めいた声が、その警鐘を塗り潰す。
衝動を肯定する様に、その咎に目を瞑る様に、高揚する“心”を肯定した声の主は鼓膜を介さず脳を揺さぶった。
「──あの歯車を、手にしてみせよ。」
声と共に水晶の地を走り出す。
緩んだのか緩められたのか、帯に引っ掛けていたボールホルダーが硬い音を鳴らして落ちた。普段ならここで勝手に飛び出した相棒が落とし物を知らせてくれるのだろう。
それは普段ならの話で。
今は、普段ではなかったらしい。
天井を映し出す水晶の地を蹴り、群青よりも深い水面に飛び込む。
全身を打つ冷たさは刃に似ていた。一瞬で奪われた呼吸に肺胞が混乱して飢え始める。水中の揺らめきを解すことで青緑色の光は神秘的から幻想的に変化した。
呼吸の限界は早かった。
元々ヒスイの水は信じられないくらい冷たい。
比較的暖かい『紅蓮の湿地』や『群青の海岸』だろうと容赦無く体力を根こそぎ奪い取る。
この洞窟もまた同じ。
全身を刃で撫でられた様な感覚に肺の酸素は早急に尽き、水中にいるのに霞み出した視界に、命の危機を感じ取った肉体が急速に浮上した。
「ぶはっ……! はっ……はあっ……」
「諦めますか?」
水が入ってつんとする耳。それを介さない声はとてもクリアに聴こえた。内容を即座に否定できるのはありがたい。訊き返す手間が省けて良い。
「冗談……!」
眼下の光を目指して再び潜水する。
上下が引っ繰り返るみたいな浮遊感。潜る瞬間に目を瞑ったのが良くなかった。
足をばたつかせて深度を下げる。湖の底に潜っていく。あの光に、まるで虫ポケモンみたいに吸い寄せられていく。
はっきり言って苦しさは尋常じゃない。
人間どころかあらゆる侵入者を拒む水の冷たさは、ポケモンよりも弱い人間が相手だろうと手を緩めない。
「はっ、はーっ、ゲホッ……!」
「諦めますか?」
でも──辞める理由にはならなかった。
諦めていいと膝を折ってしまえる理由にはなり得なかった。
もういいんだと、そこまでする必要は無いんだと、陸に上がってしまえる理由には到底足りなかった。
「はっ、は……はっ……っ……」
「諦めますか?」
逆に、そこまでする必要があるのだろうか。
そんな自問が浮かんだ時、水の中でなければ笑っていた。バカなんじゃないかと腹を抱えて、嘘だろお前と頭を抱えた。
あるに決まっている。
「それは何故?」
だって──だって、沢山の人が困っているんだよ。
こんな空模様じゃ畑作は満足に出来ないし、採光の設計だって出来やしない。遊びに出た子供たちは帰る時間が分からないし、コンゴウ団の日時計がただの置物だ。日光が届かないなんてシンジュ団にとっては死活問題だし、チェリムはずっとネガフォルムのまま。
澄み渡る青空も、えも言われぬ夕空も、息を呑む星空も、この赤い空には望めない。
多くの人が不安を抱えて、これから先ずっと困ってしまうなら。
おれは一刻も早くこの異変を解決して、ヒスイの美しい空を、かの日輪を取り戻さないといけないんだ。
「と、ど、けぇ……!!」
青緑色の光はとても眩くて、でも不思議と目に痛みはない。
水を掻き分ける手の感覚は既に曖昧模糊。手首から先をきちんと伸ばせているのかも分からない。
口からごぼりと漏れた気泡が我先にと湖面を目指す。
何度も水を打ちながら、みっともなく藻掻いて、どうしようもなく足掻いた先──その光の中心に、人差し指と中指の先端が触れた感覚があった。
「!」
ようやく輪郭を捉えた光。
神々しき聖なる光を放ち続けるたいせつなもの。
歯車のカタチをしたそれは、おれの手の中で静かにゆっくりと回っている。
その軌道が丁度一周し終えた時、歯車は水中の群青を塗り替える程に強く輝いて、あっという間もなくおれの視界は白飛びした。
「“意思”は証明された。立志の試練は踏破された」
気づけば、水中から放り出されている。
周囲の光景は先程のものとは大きく異なり、広い湖などどこにも無い。
あるのは少し開けた空間と、そこに屹立する三つの巨大な水晶のみ。
水晶に映る誰かが、表情の無い顔でおれを見つめていた。
いや、表情はある。どこまでも厳格、どこまでも公正、尋常でない厳粛さを表情として出力すればおよそこうなるのだろう──そう思える表情が、水晶の中に浮かんでいる。
その表情におれは何を見出したのか、気づけば口を開いて問い掛けていた。
「……おれの“意思”が悪しきものではないと、どうして分かるんですか?」
水晶の向こう。
表情があるのなら人影かもしれない。表情を汲み取っているだけで異形なのかもしれない。
まるで夢の如く明瞭には程遠い感覚。おれは眼前の相手を
「ひとつ、キミは認識を改めなければならない。立志の試練はただ“意思”を確かめるためのもの。そこに善悪の概念は介入せず、続く心情と叡智もまた同じ。“感情”と“叡智”を確かめる──それ以外の意味は、一切存在していない」
声は少年のようにも聴こえ、少女のものにも聞き取れた。成熟した大人の声にも威厳溢れる老人の声にも、無垢なる赤子の声にも聴こえる不思議な音。きっとそれはおれが
そんな声が示す事実に閉口する。
この試練は善悪を問わない。
それはおれが何の根拠もなく抱いていた幻想を容易く破壊する一言だった。
──神さまは善行を望まれていて、不敬極まるおれの心はどうしようもない悪逆であり、ただの一柱にも肯定されるべきものではない。
極端だと言われてしまえばその通り。
だけどおれは自分のしたことが本当に許せないのだから仕方ない。アグノムという高潔な湖の青き化身に心が折れるほど罵ってもらいたかったのかと訊かれたら、まあ六割以上そうだと答えられる。
「キミは“意思”の下に自己の行動を決定した。全なるかな究極の一、その領域を侵犯する行為はキミの“意思”によってこの世に齎された偽典の奇跡。
屹立する水晶が瞬く。
青から赤へ、赤から黄へ、とりどりの色に染まり直してはやがて透き通った美しい青に一巡する。
その表面に映っていたのは紛れもない意思の神。
心を見極める生気の無い眼。隔絶した高位の存在だと感じられる金色の眼が、ただ静かにおれの心を聴いている。
「……とは、いえ。」
水晶に映る影が揺らいだ。
まばたきの間に色が切り替わる。淡い黄の先には人の形があった。歪みの先で出逢ったあの子と、とてもよく似たカタチをしたものが。
「今のアナタの“意思”が悪しきものではない、ということくらい立志の神はお見通しです。強いて言うなら過去の罪に苛まれるあまり今の心を蔑ろにするのは悪いところですね」
「それは……まあ、どうしようもなく……」
「今は裁きの時ではありません。故に与えるのは罰でなく、罪の名でなく、世界を繋ぐ心の一部。さあ──時空を超えて、心を一つに」
平淡な、だけどどこまでも穏やかな祝詞に包まれておれの意識は遠ざかる。
美しい蒼い水晶の空間を、凛々しい眼光を宿したジュプトルが颯爽と駆け抜けていった。
浮上した意識に顔を上げる。
水溜りに浸かる足が冷えを訴えている。
アグノムは意識を取り戻したおれを見下ろしてひとつ高い声で鳴くと、光に包んだ小さな牙を授けて姿を消した。
……アグノムに牙ってあったんだ……。
「ひとつめ、立志の試練はこれで完了です」
おつかれさまでした、とクレィアちゃんが労いの言葉をかけてくれた。
あの湖も歯車も、大水晶もどこにも無い。アグノムの力によって
「行きましょう。ウォロが外で待っています」
「あの人ずっと外にいたの!?」
「はい。」
ただ。
あの美しい光景だけは、確かにおれの魂に焼き付いていた。
後半のために空の探検隊やってました。