シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚- 作:ヒュペルボレイオス
次回、第六章完結。
そしてメインストーリー編完結です。
潮の香りが満ちた数秒、パルキアは確かに動きを止めた。
やった──と確信した次の瞬間にその達成感は根底から覆される。
「っ────────!?」
鼓膜どころか三半規管ごと破壊しかねない絶叫が山頂を脅かした。
悲鳴をあげた巫の手を掴んでディアルガの足元に放り込んだ刹那、勢いを増した「空の刃」が発狂と共に舞台上を乱れ舞う。剣閃を目で追う暇なんてナノ秒たりとも抽出できない中で体を動かせたのは奇跡に近い。
斬り裂かれた空間が黒に染まる。
世界の
次の瞬間、おれたちは崩壊した「空」へと投げ出された。
視界に広がる異様な光景。
先程まで存在していたはずのシンオウ神殿どころか、赤い空も山頂から見下ろす山肌も何もかもが消えていた。
あるのは黒に近い紺。宇宙の如き渾天の色に包まれた世界。
今、自分が落ちているのか昇っているのかも分からない。
視覚の情報と聴覚の情報が一致しない。
前方から聴こえるはずの声が右方のそれもかなり遠方からくぐもって聴こえてくるのは何なんだ。
疑問を呈す頭も大概バカになっているらしく、おれの体は人生で経験したことのない激痛に対して体感温度を極端に下げるというよく分からない反応を見せていた。
全身の細胞が丁寧に別の斬り方で傷付けられる感覚はそうそう味わえない。血球だか筋繊維だか知らないが、人体を構成する最小単位が辻斬りされたみたいだった。
遠雷の様なディアルガの咆哮が轟いて全身から失われる血の流れが停止する。
全てが存在しなかった紺の世界に一筆の線が
ただただ全身が痛くて、あと怠くて仕方がない。
このまま寝そべってる訳にはいかないんだけど、体の機能が頭以外正常に動いてくれなかった。
「テルお兄さん、しっかり……!」
その声を切っ掛けに視覚と聴覚が連携を取り戻す。
ごめんなさい、と杖を握りしめて謝る雪白。
血溜まりに落ちた脳味噌の掃除も迅速に行われているのか、乱雑な思考しかできなかった頭がいつもの性能へと回復していく。相変わらずよく分からない現象だ。次第に体温が復活して思考が急速に回り出す。
──しくじった。
その現実に肺からの吐息が赤く染まる。
何が原因だったのかと訊かれたら、パルキアのオールレンジ攻撃というタイムリミットの出現によってシズメダマを投擲するタイミングが最良とは言い難かったこと。祈りの文言がパルキア用ではなかったこと。
残るシズメダマはひとつだけ。だけど相手の攻撃をディアルガの守りでも防ぎ切れないとなるとこれから試行回数を重ねないといけなくなる気がしてきた。
けれどそれは無い物ねだりでしかなく、現実問題として残りひとつでどうにかするしかない。次こそ確実に、最適を叩き込まなければいけない。
……無理臭くね?
冷静な頭が失笑する。
どうする。どうできる。ここから確実にシズメダマでクリティカルさせる方法。シズメダマをどうにか増産する方法──に気づいてしまった瞬間、自らの呼吸が止まりかけた。
一を百にも千にもする、世界に対する命令文。
もはや悪魔の囁きに近い提案が自分の頭脳から浮上する。吐き気でどうにかなりそうだったのにそれをふざけるなと切り捨てることが出来なかった。
それどころかおれの頭はすらすらと
──いや、だめだろ。罪だよそれは。あれほど唾棄した罪だ。
──でも仕方ないだろ。これしかないじゃないか。この予備を投擲して失敗したらもう打つ手は無いんだぞ分かってるのか。
──失敗しなければいいだけだろうが。これしかないからなんて理由で許される訳がないんだよ分かってるのか。
──だけど。
──だけどじゃなくて。
葛藤に支配された頭に歯軋りすると、こちらを見下ろすディアルガと目が合った。
パルキアと同じ紅の眼差しに宿るのは怒りでも悲しみでもなく、ただおれの決断を待っているような理智の色。
……ディアルガはおれが
仕方がなかったのだと肯定なんてしないし、ここで誘惑に打ち勝ってもそれを称賛なんてしないのだと、白熱した頭が冷めていく。
「とんでもないことしてくれたなホント……」
傷口が修復されたのを確認して、巫の手を借りながらなんとか立ち上がる。
その言葉は
さて、改めて状況確認。
見渡した周囲はやはり渾天一色。
傾斜も無ければ凹凸も無い。ただ遠近感を掴めない目の錯覚でドーム状になっている気がするだけ。広い公園でまっすぐ空を見上げた時に陥るあの感覚だ。
隣にはクレィアちゃんがいて、傍にはディアルガがいてくれている。手持ちのモンスターボールも無事だ。もうこの時点で不安は無い。
オーロラが見えないのでディアルガは「時の盾」を展開していないのだろうか──とまで考えて、そもそもパルキアの姿が見当たらないことに気がついた。
「んー……うん、なんとなく理解した」
「えっ」
「
正確には違うだろうけれど、心構えはそれでいい。『戻りの洞窟』と同じだ。未知の中の既知をひとつひとつと結びつけて、自己の芯を失わなければ迷うことは無い。
おそらく座標的にはシンオウ神殿なのだろう。
空間を切り裂かれたことで実数世界とは一枚違う領域に落とされたのだ。
つまりここは、
実数世界の安定を見守り、その均衡を保つために設計されている世界の
試しに一歩踏み出した。直後に振り向いてディアルガとの距離を目測で測ると、ディアルガはそこから少しも動いていないのに、おれとの距離は少しも変化していなかった。
そのまま歩き出せば後ろから小走りに鈴の音が揺れる。
少し時間を置いてから後方を確認すると、峻厳な顔つきのディアルガが変わらず佇んでいる。
「さっき言ってたやつなんだけど。読み違えたって、どういうこと?」
「ええと……
「そっから違ってたんだ」
「はい。捧げられた感情を呼び水に、今は
今までのパルキアは捧げられた感情に引き摺られて荒ぶっていたけれど、その悲しみは鎮められた。
だけどそれはパルキアを狂わせていた「誰かの悲しみ」が鎮められただけで、「誰かの悲しみ」に触発されて湧いて出た「パルキア自身の悲しみ」を鎮めるには至らなかった。
故に、彼女は先程「読み違えた」と言ったのだ。失敗したのではなく、鎮められなかったのでもなく、この二重層になった感情を読み違えた。
「──故に。」
渾天の虚無に光が瞬く。
星灯の回廊が手招くように花開き、巫の声が神の意を宿す音の連なりに塗り替わる。
この場において彼女が代弁する神は一柱しかいない。揺れ動くことの無い厳格な天秤の如き怜悧な声は、彼の紺青の容貌が皆に抱かせる
開花しきった回廊が視界を染め上げた。
それは『戻りの洞窟』で神話を垣間見た時の現象とよく似ていて、この場所に招待された理由を理解する。
ここは戦闘のための舞台ではなく、パルキアと対話するための場所。悲しみに狂う空の神の心を知るための精神世界。
このあと自分に叩き付けられるであろう「心」を悟ったおれは、こんな状況で──こんな状況だからこそ──こみ上げる高揚と共に覚悟を決めた。
「──これはわたしからの宣託だ。受け取るがいい、
*
──光明があった。
──日輪があった。
──いつ如何なる時も、シンオウの地は穏やかだった。
それは遠い遠い神話の時代を、少しだけ懐かしく思う頃。
世界の蝶番である北風の楽園から海原をいくつも越えたところ。西と東の大地を別ける海の峡の外側で、裂けた大地の破片があてもなく漂っていました。
裂けた大地は戻らない。
裂けた大地の破片であるこの島は、永劫に楽園へは戻れない。
即ちこの破片の上に住まう人間たちは、二度と北風の楽園には帰れない。
それを憐れに思ったのか、いつか
そこは全てが命を祝福していた楽園とは違い、満ちては引く潮も、吹いては止まる風も、昼と夜を繰り返す天も、破片に住まう人間たちを翻弄する過酷な潮騒の世界。
シンオウの地から切り離された小さな破片の上で、それでも人間たちが懸命に生きていたのです。
わたしはそれを、たまらなく愛おしいと思いました。
わたしの伴侶に名乗り出た者がいました。楽園から切り離されても、まだそれは当たり前のことでした。
わたしたちの間に生まれたこどもたちが、この破片を覆っていく。いずれ訪れる先の世の光景を思い描きながら、わたしは破片に降り立った理由を後から考える。
結局のところ難しい話ではなくて。
──究極の一から分かたれた二頭政の片割れは、どうしようもなく生き物に優しかったのです。
破片は王国として繁栄した。
壮麗な都市には神殿が立ち並び、常に龍への感謝が捧げられ、人々は誰もが峻厳にして慈悲と知恵ある信徒たち。
楽園から遠く離れた破片は今や、もうひとつの理想郷となりました。
わたしはそれを心から誇らしく思い、同時に
──間違えていた。
──わたしは、このときから間違えていた。
繁栄したのはいっときだけ。
理想郷であったのはいっときだけ。
代を重ねれば重ねるほど、わたしの子供たちは神への畏敬を失っていく。
わたしは賑やかな様を好み、だけど騒乱は好まなかったのですが、人がその差異を汲み取ることをやめたとき、王国に夜は無くなりました。
夜の太陽が光を失うほどに王国は自ら輝いた。
神殿は工房に作り変えられ、神官は祈る両手に金銀を握り込み、民は覇道を謳って笑い、今や夜を知らぬ王国こそが太陽だった。
そうして、
──昼は休めず夜は眠れない。こんなに酷い国は無い、こんなに酷い民は無い。
──彼らの騒ぎをやめさせよう。この国を愛するきみのために。
そう憤った己が伴侶にわたしは同意しなかった。
確かに騒がしくて大変だけれど、それでも優しくしたかった。
わたしが愛したのは国ではなく、そこに生きる人間たち。自分たちの大切な子供たちだったから。
その愛への返答が、伴侶の暗殺だったとしても。
最初に子供たちを殺めようとしていたのは伴侶の方だった。子供たちは自らの身を守るために、わたしの伴侶をわたしの目が届かない地下深くに閉じ込めて処断した。
この時点で
正当な理由を突き付けられて子供たちを許した。わたしにとって潮騒の楽園に生きるすべての命は平等だったから。誰もが愛しかったのだから、誰かひとりの死のみを取り立てて悲しんではいけなかった。
命が平等だと言うのなら、わたしは誰の死も、悲しむべきではなかったのだ。
王国の歩みは止まらない。
次に声をあげたのは伴侶の間に生まれた子供のひとり。
神を蔑ろにする今の王国を糺すため、その子供はわたしの新たな伴侶となった。わたしはその立場の変更に何の意味があるのか分からなかったが、子供が自分のために何かをしているという状況が、その献身が、その愛情が嬉しかった。
そうしてふたりめの伴侶は処刑された。
ひとりめの伴侶を処断した子供の、そのまた子供の手によって。
ふたりめの伴侶は夫の証である首飾りを奪われ、その血は王国を支える奴隷の材料へと回された。
尚も王国の歩みは止まらず、北風の楽園を手中に収める計画が立てられた。増産した奴隷の具合がそれほどに良かったらしく、神の血を引く兵士を多く抱えた王国は極北の理想郷が欲しくなった。
もしもわたしが正気を失えたのならば、きっとこの辺りが限界だった。
子供たちがわたしを忘れていくことが■■■■。
わたしを愛していた伴侶が貶められたのが■■■■。
■■■■、■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■───────ああ。
絢爛を極めた不夜の都市が光を失って海の底へ沈んだとき、血に染まった月はようやく輝きを取り戻せた。
その王国は何も残さず、何も継がれず、裂けた大地の欠片としてこの世界から消えていった。
それが
だけど少し考えれば気づけたことがある。
あの王国には
それが北風の楽園との決定的な違い。人間しかいない王国では、人間たちしか尊ばれないのです。
わたしは天冠の山に帰ると、永い時を眠り続けた。
神奥が治めるこの楽園ならば、あの王国のようなことは起こらない。
この楽園に生きるシンオウの仔らはいつまでも幸せに暮らすでしょう。
風と海と光に愛され、幸と歌で満ちた大地は、いつまでも、いつまでも変わらないはずなので──。
幾度星辰が回っただろう。
幾星霜の時が流れただろう。
遠い遠い神話の時代を懐かしみながら天冠の頂で呼吸をしていたわたしに、ある日叩き付けられた“心”があった。
愛する理想郷が穢されていく。愛しい同胞達が貶められていく。仰ぐべき神が忘れ去られていく。
多くの祭場を奪われて、名前さえ主張のために使われる。神々の教えは忘れられ、自分たちこそが異端だと排される。
ああ、わたし。この“心”を憶えている。
どうしてかは分からないけれど、その“心”をわたしは憶えている。
そんなのは間違っている。この楽園に生きるシンオウの仔らがその“心”を知っているなんて、そんな世界は間違っている。
やめてほしい。捧げないで。こんなものをわたしに納めないで。
教えてほしい。捧げてほしい。あの時何を思うべきだったのかを。
わたしは創世の神の分身で、この世に生きるすべての命を平等に愛している。
そこに隔てなど存在しない。神の愛は平等であり博愛に例外は存在しない。
誰もが平等に愛される世界において誰かの死を嘆くべきではなくて、だからわたしには必要ないものをわたしに捧げないで。わたしに納めないで。祭壇を経て奉じないで。
いいえ教えて、わたしあの時本当はずっと言いたかったの。ずっと欲しかったの、わたしはきみに、あなたたちに、きみときみにだけトクベツに言いたかった伝えたかったいなくなったあなたとあなただけにわたしはわたしのユメを捧げてでも抱くべきだった抱えるべきだった感じるべきだった思うべきだったこの天秤は、つまり!
悲しかった。
──子供たちがわたしを忘れていくことが。
悲しかった。
──わたしを愛していた
悲しかった。
──
悲しかった。
──
ああ、そうだ。
わたしはあのとき、悲しかったと泣くべきだった。
物質主義へと変わっていく王国の在り方が悲しくて、子供たちが殺し合うのが悲しくて、
泣いている。
ないて、いる──。
*
「──心の無い者に世界を観ることはできず、心の乱れた者に世界を広げることはできない。あらゆる宇宙で命を見守るのは神奥であり、神奥のみそなはす世界を安定させることが“わたしたち”の役目である以上、その天秤は決して揺らいではならないものだった。」
走り出したおれの背中に投げ掛けられる言葉の内容は全てが敬意に値するものだった。
アルセウスが自らの分身を世に放った理由のひとつは、早い話が
世界を観るために何よりも鮮やかに色めいているアルセウスの心だけでは、何処かで起きる悲劇に悲しんだが最後、別の場所で送られていた幸せな暮らしごと世界を乱してしまう。
けれど世界の何処かで起きる悲劇に無感動であれば、その悲劇は世界にとって“無い”も同義。当然そんなものを善しとはしなかった。
世界を観るための豊かな心と、世界の安定を保つための乱れぬ心。
いつ如何なる時も滞ることのない時間の流れと、淀むことのない空間の広がり。
それを実現するためには、アルセウスの鮮やかな“心”に左右されない、独立した別の存在に管理を託さなければならなかった。
ディアルガとパルキアはそのために創り出された分身であり。
世界を広げるための二頭政の“心”だけは、世界で起こる悲劇に揺れ動いてはいけなかったのだ。
その静謐の天秤を壊してはいけないからこそ、カミナギの民は怒りと悲しみを戒めた。自分たちの感情を、二頭政の天秤に決して注がないように。
もしも注いでしまったら、もしも二頭政の心を乱してしまったら。
──我らの心に陰りあるとき、シンオウさまの御心が曇る。
──すわなち時は乱れ、空は歪み、世界は破れ、運命は綻び、天は離れる。
悲しみを捧げられたパルキアは、己がかつて抱きたかった感情が“悲しみ”であると知ってしまった。
遠き潮騒の国で自分はどうしようもなく悲しかったのだと。
悲しいと叫んで、泣きたかったのだと。
「──そうだろう、エア。」
千と五百八の歩みを止めた果て、その龍は渾天の中で佇んでいた。
ドレスの裾の様に分かたれた尾は所在無さげに揺蕩う。その度に渾天のどこかで星が軋み、まるでガラス片を擦り合わせるような音を奏でる。
哀愁に濡れた紅の眼は絶望に冒されていた。
無限に広がるこの渾天は彼女の内面そのものと言えた。
とっくに過ぎ去ってしまった潮騒の楽園が、遠方の星として微かに輝いているだけの虚無。今更どれだけ嘆いたところで届きはしないのだという自覚の表れが痛ましかった。
「……パルキア、っ」
御前に立って龍を見上げる。紅の眼が鬱屈した昏さを纏って動いた途端、脳味噌にヤスリを掛けられたような痛みに襲われて声すら出なかった。
代弁者を介さない直接の念話。
絶叫を噛み殺しながら前を向いた。この痛みを誰よりも感じているのは他でもないパルキア自身なのだから。
「──
神話としてさえ綴られない太古の記憶。
子供たちが争うのは心が裂けてしまうほどに悲しくて、子供たちが殺されてしまうのは心が抉れてしまうほどに悲しくて、こんなものを生み出してしまったのが悲しくて、子供たちをそう思ってしまったことが悲しかったのだと、触れるべきではなかったアルセウスの心を理解してしまった。
それは、どうにもならなかったお話だ。静謐の天秤では潮騒の民を救えなかった。救いようのない人間を
終わった話だ。
終わった話、なのに──
「──どうして今になって、シンオウの仔が同じ悲しみを抱いているのですか。」
それが何よりも悲しかった。
終わったことなら耐えられた。彼方で爆ぜて命を終えた星を悼むように、去りし日への答えとして懐かしむだけで済んだ。
自身の身を裂くような悲しみに気づいた龍は、同じ悲しみを信徒が抱いていることに気づいてしまった。
龍を呑み込んだ悲しみは鏡合わせになって反響し、より強い嘆きを生み出していく。これこそカミナギの民が案じていた事態だった。
「──どうして今になって、わたしたちの仔があの悲しみを味わっているのですか。」
神さまの哀泣に言葉が出なかった。
どうしてとの問いに答えるだけなら簡単で、ヒスイの地でも潮騒の王国と同じように信仰が薄れたという
アルセウスを信仰するカミナギの民はその数を減らし続け、「シンオウさまを仰ぐカミナギの民」という名前だけがそれぞれ受け継がれただけ。難しい理屈なんて何も無い。
「──かつて楽園であったこの地も、裁かれるべきではありませんか。
だからこそ、その声を納得させる答えなんて存在しなかった。
どうしてと問い掛けたって、どんな理由を挙げられたところで、「じゃあ仕方ないな」で流せる感情ではないのなら、その問いは無意味でさえあった。
故に。
おれは腹を括って、残る最後のシズメダマの紐を抜き取った。
「……確かに。創造神の分身である
開いた口から溢れ出した潮の香りが辺りに満ちる。
辛く悲しい潮騒の記憶を更に遡った先、確かにあった幸福の記憶に訴えかける。
愛しい人との時間。
愛しさに満ちた空間。
あなたの愛した理想郷はどれほど短い時間であろうと確かに存在したのだと、悲嘆の奥に呼び掛ける。
「でも──もう少しだけ、やり直すための猶予がほしいんだ」
今日を以て、コンゴウ団とシンジュ団は各々が崇める「シンオウさま」の真名を思い出す。
互いに啀み合う時代を終わらせて、偽りだと憎み合う時代を終えて、共にヒスイを見守る神さまたちを仰ぐ日々がすぐそこまで迫っている。
ギンガ団もそうだ。ポケモンは排除するのではなく共に生きていくパートナーなのだと、人はポケモンと手を取り合う方法を思い出していく。
「『カミナギの民』の意味を取り戻さないとその悲しみが癒えないっていうならそれに奔走する。『アルセウス』への信仰を取り戻さないといけないなら尽力する。
命乞いに近い嘆願かつ決意の表明。
祝詞に纏められなどしない、自分の言葉のみで綴る説得。
ふと、ショウチクバイにかけた言葉を思い出した。自分がつらかったことと他人の幸福を奪っていいかは別問題──……随分と無神経な言い草ではあるけれど、おれの思いは三姉妹に叫んだものと変わらない。
パルキアの悲しみは分かったけど、それを理由に今のヒスイに生きる人たちの営みを奪わないでほしいのだ。
「
神さまの返答を待つ沈黙が重苦しい。
紅の眼が一度だけ光を失い、ゆっくりと灯るまでの時間が無限に思えた。
渾天の星々が輝き出す。ひとつ、またひとつと目を覚ますかのように瞬いて、星辰の渦が描かれる。空間の震えと共に無風の
世界が羽織るための「空間」という一枚の布が織られていく。パルキアの尾の揺らめきが機織りの機械を想起させる。
「──呪いあれ。光を忘れた、楽園に。」
「パルキ……!」
紡がれた呪詛に心臓が凍りかけた時、伸ばした手に巫の指先が触れる。
隣を見れば代弁者は淡い笑みを浮かべながら小さく首を横に振っていた。
星の輝きは増し続け、やがて柔らかな光の帯となる。神さまの代わりに大粒の涙を零しているかの様に瞬く白い光は、どんな高価な真珠よりも尊く見えた。
光の中で空の神は微笑む。
昏い目元にかかる星屑が煌めきながら零れていく。時に金色、時に銀、石英に瑠璃と色とりどりの宝石の如く輝いて、光はソラに散らばった。
廻る星々の中心で柔く綻んだ龍の美しさは到底何かを呪っているようには見えなくて、おれは世界が空間を取り戻す直前になってようやく彼女の真意に気がついた。
*
全身を重力に肯定される。
肺に撃鉄を落とした酸素が同時に血潮を呼び覚ます。
灯った視界に広がるは天冠の山、神殿の舞台。
対峙する神の様子は一変していた。
星の灯りで織り上げた甲冑は眩く輝き、空よりも紅い双眼からは強い慈愛の色が読み取れる。
それは無数の涙を許されざる神だからこそ取り零さずにいた煌めき。過去も未来も内包した永愛の証。燦然と降臨した
──鳴動するオリジンボールを握りしめ、彼は突き動かされるままに地を蹴った。
それが神殿の舞台に捧げる最後の神具だと信じていた。
背後で鳴った鈴音と共にボールを投げる。月の雫はその光景を夢見心地で眺め続ける。
あの器に入ったあと、悲しみに狂った“自分”がどうなるのかは分かっていた。
巫の傍らで時の神が片割れを見つめている。
空の神はそんな片割れの眼差しに困った様に笑いながら、奉納された器が口を開けた瞬間を歓迎する。
原初の輝きに包まれながらこれまでの記憶を追想して、一望するは眼下の世界。
ふと、空の神は自分を見上げる巫に宛ててこっそり零す。
この大地を裂くなんて、初めから無理な話だった。
悲しくても、痛ましくても、空を裂くほどに嘆いても──究極の一から分かたれた二頭政の片割れは、結局どうしようもなく生き物に優しかったのだから。
失われていく意識の中で月の雫は頬を緩めた。
狂を発しかねない痛みと悲嘆の中で自分と向き合った少年に対して、この上ない敬意を示すために。
きみに感謝を。
もうひとりの
──その旅路に、北風の祝福がありますように。
潮騒の楽園・潮騒の王国
アルセウスが大地を裂いた(参照:大水晶の試練)あと、海原を漂っていた大地の破片を目に掛けたパルキアによって興ったもうひとつの理想郷。
元ネタは古代ギリシャの哲学者によって記された伝説の大陸アトランティス。ポセイドンの末裔が治める理想国家だったが、パルテノン神殿が建つ都市国家アテナイに戦争を吹っ掛けて敗北した直後に大地震と洪水によって海底に沈められたと云われている。
パルキア
てれやな性格でのんびりするのが好きだった空間神。励起された悲しみのままに時空の裂け目を発生させたが、顕現後も自主的に石化して自分を封印したり、戦闘ではなく対話の場に引き摺り込んだりして自分を止めてくれる英雄を待ち望んでいた。
モチーフは「海(みずタイプ、真珠)」に纏わるものとしてギリシャ神話からポセイドンと、メソポタミア神話からティアマトをミックス。
伴侶
パルキアに身を捧げた神官たち。
家系図は神話の出来事かつパルキアの主観なのであまり気にしない方がいい。
エピソードの元ネタはメソポタミア神話からティアマトの夫アプスーとキングー。