シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚- 作:ヒュペルボレイオス
※ミミロップの遺体から毛皮を剥ぐ描写があります。
※ミミロップの毛皮を加工する描写があります。
※キュウコンの毛皮を用いた衣服の描写があります。
ある隠れ里の昔の話 ※ポケ皮加工描写有り
大地が雪に閉ざされる。
風はいつになく凍てついて氷の粒を遊ばせる。
昼間が短くなり出してから幾つの太陽が沈んだだろう。
今年のヒスイは春の神に見放されるのが随分と早く、そう多くもない人間たちは文字通り死ぬ気で冬支度を整えんと躍起になっている。
「──だというのに、あやつは本当に……はあ」
ペラップが繰り返す鳴き声は自身への伝言であり、やがてひと仕事を終えた達成感に満ち溢れた表情で、おしゃべりな鳥ポケモンは空を飛び去っていった。
まるで喪に服しているような陰鬱な印象を与える黒のローブを纏った妙齢の女。
彼女はこの地に生きる人間たちから、その名を口にするのも憚られる程に恐れられている“魔女”その人だ。
その人なのだけれど──ペラップの口から伝えられた言葉に脱力する姿は、とても人を呪い殺す術に長ける“魔女”とは言えないだろう。
事実、彼女は人を呪う方法など興味は無い。
どんな雑草の活用法にも少し詳しいだけの賢者は、畑に出しっぱなしの鎌を気怠げに定位置に戻しながら、中途半端に収穫された作物の相手をするのだった。
*
ようやく雪が止んだ空を見上げながら、
まだ雪雲は過ぎ去っていない。いつ降り出すか分からない以上、やはり長居はするべきではないだろう。
ヒスイと呼ばれるようになったこの地に住まう人間は少ない。
一年の半分が冬と言っても過言ではない上に、野生ポケモンたちの気性は他地方と比べてかなり荒く、人が住むには適していないから──と。この土地を頼って住み着きにきたくせに、したり顔でこの地を貶す男がいた。
ヒスイと呼ばれるシンオウの地は同じ時期でも場所によってかなりの差が出るのだから、最も冬が長い地域がさもこの大地の全てであるかの様に「一年の半分が冬」と宣うのは些か性格が悪いと思う。
その土地で暮らす決断をした自分たちの長を讃える前フリなのかは知らないが、この地に住む数多の命からしたら随分な物言いだ。
少し苛つくような憎たらしい顔は、今や土気色に染まって凍土の上に横たわっていた。
それはこの男だけに限った話ではない。
叡智湖を仰ぎ、周囲を岩肌に囲まれた水辺の小さな集落は、まだ日も高い内から静まり返っている。
眠りにつく様な安らかな表情はただのひとりもおらず、十人に満たない人間は皆一様に絶望と苦悶に歪んだ顔で吐瀉物と汚物に塗れていた。
本来なら悪臭が漂っているだろう。
だが厳寒の大自然は人間の爪痕などまるで意に介さないと言わんばかりに、冷たく澄んだ雪の匂いだけが、跡地となった集落を包み込んでいた。
「カワイソウに。
集落の中心で薄っすらと雪化粧を施す鍋の中を見れば、汁物の海で悠然と泳ぐ惨劇の下手人の姿があった。一見美味しそうな野草がふんだんに使われた汁物は、寒い冬を乗り越えるべく集落の結束を強めんがため全員に振る舞われたものだろう。
鍋を彩るこの深緑は、体内に取り込んだが最後、生き物の呼吸と触覚を奪って体の水を絞り上げるかの様に下痢と嘔吐を誘う毒草なのに。
そもそも実りの少ないこの凍土で食べられる野草が生えていたら人間なんかよりも先に獣たちが手を付ける。
彼らに見向きもされなかった残り物がどういう意味を持つのか、少し考えれば頭の足りている人間なら分かるだろうに。
最も上等な衣を纏う女の屍を侮蔑混じりに見下ろした。
死体が纏う白銀の外套は間違いなく
死んだ仔から毛皮を剥ぐ行為を咎めているのではない。
この地に生きる彼らから、毛皮という贈り物をいただいている──その意識がまるで見えないことが罪であり、贈り物をこうも粗末に扱うことが見下げるべき悪なのだ。
「それで? 何故ワタクシをここに連れてきたのです、
自分を背に乗せた
もしこの肉袋どもの葬送をワタクシにやらせようとしているのなら今すぐ帰る。
ワタクシが祈るのは同胞のためだ。全なる神の威光を知る者にだけワタクシは微笑み、手向け、送るのだ。
そうでなければ、同胞たちが全天の主への想いを捨てなかった意味に疵がついてしまう。信仰を忘れて異邦人に同化した誇り無き生の終わりが、いつ如何なる時も敬虔な信徒で在り続けた生の終わりと同じであって堪るものか。
集落の中心で起きた顛末など彼はどうでもいいらしく、集落を囲む岩壁へと小走りで駆け寄った。
「おや。土牢? ですか」
荒い作りのいびつな格子戸で塞がれているその洞穴を指す言葉として相応しい語彙を用意する。
人の手が加えられているのは後付けの格子戸だけで、穴自体は元の地形を利用したのだろう。格子戸の一部分、左下が壊されているのは何らかの技によるものだと思う。
こっち、とでも言うように
わざわざ隠れ里にまでやってきて、珍しく畑仕事に精を出していた自分を連れ出したのだ。どうでもいい要件ではないだろう。
存在自体が罪の塊みたいな余所者どもの中でもこんな集落の外れに隔離される罪人がどんな顔をしているのか。集落の人間が死に絶えて自由の身になった今、どんな感情なのか。
好奇心が僅かに刺激されたワタクシは先導する彼の背を追いかけ、
「──……は?」
むくつけき男の姿があるのだと思った。乱暴で手に負えないから閉じ込められたのではないかと立てた仮説が否定される。
棘のある女の姿があるのだと思った。性悪で集落に不利益を齎すから閉じ込められたのではないかと立てた仮説が否定される。
美しい毛並みの
牢の奥で何かを抱きしめるように蹲っていたのは、凍土に生きる
「アナタ、その抱えているものをこちらに見せ……」
そこまで口にして声を断つ。
鋭敏な聴力を持つ彼らがこの距離まで近づかれて無反応なはずがなかったからだ。
綺麗好きで高潔な彼らがこんなところに押し込められていた屈辱は計り知れないものだが、この牢に入っていたのが彼女ならここまでの毛艶は保てないだろうし、そもそもあんな薄い格子戸くらい蹴りひとつで破壊できる。
この牢の住人は彼女ではない。彼女は格子戸を破壊して外から入ってきた侵入者だ。
外の世界から守るように“それ”を抱きしめながら、淑女は呼吸をやめていた。
一秒だって居たくない環境に身を置き続けてまで彼女は何を守ったのだろう。その魂が迷わず川を渡れるように祈りを捧げてから、交差する両の腕を解いた。
──白い、子供だった。
生まれたての
力無く下ろされた瞼から伸びる睫毛が白い三日月を描き、薄く開いた唇の向こうには何の役に立つのか不思議なくらい小さな歯が覗いていた。
雪を集めて作られた人形のような色に対し造形はかなり雑であり、乱暴に切られた髪は長さもまばらで、頭皮が見えるほど短い箇所もあれば、肩口に掛かる程度には伸びた箇所もある。
白百合色の一枚布。
それを折り返し、両肩を
踝まである丈が性別を物語ると同時に血の気が引いた。
毎日手入れを欠かさない賢者の姿を見ていただけの自分でも、彼女たちにとって「髪」がどういうものであるかくらいの想像はできる。
どれだけ幼かろうと、どれだけ老いていようと、女にとっての髪は命に等しく、それを粗末に扱われることは肉体を辱められるのと同義なのだと口酸っぱくして語られた記憶が、この幼い同胞の現状に言いようのない嫌悪を駆り立てていた。
淑女が必死に抱いていたのはこれ以上体の熱を逃さないようにするためだろう。
スイセンの茎のように細い手首は彼女の献身を以てしても冷え切っており、微かに脈打つ血潮の流れだけが生を知らせている。
「──岩山の
言うが早いか少年は一瞬で牢を飛び出した。
北の果てから湿地の隠れ里に転移するには強大なサイコパワーが必要になる。この地でそれほどの力を持つ隣人は『心形岩山』で
外套を脱いで同胞を包む。
淑女がいつからここで幼子を暖め続けたかは分からない。
いつ雪が降ってもおかしくない凍土において、意識のない子供を抱えてこの洞穴を出るのも危険が伴う。彼女は自身が取れる選択の全てを考えた上で、
心の底から感謝を捧げ、彼女が守り通した幼子を
騎士の到着を待つこの時間に出来ることがひとつある。
それは眼前の淑女に対して払う当然の敬意であり葬送の儀。
黒の貴石を加工したナイフを取り出し、その刀身に惜しみなく水筒の清水を注ぐ。
「……アナタに感謝を。その気高い魂が、
細い首に刃を滑り込ませる。
知識と慣れに裏付けられた確かな手応えを感じた瞬間に両耳を纏めて持ち上げると、断たれた太い血管から我先にと溢れ出る鮮血が牢の土を紅に染め上げた。
緩やかな傾斜を要する地面に滴り、重力に誘導されて流れる赤色の様子を見るに、本当につい小一時間前までは持ち堪えていたのだろう。
血を抜き終えた遺体はその分だけ軽くなる。
しなやかに発達した強靭な筋肉はその何倍も重いが、一滴、また一滴と零れ落ちる間隔が開き切った時の喪失感は、毎回言葉を失うほどの重さがあった。
耳の表面に黒刃を立てる。
生前に多くの時間と手間を惜しみなく投入して整えられた耳先の毛並みは今も美しい。
皮膚を切り裂く感触がナイフを握る五指に伝う。
切り込みを入れた側面から刃を割り入れ、丁寧に、だけど手早く肉と皮の境界を隔てる線を引く。
皮の随所に血管の色が沈着しているがこれくらいなら薬液の配合を少し変えた上で浸ければどうにかなるだろう。
隔て終えたナイフが毛皮の下から顔を出して外気に触れる。
もう片方の耳も同じように丁寧に皮を剥ぎ取ったら次は両手首。
固まり始めた関節に沿って黒の刃を動かす。
血抜きが不十分だと僅かにでも傷をつけた途端に体毛を台無しにしてしまいかねないから不安だったが、耳と同じ要領で冷静に工程を進ませれば、薄黄色の贈り物を無事に受け取れた。
「……あとは、この地に生きる仔の取り分です」
痩身の殆どを筋肉が占める
魂を送り出したのなら、その肉も焚き上げてやりたい気持ちはある。
だけどそれは出来ない。
果樹も少ないこの地では斃れた屍がご馳走になる。
表で横たわる人間たちとてその例外ではなく、気高い淑女もまた例外ではない。
誰もが平等に誰かの糧となる厳寒の地。だからこそ、その肉を糧にできないワタクシたち人間が手を出せるのは
一段落した頃、格子戸を一瞬で木屑に変えた
既に事情は伝えているらしく、騎士は頼み込むまでもなく眼力のみで急かしてくる。
毛皮を畳んで片腕に引っ掛け、同胞を抱いて若馬と身を寄せ合う。柔らかな若葉色の手が掲げられた次の瞬間、あたたかな同色の光に包まれて目を閉じた。
「おぬし凄いことをするのう……」
「仕方ないでしょう、居たんですから! 見つけてしまったんですから!」
隠れ里に帰って庵に顔を出した瞬間、賢者は持っていた包丁を落として床に小さな傷をつけた。
ベッドに幼子を横たえから急いで暖炉の火を灯しつつ、毛皮を浸す薬液の準備も急速に押し進める。ここ数年で最も慌ただしい時間がようやく過ぎ去ってから、ベッド脇の椅子に腰を下ろした賢者は脱力した。
幼子は例の汁物を与えられた形跡は無く、実際毒に侵された症状は見当たらない。
その薄い体から嫌でも思い当たるのは純粋な栄養不足と寒さによる体力の限界だが、賢者の見立てでもどうやらその通りだそうだ。
幸い、庵には
飲みやすいように溶いて噎せないように注意しながら喉奥に少しずつ流し込んだ今、このまま干からびて死んでしまいはしないだろう。
清涼な匂いの中で
幼子の額に掛かった髪を払った賢者の顔はいつになく昏い。彼女はいつも飄々としている割に感情を隠すのが存外と下手だ。
素で飄々としているから、素で飄々と出来ない時には同じような平静を装えない。
形を躙られた髪に触れる指先が微かに震えている。……酷いことをする、と庵に小さな声が消え入った。
「囚えられていた集落とやらはどうなった?」
「言いませんでしたっけ? 彼らなら『秋の死神』で鍋を囲って死にました」
「なるほどのう……除け者にされていたから助かったのか。難儀なものじゃ」
「世界がこの子を選んだのですよ。この子だけが生き残る道をね」
この世界が運命なんてもので織り紡がれているというのなら、全てはカミナギの民である彼女があの土牢から解かれるための思し召しに違いない。
「それにしても気になりますね。彼らとはどのような間柄だったのか? 何故あの集落に囚われていたのか? そもあの集落は何なのでしょう? 無謀にも凍土に定住している余所者の巣とはまた違う位置にありましたが、アレとは何か関係があるのでしょうか。そしてやはり
「やかましい」
「いった!?」
突然脇腹を突かれてその場に崩れ落ちた。
地味ながらも鋭い痛みがしかし鈍痛とも言えないくらいの加減で走る。悶絶するジブンを
「目覚めぬことには何も分からぬ。その知識欲を満たしたいのなら、きちんと面倒を見てやることじゃ」
ようやく痛みが去って立ち上がった己の視界に青褪めた月白の幼子が入り込む。
面倒を見るも何も、意識が戻らない限り栄養になりそうなものを溶いて飲ませるだけの作業になるに違いない。
多くの隣人の助けを借りてここに来たのだ。退屈なのは御免です。
「早く起きてくださいね。話したいこと、訊きたいこと、沢山たくさんあるのですから」
ベッドに頬杖をついて顔を覗き込む。
思えば故郷が潰れて久しく見ていなかった「自分より幼いカミナギの民」に高揚していたのだろう。
一日千秋どころか一秒後だって待ち遠しく思いながら、ワタクシはその瞬間に焦がれ始めたのです。
*
さて、その間にやるべきことは沢山ある。
今回、薄皮は取り除かなくてもいいだろう。
翌日、そのまた翌日、更に次の日と時が過ぎ行くのを指折り数えた。
ワタクシのベッドが占領されているので賢者のベッドで寝ようとしたが、当の賢者から「でかい、邪魔じゃ」と蹴り出された。ワタクシよりまだ賢者の方が大きいのに納得できない。
仕方ないのでベッドを二台くっつけて、幼子を挟んで寝る形体に着地する。
狭い上に割と騒がしいはずなのに、幼子が目覚める様子は無い。
ぬるま湯で濡らした手拭いで体を拭いてやっても何一つ反応を見せないものだから、まさか死んでいないだろうなと訝しむも、か細い呼吸だけは生存を知らせている。
「コギトさんもワタクシを拾った時はこんな気持ちだったのでしょうか」
「おまえはロメの果汁を一滴口に垂らしてやった瞬間に跳ね起きて元気に果肉を平らげたからのう。心配をしてやる
「その話何回聴いても信じられないんですよね。そんな記憶ありませんし」
「ほんの十二周期前じゃぞ。まったく最近の若い者は……」
そろそろ良いかと引き上げて、髪洗い用の石鹸で毛を洗って真水で流す。こうしないと乾かした時に塩でごわついてしまうのだとか。試したことはありませんが。
ある程度の水気を切ったらすのこに広げ、縮まないように釘で端を留めてから陰干しすること数日間。皮の様子と相談しながら油を塗り続ける。生前どんな暮らしをしていたかで加減が変わるから、ここだけはどうしても画一的な手順には落とし込めない。
何を食べて、どう過ごして、どんな風に生きていたのか。
物言わぬ贈り物から語られる話に耳を傾けているような時間。隣人の物語を聴くことで世界が鮮やかに彩られ、彼らの駆けた空間がワタクシの世界と接続する。その感覚が好きだった。
今日はこのくらいにしておこう。だいぶ手触りが良くなった毛皮を撫でていた矢先、
その報せに湧き上がる歓喜を安堵と呼ぶのだと今なら分かる。庭先でお茶を淹れている賢者を呼ぶのも後回しにして、足音を立てないように急いでベッドの傍らに駆け寄った。
雪の降るような声が僅かに零れた。
それは最早“声”ではなく“息”だった。
白い三日月が小さく震えてゆっくりと開かれ、迎月の場が待ち望むような金色の望月が瞼の下から現れる。
半月も経ってようやく目覚めたお寝坊さんは、ワタクシの顔を見上げるなり不思議そうな表情を浮かべた。
「──…………おかぁ……さま……?」
「違います。違いますが──そうですね。身内、という点では相違無いように思います」
喜びにはしゃぐ
幼子は邪気のない笑顔を目で追うと、見知らぬ場所で目覚めた現状に緊張していただろう顔が綻んだ。
ごきげんよう、この地に生まれしカミナギの民。神と人と獣を結ぶシンオウの仔。
「ワタクシはウォロ。アナタのことは、なんと呼びましょうか」
ポニータ(♂)
のんきな性格で居眠りが多い。原野の群れから逸れてそのまま気ままに放浪し、今は古の隠れ里に住み着いている。距離感としては「お隣さん」に近く、隠れ里の者から頼まれたら背中に乗せてヒスイを走る。
リオル(♂)
生意気な性格でかけっこが好き。次代のオヤブンルカリオとして研鑽を積んでいる。ミミロップとも時折手合わせしたが一度も勝てないまま別れることになった。
ミミロップ(♀)
慎重な性格でちょっぴり強情。凍土に住むため原野のミミロップと比べるとかなり暖かい冬毛を持っている反面暑さに弱い。
サーナイト(♀)
穏やかな性格でとても几帳面。
心形岩山の向こうで眠るクレベースたち(参照:「えいえんのこおり」)の墓守。頼られると本能的に断れないタイプ。先代オヤブンから代替わりしたばかりで長距離テレポートは初の試みだったので実はとても緊張していた。