シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚-   作:ヒュペルボレイオス

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 この度五十人の方々に評価を投票していただき評価バーがMAXになりました。それも赤色です。やったあ!
 感謝の念でいっぱいです。本当にありがとうございます。




信仰は尊き日輪のために

 

 

 ほのかな甘みを纏って香り立つ麦粥(キュケオン)を木製の器によそう。

 僅かな塩を散らして木の匙で混ぜ込みながら空気に触れさせて少し冷ます。

 昨日より少し多めに入れたのはこれくらい食べられるようになっていないかという期待だった。

 二人分の夕食が既に用意されているテーブルの最後の欠片(ピース)がこれで揃う。

 残るは席につく人間の数だけで、賢者は食事に手を付けずにそれを待っている。

 

 

「起き上がれますか」

 

「ん……うん」

 

 

 緩慢な動きでベッドに横たわる上体を起こす。

 重力に従って肩を流れる髪を巻き込まないように注意しながらベッドの縁に足をぶら下げる。足先が床に届かない彼女の両肩に手を置いてやると、身を預けるように倒れ込むつもりで体を前に滑らせた。

 

 手を引いてやれば辿々しい足取りでゆっくりと着いてくる。

 歩行も覚束ない中で彼女なりに待たせてはいけないという思いがあるのか、吐息に急くような焦燥を滲ませる。ふらつきながら辿り着いたら最後、両脇の下から持ち上げて椅子の上に座らせてやった。

 

 

「では、いただくとするか」

 

 

 祈りを捧げて始まる本日二度目の食事。

 大麦を煮て神妙なる妖角(オドシシ)のチーズを絡めた麦粥は作るのが簡単で良い。

 少女は今朝方教えた匙の使い方をきちんと記憶しているようで、ひと匙掬った粥を自分で冷ましながら口に運ぶ。それがただでさえ栄養価の高い麦粥(キュケオン)を更に防人(ラッキー)の卵で綴じた、冬の食事にしてはかなり贅沢な献立だということを当の本人は知らない。

 

 彼女は特定のきのみ以外の食物を食べ物だと認識しなかった。

 与えた姫林檎(ヒメリ)は綺麗な宝石でも眺めるかのような手つきで丁寧に返してきたし、ナイフで切り分けたら信じられないものを見るような目で興味を示した。

 食べやすい文旦(オボン)ならどうかと出してみてもそれが食べられるものだと思わなかった。この辺りで目眩がしたのでもう果物籠を見せて自ら選ばせてやると、嬉しそうに箱栗(カゴ)のみを手に取った。

 別に食べられない訳ではないけれど、硬くて渋いからそのまま食べても眠気覚ましにしかならないような物を。

 

 

「してウォロ。名前は決まったのか」

 

「まだです」

 

「もう三日目になるぞ?」

 

「分かっています! けれどシンオウの仔たるもの、ワタクシやコギトさんのようにその血に相応(ふさわ)しい相応(そうおう)の名を冠さなければならないと思いませんか!? 思いますよね!?」

 

「頭痛が痛いのう……」

 

 

 食べ物の区別もつかなければ、自分の名前さえ知らない。

 生まれた直後の火の若馬(ポニータ)にも劣る身体能力と幸の揺籃(トゲピー)をも下回る体力は、家の中を歩くだけで息を切らしてへたり込む。

 信じられないくらいの虚弱っぷりに、今までよく死ななかったものだと呆れ半分で感動する。

 

 例の集落でどんな暮らしをしていたのかは訊ねてみたが、溜め息をつきたくなるようなものしか寄越されなかった。

 気づいたらあの場所にいて、時折投げ入れられるきのみで命を繋ぐだけの日々。たまに声は聴こえたけれど、何を言っているのかは分からない。

 それ以上の情報は無かった。

 そもあの牢から出られない彼女が集落の状況を知るのは不可能であり、自分の現状を理解するなんてのは、土台無理な話だったのだ。

 

 

「あの」

 

「何です」

 

「……おいしかった、です」

 

 

 突然の感想に面食らう。

 皿を見れば昨日より多くよそった粥は粒ひとつ残さず綺麗に食べ切られ、体の芯からあたたまったのか頬を僅かに紅潮させながら、知るはずもない単語を辿々しく口にして微笑んだ。

 思わず賢者に視線を投げ掛ける。

 少なくとも自分はその単語を教えていないし、彼女の人生でその概念に辿り着いているはずがなかったから。

 

 

「なに、言葉をひとつ教えてやったまでよ。食事の度に、何か言いたげじゃったからのう」

 

 

 賢者は穏やかに微笑みながら食べ終えた三枚の皿を重ねて台所に持っていく。

 何か言いたげなんて、そんな表情をしていたなんて全く気づかなかった。そもそれがどういう顔なのか思い浮かべることも出来ない。口を噤まれたことなんて今まで無かったのだから。

 

 

「あの……とても、ほわ、ってしていて……ふに、ってしてて……。くちが、ぎゅってならないのが、よかった」

 

 

 言葉の外側で物語る。

 “あたたかい”なんて知らない。

 “やわらかい”なんて感じたことが無い。

 “渋い”以外の味なんて、どう言い表せばいいか分からない。

 ただ、それらがとても心地の良いもので、今まで食べていたものとは一線を画すのだけは理解できたから、どうにかしてそれを伝えたかった。伝える言葉を、初めて教えてもらえたと。

 

 

「……そうですね。それを、“おいしい”と言います。とても喜ばしくて、とても楽しいものですよ」

 

 

 喜ぶこと、楽しむこと、当たり前の生活、それが幸せ──食事とはシンオウ神話に語られる幸福の定義の最たる例だ。

 自然から恵まれた糧に喜び、取り込む過程で生じる味という歓楽に微笑む。

 その感謝と感激を日々味わう当たり前の生活は、絶対に幸福であると言えるから。

 

 

「ごちそうさま、でした」

 

「はい、ごちそうさま」

 

 

 そうすれば、全能神(アウス)さまの祝福があると。

 誰よりも淑やかな声でワタクシに説いた彼女(はは)の顔は、もうどこにも見当たらないけれど。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 ──あの集落が潰れたとの話で、シンジュの里は持ち切りだった。

 彼らがいつこの里を出ていったのかは指折り数えればすぐに辿れる。俺達はシンオウさまが降り立ったのだという先祖の言葉を信じているからこそ里を離れられないが、少し違う考えを持つ者だって当然いるだろう。彼らはそういう人たちだった。

 彼らはこの凍土でさえ生きていれば、同じ空間に生きる者としてシンオウさまのご加護を受けられるはずだと信じていた。

 そして切り立った崖に囲まれたシンジュの里が受け入れられる人数には限りがある。

 俺達は争うことも無く、むしろ争いを避けるために、里を発つ彼らを見送ったのだ。

 

 

「なあ……やっぱりキュウコンの祟りじゃないか?」

 

「あれはキュウコンじゃなくて美しい雪(ハウナニ)だって言われただろ。ハウナニは祟るような奴じゃないさ」

 

 

 きのみを採集する道すがらで零した呟きを相方が拾い上げる。

 ハウナニというのは遠い南の国の言葉で、雪山に住む九本の尾を持つ白いものをそう呼ぶらしいのだ。

 

 

「いや、ハウナニも住処を荒らす者には容赦しないって話じゃないか!」

 

「それはまあ……」

 

「どっちだっていいよ、どっちにしろ祟りなんだ!」

 

「落ち着けって」

 

 

 今から一年以上前、あの集落は総出で狩りをした。

 希少な薬草やきのみを周辺に実らせる出湯を手に入れるためだと言っていた。そのためには出湯を住処にしている白銀の九尾をなんとしてでも退けなければならなかったのだとか。

 

 

「仮に祟りだとしてさ、どうして今なんだ? 狩られてから一年以上経ってるんだぞ。その間は何やってたんだよ」

 

「それはこう、恨みの力を高めていたとか」

 

「笑える、無理があるだろ。いいからさっさとやるぞ。日が昇ってる内に終わらせないと、お前も俺も凍えて死ぬんだからな」

 

 

 相方は面倒そうに話を切り上げ、オレンのみが生る木を指し示す。

 どうもこいつは恐れ知らずと言うか、楽観的なところがある。昔からそういうところに救われているけれど、今だけでいいから少しは危機感を持ってほしかった。

 収穫用の大箸(トング)を手にし、きのみに向けて高く伸ばしたその瞬間。

 

 ただでさえ寒い凍土の温度が、五つくらい下がるのを感じた。

 

 

「──ッ……!?」

 

 

 自分の影が不気味に揺れ動く。

 三日月状に裂かれた巨大な口は怯える自分をせせら笑う。

 道具を投げ捨てて悲鳴をあげながら後ずされば影は自分の足元から千切れてげらげらと笑い転がった。

 

 

「な──」

 

 

 驚愕に目を見開く間もなく、すぐ隣に立っていた相方がばぐんっ! と大口に呑み込まれた。

 背負っていた採集用の籠が虚しく地面に落下し、シンジュの靴が片足だけ転がっている。

 食われた。

 何に?

 影にだろう。

 

 

「え。あ、あ……う、うあああああああああああ!」

 

 

 歪みに歪みを繰り返した影は赤い二つの目をギラつかせて俺に迫る。全身の身の毛がよだつと共に頭が警鐘を打ち鳴らし無理矢理にでも体を動かす。

 逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ。

 確実な死の予感を鮮明に思い浮かべ、雪に足を取られながら肺を凍らせて藻掻くように走った。

 陽光は黒い雪雲に遮られ周囲はまるで夜のように暗くなる。

 自分の影から逃げるなんてばかげた経験は初めてで、もう何がなんだか分からなかった。

 

 

「うっ!?」

 

 

 踏み出しかけた一歩を取りやめる。

 頭から抜け落ちた地理が今更戻ってきた。

 眼下に広がる白銀の世界。崖際に追い詰められたと血の気が引いた。飛び降りて助かる高さではないだろう。

 だが後ろからはあの影が追ってくる。左右に逃げる場所も無い切り立った地形。完全に追い込まれた獲物の構図だった。

 もう逃げ場はどこにも無い。つい先程まできのみを集めていただけなのにどうしてこんなことに、事態の悪化が早すぎる。俺が何をしたっていうんだ。

 恐怖でガチガチと歯を震わす俺を(ひず)んだ影が嘲笑う。

 影は笑みを消すと濃い紫色に膨れ上がり、地表から地上へどぶりと浮かび上がった。

 ありえない、と頭が否定する。

 力無く首を横に振って現実を拒む。

 目を固く瞑った。

 夢なら醒めてほしかった。

 大きく口を裂いて嗤う、死神(ゲンガー)に追い詰められているなんて夢は。

 

 

「………………あ、あれ……?」

 

 

 しかしどれだけ待てどもゲンガーは襲い掛かってこなかった。

 瞑った目を薄く開く。もし開いた瞬間目と鼻の先に大口を開けられていたら絶叫する。だけどやっぱりゲンガーはすぐそこにいるだけで、不気味な赤い眼差しで凝視しているだけ。

 

 

「ヒィッ!!」

 

 

 ──だけ、で済まない差異として、眼前には呪い狐が静かに佇んでいた。

 鋭い目つきでこちらを睨みつける呪い狐には何故か人間の体が生えている。見たこともない造りの服と金色の編み上げ(サンダル)という奇怪な姿の首から上に、ゾロアークの顔があった。変化(へんげ)の術でも使っているのか、その異様な見た目に引きつった悲鳴が零れる。

 

 

「ΓΓΨ。ΚΤΚΓΑΝΔ、ΚΤΕΚΣΜ」

 

 

 人の言葉ではなかった。

 意味を持っているのかさえ分からない、歌のような音の連なりが耳に流れ込む。俺は意味が分からないことを表明するために全力で首を横に振った。

 

 

「……MADA NANIMO TAZUNETE IMASENGA。KIKARETAKOTO NI KOTAETE MORAEMASUKA」

 

 

 呪い狐は少しだけ沈黙して、また歌のような鳴き声を奏でた。

 先程と変わらず何の意味があるのか考えて、もしかしてこれは呪われているのではないかと恐怖が湧き上がる。

 発狂したくなるような予感に叫びながら足元の石を拾って投げつけた。しかし礫は呪い狐の右目に当たる直前鮮やかな紫に縁取られて止まり、力無く地面に落下した。

 キシキシと嗤うゲンガーを背にゾロアークが一歩踏み出す。

 もう後ずさる場所なんて無い自分にとって、それは処刑台に連れて行かれるのと同じ意味を宿していた。

 

 

「ゆ、許してくれ! 頼む!」

 

 

 一歩。

 

 

「もうあのオレンの木には手を出さない! 約束する!! この辺りには近づかないよう里の皆に伝える!!」

 

 

 一歩。

 

 

「お願いだ、見逃してくれ!! 死にたくない! 死にたくないんだ!!」

 

 

 一歩。

 

 地面に額を擦り付けて懇願する。もはや自分でも何を言っているのか理解できなかったが、とにかく必死に命乞いをしたのは確かだった。

 今になって数秒前の行動を後悔してももう遅い。考えなしの自分をありったけ罵倒する中で、上から新たな音が降ってきた。

 

 

 

「きかれたことにこたえろ、といっているのですが。」

 

 

「…………はえ……?」

 

 

 それは意外と可愛らしい子どもの声だった。

 まだ声変わりも済み切っていないだろう。男にしては高く、女にしては落ち着いた、どちらとも言えない独特の声。

 顔を上げれば呪い狐は傍らのゲンガーを撫でながら、どこか呆れたような冷たい目で俺を見下ろしていた。

 

 

「しんおうごさえつたわらないとは。よそものはこれだからこまります。ワタクシがあわせてあげるので、はなはこび……CHIGAU。ん、かんしゃしてくださいね」

 

 

 ──ことばが、通じる。

 

 これまでの歌は呪いではなく、ゾロアークの言語だったのだ。

 背の丈から見て十二か十三歳ほどの人間に化けた呪い狐は、幼い子供のように拙くはあるが、俺達と同じことばを話し出した。

 どっと押し寄せた安堵に涙腺が緩む。緊張で満足にできなかった呼吸を深くして、それでも機嫌を損ねては堪らないと警戒は続ける姿勢でいく。

 

 

「な、何を答えればいい?」

 

「さきほどの。せいなるきゅうびのおはなしを、くわしく」

 

「せいなるきゅうび……? さっきのってことなら……キュウコンのことか?」

 

 

 ゾロアークは小さく頷いた。

 どうも独自の呼び方があるらしく、それを人間の言葉に置き換えるのは少し苦手なようだ。

 

 

「詳しくって言っても……そいつらはもうシンジュの里とは別の集落なんだし、俺も聴いた話でしかないぞ。出湯を縄張りにしていたキュウコンを狩って、その毛皮を村長(むらおさ)の娘に持ち帰ったって話だ。一年か二年か……二年はまだ経ってないはずだけど、そのくらい前に」

 

「おろか?」

 

「正直俺もそう思う……」

 

 

 仕留めた九尾の毛皮を剥いで、女への手土産に持ち帰る──俺はその武勇伝を聞かされた時、どうしようもなく肝が冷えた。

 九つの尾を持つキュウコンは自身の尾を掴まれると怒り狂って千年先まで祟ると云われている。

 そんな恐ろしい奴の毛皮を剥ぐなんてとんでもない蛮行だろう。どうしてそれを英雄譚のように話せるのか、言ってはなんだが正気を疑った。

 

 

「かのせいなるきゅうびは、たかいじんつうりきをもちます。アナタたちがどれだけあつまろうと、かてるとはおもえないのですが?」

 

「ああ……なんか、誘き寄せたロコンを捕まえて人質にしたって聞いた。いや、人じゃないんだけども」

 

 

 提案したのは次の長として期待されていた男で、俺もよく知る奴だ。というか俺に武勇伝を語ってきたのはそいつである。

 捕らえたロコンをキュウコンに見せつけながら、自分たちにはどうしても出湯の恵みと暖かい毛皮が必要なのだと説得した“知恵と勇気ある若者”として、その集落で讃えられない日は無いのだとか。

 彼は命懸けの狩りから無事に帰り、早速その毛皮で豪華な着物を仕立てたらしい。着物を献上された娘はその男と祝言を挙げている。羨ましい奴だと里で噂になっていた。

 捕らえたロコンはキュウコンに代わって村で飼うことにしたそうだ。村長の娘が毎日甲斐甲斐しく世話をしているのだと、風の噂で聞いた。

 

 

「ってとこだな、俺が知ってるのは。集落が無くなった今ロコンがどうなったのかは分からない。生き延びてくれていたらいいんだが」

 

 

 説明する間、ゾロアークは黙って話を聴いていた。

 最初は訳が分からなかったが、野生に生きる狐同士もしかしたら知り合いだったのかもしれない。だとしたら(むご)いことをされたなと、他人事ながら内心で憐れんだ。

 そもそも出湯をキュウコンが住処にしていたから何だと言うのか。どうしてもと言うならせいぜいが追い払う程度でいいはずだ。

 子供を利用してまで狩って、その毛皮を剥ぎ取る必要なんてどこにも無かっただろうに。

 

 

「……にどと。そのいでゆに、ちかづくなと。なかまにつたえてまわりなさい」

 

 

 ゾロアークは苦々しげにそれだけ告げると、もう用は無いと言わんばかりに踵を返した。

 呪い狐の感情なんて理解が及ぶとは思えない。だがわざわざ人に化けてまで事情を知りたかった彼の気持ちは、いったいどういうものなのだろう。

 彼は本当は何を知りたかったのだろうか。

 本当は何を訊きたくて、俺に話し掛けたのだろう。

 

 その問いに答えてくれる者はいない。

 ゲンガーもゾロアークもいなくなった崖の上。

 どこからか聴こえた遠吠えに、俺は急ぎ帰路に着いたのだった。 

 

 

 里に帰るなり「お前どこ行ってたんだよ」と俺を迷子扱いしやがった相方のことは、一発ぶん殴っておいた。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 ──吐き気がする。

 

 嫌悪感と拒否感で胃の中のものを戻しそうだった。あまりに悍ましい思考回路の一端に虫酸が走る。

 反吐が出る。

 気持ち悪い。

 気分が悪い。

 不愉快極まりない。

 人間らしい扱いなんて期待していなかったが、まさか人間だと認識されていなかったなんていくらワタクシでも想定していなかった。

 

 天狐とも呼ばれる程の神通力を持った賢い聖なる九尾(キュウコン)たちが、その力で姿を変えられると信じる者は少なくない。

 その多くは幻影の覇者(ゾロアーク)との区別がまだ曖昧だった頃に情報が混じってしまったものだ。

 自分たちの姿形と九つの尾への拘りが強い聖なる九尾(キュウコン)は、たとえ出来たとしても殆どがやらないだろうから。

 おそらくは自分たちの目を欺くために化けているのだという先入観か。聖なる九尾(キュウコン)の庇護下に人間がいるはずないという前提が目を狂わせたのか。

 

 ──いや、そんなはずはない。

 少なくともシンジュを名乗る余所者たちは薬食い(ウリムー)と共生しているはずだ。シンオウの名を理解しないのは心の底から気に食わないが、彼らは隣人と良好な関係を心掛けている。

 そこだけはワタクシも認めている。

 いくらシンジュの里から出た者たちとはいえ、思想が決定的に異なる訳ではないだろう。聖なる九尾(キュウコン)と共にいるから人間ではないなんて早とちりするはずないのに、どうして。

 

 ねえ、と声掛けるような嘶きが聴こえた。凍土からずっと走ってくれていた火の若馬(ポニータ)の声。

 沈み込んでいた意識が浮上すると、丁度雲の切れ間から傾きかけの陽光が漏れて差し込んだ。

 

 

「……あ」

 

 

 火の若馬(ポニータ)の背から見上げるそれは天への梯子に思えて、光芒という名を忘れるような美しさに息を呑む。

 心配そうに視線を寄越す若馬は、どうやらこれを見せたかったらしい。それが日輪を仰ぐシンオウの仔にとって、何よりの気晴らしになると理解していたからだろう。

 

 

「ふふ、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。早く戻りましょう」

 

 

 若草が薫る原野の如き心付けに頬が緩んだ。

 冬でも比較的穏やかな湿地の各地に残る先祖の痕跡をなぞりながら家路に就く。ついつい寄り道をしてしまうのはこの子の愛すべき癖だと思っていたのだが、もしかしたらそれもワタクシのためだったのかもしれませんね。

 背中から下りると火の若馬(ポニータ)は庵の隣に設けられた干し草の寝床に入っていった。

 ブラシで軽く毛繕いをしてあげた後、庵の戸を開ける。

 中に賢者の姿は無く、幸の揺籃(トゲピー)を抱いた少女が眠るベッド脇の椅子には空に触れる者(キルリア)が腰を落ち着けていた。

 あの賢者は人と関わるのを厭うが外出は別に嫌いじゃない。今頃は原野の高台を幻力使い(アヤシシ)の背に乗って駆けているのだろう。

 

 

「変わった様子はありませんでしたか?」

 

 

 空に触れる者(キルリア)は落ち着き払った様子で頷いた。

 子守を任されてからそう経っていないらしく、お礼の品として出されている文旦(オボン)のくし切りはまだ瑞々しさを保っていた。

 

 

「……おかえり」

 

「ただいま戻りました。そしておはようございます」

 

 

 声に反応したのか金の月が昇る。

 続いて揺籃が身動ぎし、つぶらな眼と共に頭部の突起が開かれるが、まだ眠たげな揺籃(トゲピー)はもぞもぞと掛け布団の中へと潜り込んだ。さては庭で走り回って遊びましたね。

 

 

「あら。コギトさんに作ってもらったのですか」

 

 

 少女が空に触れる者(キルリア)の手を借りながら上体を起こした時、掛け布団の下から真新しい大判布(ヒマティオン)が顔を覗かせた。

 垂れ耳の淑女(ミミロップ)の毛皮を用いて縫われた薄い淡黄色の防寒着。

 とろりとした毛並みは幾度も施した入念な手入れへの答えであり、今後保ち続ける指標だった。

 少女の左肩に長めに掛けられたそれは右半身へと背中を流れて体を包み込み、脇下から合流して肩口で布が重なった地点をピン(フィブラ)て留められている。

 初めての上着を嬉しそうに何度も両手で撫でながら、彼女は「あのね」と口を開いた。

 

 

「まえにもあった、のかも。ふわふわ……やわらかくて、あったかいもの……まえにも、あった。なん、だろ。ね」

 

「──…………」

 

 

 つややかな毛並みを抱きしめるようにして微笑んだ彼女を前に、自身の天秤が音を立てて軋む。

 何が甲斐甲斐しく世話をしていただ。

 甲斐甲斐しく世話をされた人間がどうして半月も目覚めない程に弱る。

 どうして“あたたかい”も“やわらかい”も()()()状態になる。

 

 

「なんと、そうでしたか。思い出せてよかったですね」

 

 

 本当は知っていたはずだ。

 誰もが分かっていたはずだ。

 この命が人の形をしていることを。

 九尾(キュウコン)の娘が化けているなんてあるはずがないことを。

 

 理解した上で()()()()としたのだろう。

 その方が()()()()()()()()()()()()()()から。

 

 “知恵を巡らせて九尾を倒した人間”になりたかった男は、“自分たちの利益のために幼子を盾に取る外道”にはなりたくなかった。

 “美しい白銀の衣で求婚された人間”になりたかった女は、“幼子の共生相手を殺して得た毛皮を纏う人間”にはなりたくなかった。

 新しい集落を作るにあたって英雄譚を欲していた人間たちは、誰もが人聞きの悪い現実を直視したくなかった。

 だからことばの通じない彼女を火の愛子(ロコン)が化けていることにして、聖なる九尾(キュウコン)とは誠実な交渉の末に何もかもを譲ってもらったことにした。

 そうして歪めた現実が()されることの無いように、誰の目にも止まらない、日の差さない洞の奥へと押し込めたのだ。

 

 ──若緑の両手がワタクシの右手に触れる。人の体温よりもだいぶ低いのに心地良い、矛盾さえしそうな独特の感触。

 空に触れる者(キルリア)は深い珊瑚色の眼にワタクシを映すと、天秤に指を這わせる女神の様に、静かに首を左右に振った。

 

 ……これは推測であって真実ではない。

 得られたのは袂を分かった者からの伝聞と、全てが終わった後の地が語る結末と、物心に乏しい人間の現状だけなのだから。

 

 トントン、と庵の戸を叩く音が鳴る。

 続けて聴こえた嘶きは先程寝入ったはずの若馬のものだった。こういう時は決まって、やっぱり庭より庵で眠りたいという心変わりを遂げたお知らせである。

 小さく息をついて玄関先に向かい戸を開くと、顔を輝かせた火の若馬(ポニータ)が意気揚々と脚を一本上げて立っていた。

 

 

「はい、次こっち上げてください」

 

 

 足裏に付着した土や泥を拭ってやる。ついでに蹄の長さを見てやったが異常は無い。

 全て拭い終えると彼は早速、定位置の暖炉の前に陣取った。熱源がふたつになった今日の庵は、さぞや暖かくなることだろう。

 賢者が戻る前に夕食を作ってしまおうか──なんて、秋頃の己では考えられないような思考に小さく笑みが零れる。

 

 

「あ、の」

 

 

 その声が部屋奥のベッド上ではなく自身のすぐ傍であがる。

 空に触れる者(キルリア)に支えられつつ外套(ヒマティオン)を握る純白が、ワタクシを見上げながらその背後にある庵の出入り口を、その先の外を見つめていた。

 

 

「行ってみたいですか?」

 

 

 抽象的にそう訊ねれば、小さく確かに頷いた。

 微笑む空に触れる者(キルリア)から少女を預かる。靴の用意が出来ていないので、大地を歩くのはまた今度。

 上着があるとはいえ今は冬の頭。あまり長くはだめですよ、と釘を刺す。

 柔らかな淑女(ミミロップ)の贈り物に包まれた白を抱き上げながら空に触れる者(キルリア)に戸を開けてもらい、丁度雪雲の途切れた空の下へと踏み出した。

 

 

「──────」

 

 

 湿った土が混じった雪の匂いが天冠の御山から吹くひんやりとした風に乗って翔け抜ける。

 庭に植えたハーブの清涼な香りのみならず、濡れた草や木の皮が出す様々な薫りが鼻孔を擽る。

 積雪に閉ざされてなお、この地は色とりどりの薫香が鮮やかに入り乱れていた。

 

 絶えず奏でられる小川のせせらぎは小気味良く耳をなぞり、吹き付ける風の伴奏は草木の囁きを連れてくる。

 遠くで鳴いているのはこの地を任せられた桃百合の淑女(ドレディア)だろうか。

 しんと静まり返った隠れ里には、故にこそ多くの音が流れてくる。

 

 そして──雲間から注ぐ天の光を受け、金の眼は本来の輝きを取り戻していた。

 万象に色を灯す日輪の永愛。雪雲に翳ろうとも失われない永日の恵み。

 幾星霜変わらない太陽が光輪を背負う日暈の空はどこまでも高く、まだ捷き秋の名残が残っているように思えた。

 

 

「これが神奥(シンオウ)のみそなはす極北の楽園。ワタクシたちを育む世界の蝶番が如き場所。本来アナタが迎えられるべきだった光溢れる世界です」

 

 

 零れそうなくらいに大きく開かれた望月が陽光に見惚れている。

 まるで恋をするかの様に色めくかんばせには覚えがあった。

 生まれて初めて天の神座(かむくら)を実感した時、神の愛を肌で確信した時、世界の色彩がより鮮やかに塗り替えられたような感覚に打ち震えた時、きっとこのような顔をしていたはずだ。

 

 

「──し、ってる。おぼえて、る。おもい、だした」

 

「はい」

 

「わ、たし。ずっと……ここに、いた……!」

 

 

 月が透明な血に濡れる。

 頬を伝う雫は忘却していた記憶の楔。

 声を震わせて謳い上げるのは奪われた日々への悲哀ではなく、神の元(陽の下)へと帰ることができた無二の喜び。

 首飾りが無かろうと、神話を教わっていなかろうと、誰に言われるまでもなく全天の主の存在を確信し、祈りを捧げられる彼女のカタチは、古き真なるカミナギの民そのものだった。

 

 同時に湧き上がる一条の希望。

 不条理と理不尽の嵐に呑まれながらも、神の愛に触れさえすれば喜びに落涙する無垢なる天秤。

 この子の時間は“怒り”や“悲しみ”が発現する前で止まっていたのだろう。

 光ある世界を過ごした時間と歓楽の念を結びつけることはできても、聖なる九尾(キュウコン)との別れを悲しみ、仕打ちに怒る情緒はまだ育っていない。

 

 これからの永い生に備えて、彼女の心身が育つのは誰も知らないこの隠れ里。

 吹き抜ける風、海に通じる川、一年を通して光降り注ぐこの里を、かつての楽園に見立てることが出来たなら。

 “楽園”の日溜まりで、幸と歌に憩いながら育ったカミナギの民は。

 

 

 ──無限無窮の最奥に坐す天の御中の主(アルセウス)をこの地に降ろす、理想の巫女になるのでは?

 

 

 ワタクシたちにはもう出来ない。

 賢者は愛しい者と死に別れて悲しみを知ってしまった。

 神官はこの地を穢し続ける余所者への怒りを捨てられない。

 だけど。けれど。

 怒りも悲しみもまだ分からない──この同胞なら、もしかして。

 

 天上に咲く日暈の中心を仰ぐ。

 太陽が紅だなんて嘘だ。天地(あめつち)に、星空(ほしそら)に、山河(やまかわ)に、峰谷(みねたに)に、霧霞(きりかすみ)の一滴にさえその威光を普く示す日輪は白く輝いている。

 

 全身を駆ける歓喜に笑みが溢れた。

 運命というものがあるのならその紬糸に口づけを落とすほど感謝した。

 宇宙の光、尊き光明、究極の根源、始まりの者、全てを齎した我らの神に。

 時空を超越せし創造主たるアナタに、御身に、貴柱(きみ)に!

 

 

故に信ずる(クレドクィア)。クレドクィアにしましょう、アナタの名前」

 

「くれ、ど……?」

 

「クレドクィア」

 

「クレ……ィア?」

 

 

 成長しきっていない舌では上手く奏でられなかった。

 けれどそれはそれで、賢者が気に入りそうな可愛げのある音だ。

 あの人のことだから愛称としてそちらの方こそ好むかもしれない。

 

 

「もうすぐコギトさんが戻ってきます。それまで、ここで待っていましょうか」

 

「! うん……!」

 

 

 日の輪を仰ぎ見る時間が延長されて、クレドクィアは愛しげに空を眺めた。

 流れる雲を目で追って、時折飛び去っていく椋木に憩う者(ムクバード)たちに目を奪われる。

 幻力使い(アヤシシ)の足音が近づいてくるまでの間、ずっと。

 

 ──ずっと、天空に見惚れていた。

 

 

 

 




キュウコン(♂)
 おっとりした性格で我慢強い。
 ハウナニもといアローラキュウコンではなく、長生きの結果金色から白銀に色が移り変わっただけ。

ゲンガー(♂)
 やんちゃな性格でイタズラが好き。
 ばくってした人間はちゃんと吐き出しておいた。どうやら好みじゃなかったらしい。

ゾロアーク(♂)
 のろいぎつねの面を被って情報を聞き出しに来たウォロ。「俺」さんからは勘違いされているがゾロアークではない。

集落
 シンジュ団の中でもかなりの異分子たち。「俺」さんは平和に袂を分かったって言ってるけど絶対そんなこと無いと思う。

俺さん
 当時のシンジュの里で暮らしていた人間。ちょっとぼんやりしてるだけで普通に良い人。
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