シンオウの昔日-翡翠英雄奇譚- 作:ヒュペルボレイオス
その男は、突如としてわたし達の前に現れた。
暴れ荒ぶキング・バサギリを鎮めるための手段を持って。
「……なん、という……」
奉納台の向こう側。
原野に生えるどの樹木よりも雄々しく雄大な巨木の下。
先人たちより『巨木の戦場』と伝えられる神聖なるキング場に吹き荒れる石と風の旋。
──それを身一つで掻い潜る、紺青の眼を持つ勇ましき者!
彼は少年と呼ぶには大人びた、青年と呼ぶにはあどけない、不思議な雰囲気の人だった。
バサギリの好物を二つ混ぜ合わせ、特定の匂いを特に香らせたシズメダマを投げ続けることで、バサギリを鎮める。突飛とも、いや突飛としか言いようのない作戦だが、それに縋るしかなかったのも事実だった。
なおかつ彼は、バサギリを痛め付けることに消極的だったわたしの言葉を重んじているのか、バサギリが大きな隙きを見せても紅白のボールを投げず、自分の相棒を向かわせない。
六尺を超える巨体を前にして、双斧の殺意を前にして、彼はその身一つで相対し、シズメダマを投げ続けていた。
バサギリの踏み込みに戦場が揺れる。
彼は僅かに口元を引き攣らせると、紺青の眼を細めて巨木の陰に飛び退く。
刹那に金色は疾風と化して突進し、巨木に衝突し轟音を轟かせる。
だが──だが!
巨木はその身を揺らさず、悠然と君臨し続けていた。まるで、この戦場の真なる主であるかの様に。
跳ね返った衝撃をまともに受け、バサギリはその場で動きを止めた。
紺青の青年は、少年は、彼は素早く巨木の陰から身を出すと残り少ないシズメダマを超至近距離で振りかぶる。
「──────!」
彼が何を叫んだのか、わたしの両の耳は拾わなかった。
それでもその音は祝詞の如く、調べの如く、戦場の空に高く響き入る。
雷に打たれたバサギリへ、雲間より漏れた光明に似た細き白光が迸る。
最後のシズメダマを受けたバサギリの金色が、爆ぜるように燐光と化した。
──幼い頃の早朝に見た、日輪に煌めく雪の粒を思い起こす。
──幻想的で、神秘的で、シンオウさまを身近に感じた、かの
やがてバサギリから金色は消え、理知を灯した優しい眼差しが彼を見つめる。最後の燐光がきらきらと自分の前に降りてきて、彼はそっと手を出した。
光が収まった手には玉虫色の板が収められ、バサギリはそれを見届けると高く高く咆哮し、どこかへと去っていったのだ。
風に靡く赤い襟巻き。
斜陽を受けて輝く輪郭。
やはり青年と呼ぶにはあどけなく、少年と呼ぶには大人びた彼は、怜悧なかんばせからふっと笑みを零す。
もう大丈夫──そう、人懐っこく宣言して。
「先日、時空の裂け目から落ちた不思議な雷……やはりバサギリは、あの雷に撃たれて荒ぶったのかな」
気づけばわたしはそんな問いを、そんな考えを口にしていた。肯定してほしかったのか否定してほしかったのかは自分でも分からない。ただ、目の前の彼は何か答えをくれる気がした。
「んー、それは分かんないですけど……キング・バサギリから、ただひたすらに苦しんでるって様子は感じられなかったですね」
「え?」
「少なくともおれにとって、今の勝負は一応楽しい時間ではありました。そしておれは、相手が楽しんでいない勝負は楽しめません。……経験則なんで証明する手段は無いんですけど……」
彼は困ったように、照れくさそうに頬を掻く。
……わたしにとって、今の戦いは何だっただろう。
その身一つで金色のキングと対峙する若人の背。わたしがやらなければいけない責務を、わたしができずにいた責務を、原野に吹く颯爽とした風の如く攫っていった青年。
楽しかったなんて口が裂けても言えるものか。一手違えればその身は若葉より容易く切り裂かれていた。
でも、でも、まるで夢のような時間で。
この胸の高鳴りも、頬にのぼったままの熱も、恐怖なんてものでは決してなくて。
「じゃあ時空の裂け目の向こうにはシンオウさまがいらっしゃって、雷はその御力なのかね!? 鎮めたのは誤りだったのではないのかね!?」
「や、鎮めたのは正しかったはずです! キング・バサギリの様子的に!」
「キクイ、落ち着いて。本物のシンオウさまの加護を得たなら、意味無くポケモンや人を襲うなんてありえないでしょう?」
そう説明すれば納得がいったのか、キクイは「合点」と頷いた。
……そうだ。わたしたちをお守りくださっているキングが、シンオウさまの御力を得て、わたしたちを害すはずがない。
可能性があるとしたらやはり、コンゴウが崇める偽りのシンオウさまの──と燻り出した疑念を、わたしは
「テルさん、改めてありがとう。コンゴウ団ともギンガ団とも事を構えずに済んだのは、あなたのおかげだよ」
お礼にオボンのみを渡せば、テルさんは腰を低くして丁寧に受け取ってくれた。
つい先程まで激戦のキング場を駆け回っていたとは思えない穏和な物腰に、自分の表情がじんわりと緩んでしまうのを感じる。
高鳴る胸も、熱を持つ頬も、何もかもを深謀遠慮を冠す理性で押さえつけて、わたしは顔を上げる。
荒ぶ金色も、勇む紺青も、この先の生が続く限り、きっと忘れることは無い。
それほどまでにわたしの眼に焼き付いた英雄譚は、旭日の如く眩かったのだ。
*
深い紺青色の眼を煌めかせ、異邦人はなんの淀みも無くその仮名を口にした。
宇宙の光。
尊き光明。
究極の根源。
始まりの者。
全てを齎した我らの神。
時空を超越せし創造主。
無限無窮の最奥に坐す天の御中の主。
シンオウさま。
アルセウス。
真名も分からぬそのものを指す音を知る者は少なく、後から来た余所者が意味も解さず振り翳すのみ。
──シンオウ地方ってとこから来たんですよ、おれ。
──どう考えてもディアルガとパルキアですよね。
──そりゃあもちろん、アルセウスです。
「……あは、っ」
溢れ出た笑みに口元を押さえる。
またこの地を余所者が踏み躙りに来たのかと、諦念と憤怒を両立させた敵愾心が反転していくのを感じ取る。
“シンオウ”とは何かを理解せず、互いを糾し続ける余所者の偽称が正されている。
ヒスイの地はかつての名を、かつての栄冠を取り戻している。
惜しむらくは彼が、おそらくは我らの同胞たり得ないことだが──それはまあいいだろう。ここまで数を減らした自分たちが今更地上に溢れるとは元より到底思えない。
この時代から彼の時代にかけて、“何か”が全て変化を遂げた。余所者の集落は滅び、「シンオウ」の復権は成り、神話は排されること無く伝えられる。
この醜悪な地は、北風の理想郷を、美しき神奥のカタチを取り戻す。
空に昇り消えていく金の光を見上げ、心の底から歎息を零した。
ああ──本当に。
なぜ、今更?
暫く待っていると、門の向こうからオヤブンギャロップに跨って異邦人が帰ってきた。彼は急停止と共にギャロップから飛び降り、爛々と輝く眼で二枚の板を掲げる。
「あらあらあら、それは!」
「ハイ、プレートです! プレートですよウォロさん! アヤシシ様とキング・バサギリから貰っちゃいました!」
「はいはい、少し拝借しますよ!」
受け取ったプレートを裏返して刻まれた文字を確認する。もののけプレート以外の実物をこの目で見るのは初めてだった。
──うちゅう うまれるまえ そのもの ひとり こきゅうする
──うちゅう うまれた ばしょ そのもの はじまりの ばしょ
「神話の、一節……!」
「待ってください、おれの知ってる文章と違います」
高揚に同調して口角が上がった瞬間、怪訝な顔をした異邦人から奇妙な話が飛び出した。
「テルさんはこの文章をご存知なのですか?」
「“うちゅう うまれるまえ”……の文章はおれがシンオウ地方でプレートを手に入れた時に見たんですけど、“うちゅう うまれたばしょ”……は、どのプレートにも無かった文章です」
「……
「はい、
刹那。
「こらぁテル!!」
「こらウォロ!!」
テルさんはマフラーを、ジブンは荷物を引っ張られながら、互いに別人のお叱りの声を背に受けた。
「帰還したなら速やかに団長に報告なさい!」
「スミマセンスミマセン待って首は勘弁っすショウ先輩!」
「調査隊員さん捕まえてサボってんじゃない!」
「申し訳ありませんしかし脹脛を蹴るのはよしませんかツイリさん」
「うちの後輩がご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ、うちのサボり魔こそ」
「え? 何? 仲良し?」
会釈するや否や、テルさんはギンガ団の本部へと引き摺られていく。執拗な脹脛への攻撃をどうにかいなしつつ自分も商会の集合場所に歩を進めた。
十六枚、と彼は言った。
はい、とも彼は言った。
彼の知る限り、プレートの総数は十六枚。かつ、裏面の文章には欠けがある。
シンオウ地方。
未来のヒスイ。
そこに受け継がれるプレートの文字は歳月に晒され消えたのだろうか。
プレートも数を減らしてしまうのだろうか。
神話は受け継がれ、「シンオウ」の復権は成されても、形あるものは無くなると言うのか。
彼はどのプレートを手にし、どのプレートを見付けられなかったのだろうか。
失われたプレートは、彼がこの世に降り立たなければ、失われたことにも気付かれなかったのだろうか。
「ウォロ? なんかあった?」
「いいえ、何でも」
この世界は時間が進む速さに比べて、空間から零れ落ちるものがあまりに多すぎる。
それがどれだけ理不尽であるか、シンオウの柱たちは気づいておられない。
何故、と問うたことはある。
何故、と嘆いたこともある。
答えはなく、応えられることも無かった。
モノが失われることに、確かな意味など無いのでしょうね。
*
此奴は何なのだろう。
部屋を訪れ、はにかみながら其奴が報告した一部始終は、事前にムベから受け取ったものと差異が無かった。
アヤシシに跨がらず、ポケモンを場に出さず、その身ひとつでシズメダマを投げ続けて、バサギリを鎮めた──と。
「……何故、ポケモンを使役しなかった? お前の手持ちにはかのオヤブンギャロップもいるだろう」
んー、と其奴は考え込む。
「元々おれにこの話が来たのは、シンジュ団がキング・バサギリに手を出せないから……でしたよね」
「ああ」
「だから、カイさんの見てる前でキング・バサギリを攻撃するなんて出来なかったんですよ」
は、と肝が冷えた。
ムベの報告によれば、此奴は完全にバサギリの動きを見切った上で相手をしていたという。動きを見切り、その上でギャロップを出すまでもなく──コンゴウ団の心象に感けていられる程度に余裕があったと。
「恐ろしくはなかったのか。一歩間違えれば、お前は肉塊と成り果てていたのだぞ」
「まあ、確かに迫力あるポケモンでしたけど……おれにはポケモンが着いてますから」
「……? 出さなかったのではないのか?」
「キング・バサギリとの戦いには出さないけど、もしおれが死ぬかもって時には言いつけを守らず飛び出しても構わない……いやむしろ助けてくれって頼んでおいたんですよ」
どこまでも穏やかな声色で、慈しむように腰のボールを撫でる。眼差しは柔く、狂人特有の歪んだ光なども宿ってはいない。
「こいつらが傍にいてくれるから、おれは安心して無茶が出来ます。どこにだって行けて、何だって出来ます。受け止めてくれる奴らがこんなに近くにいるんですから。ポケモンが一緒にいるっていうのはそういうことなんです」
意味が分からなかった。
頭が理解を拒んでいた。
いっそ異国の言葉を話してくれたらよかった。
言葉の意味が違う他民族であってほしかった。
今からでもそうであってほしかった。
どんな刀でも歯が立たない牙と爪を持つポケモンを引き連れ、操り、心を通わせる。
ヨネ殿やラベン博士が連れる小さなポケモンだけでなく、オヤブンと畏れられる巨体を持つポケモンともそれが成立する。
“ポケモンと一緒ならどこにだって行けて、何だって出来る。”
人間業ではない何かに背筋が凍った。
脳裏に過るあの日の赤き怒りの色。
今はコトブキムラに敵意を持たず、人懐っこい笑顔を振り撒いているが、いつ心変わりをするか分からない。
ギンガ団を快く思わない、コンゴウ団やシンジュ団の一部の人間に懐柔されるやもしれない。
そうなった時、もしもその日が訪れた場合、眼前のポケモン使いが
分かっているのか、と他ならぬ自分が己に問い掛けた。
分かっているとも、と答える他に道は無かった。
「テルよ」
「はい!」
「これからも変わらず、ギンガ団に忠義を尽くし、コトブキムラのために働いてもらうぞ」
背中に伝う汗を悟らせぬように。
喉を通る声が震えぬように。
細心の注意を払って、懇願の様に絞り出した言葉に対し、其奴は相も変わらず人畜無害で穏和な笑顔を浮かべ、一切の躊躇をせず「はい」と宣った。
それが、黒曜の原野の王を討ち倒した男の顔であった。
*
うちゅう うまれしとき その かけら プレートとする
──ハクタイシティ、ポケモン像の裏手。
プレートに あたえた ちから たおした きょじんたちの ちから
──森の洋館、屋外の窓辺。
そのもの じかん くうかんの にひき ぶんしんとして よに はなつ
──森の洋館、屋内の一室。
そのもの じかん くうかんを つなぐ さんひきの ポケモンをも うみだす
──ヨスガシティ、ふれあい広場。
にひきに もの さんびきに こころ いのり うませ せかい かたちづくる
──ズイの遺跡、最深部。
うちゅう うまれるまえ そのもの ひとり こきゅうする
──215番道路、道端。
うまれてくる ポケモン プレートの ちから わけあたえられる
──ノモセシティ、大湿原の右奥エリア。
プレート にぎりしもの さまざまに へんげし ちからふるう
──鋼鉄島、窪地。
「……だぁーめだ……何回思い出しても文章が違う」
宿舎の布団に横たわりながら二枚のプレートを眺めて頭を抱える。
たまむしプレートは森の洋館の近くに落ちていたのを見つけた。ふしぎのプレートはズイの遺跡の最深部で見つけた。
けれどおれが発見したたまむしプレートとふしぎのプレートに刻まれていた文字はそれぞれ、「プレートに あたえた ちから たおした きょじんたちの ちから」「にひきに もの さんびきに こころ いのり うませ せかい かたちづくる」のはずだった。
もう一度、手元にあるプレートの文字に目を通す。
──うちゅう うまれるまえ そのもの ひとり こきゅうする
──うちゅう うまれた ばしょ そのもの はじまりの ばしょ
前者は215番道路で拾ったこぶしのプレートと、クロガネゲートの奥地にあっただいちのプレートに刻まれていた文章だ。後者に至っては全く覚えが無い。
この際おれがシンオウで手にしたプレートと、ヒスイでおれに与えられたプレートは別の物だというのは理解できる。
だが刻まれる神話の内容すら違うのはどういうことだ。知らない神話が生えている。
はじまりのばしょ、つまり■■■■■■だ。■■■■■■を示す記述が過去にはあったのだ。なんでおれの時代には無かったんだろう。そのせいで辿り着くまで随分掛かったんだぞ。もしちゃんと示してくれていたら■■■■■■を■■■■■■と勘違いすることも無かっただろうに。
「……?」
喉元に手を当てた。
マグマラシが不思議そうな顔でおれを見上げる。
何度か咳払いをして、あー、あー、と声を出し直す。
……巨木の戦場で口に砂でも入ったかな。なんか、音が変だ。
寝る前にかめの水でうがいしておこう。
そんな決意に反し、体はマグマラシのぬくさに敗北しながら眠りに落ちた。
やっぱね、アグノムがいないとダメで。