シャルリア宮の第一夫君   作:倉庫から出す

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シャルリア視点

「チャルロス兄さまったら。私との約束より、あちらを優先するなんて信じられない」

 

 今日は久しぶりに兄さまと一緒にシャボンディ諸島へ行く予定だった。

 

 いつまでも待ち合わせ場所に現れないことに痺れを切らし、ノロマな奴隷の背に乗って兄さまの元へ向かってみれば、なんと何番目だかの夫人が逃げ出したらしい。

 チャルロス兄さまは自分の手で罰を与えなければ気が済まないと、私との外出は延期にして夫人の捜索と躾をやるのだと息巻いている。

 

 身の程を弁えない人間の女など、さっさと首輪を爆破させてしまえばいいのに。

 

 兄さまには奴隷として売り飛ばした方がお小遣いの足しになるからと説き伏せられ、言われるがままにその場を離れたことを少し後悔しながら、屋敷の外へ繋がる廊下を歩く。

 

「兄さまは私のことがどうでもいいのアマス」

 

 以前はもっと私との時間を作ってくれていたチャルロス兄さま。

 

 私と違って一人で奴隷を買いに行くことをお父上様に許されていることもあって、人間(ヒューマン)オークションで奴隷を買ったり、その帰り道に気に入った下々民の女を次々と夫人に迎えたりと、次第に私との時間が減ってしまった。

 

「ただの下々民のくせに」

 

 所詮、一時的に私たちと同じ空気を吸うことを許されているだけの存在。

 

 憎らしい。私から兄さまとの時間を奪うなんて。

 

 手に持っていた鎖を乱暴に引っ張る。ほとんど引き摺られる状態になっていた奴隷の男が、ドシャッと音を立てて床に頭から倒れた。

 

「……やだ。また壊れちゃったアマス?」

 

 頭に上っていた熱が少し下がり、立ち止まって奴隷の男を見下ろす。白目を剥いた状態でピクピクと痙攣している。

 

 男はただの人間で、先日お父上様に買ってもらったばかりの奴隷。今度こそはきちんと躾をして長持ちさせなさいと言われていた。

 

 頬に手のひらを添えて嘆息する。

 

「力自慢という売り文句だったから買ったのに。やっぱり人間は壊れやすいアマスね」

 

 持っていた鎖を男の頭めがけて落とす。男は小さな呻き声を上げ、また静かになった。

 

「このコはもういらない」

 

 全身黒のスーツに身を包んだ男達が、私がこの先を口にする前に数人がかりで奴隷の男を立ち上がらせる。

 

「それでは早急に手続きを済ませます。予定通りシャボンディ諸島へ向かわれるのであれば、新しい奴隷も手配させ――」

 

 さっさと歩き出せば、男達が慌てたように追いかけてくる。

 

「シャルリア宮!? 奴隷を連れずにシャボンディ諸島へ行くことはロズワード聖から……ぎゃああっ!!」

「誰に意見している?」

 

 発砲音は二つ。右手に構えた銃の銃口からは硝煙が上がり、無礼にも私を引き留めようとした男の脇腹と右膝からは真っ赤な血が流れていた。

 

「シャボンディ諸島くらい、役立たずな奴隷がいなくても行けるアマス」

 

 

 

 

 

「これ可愛い」

 

 私が指差したハートをモチーフにした耳飾りは、後ろに控えていた付き人である男達によってあっという間に支払いが済まされた。

 

 さっそく両耳につけたハートが私の動きに合わせてゆらゆら動く。

 

「この後のご予定はお決まりですか?」

「五番GR(グローブ)で服を見るアマス」

 

 今いる場所は四十八番GRで、アクセサリーや雑貨を取扱う店が多い。ここを訪れる年齢層は幅広く、いつ来ても下々民で溢れている。

 

「ま……またのお越しをお待ちしておりまぁす!」

 

 下々民の裏返った声を背に店を出た。

 店の前を歩いていた下々民達が一斉に立ち止まって、地面に頭をつける。

 店内や外の道が混雑していようが私には関係がない。

 

 そこかしこにふわふわと浮かんでいる小さなシャボンのうちの一つが、服と一体になっているグローブの先を掠めていく。

 

「シャルリア宮。五番GRはシャボンディ諸島でも無法地帯と呼ばれているほど危険な場所です。また、ここから最短で五番GRに向かうには造船所エリアを通る必要があります」

「造船所?」

 

 この話の流れで造船所の名を挙げた意図が分からず、首を傾げる。私の動きに合わせて耳飾りが微かな音を立てた。

 

「造船所エリアで働く者たちのほとんどが無法地帯出身なのです。日常的に荒くれた海賊を相手に商売していることもあって、職人たちも曲者揃い。下々民の中でも血の気が多い連中だということです。万が一にでも御身に何かがあってはならないと……。出過ぎたことを申しました」

 

 どのような下々民も天竜人である私に危害を加えることは許されない。

 

 しかし、過去には下々民が天竜人に害をなした事例はいくつもある。あろうことか奴隷制度に異議を唱え、私たちの奴隷を勝手に解放する者まで出てくる始末。

 

 私はフンと鼻を鳴らし、愚かで穢らわしい下々民を心の底から嗤った。

 

 つまり、この付き人は「造船所がある五十番台のGRを経由する最短ルート」よりも「シャボンディパークと十番台GRを経由する、もしくは一度港へ戻って船で移動するルート」の方が安全だと言っているのだ。

 

 二十番台までは海軍でさえ足を踏み入れるのを躊躇うほどの無法地帯と化していると聞く。ただ、造船所の件は初耳だった。

 海賊だとか海賊よりも荒っぽい連中だと言われても私にはピンとこない。

 海賊というものはお父上様が熱心に集めているコレクションの一つであり、私にとっては屈強な体つきのわりにすぐに壊れる脆い生き物でしかないからだ。

 

 そもそも天竜人である私が、わざわざ遠回りをすることなどあっていいはずがない。

 

 目的地である五番GRは海軍の駐屯基地と密接しているし、愚かな下々民がいれば彼らに処理させればいいだけ。

 

 私の後ろで狼狽えている男達のことは気にも止めず、四十八番GRから五十五番GRへ向かった。

 

 

 

 

 

 造船所エリアへ足を踏み入れた途端、どことなく空気が変わったような違和感を覚えた。

 

 露出部分をシャボンや特注のグローブなどで覆っている私が、下界の空気を肌で感じとることはないはずなのに。

 

 造船所の人間達も他のエリアの人間と同じように膝を地面につけているというのに、反抗的な目で私を見上げてくる。

 全員がそうだというわけじゃない。ほんの一部、ただ私にはその一部がとても重要だった。

 

「シャルリア宮。足元にはお気をつけください」

 

 さっきまでいた観光エリアと違い、ここには足元に木材や工具などが散乱しており、お世辞にも歩きやすいとは言い難い。

 道の中央はある程度開かれているが、端では無理やりに積み上げられた鉄クズが山と化している。

 

 本当は不遜な態度をとる人間達を一人ずつ射殺したいところだけど、真っ直ぐ歩くのに精一杯でそれどころじゃない。

 

 ほんの一瞬「奴隷を連れてきていれば」という考えが浮かび、唇を噛みしめる。

 

 お父上様の口癖はこうだ。

 

『お前は簡単なものからはじめてみなさい』

 

 いいえ、お父上様。

 私は目の前にある階段を一つ一つ着実にのぼっていくような、そんな退屈なことに時間を割きたくないの。

 

 私が奴隷無しで無法地帯を歩いたと知れば、きっとお父上様も人間(ヒューマン)オークションへの一人参加を認めてくださる。

 今よりももっと自由に奴隷を買うことができれば、これまでより頑丈で壊れにくい奴隷を手に入れることだってできるはず。

 

 チャルロス兄さまが私との時間を作ってくれなくなったのだって、兄さまがお父上様にオークションへの参加を認められた頃からだった。

 

 今の私はお父上様と一緒じゃないとオークションへの出入りすらできない。たとえチャルロス兄さまと一緒だとしてもだ。

 だから兄さまは私と二人で出かける時はオークションへの参加を諦めなければならないし、何度かそのことでガッカリなさっていた。

 

「もっと頭を下げとけ。目をつけられたら厄介だぜ」

「天竜人にもあのレベルの美人がいるんだな……」

 

 言葉として捉えられないほど微かな声が聞こえてくる。先ほど私が前を通った男たちのものだろう。

 

 すでに五十九番GRにまで来ていた。

 ここは海軍の駐屯基地に隣接してることもあり、造船所エリアの中でも比較的安全な場所。

 足元に意識を向けながらも軽く周囲を見渡せば、船大工やコーティング職人に紛れて海賊らしき人間が見受けられる。

 もう少し進んだ先に四番GRがある。そこまで辿り着けば、目的地である五番GRは目と鼻の先だ。

 

「あっ……おい見ろよ! あそこに積み上げてた木材、グラついてるぞ!!」

 

 私から少し離れた場所にいた男が、地面に膝をついたまま私の後方に指を向けた。つれられて顔だけで振り返る。

 

 視線の先、高く積み上げられた木材が今にも崩壊しそうになっていた。

 

「シャルリア宮!」

 

 木材は付き人達によって押さえられて何ともない。

 しかし、完全に足元を疎かにしていた私は、重心を移動させる際に左足を大きく捻ってしまった。

 

 ――――背中から倒れる!

 

 ひゅっと背筋が凍る。

 浮いた体を迎えたのは地面へぶつかる衝撃ではなく、岩を彷彿とさせるほど硬い、けれど柔らかさも感じさせるものに支えられる感触。

 

 瞬時に私の腰と足に回された腕のようなものに引き寄せられ、所謂お姫様だっこをされているのだと理解するのには時間がかかった。

 

「かるっ」

 

 耳元でそんな驚いたような声がして顔を上げる。

 バチッと視線が重なったのは、私と同じくらいの年頃の青年。

 

「は……もっ、申し訳ございません! お……いや、私のような賤しい身分の者が天竜人……様? に無遠慮に触れるなんて、えーと、とんでもないことであり……」

 

 青年はあっという間に私を地面に下ろし、自分は地面と一体化するくらいに頭を下げていた。

 

 このような言葉遣いには慣れていないようで、何度もつっかえながら必死に言葉を紡いでいる。

 

「…………」

 

 彼に一番最初に掴まれた二の腕に防護服の上から触れる。

 

 …………服など意味を為さないんじゃないかと思うくらい、まるで直に触れられたような力強さだった。

 

 青年はその後も何かを口にしていたが、私にはほとんど聞こえていなかった。

 青年の声を掻き消すほどの大きな音が、他でもない私自身から鳴り響いていたから。

 

「この無礼な下々民をどう処分なさいますか?」

「うぐっ」

 

 私が胸を押さえて俯いているのを屈辱に震えているのだと勘違いした付き人の一人が、青年の頭を掴んで強引に地面に押し付ける。

 

 青年の苦しげな呻き声の直後、私はすでに手にしていた銃を発砲していた。

 

 揺らぐ硝煙の向こう、頭から血を流した付き人の体が青年に寄りかかるようにして倒れる。

 一部の下々民は悲鳴を上げながら後退りしているというのに、青年は「重い……」とだけ呟いていた。

 

「まったく。使えない、役立たずばかりでうんざり」

 

 銃を懐に仕舞い、コツコツと靴音を立てながら青年の前に立つ。残りの付き人達が大慌てで青年に寄りかかっていた死体を回収して行った。

 

 もっとこの青年の顔を見ていたいのに、下々民である彼が真正面から私を見上げることは許されていない。この瞬間だけ許可することは可能だけど、そういうのではなくて……。

 

 ふと、いつかのチャルロス兄さまとの会話が頭に浮かんだ。

 

 どうしてわざわざ元下々民の女を連れて帰ってくるのか、気に入ったのなら外で飼えばいいのにと言った私に対する、兄さまの答えを。

 

 フェイスベールの内側で微かに口元が緩む。

 

 死刑宣告を待つ死刑囚のように項垂れている青年に向かって、神託にも等しい言葉を投げかけた。

 

「――この男を、私の第一の夫にするアマス」

 

 

 

 

 

 私の腰に回ってきた腕に体を預ければ、恐る恐るといった様子で抱き上げられた。

 

 地面から軽々と浮いた自分の体に感嘆の息を漏らし、至近距離にある青年の顔を見上げる。

 奴隷の背に乗るのと比べてこちらの体の自由は効かないものの、これはこれで眺めは悪くない。

 

「このまま港に向かえばいいですか?」

「ええ」

 

 会話の途中で青年と目が合ったのに、すぐに逸らされてしまう。

 

「予定を変更すると仰ってましたが、本当はどこかへ行かれる予定だったのでは」

 

 先ほどまでとはまるで別人のようだった。

 青年の感情を読み取れない横顔を見つめながら「五番GRに寄るつもりだったの」と答える。

 

「ああ。あそこには女性が好まれる店がいくつかありましたね」

 

 青年はあの辺りに詳しいのか、納得したように頷く。

 

 今日のところは服を見る時間も惜しいくらい、早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。

 お父上様やチャルロス兄さまに夫を迎えたことを報告しなければならないし、急ぎで新しい部屋を用意させる必要もある。

 今回は手元になかったから奴隷用の首輪を青年に付けたけど、もっと見栄えが良く鎖の付いていない物を手配したい。

 

 青年の胸元に頭を寄りかからせ、これからのことを考えていたら後方が何やら騒がしくなった。

 

「どうして彼が連れて行かれるの? ねえ、待って……離してよぉっ!!」

 

 私を抱き上げて歩き出していた青年の足がぴたりと止まる。

 

 薄汚れたエプロンをつけた人間の女が、顔を涙でぐちゃぐちゃにさせながらこちらに必死に手を伸ばしている。周りの男たちに取り押さえられた女はそれでも泣き叫ぶのを止めず、恐らく青年の名であろう単語を何度も口にしていた。

 

「知り合いアマスか」

 

 女に向けていた視線を青年に戻す。

 

 青年は自分の中から言葉を探すように瞬きを繰り返す。そして、

 

「私が貴女の夫になったのなら、今は赤の他人ということになりますね」と落ち着いた声色で答えた。

 

 

 

 

 

 停泊していた船の先客を全て追い出し、貸切状態となった船が港を出発する。

 

 この船で一番広くて豪華だという客室に案内され、ずっと私を抱いていた青年に三人掛けのソファーに降ろしてもらう。

 

「船が出るまでやけに時間がかかったようですね。何かトラブルでもあったのでしょうか」

「私達が気にする必要はないアマス」

 

 落ち着かない様子で室内を見渡している青年に隣に座るよう促す。

 青年が躊躇いがちにソファーに腰を下ろした時、客室の扉が控えめにノックされた。

 

「軽食をお持ちしました」

 

 私の付き人達が船内の給仕係と共に入ってきて、目の前のテーブルにサンドイッチや紅茶などを並べていく。

 全て二人分、私と青年の分だ。

 

「……えっと、」

「口をあけて?」

 

 一口サイズのマカロンを青年の口元へ寄せる。

 

「ほら」

 

 羞恥心からか青年の頬はほんのり赤に染まっていた。ようやく開かれた口にマカロンを押し込んで「いいコね」と微笑む。

 

「…………」

 

 微笑んだまま、今度はビスケットを先ほどと同じように青年の口へ入れる。何度かの咀嚼ののち、青年の喉の動きで嚥下したのをハッキリと確認した。

 

「…………」

 

 もう一度。今度はフィナンシェにしよう。もはやされるがまま、大人しく口を開けた青年に食べさせる。

 青年はやはり気恥ずかしそうな顔をして、じっと私のことを見つめてくるだけだった。

 

「……味はどうアマス」

「こんなに美味しい物は初めて食べました」

 

 当然だろう。これは私が普段食べているものと全く同じ。……ただ彼に食べさせたものには、たった一口で成人男性が即眠りに落ちる成分が混ぜられているはずだった。

 

 付き人が入れ忘れたのだろうか。

 テーブルの端に置かれたベルを鳴らそうとしたその時、右肩にトンッと何かが触れた。

 思わず安堵のため息をこぼす。

 

「ようやく効いたアマス」

 

 私の肩には青年の頭が寄りかかっていて、規則的な呼吸音が聞こえてくる。

 暫く眠っている青年の横顔を眺めてからベルを鳴らす。すぐにやってきた付き人達にテーブルの食事を下げさせた。

 そのうちの一人に差し出された紙の束を受け取る。

 

「シャルリア宮。こちらがご夫君に関する資料です。――年齢は十六。シャボンディ諸島へやってこられたのは一年ほど前で、それ以前の暮らしについて調べるにはもう少し時間がかかるかと」

「そう。あの女は?」

「名前はサラ、年は十六。ご夫君は船のコーティングに使用される特殊な道具の製造会社に住み込みで働いておられ、彼女は社長令嬢だそうで……」

 

 言い淀む姿から、次の言葉は聞かずとも容易に想像がついた。

 

「恋人同士ではなかったようですが、婚約者に近い関係にはあったようです」

 

 手に持っていた資料をぐしゃっと握り潰した私に、部屋の入り口に立っていた給仕係が「ヒィッ!」と悲鳴を上げる。

 

「お言いつけ通りに処分しております。ご安心ください」

 

 男は最後に「港からお二人をお運びするための奴隷もすでに手配しておりますので」と付け足し、他の付き人達と共に部屋を出て行った。

 

 再び青年と二人だけになった部屋の中、ぐしゃぐしゃになってしまった手元の資料にもう一度目を向ける。

 

「十六ということは、私の二つ上アマスね」

 

 肩の位置にあった青年の頭を膝へ誘導し、グローブ越しに柔らかな髪を撫でるようにして触れる。

 

 お父上様やチャルロス兄さまを除いた、異性の寝顔を見るのはこれが初めてのことだった。

 

 

 

 

 

「私の夫はどうなってるアマス」

「映像電伝虫とご夫君の担当者によれば、全身をお清めになられた後は寝室内をくまなく探索され、五分ほど前にご就寝なさったようです」

 

 お父上様やチャルロス兄さまにシャボンディ諸島で夫を迎えたことをお伝えし、家族との食事も済ませた後、青年のいる寝室に向かっている途中のことだった。

 

「五分前? お父上様には、下界の汚れを落とした後にすぐ眠らせるよう言われていたはず」

「どうやらご夫君は一部の薬剤に対して異様な耐性があるようです。よって今回は巨人族でさえ眠らせる強力なものを使用しました」

 

 付き人の隣に控えていた私の専属の医師が「一般的な人間に使用するのは危険ですが、ご夫君の体質であれば問題はないかと思われます」と付け足す。

 

 問題はないという言葉に、懐の銃へ伸びていた腕を戻す。

 

 ……仕方がない。

 チャルロス兄さまと違って私には妊娠のリスクがある。私の意思に逆らって行為に及ぶなどあり得ないとしても、お父上様が万が一の事態を危惧するお気持ちも理解できないわけではない。

 

 それに、私はお父上様のいう「お前が大人になってから考えなさい」という条件をクリアしたとしても、青年に体を許すつもりは毛頭なかった。

 

 私は、どうして自分があの青年を夫に迎えたのかよく分かっていない。

 兄さまの夫人に対して抱いたような「所詮は下々民」という考えが消えたわけでもない。

 

「ご夫君はあちらにおられます」

 

 恭しくお辞儀をした付き人の手のひらの先には、あの青年のために用意した寝室がある。

 

 部屋は薄暗く、大まかな家具の位置がぼんやりと分かる程度。私の背後の扉が閉まってしまえば、唯一の光源を失った寝室内は完全に闇に包まれてしまった。

 

 柔らかく淡い光を放つ常夜灯が自動的に灯り、私を青年がいる場所まで誘ってくれる。

 

 ベッドに腰掛け、青年の頭があるであろう位置を覗き込む。ゆるく閉じられた目にかかる前髪を軽く払いのけてやった。

 

 どうしてだろう。

 この青年を見ていると、無性に……。

 

 寝室に来るまでに考えていたことなど全て忘れ、青年の胸に頭を乗せて目を閉じた。

 

 

 

 

 

 連日雨続きだったマリージョアに、やっと雲一つない晴れ間が広がっていた。

 

 このような天候の日には、マリージョアの中心的な場所にある庭園に足を運ぶ天竜人が多い。ここは『最も偉大な神の地』や『神の庭』と称されるほど広く、美しい景観を保っている。

 全面が巨大なシャボンで覆われており、天竜人の所有物である奴隷ですら、中に足を踏み入れることは許されない神聖な場所。

 

 庭園の入り口、差し出された手のひらに自身のものを重ねる。軽く力を込めて握られた手を引かれ、庭園の奥へ歩いていく。

 

「おおお……そこにいるのは、わちきの可憐な一輪の花シャルリア! こうやって散歩中に会うなんて運命でしかないえ〜!」

 

 丁寧に植えられた花たちを一つ一つ眺めていた私に、後方から聞き覚えのある声がかかる。

 何度か顔を合わせたことのある男性だった。

 

「今日は父君やチャルロスはいないのかえ?」

 

 私の周囲を見渡していた男性に二人は不在だと伝えると、両目どころか全身を輝かせた。

 

「やっぱりこれは運命だえ〜!! シャルリア、今日はわちきと庭園を…………」

 

 男性の視線が私の顔から左腕に移り、私と手が繋がれている青年へと辿り着く。

 男性と目が合った青年は、仏頂面のまま見返すだけだった。

 

「……あ? なんだおばえは。首輪……鎖のない奴隷? いや飼われてる奴隷がこの庭園にいるはずがないえ! こやつ、脱走した奴隷に違いな、」

「私の一番目アマス」

 

 男性が最後まで言い切る前に口を挟む。

 一連の流れをつまらなさそうに眺めていた青年の頬に手を添え、こちらに顔を向けるように促す。

 驚愕で目を見開いた青年と目が合った。

 

「とても可愛がっているの」

「そ、そうかえ……シャルリアもついに夫を……。でも首輪ということは、奴隷と変わらない扱いをしてるんだえ!?」

「まあ。私のものに印を付けておくのは当たり前。それにこの首輪はエルエムの特注品、奴隷ごときに買い与えるはずがないアマス」

 

 エルエムはマリージョアでも五本の指に入るほど質の高い装飾品を取り扱っている。天竜人であれば一目であそこの物だと分かるほど、繊細で上品な唯一無二のデザインとして名高い。

 

 二重の意味で大恥をかいた男性が顔を真っ赤にさせて去って行く。

 その後ろ姿を見送りながらため息をついた。

 

「……気分が悪いアマス」

 

 来たばかりだと言うのに。もう帰ってしまおうか。

 

 庭園のいたるところに設置されているイスに腰かける。

 付き人がよく冷えた飲み物を提案してきたが断った。もうすっかりそのような気分ではなくなってしまった。

 

「もう帰る支度を……」

 

 そう言いかけた私を大きな影がすっぽりと覆う。

 

 いつの間にか青年が私のすぐ目の前に立っていた。青年はこちらを覗き込むような体勢になっていて、付き人達が彼を拘束しようと動き出したのを目で制す。

 

「こちらを」

 

 眼前に現れたのは、色とりどりの花たちで作られた花束。

 

「あちらの、園内を巡回している花売りから買ったものです」

 

 反射的に受け取った花束に顔を寄せる。たっぷりとした太陽を浴びて熟れた花の香りがした。

 

 青年は花束から一輪だけ抜き取り、私の左耳の辺りに差し込むような形で添える。

 

 瞠目している私に青年は眉尻を下げ、見たことのない穏やかな笑みを浮かべた。

 

「ちょっと違うな。……もしよければ、これよりも貴女の耳飾りの色に近いものを探しに行きませんか?」

 

 

 

 

 

 青年を私の夫として迎えてから、一年という月日が流れていた。

 

 チャルロス兄さまの夫人は数十人ほど入れ替わったというのに、未だに私の夫は青年ただ一人。

 お父上様や兄さま、他の天竜人にはその手の話題になるたびに不思議がられているけれど、私は現状に満足していた。

 

 お父上様やチャルロス兄さまに向けるものとは違う。また、奴隷やその辺の下々民とも明らかに違う。

 確かなのは私があの人を下々民でも天竜人でもない、一つの独立した“何か”として認識している、という事実のみだった。

 

 

 

「シャルリア。そろそろ欲しいものは決まったかえ?」

 

 物思いに耽っていた私は、突然話しかけられて手に持っていたナイフとフォークを落としそうになってしまった。

 

「可愛いお前にまだ贈り物を用意できていないことが、わちしは心苦しいんだえ」

 

 お父上様の弟君であり私にとっては叔父にあたる男性が、テーブルを挟んだ向こう側で悲しげに眉を下げる。

 

「新しい奴隷か? それとも服やアクセサリーかえ? 何でも好きなものを言いなさい」

 

 そうだった。

 今は定期的に開かれている親戚同士の食事会の真っ最中。叔父様達は先日行われた私の誕生日パーティーにも来てくれていたけれど、私の希望によってプレゼントの用意は先延ばしにしてもらっていた。

 

「叔父様。お父上様からのプレゼントもこれからアマス」

「ほう。いつだって真っ先におねだりしてくるシャルリアが珍しいえ」

「先ほど犬が欲しいとお伝えしたところなの」

「犬ならうちにいくらでもあるえ! それなりに賢くて血統のいいものだって……」

 

 今すぐにでもこの場に犬を連れてきそうな勢いに、「まあ」と頬に手のひらを添える。

 

「叔父様はいつも私の自慢アマス。……ただ、犬は夫との相性を確認してから決めるアマス。叔父様は犬につける首輪を贈ってくださいまし」

「おお! そうだ。わちしはお前の夫の話も聞きたかったんだえっ!」

 

 叔父様だけでなく従姉妹まで「私も聞こうと思ってたアマス!」と身を乗り出してくる。

 チャルロス兄さまだけは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

「むふーん……。わちし、あやつは嫌いだえ」

「まあどうして? あのシャルリアがたった一人、それも一年以上そばに置いている夫なのに」

「一度あの男を跪かせたらシャルリアにこっぴどく怒られたえ……あのシャルリアは怖かったえ」

 

 予想していた答えと違ったのか、従姉妹はくすくすと笑っていた。

 

「なぜここに連れて来なかったアマスか? まさか外に出せないほどの醜男でもあるまいし」

 

 従姉妹は先ほどとは温度感の違う笑みを浮かべる。

 

「みんな心配してアマスわ。シャルリアの夫には何かしらの欠陥があるんじゃないかって」

「これ、ティア。シャルリア、ティアは言い方はともかくお前のことを心配してるんだえ……」

 

 私は食事で汚れた口元を布で拭い、大量の冷や汗を掻いている叔父様に涼しげな笑みを向けた。

 

「一番のお気に入りは大事に仕舞っておくことにしてるアマス。昔から私の周りには、人のものをつまみ食いする品のない虫が飛び回っているから」

「は、はは……。それは困った虫だ。ロズワード兄上はご存知でしたかえ?」

 

 自分の手には負えないと判断した叔父様が、助けを求めるようにお父上様に話を振る。子供同士の諍いには一切の関心がないお父上様には「知らんえ」と一蹴され、完全にお手上げ状態になっていた。

 

「むふ〜っ! この料理はなかなかに美味いえ! シャルリアはもう食べたかえ?」

 

 険悪な空気を一瞬で消し去ったのはチャルロス兄さまだった。

 先ほどの私と従姉妹の会話など耳にも入っていなかったらしい。心の底から美味しそうな顔で目の前の料理を次々とお腹に詰め込んでいる。

 

「……ふふっ。チャルロス兄さまったら」

 

 私、兄さまのこういうところが好きなの。

 

 従姉妹もすっかり毒気を抜かれたようで「うちのシェフは優秀アマス」と誇らしげにしていた。

 

「チャルロス、まだまだあるからいくらでも持ってこさせよう。ところでシャルリア、さっきから腕輪が点滅しているが大丈夫かえ?」

「腕輪……」

 

 叔父様の視線を辿るように自分の左手首を見る。

 これは青年の首輪と同じデザインの腕輪で、私が腕輪を外すか鍵を使わない限りは、青年の首輪も外れないようになっている。

 

 首輪と腕輪は二つで一つ。私以外の女が首輪を持つ青年の肌に十秒以上触れたら警告音が鳴る仕組みになっていて、それはもちろん腕輪の持ち主である私にも通知される。

 

「シャルリア?」

 

 急に立ち上がった私を叔父様達が怪訝そうに見上げてくる。

 

 今日は大事な食事会だからと、こちらへの通知音を消していたのが仇となった。

 

 ……いつから鳴っていた?

 

 首輪の持ち主が警告音を無視して相手との接触を続けた場合、首輪から一時的に全身を麻痺させる薬が注入される仕組みになっている。

 

 腕輪の点滅光が赤ではなく黄色ということは、まだ薬は注入されていない。

 

 私はすぐに腕輪の裏側にあるネジのようなものを数回まわした。点滅していた光は消え、恐らくあちらの警告音も止まったはずだ。

 

「…………お父上様、叔父様」

 

 私は絞り出すように声に出した。

 

「具合が悪いの。今日は泊まらずに先に一人で帰るアマス」

 

 

 

 

 

 どうしてこんなにも心がざわつくのか。

 

 元下々民の男に誰かが触れた――私の夫に、どこかの女が無断で触れた。

 

 たったそれだけのことが、なぜこれほどまでに私を不快にさせるのだろう。

 

「シャルリア宮? お帰りは明日のはずでは……」

 

 いるはずのない私の姿に、自分たちに与えられた仕事に従事していた人間達がギョッとした顔をしたのち、深々と首を垂れる。

 

「あの人はどこ」

 

 一番近いところにいたメイドに尋ねたが、どうやら「あの人」では通じなかったようだ。

 苛立ちをなんとか抑え込みながら言い直す。

 

「私の夫アマス」

「ご夫君でしたら先ほどお休みになられたところです。こちらへお連れしましょうか?」

「……私から行くアマス。そこのお前、歩きながら私の夫に起こったことを説明しろ」

 

 青年に付けていた男の姿を見つけた。男は私が言葉にする前から全てを理解したように、ぴたりと私の後についてくる。

 

「腕輪が点滅した。お前たちが付いていながら何をやってるアマス!」

「申し訳ありません。シャルリア宮」

 

 もしこの場にお父上様がいらっしゃれば、荒々しい言葉遣いを窘められていただろう。

 

「ご夫君が庭園を散歩されていたところ、偶然チャルロス聖の第四夫人が通りがかったのです」

「……チャルロス兄さまの、四番目」

 

 入れ替わりの激しい兄さまの妻の顔など、当然覚えているはずがない。

 

「第四夫人はご夫君に命乞いをなさっていました」

「命乞い? 私の夫がチャルロス兄さまの妻を害そうとしたとでも?」

 

 まさか、あり得ない。

 出会った頃ならまだしも、今のあの人にはかつてのような()()()はもうない。

 

「チャルロス聖の手によって死ぬことや、奴隷に堕ちることを危惧していたようです。ご夫君を通じてシャルリア宮に便宜を図っていただこうとしていたのでしょう」

 

 思わず失笑が漏れてしまった。

 

「この私が……チャルロス兄さまの妻とはいえ、ただの人間の女如きの為に? なんと図々しくて不躾な女アマス」

「まったくです。ご夫君も困惑されているご様子でした」

 

 すかさず同意を示してきた男に、珍しいこともあるものだと目を見張る。

 相手が天竜人の妻という立場にある以上、天竜人に対するものと同等ではなくとも、それなりに気を遣った対応が求められるようになる。私に同調する為とはいえ、兄さまの妻を下げるような発言をするなんて以ての外だ。

 

「……それで、私の夫は助けを求めてきたその女に何と答えたアマスか」

 

 口にしたことで自覚した。私と青年の未来を決める、重要な分かれ道に立っていることを。

 

「――死んだ方がマシだ。そう仰っていました」

「死ぬ?」

「はい。『シャルリア宮に俺以外の男が触れる日が来るくらいなら』と」

 

 いつの間にか、あの青年がいる寝室の前にたどり着いてしまっていた。

 

 

 

 

 

 すっかり闇に包まれてしまっている寝室に足を踏み入れるのは、随分と久しぶりだった。

 

 最近では青年と一緒に寝室に入り、同じ時間に眠りについていたから。

 

 そろそろ新しい部屋を用意するか、ここを改装しようかと思っていたところだった。

 初めは人間の男を閉じ込めて眠らせるだけの場所でしかなかったのに、今となってはとても窮屈に感じてしまう。時々退屈そうにしている青年には、もっと快適に過ごせる場所が必要だ。

 

 彼はそれなりに読書を好んでいるようだから、いっそ彼だけの書斎を用意させてもいいかもしれない。

 ずっと部屋に閉じ込めていては気が滅入ってしまうようだから、付き人を連れて行くことを条件に庭園を好きに歩かせるのもいいだろう。

 

 そうやって一つ一つ、青年とここで過ごすための環境を整えていたところだったのに。

 

「………………」

 

 足を進めていけば、いつかのように常夜灯がぽつぽつと控えめな光を放ち始める。

 

 部屋の奥、大人が四人は眠れそうなベッドに腰を下ろした。

 

「……よく眠ってアマスね」

 

 まるで出会った日の夜をなぞるかのよう。

 

 伸ばした手は簡単に青年の髪に届き、見た目よりも柔らかなそれを指で梳くように撫でた。

 

 ふと、ベッド横のサイドテーブルの様子がいつもと違っている気がして目を向ける。

 

 違和感の正体はすぐに分かった。

 

 いつもサイドテーブルにはいくつかのアロマキャンドルを並べてある。

 それが今夜は、ピンクがかった薄紫色の花を中心にいくつかの花たちが花瓶の中でひっそりと咲いていた。それも、神の庭と呼ばれる庭園で二人で探した花よりももっと理想に近い、私の耳飾りとほぼ同じ色の花たちが。

 

「…………」

 

 両耳から耳飾りを外し、花瓶の隣に並べる。

 

 薄紫色の花の名前は分からなかったが、この花を囲むように咲いているピンクや紫の花の正体はすぐに分かった。とくにピンク色の花を咲かせる方は私の誕生花なこともあり、何度か叔父様たちから贈られたこともあった。

 

 もう一度青年の寝顔を見つめる。

 彼はきっと誕生花もその花言葉も、それを私に贈る意味すらも知らない。

 

 胸の奥がぎゅうっと何かに押しつぶされるような息苦しさ。

 思わず眠っている青年の腰に腕を回して抱きつく。

 

 私はとっくにこの感情が何かを知っていたはずだった。……ただ認めることができなかっただけ。

 

「う…………」

 

 頭上で苦しげな呻き声が聞こえてきても動けなかった。

 

「シャルリア宮?」

 

 やがて私の存在に気づいた青年が怪訝そうな声で私の名を呼ぶ。

 

「驚きました。お帰りは明日の昼以降だと聞いていましたので…………嬉しいです」

 

 青年の声はいつになく弾んでいて、顔を見なくてもどんな表情をしているのか手に取るように分かってしまう。

 どちらかというと無愛想な人間に分類されるであろう青年の、私にしか見せない健気で可愛らしい一面。

 

「サイドテーブルの花は見てしまいましたか?」

 

 ――――そう、花だ。

 ピンクや紫の、空に向かって真っ直ぐ伸びる美しい花。

 

 やけに重い体ごと頭を持ち上げる。

 常夜灯でぼんやりと照らされた部屋の中、唖然とした表情をした青年と目が合った。

 

「…………え」

 

 一年以上共に過ごしてきて、青年のこのような焦燥感に満ちた顔は初めて見た。

 

「どうして泣いて……。まさか食事会で何かありましたか? 誰かが貴女を傷つけたとか、奴隷が無礼を働いたとか……どこかお怪我をされたわけではないですよね?」

 

 頬を流れる温かな雫を拭われそうになって、咄嗟に青年の手を掴む。

 身を起こそうとしていた青年をベッドに押し戻し、これ以上余計な言葉が出てくる前に自分の唇で塞ぐ。

 

 勢いをつけすぎて歯と歯がぶつかるガツッという音がしたにも関わらず、青年は身を引くどころか完全に受け入れ態勢で私の腰に腕を回してくる。

 

 ぎゅっと力を入れすぎていた唇をほぐすかのように軽く啄まれ、ただ柔らかなものが触れ合っているだけなのに……気持ちがいい。

 

 まるで子供の癇癪を受け止める親のような仕草だったのは気に入らなかったけど、ずっとこうしていたい心地良さだった。

 

 名残惜しいような気持ちを押し隠して青年から身を離す。腰から離れて行く青年の右手を捕まえて自分の胸元へ手繰り寄せた。

 

「一体どうされたのですか?」

「この手に他の女が触れた。……どうして天竜人である私のものに、私以外の女が触れるのアマス」

 

 青年に伝えたいのはこの言葉じゃなかった。

 素直になろうとする心すら覆い隠すように、もう結論が出ていることを掘り返そうとするのを止められなかった。

 

 青年の手にぽたぽたと私の涙が落ちるたび、青年の体が強張っていく。

 

 ――――苦しい。この苦しさから、どうすれば解放される。

 

「…………シャルリア」

 

 私に掴まれていない左手が伸びてきて、私の右頬を包み込むように触れる。

 

 ……この大きくてゴツゴツとした、けれど温かくて柔らかい手に触れられるとホッとする。

 

 己の無骨さを自覚しているからこそ、私に触れる時は細心の注意を払っているんだろう。まるで壊れ物を扱うように、慈しむように、そっと触れてくる。

 

 あくまで私に委ねるように、ほんの少し自分の方へ引き寄せようとする青年の背中に両腕を回す。

 すぐに、今度はそれなりに強い力で抱きしめられた。

 

 一つ一つの動作が、お互いの気持ちを確認するかのようにぎこちなくて……愛おしい。

 

 目尻に浮かぶ涙さえもキスのついでに拭われて、私は最後の抵抗のように口を開いた。

 

「チャルロスお兄さまにお願いして、あの女は奴隷にしてやるアマス。私たちの視界に入らない場所で、死ぬまで地獄のような日々を送るように」

 

 青年の答えなど分かりきっていたのに、彼を試さずにはいられない。

 

 青年の答えは、やはり予想通りのものだった。

 

「はい」

「……あの女に頼まれたのに。それでいいの」

 

 私の心を見透かすように、青年はふっと柔らかな笑みを浮かべる。

 

「俺がこれまでにそういったお願いをしたことがありましたか? ……それに第四夫人がどうなろうと興味がないんです。俺たちにとって意味のない人間ですから」

 

 そうでしょう? と微笑まれては返す言葉がなくなってしまった。

 

「例えば、俺以外の男がこうやって触れたとして」

「……んっ、」

「おそらく、いえ間違いなく俺は嫉妬で頭がどうにかなりそうになるでしょうけど、貴女に触れた男自身にはこれっぽっちも興味がわかないと思います」

 

 私の指に自分のものを絡め、撫でるように動かした青年は私の反応に満足げに鼻を鳴らす。

 

「その後も貴女が俺のそばにいてくださるなら、何もかも些細なことです」

「だから死ぬと言ったアマスか?」

「え? ああ……そこまで聞いてるんですね」

 

 青年は私の手を持ち上げ、指を絡めたまま口付けを落とした。

 

「いつか貴女の夫でなくなる日がくるなら俺は死にたいです。できれば、貴女の手で」

 

 青年の私を見る目に背筋がゾクッとした。

 

 青年の頬に両手を添えれば、必然かのように唇同士が重なり合う。

 

 先ほどのようにお互いを食べるようなキスかと思いきや、軽いリップ音を立ててあっさり離れていってしまった。

 

 信じられない気持ちで青年の腕を掴む手に力を入れる。

 

 私は自分がどのような顔をしているか知る術を持たないが、少なくとも目の前の青年が限界スレスレのところを耐えていることだけは分かる。

 私を直視することすら躊躇われるらしく、熱っぽく潤んだ瞳は私の足元へ向けられていた。

 

「……もう寝ましょう」

 

 懇願するような響きだった。

 

 私の答えを待たずに引き寄せてきた青年に体を預ける。

 

 青年が常夜灯を消す前に、サイドテーブルに飾られた花たちを見た。

 

 見えない心を映すための言葉さえ躊躇われるなら、せめて私たちは目に見える約束を交わすべきだった。

 

 常夜灯が消えて完全に闇に包まれた部屋の中。

 

 ぎこちなく抱きしめてくる青年の温もりに、意識が溶けるのはあっという間だった。

 

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