シャルリア宮の第一夫君 作:倉庫から出す
止まらない涙で夫の胸元が濡れていく。
私が堪えきれない嗚咽を漏らすたびに夫の体は強張り、私に触れようとしていた腕は離れていくばかりだ。
私がオモチャとなってから半日も経っていないはず。それでも一生分の絶望を味わった心が痛くて苦しい。
愛する人の温もりと鼓動を感じられることが、こんなに幸せなことだったなんて知らなかった。
「シャルリア…………」
夫の声はとても震えていて思わず顔を上げた。
「……泣いているのアマス?」
俯いていてよく見えない顔を覗き込もうとしたら、隙間がゼロになるくらい強く抱きしめられた。
いつものように力を加減する余裕もない抱擁。全身から夫の痛みが伝わってきて、一瞬だけ止まっていた私の涙もぼろぼろとこぼれ落ちていく。
「私はここにいる……あなたの腕の中にいるアマス」
「……貴女を永遠に失っていたかもしれない。自分が許せなくてどうにかなりそうだ」
「私もアマス。あなたから私の存在が消えてしまった時より、あなたを忘れていたことに気づいた今のほうがずっと辛いアマスわ」
体から余計な力を抜いて夫に寄りかかる。
ひどい悪夢だった。でもいずれ訪れていた未来でもある。
あのまま聖地に留まっていれば、夫が神の騎士団に入団するか五老星の実験体になるかの二択だった。どちらの道を選んでも、この人は私の元を離れていってしまう。
まるで天啓のよう。私たちが選択するかもしれない最悪の未来を一足先に味わった……そう思わずにはいられない。
このままだと溶けて一つになってしまいそうだと思い始めた頃、ようやく腕が緩んで解放される。
やっと顔を合わせることができた夫は、何かを決意した目をしていた。
「シャルリア。貴女を必ず船のある港まで送り届けます」
「…………何を仰っているの?」
「オモチャ化が解除された今、従者たちも一度船へ戻るはずです。俺がそこまでお連れするので、真っ直ぐマリージョアへ帰還してください」
今回ばかりは、夫の意図を瞬時に理解できてしまう自分が嫌になる。
「あ……あなたは、私を一人行かせてここに残ると……?」
「はい」
「私との約束も、何もかもを捨てると言うのアマスか」
「……俺は世間知らずでした。ドフラミンゴとその仲間の強さを分かっているようで分かっていなかった。強さは覇気だけでは測れない。強敵相手に誰かを守りながら戦う術も俺は知らない。ここに残れば次こそ貴女を、」
両の手のひらで勢いよく夫の頬をバチンッ!と叩く。
想定以上の大きな音がして、周囲にいた元オモチャたちが飛び上がるほど驚いていた。
夫は彼ら以上に驚いて目を見開いており、両頬は私の手のひらの形で赤く腫れ上がっている。
「私の知るあなたなら、必ず守り抜くと誓ってくれたはずアマスわ!!」
「……ですが! もしも守りきれずに貴女を失うことになったら、俺は……」
「その時は私と共に死んでくださいまし!!」
しんっと場が静まり返る。
近くにいた例の長鼻の男が「な……ん、……この状況……で、イチャつい……やが……んだ」と呻き声混じりに口にしたくらいで、彼以外の人間はこの状況を見守ることに徹していた。
ぎゅっと唇を噛みしめる。唖然としている夫の手を握り、困惑で揺れる瞳を見つめた。
「私はもう、あなたのいない世界では生きていけないのアマス……」
ぐすっと鼻を啜りながら、夫の腕を掴む手に力を込める。
「どうか私に……一生続くであろう孤独を与えないでくださいませ」
ようやく夫と目が合った。やがてお互いに吸い込まれるように目を閉じ、唇には温かく柔らかな感触があった。
触れるだけのキスはあっという間に離れていく。名残惜しさを感じる前に、再度強く抱きしめられる。
先ほどのように「これで最後かもしれない」と思わせる余裕のないものじゃない。「二度と離さない」と感じさせる力強いものだった。
「昔の自分に戻って思い出した。……俺はずっと、俺の全てを掌握してくれる人を探し求めていたことを」
耳元で夫が小さく息を吐き出す。
「シャルリア。貴女にグラジオラスの花束を差し出したあの日の誓いを、どうかもう一度俺と交わしていただけませんか」
頬を最後の雫が流れていった。
夫は鞘から引き抜いた剣を突き立て、その場で片膝をつく。右手を自身の胸に当てて左手で私の手をとった。
「――命ある時も散る時も、貴女と共にあることを誓います」
「……私も誓うアマス。死すらも私たちを分かつことは出来ないアマスわ」
厳かに執り行われた誓いの儀式は、夫が私の手の甲に口づけを落とし、突き立てていた剣を鞘に戻すことで終わる。
「いや……すげェよアンタら。よくこの状況でプロポーズしようと思ったな」
元オモチャだと思われる、兵士の格好をした男が感心したように声をかけてくる。
「プロポーズも何もこの人は何年も前から俺の妻だ。……あと、天竜人でもある彼女に軽々しく話しかけるな」
「天竜人!? そういや天竜人とその夫君がこの国に来てるって聞いたような……!」
男はあっという間に顔を真っ青にしていた。
今の私はシャボンを被っておらず、装いも服屋で試着途中だったものだ。無知な下々民が私の身分に気がつかないのも無理はない。
「なんだっておれは最後まで見届けちまったんだ……。おい! 元オモチャたちよ、この男をよく見ろ!!」
屈強な体つきの巨人族が、私たちのそばで死にかけていた長鼻の男を無理やり持ち上げる。
「おれ達の呪いを解いてくれた英雄! その名も――
巨人族が長鼻の男の両腕を掴んだ瞬間、天井が崩れ落ちて眩しい光が差し込んでくる。
「なっ……ウソップさん……なんて神々しいんだ……!!」
「あなた。ただの太陽の光アマスわ」
夫は感激した様子で巨人族に掲げられている長鼻の男を見上げていた。
「
長鼻の男は血を吐きながら口にしたけれど、夫や他の人間たちにはほんの一部しか聞こえなかったらしい。
「『
「あなた。あの男、私たちに悪態をついていたアマスわ」
お披露目が終わり、巨人族が長鼻の男を地面に降ろす。夫は真っ先に駆け寄っていた。
「ひどい怪我だ。大丈夫ですか、ウソップさ…………様」
「天竜人の夫がおれを様付け!?」
「私もこの国に残って戦います。妻と…………貴方のために」
「今の聞いたか? 天竜人の夫君にも敬われているなんて……。あんたは天の使いどころか神そのものなんだな。おれたちを導くのはあんたしかいねェ! 『工場の破壊』と『小せェ仲間達の救出』は任せてくれ、ゴッド・ウソップ!!」
元オモチャたちがそれぞれの拳や武器を掲げて雄叫びを上げる。
「ああ……おれたちはどうしたらいいんだ!? シュガー様は気絶して、トレーボル様も消えてるし、ここには人間に戻っちまった元オモチャばかり…………はっ!!」
頭を抱えていたドフラミンゴの部下たちの前に、元オモチャたちが立ちはだかった。それぞれが拳を鳴らしたり、手に持った武器をトントンと肩に押し当てている。
「よくもおれたちを何年も奴隷のようにこき使ってくれたよなァ」
「おれなんて八年だ。その間に妻は病気で死んでしまった……」
「へ……へへ……。いやァおれたちもドフラミンゴに脅されて、仕方なく」
へらへら笑っていた部下たちは一斉にボコられ、半殺しにされていた。
「ウソップ様。シャロムはどうされましたか。まさか私の言いつけを守らずに逃亡でも?」
「そうじゃねェ……。トンタッタ族が掘っていた穴が小さくて通れなかったんだ。だからフランキーと一緒に、オモチャの家で好きに暴れてもらってる」
夫は驚嘆のため息をつく。
「シャロムが命令の上書きとはいえ、私と妻以外の者の言うことをきくとは。貴方は本当にすごい人ですね」
「いやあのヘビ、噛むのを禁じられてるからって今度はおれの髪をむしり始めて……」
「大丈夫です。シャロムが食べることと攻撃目的以外で人間に触れるのは、かなり気に入っている証ですから。ああ……気に入っていた小動物を、うっかり丸呑みにしていたことはありますが」
「ラースくん。あのヘビの好物は?」
「人間ですね。最近処理させたばかりですので、しばらくは食べないと思います。シャロムは飽き性で同じものを連続では食べないんですよ」
「これっぽっちも大丈夫じゃねェェ!!」
夫は「ウソップ様のその演技、あまりにも板についていて騙されてしまいましたよ」と朗らかに笑う。
「本当にただの雑魚だったら…………どうしようかと」
「こえェよ!! なんだその意味深な
「ウソップ様!?」
「死んだのアマス?」
長鼻の男が、突然血を吐いてガクガクと震え出す。さっきまで騒がしくしていたのが嘘のように、よく見ると全身が血塗れでボロボロだった。
「ウソップ!」
麦わらの一味の……ニコ・ロビンという女。見るからに夫好みの容姿をしていたからよく覚えてる。
走ってこちらまで来た女は、死にかけている長鼻の男の背中に腕を回して抱き起こしていた。
「しっかり! お陰で私も元に戻れたわ。ありがとう」
「……そうだった。ウソップ様のところにはアンタもいたんだったな」
夫は記憶を辿っていきながら呟き、何かを探すように顔を上げる。
「さっき天井が崩れた時、瓦礫と一緒にあのデカい魚が落ちてくるのを見たような……」
「グリーンビットにいた闘魚のことかしら」
「ああ。俺と妻が落ちてきた場所を考えると、まさかここはコロシアムの――」
前方から複数人の悲鳴が上がる。長鼻の男の指示に従い、真っ直ぐ工場へ向かっていた元オモチャたちのものだ。
「ウハハハ! コロシアムから落ちた先で、工場破壊を目論むバカどもを一掃できるとはなァ!! トレーボルの野郎はどこだ。ドフィにシュガーの護衛を任されておきながらなんてザマだ」
上から落ちてきたのは瓦礫や魚だけじゃなかったようだ。
ドフラミンゴの部下と思われる大男が、工場の前で元オモチャたちを次々に仕留めていく。
「ロビンさーん!!」
「コアラ!! サボ! ハックも!」
工場とは別方向から駆けてきたのは、主にコロシアムの参加者らしき者たちだった。
そのうちの一人が勢いよくニコ・ロビンに抱きついた。私たちが地下へ落とされる前、夫を知っている素振りを見せていた革命軍の女だ。
女は顔を上げた際に夫を見つけて破顔したかと思えば、私の存在に気がついて一気に血の気を失う。
「あ…………まさか……天竜、」
いつの間にか夫の広げた腕の内側にいた。
コアラという女の前にも、仲間らしきシルクハットを被った男が立っている。
夫は警戒心に満ちた目で彼らを睨みつけ、シルクハットの男の顔には困惑が混じっていた。
「革命軍か」
「…………話に聞いてたのと随分様子が違うみてェだな」
夫が相手から目を離さず剣の柄に触れる。一触即発の雰囲気にコアラが慌てて止めようとしていたが、その前に地面が大きく揺れ始めた。
私を守るために覆い被さってきた夫の背中に腕を回す。
「これは何アマス、地面が揺れて……」
「……工場だけがせり上がっていく。工場前ではためいてる男の能力なのか?」
トレーボルの行方を気にかけていた男のことだろう。
「大事な工場を動かしてどうするつもりなんだ……。シャルリア、まずはウソップ様を連れて外に出ましょう。シャロムも見つけなければ」
「ええ。……あのシュガーという女も連れて行かれてしまったアマスね」
「しばらくは大丈夫だと思います。あの状態からすぐには……あっ」
夫は罪悪感に塗れた顔になり「ごめん……シャルリア」と謝罪を口にする。
「貴女の言いつけを守れずにあの女に触れられてしまいました……。それに贈っていただいた首輪も……」
「……いいの。首輪があれば、シュガーに触れられた時にあなたの命が危なかったかもしれない。外す時は痛くなかったアマス? それだけが心配アマスわ」
「はい……。少し体は痺れましたが大丈夫でした」
心の底から安堵してため息がこぼれた。
「また新しいのを買ってあげるアマス。あなたが自分の意思で他の女に触れるはずがないもの、次はあのようなものは入れないアマスわ」
まだ浮かない顔をしていた夫が、懐から真っ二つに折れた首輪を出してくる。
思わず首輪と夫の顔を往復してしまった。
「……捨てていなかったのアマス?」
「俺はこの首輪がいいです。これを手直ししてもいいでしょうか。花屋の職人に頼めば、元通りとまではいかなくとも見栄えはよくしてくれると思います」
夫は愛おしそうな、申し訳なさそうな優しい手つきで首輪を撫でる。
「……首輪といい、シュガーのことといい、許されないことばかりしてしまった」
夫のつらい気持ちが痛いほど分かってしまう。許されないことをしてしまったのは、私も同じ。
「触れられたのは私もアマス……。シュガーではなく、そばにいた男に」
「………………えっ」
私が夫の頬を叩いた時以上の静寂に包まれる。夫の間の抜けた声だけが地下にこだましていた。
そこに微かな地面の揺れと共に、私たちも通ってきた例のパイプからネバネバした塊が噴水のように飛び出してくる。
「べっへっへー!! 人間に戻っちまえばこっちのもんだ。んね〜鍵なんかすぐ見つかったぞ、バァ〜カッ!」
夫が唆したシュガーによってオモチャにされた、トレーボルという男だ。
男は下品な笑みと共に、外れた海楼石の錠と鍵を夫の前でチラつかせる。しかし夫は無言かつ無表情でそれを見つめるだけだ。
求めていた反応じゃなかったのか、トレーボルが「んん〜?」と小首を傾げる。
「ごめんなさい、あなた……。私、あの男に体を許してしまったのアマス……」
「体を……?」
純潔を失ったことで愛する夫に嫌われてしまうかもしれない。
言葉にするのも憚られ、何度もつっかえながら口にする。
「わ、私の腕を掴んで……細腕だと……」
「妻の無防備に晒された素肌を無断で目にした挙句、その細さが分かるほどしっかり掴んだ、だと……!?」
夫は「いや待て」と自らに制止をかける。
「おかしいと思ったんだ。俺の妻が下界でその尊い肌を露出するはずがない。……妻はオモチャになる前、試着室で服を脱いでいた。あの場には元々妻が着ていた服が落ちていて、つまり……トレーボル!! お前が見たのは腕どころじゃなく……!?」
「べへへへ〜!! バカかお前はァ〜! 自分の妻をよく見てみろ、無駄に着込んでやがって顔以外見えねェぞ!」
夫が血走った目で振り返ってくる。その目に「本当なのか」と訴えられ、少し泣きそうになりながら首を振る。縦ではなく、横に。
「落とされた時は今着ている服を肩から羽織っていただけだったのアマス……。そこにあの男の粘液に無理やり絡め取られ、それすらもはだけてしまって……」
「トレーボル…………」
血を這うような声だった。
トレーボルだけでなく、長鼻の男や革命軍まで大量の冷や汗をかきながら固まっている。
「よくも……俺の愛しい人を弄んでくれたな」
「べ……へへへ……。弄んだだァ〜? んなくだらねェことで、ブボァッ!!」
私のすぐ目の前にいたはずの夫の姿がかき消え、いつの間にか左頬が腫れ上がったトレーボルが壁にめり込んでいた。
「何も見えない……ッ!? んねーんねー! そんなはずはねェ、おれはドンキホーテファミリー最高幹部! 海賊女帝の弟だかなんだか知らねェが、こんな……ぐふうっ!!」
トレーボルはさらに夫の回し蹴りを受けて、身に纏った粘液ごと
「――――覇気とは意志の力。つまり意志の強さこそが、覇気の強さを決める! 底のない怒りで満ちている今の俺が、お前如きの覇気に劣るわけがないだろうが……!!」
夫は頬に飛び散ったトレーボルの血を手の甲で拭い、もはやまともに動けず手足をピクピクさせている男を見下ろす。
「こんなに怒りを覚えたことはない……。いっそ殺してくれと許しを乞いたくなるほどの生き地獄を味わわせた後、シャロムの餌にしてやるッ!!」