シャルリア宮の第一夫君 作:倉庫から出す
「今回はシャルリアの一番目の夫に見送りをさせたいの。それから、あのコが乗るための奴隷も用意してくれるアマス?」
今日こそはと図書室に向かおうとしたところを強制的に連れ戻されたかと思ったらこれだ。
普段俺とシャルリアの二人で使ってるものとは比べ物にならないほど広いサロンには、すでにシャルリアとティアンナ宮がいた。
「……ティア姉さまったら。お父上様から姉さま好みの奴隷をたくさんいただいていたはずなのに、どれもお気に召さなかったアマス?」
「ええ。昔から私たちは好みが似ていたアマスから。心配しなくても、このコはちゃんとここに返してあげるアマスわ」
このコ、のところでティアンナ宮がこちらを向いたと思ったら、次の瞬間には彼女の付き人たちに両腕を掴まれて囚われの宇宙人状態にされていた。
それよりティアンナ宮ってシャルリアより年上だったのか。チャルロス聖といい、あの顔立ちは逆に年齢が分かりづらい。
明らかに苛立っているのに口元だけは笑っているシャルリアと目が合った。天竜人同士、しかも相手が姉となると、流石のシャルリアも強く出られないらしい。
「たった数時間アマス。ここと私の家を往復するだけだもの。心配ならこのコの付き人を一人置いてやってもいいアマス」
シャルリアが言葉を発する前に、俺の付き人である例の男がぴたりと後ろに立つ。シャルリアが選んだだけあって察しが良く優秀な男だ。
「我儘をきいてくれて嬉しいアマスわ……私の愛しいシャルリア」
扇子の内側で余裕そうな笑みを浮かべているティアンナ宮に対し、シャルリアが先ほどとは違って挑発的な笑みを向けていた。
「私、うっかりしてアマス。姉さまに大切なことを伝え忘れていたのアマス」
「こちらがロズワード聖にご用意いただいた奴隷です」
「なかなかに大きな男だこと。これはシャルリアの一番目に乗らせるアマス」
「畏まりました。それではシャルリア宮の第一夫君、こちらへ」
俺の目の前にはロズワード聖の船長コレクションの一つだという、かなりの大男が立っている。
爪や牙を折られた獣のような痛々しさを感じさせる有様で、奴隷部屋に入ってきた俺たちの存在に萎縮してしまっているようだった。
大男は長い髪を頭頂部で左右に分けて髪飾りで留めており、露出している胸元には特徴的な刺青が彫られている。
船長コレクションなだけあって、服など身につけているものは以前と変わらないらしい。それなりに質の良さそうな毛皮付きのマントは、先が破けて
天竜人と直接目を合わせることは無礼にあたる。
それを身をもって学習しているのか、大男の視線が床の辺りを忙しなく泳ぐ。
「ロズワード伯父様の船長コレクションはいつ見ても魅力的アマスわ。伯父様はこの男をどこで手に入れたアマス?」
「シャボンディ諸島の
「ふうん……。借りるのではなく、くださるようにお願いすれば良かったアマス。このような男を私好みに調教するのが楽しいのに」
よほど気に入ったのか、ティアンナ宮は大男の前で悩ましげな溜息をついていた。
「魚人島に行きたがっていたのなら、その身一つで海に沈めてやるのも一興アマス。運が良ければこの男を餌に人魚や魚人が釣れるかも」
ティアンナ宮の言葉に大男の顔が可哀想なくらい蒼白になった。天竜人なら奴隷に錘をつけてでもやりかねない。
「さあ。お前が鎖を持つのアマス」
「はい」
ティアンナ宮から大男の鎖を受け取る。鎖は男の首輪と繋がっていて、ずっしりとした重さを感じる。
これを日常的に軽々と持ってる天竜人って一体。
天竜人って体格のいい人も多いんだよな。
それなりに身長が高い方だと自負していた俺ですら、ロズワード聖やチャルロス聖を見上げる時は首が痛くなってしまう。女性のシャルリアですら180近くある。ティアンナ宮にいたっては、ほぼ俺と同じかもしれない。
「屈んでいただいても?」
奴隷になってから日が浅いのか、大男は鎖を持つ俺を前にしても視線を床に向けたまま微動だにしない。
俺の言葉にハッとしたように顔を上げていた。
俺の存在を認識した男の両目が大きく見開かれる。
「はっ…………お前、どうして」
何かを言いかけた大男は次の瞬間には床に這いつくばっていた。
「何アマス? 奴隷が主の許可なく言葉を発するなんて」
いつの間にかムチを手にしていたティアンナ宮が、もう一度男の背中にそれを振り下ろす。バシッという鈍い音が何回も鳴り響き、漸く止まったムチからはポタポタと血が滴り落ちていく。
「伯父様の奴隷にしては躾がなってないアマスね」
「この奴隷は近いうちにシャルリア宮にお譲りになられるそうで、躾はほぼ手付かずでしたから」
「……フン。またシャルリアなのアマスか」
ティアンナ宮は吐き捨てるように言う。
そして、床に這いつくばっている大男の手の甲をヒールの高い靴で踏み抜いた。すぐさま上がった大男の絶叫に思わず耳を塞ぐ。
コイツ……体だけじゃなくて声までデカいのかよ!
「まあなんて煩いの。シャルリアに渡す前に舌を抜いておいた方がいいアマス?」
舌を抜いたところで上手く話せなくなるだけで叫び声はそのままな気はするが、そんな無駄口を叩いたら先に俺の舌が抜かれそうなので黙っておく。
そもそも舌って抜けるのか?
結局は千切れるだけなんじゃ……それはそれで残った舌に喉を塞がれて窒息死しそうだな。
大男は血塗れの片手を庇いながらも起き上がり、俺に対して頭を差し出す。
「いけない。汚い血でこのコが汚れてしまうアマスわ」
ムチを付き人に渡したティアンナ宮の一言で、あっという間に大男の体に飛び散った血が拭われ、上から分厚い布を被せられる。ティアンナ宮の靴に踏み抜かれた左手はそのままだった。
付き人の助けを借りて何とか大男の背に乗る。
「奴隷に乗ったことがあるアマス?」
「はい、シャルリア宮と一緒に。一人で乗るのはこれが初めてです」
俺の答えにティアンナ宮は満足げな笑みを浮かべていた。
「ところで、その首輪」
スッとこの間のように扇子の先が俺の首輪に向けられる。
「シャルリア以外の女がお前に触れると爆発するというのは、本当アマスか?」
「……実際に爆発したことはありませんが、以前チャルロス聖の夫人とトラブルが起きた時に警告音が鳴ったことはあります」
こっわ。やっぱこの首輪って爆発するんだ。
さっきシャルリアがティアンナ宮に言い忘れたと言って耳打ちしてたのは、このことだったのか?
ティアンナ宮がここ一番の深い溜息をついた。
「…………私にはちょっとした味見も許されないなんて。やはり生意気な首輪アマスね……」
ティアンナ宮を彼女の住まいにまで送り届ける重大任務は、驚くほどあっさり終わった。
大変だったのは俺を背中に乗せて何時間も地面に手をついて歩かなければならなかった奴隷くらいで、そんな大男が帰り道の途中で気絶したからといって責める気にはなれない。
「そこまでされる必要はありません」
「いえ。彼はロズワード聖の奴隷であり、将来はシャルリア宮の所有物になる人間ですから」
自分の倍以上はありそうな大男を担いで歩くのはなかなかに骨が折れる。昔から腕力には自信があって良かった。
それに別れた時のシャルリアの不安そうな顔を思い出せば、悠長に代わりの奴隷が到着するのを待っていられるはずもない。
やっぱアレだな。トビトビの実を食べた瞬間移動人間になりたさしかない。今となってはジャンプ能力はいらないし。
そんな調子で行きよりもむしろ早いくらいの速さで歩き続け、やっと戻ってこられた。
もちろんシャルリアは真っ先に俺を出迎えてくれた。
俺が抱えていた大男を見て「そんな小汚いものはさっさと捨てて、私を抱きしめてくださいまし」と言ってくれたので、大男のことは適当に放り投げてシャルリアを抱きしめる。
「ティアに何もされなかったアマス?」
「はい。奴隷に乗るコツを教えていただきました」
体を密着させたまま、シャルリアが俺の頬に手を添える。
「やだアマス。私が先に教えたかったのに」
「……でしたら、今日ティアンナ宮とお話した内容は全て忘れることにします」
「ふふ。私の夫は可愛いことを言うアマスね」
可愛いのはシャルリアなんだよなあ。こんなこと言われちゃったらもう、シャルリアと別れてから再会するまでの記憶は全部消してもいいや。
その後も存分にシャルリアとの時間を堪能し、ロズワード聖と二人で出かけるという彼女を見送ってから図書室へと向かった。
「花言葉……グラジオラスの花言葉……あった」
昨夜も軽く目を通した『貴族の常識! 〜花言葉入門〜』を開く。
ピンクのグラジオラスのところには、ティアンナ宮が言っていたように『ひたむきな愛』という言葉が添えられている。
その他にも花の色によって『密会』や『忘却』、『挑発』といった花言葉があるらしい。
「白い花を咲かせるグラジオラスの花言葉は『密会』で、恋人たちが密かに落ち合うための時間や場所を花の数で知らせ……これか?」
でもこれはピンクじゃなくて白のグラジオラスだしなあ。それに、俺とシャルリアは密かに落ち合う必要があるどころか一緒に住んでる。
それでも改まって時間と場所を指定して愛の告白をすることに意味がある?
「黄色のグラジオラスは『愛の招待状』……いかにも貴族が好きそうな花言葉だな」
ページを捲るとグラジオラスの項目はこれで終わりだった。
二冊目の『恋人に贈られたい花とその意味』は昨日のうちに全部目を通してあるからもういいだろう。まだ読めていないのは『ロマンチックで情熱的な夜の誘い方』と、今いる図書室にしか並んでいない本だ。
ソファーから腰を上げ、嘆息をつく。
「…………この中から目的のものを探すのか」
この図書室には、背表紙を眺めるだけでも数日では足りないんじゃないかと思うほどの本が収められている。
シャルリアやロズワード聖などが管理する個人の書斎とは規模からして違うらしいが、俺にはどちらも本がたくさんあるってことしか分からない。
「花に関する本であれば、こちらの植物に関する本が集められている本棚をご確認ください」
「え? ああ……本当だ。棚に書いてあるんですね」
付き人に言われてるまで気づかなかった。
きちんと本棚の側面上部に『天文学』だとか『植物学』といった分類名が記載されている。それなりに規模が大きなところはどこも同じようにしているらしい。さすがに分類名に『下々民』や『奴隷』があるのはマリージョアくらいだろうが。
下々民だった頃から本とは無縁だったせいで、付き人に教えてもらわなければ一つ一つ本棚を確認するところだった。
「貴族の女性への贈り物……恋人同士の交流に関する本はどこにありますか?」
「それでしたら大分類『貴族』にある『交流』という中分類から『恋愛』をお探しください」
「…………分かりました」
そんなよく分からん分類しなくても。植物学ときたら人間学とかさあ……。これも貴族の図書室独自のものなのか? 貴族はただの人間とは違うから人間学には分類されない的な?
脳内のチャルロス聖が「わちし達をただの人間と同じ人間学に一括りにするとは何事だえ〜!?」と猛クレームを入れてきたので、多分合ってる。
とりあえず言われた通りに『貴族』と『交流』の中にある『恋愛』の棚の前に立つ。
その他のジャンルの本もそれなりだが、『貴族』に分類された本はかなりの量だった。その中でも『恋愛』がぶっちぎりで多い。同じ『貴族』の中にある『奴隷』もなかなかのものだ。
多すぎて、これらを分けて管理しておきたかったであろうどこぞの誰かの気持ちも分かる気がする。
「あ、ここにも『ロマンチックで情熱的な夜の誘い方』がある」
貴族の間では有名な本なのかもしれない。この本はすでに持ってるからいいとして、隣の『下々民を妻や夫に迎えた時の本』というタイトルの本を棚から取り出す。
パラパラと中を軽く確認してみる。
「……ほとんど奴隷の扱い方の本じゃね?」
やっぱりシャルリアの俺への接し方は随分と優しいんだな。
そりゃ一般的な奴隷と比べたら天と地の差があるけど。
夫人や夫君はまとめて一つの部屋に閉じ込めておくだとか、天竜人の間でお互いの夫人や夫君を交換して遊ぶだとか、それこそ顔と性器が無事であれば他はどうでもいいとも取れる文章で埋め尽くされている。
捨てる前に性器をちょん切っても楽しいかもね! みたいなコメントで締められてるのも最悪だ。
まあでもシャルリアみたいなタイプがいないわけでもないらしい。女天竜人であれば、犬や猫といった愛玩動物と同じように夫君を可愛がるタイプも珍しくないそうだ。
男に生まれて本当に良かった。今日から犬か猫を自認することにしよう。
ところで、落ち着きのない人間の男は定期的に散歩に連れて行ってあげましょう……って、これまで俺はシャルリアに散歩させられてたってこと?
開いていた本を閉じ、今度は『ロマンチックで情熱的な夜の誘い方』を開く。
俺の知りたいことは載ってなさそうだけど、いかにも明るい内容が書かれていそうなこの本で気分転換がしたい。
「ワノ国の男の粋な夜の誘い方?」
そんなの読みたすぎる。ワノ国ってサムライとかニンジャとか……。どちらかと言うと硬派な男が多いことで有名だけど、どうやって誘うんだ?
意気揚々と読み進めていった俺は、「愛の言葉を書き綴って贈る」の文字を見た途端に萎えてしまった。
ワノ国の男は二度と硬派を名乗らないでほしい。
でもワノ国の身分が高い人たちが綴った愛の言葉に「会う」があればほぼイコールで「セックスしましょう」になるのは興味深かった。
恋愛関係にある男女がわざわざ手紙を用いて会う約束をしたからには、実際に会ってやることは一つしかない。そういうことだろう。
やっぱりワノ国の男には硬派を名乗らないでいただきたい。
「こっちは天竜人限定か。お互いの天に向かって伸びる髪の先端を合わせ……ストレートすぎない?」
天竜人同士にしかできないセックスアピールに苦笑いが浮かぶ。
直接的すぎて男はともかく女は嫌がるんじゃないかと思いながら読み進めていたら案の定、これはかなり古風な誘い方らしく「現代の女性にやるのは非推奨」とも書かれていた。
世界貴族にもこういうジェネレーションギャップってあるんだな。
「他には、神の泉の前で愛の告白……どこだそれ。次は、二人の時間を決めるグラジオラスの……グラジオラスの花束っ!?」
思わずその場で叫んでしまい、離れたところに立っていた付き人の男が本棚の隙間からひょこっと顔を出してきた。何もないから引っ込んでほしい。
ドキドキと高鳴る胸を手で押さえながら、もう片方の手で次のページに進む。
「かつて茎から外したグラジオラスの花をカゴに入れ、その数によって恋人に密会の時間や場所を知らせる風習があった。……これはさっき読んだ本にも似たようなのが書いてあったな。しかもこれ、花束じゃなくて花だけ毟り取ってるのか」
グラジオラスは一つの茎に十四前後の花を咲かせる。
俺はシャルリアが受け取ってくれたあの一本のグラジオラスに、いくつの花が咲いていたか覚えていない。もし花束じゃなくて花一つ一つを数えなければならないとしたらその時点で詰んでることになるけど……。
あの日シャルリアは「この一輪だけ」と言った。だからきっと、俺が彼女に渡すべきは花束であるはずなんだ。
「当時グラジオラスは希少で高価であり、庶民が気軽に手に入れられる花ではなかった。だからこそ庶民が一夜限りの夢の為、自分より身分の高い者にこの花を贈ることに大きな意味があった」
……へぇ。あの花に込められた身分違いの恋ってここから来てるのかな。
庶民が身を切って背伸びをしても届かないかもしれない高嶺の花。
昔の人は空に向かって真っ直ぐ伸びるグラジオラスの花にそんな健気な心を見たのかもしれない。
次のページを捲ると、グラジオラスの花束を持つ男のイラストが添えられていた。
「――ある貧しい男がいた。男は分不相応にも身分違いの女に叶わぬ恋をしていた。男は祖父の代からある家や家具を売り払い、土地すらも手放して出来たお金でグラジオラスの花束を購入し、想い人に贈った」
次のページには花束を手にした女性の挿絵があった。
「女は、いつも二人が会う時間の数だけ束ねられた花束を受け取り……」
どうしよう。ものすごくこれっぽい。これっぽいのに、俺とシャルリアには「二人が会う定番の時間」なんてものは存在しない。
「結局シャルリアに何本のグラジオラスを贈ればいいんだ……?」
余計に絶望が深まったところで、急に閃くものがあった。
「あっ」
開いていた本を閉じ、ここに来るまでに何度も目にしていたタイトルを見つめる。
「そうか、『ロマンチックで情熱的な夜の誘い方』だ」
夕方。ロズワード聖との外出から戻ってきたシャルリアは、かなりのご機嫌だった。
「お父上様が、マリージョアで最も質のいいペットを取り扱ってる店で好きなものを買っていいと仰ったの」
軽めのティータイムを済ませ、いつもなら夕食まで寝室でまったり過ごすところを、初めて俺の方からシャルリアを庭園の散歩に誘った。
昼と比べたら暑さは随分とやわらぎ、むしろ少し肌寒いほど。
隣を歩いているシャルリアが自分の手のひらで腕を温める仕草をしたので、すでに付き人が用意していた上着を肩にかけてやった。
「犬の名前は決めてあるのですか?」
「まだアマス。こういうのは、どのコにするか決めてからではないと」
元下々民である俺を可愛がってくれているシャルリアのことだ。きちんとした名前を付けたいんだろう。
……あー、本物の犬にまで嫉妬しそうな自分が恐ろしい。
俺なんてマリージョアに来てから一度も呼ばれていないせいで、そろそろ自分の名前すら忘れそうになってるってのに。ポッと出の可愛い犬とやらはシャルリアに名前まで付けてもらえるとか羨ましすぎる。
俺の名前が下々民のものだから呼んでもらえないんだとしたら、今からでも新しいのを付けてくれないかな。いっそイヌでもサルでもいいからさ。
悶々と考え込んでいる俺の顔をシャルリアが覗き込んでくる。珍しく、少し意地悪な笑みを浮かべて。
「それで、私の可愛い夫はここで何をするつもりだったアマスか?」
「…………敵わないですね」
まあそりゃそうか。急に庭園を歩きませんかと誘われたら誰だって嫌でも気がつく。
あの本をわざわざ寝室の本棚に置いたシャルリアは全てお見通しなんだろう。
「こちらへ」
差し出した手はいつものように握られる。
シャルリアの白くて柔らかな手を握りつぶさないように優しく指で包み、庭園の奥へ進んでいく。
「グラジオラスの花アマスね」
「我儘を言ってこの一角に集めてもらいました」
これまでは景観のためか、庭園に植えられている花たちはある程度色ごとに分けられていた。
それが今はこの一箇所だけ、庭園にあるすべてのグラジオラスの花が集められている。
この花は俺自身だ。天に向かって精一杯の背伸びをして、全てを捨てても手に入るかも分からないものに心を焦がしている。
シャルリアの前で片膝をつき、彼女の右手の甲に口付ける。
「――――シャルリア宮。貴女のことをお慕いしております。これが分不相応な感情だということは十分承知しています」
「……自分が何を差し出すべきか分かっているアマスか」
「はい。シャボンディ諸島で貴女の夫となったあの日から、私が差し出せるものはこの身ひとつだけ」
シャルリアの手に向けていた顔を上げる。
最後の最後まで予想できなかったシャルリアの表情は、何とも形容し難い複雑なものだった。
予め付き人に持たせていた花束を受け取り、シャルリアに差し出す。全てがシャルリアの誕生花であるピンクに染まったグラジオラスだ。
拍子抜けするほど、シャルリアはあっさりそれを受け取ってくれた。
綺麗な花を咲かせるそれらに顔を近づけて目を伏せる。彼女の長い睫毛が花びらにかかる光景は、これまで見てきた何よりも美しいと感じた。
「これはいくつあるアマス?」
「……二十二本です」
俺たちが眠る時間は二十三時だと決まっている。
この時間になれば俺は強制的に薬で眠らされ、シャルリアとの時間に終わりを告げなければならない。
すでにシャルリアが持っている一本と合わせて、グラジオラスは二十三本。
この時間に会いたいと伝えることは、シャルリアと過ごす夜を請う行為に等しい。
あの本に載っていたワノ国の男たちが文にしたためたのと同じだ。ある意味では直球的すぎる、「あなたが欲しい」という意思表示。
俺とシャルリアは、一般的な恋人達が踏むような段階をすべてすっ飛ばしてここまできてしまった。
出会ったその日に一方的な婚姻関係を結び、明確な愛の言葉を囁き合ったことすらない。
これまでは手探り状態でもなんとかなったが、この先はそうはいかない。
今だけでいい。将来を約束するものでなくていい。
今の俺たちが先に進むのに、お互いの胸の内を明かす行為は必要不可欠だった。
暫くは沈黙が続いた。
庭園の草花を揺らす微かな風が吹き抜けていき、この瞬間が永遠にも感じられるようになった頃、グラジオラスの花に頬を寄せていたシャルリアの唇が震える。
「いいアマスわ」
シャルリアはたった一言、それだけを口にした。
いつもより念入りに風呂で体を磨き、いつもは適当なタイミングで脱ぎ捨てているバスローブをきちんと身につけて寝室のベッドの上で正座している俺は、どこからどう見ても飼い主に「待て」を言い渡されている犬そのものだった。
俺は子供返りならぬ童貞返りをしたのかもしれない。
本当に童貞だった時ですらここまでの緊張はなかった気がする。
……本当にアレで合ってたのか?
今更思い悩んだところで無意味なのは分かってる。
もし間違っていたのなら、これから寝室にやってくるのはシャルリアではなく衛兵だろう。良くて奴隷堕ち、悪くてこの場で射殺。
余計にドキドキしてきた胸を押さえる。
シャルリアなら天国、衛兵なら地獄、シャルリアなら――――
「失礼いたします」
数回のノックののちに寝室に入ってきたのはシャルリアではなかったが、衛兵でもない。俺の付き人だった。
彼は俺が正座しているベッドの前まで歩いてきて、恭しいお辞儀をする。
「第一夫君。シャルリア宮が寝室でお待ちになっております」
言われてみれば、俺がずっと使っているあの部屋は夫婦の寝室と呼ばれるもの。シャルリアには彼女だけが使う寝室があって当然だった。
シャルリアが外泊している日以外はほとんどあの部屋で一緒に過ごしているせいで、そんな当たり前のことに気がつかなかった。
前を歩く付き人の後ろを、一定の距離をあけてついていく。
付き人は俺の寝室から五分ほど歩いた先にある部屋の前で立ち止まる。
「こちらです」
付き人はこの扉の先には入れない。許されているのは、シャルリアの夫である俺だけだ。
扉は軽く力を入れるだけで開いた。
部屋の中は薄暗く、俺の寝室と同じようにいくつかの常夜灯が部屋全体を薄ぼんやりと照らしている。
もう自分の心臓の音で周りの音が何も聞こえない。
微かな明かりを頼りに、部屋の奥にあるベッドまで歩く。
「…………シャルリア宮?」
ベッドの中にいるはずなのに答えは返ってこない。
ベッド全体は天蓋で覆われており、まるで卵の殻のようだと思った。天蓋には薄いレースが使われていて、外からでは中の様子が影でしか確認できない。
シャルリアと思わしき影は身じろぎ一つせず、ベッド中央に腰掛けているようだった。
……これは、俺が勝手にあけてもいいんだろうか。
頭ではそんなことを考えながら、すでに右手は誘われるように天蓋に触れていた。
――いつだったか。
仕方なく参列した誰かの結婚式で、花嫁のヴェールを上げていた花婿の姿を思い出した。
その時隣に座っていた女の言葉と一緒に。
花嫁の身を守るヴェールを上げることは、この先降り注ぐあらゆる災いから花嫁を守る誓いであり、愛し合う二人が本当の意味で一つになった証明でもあるのだと。
迷いなく天蓋に差し込んだ手を横にズラす。
開かれた世界の隙間で、シャルリアの姿を見た。
いつものあらゆるところが透けているネグリジェ姿じゃない。
花嫁衣装を彷彿とさせる真っ白な着物のような服に身を包んだシャルリアは、ここまで露出部分が少ないというのに、いつも以上に艶やかだった。
「遅かったアマスね」
「…………申し訳ありません」
恐ろしいほど妖艶に微笑まれて、やっとのことで謝罪の言葉を口にする。
視線だけで促され、彼女のそばに寄るためにベッドに手と膝をつく。ついに触れられる距離にまできたシャルリアの胸元に下された髪はまだ少し湿っていて、ほのかにシャンプーの匂いがする。
彼女を構成する全てが美しく、その存在自体が奇跡のようだ。
これまでに何度も顔を合わせるどころか同じベッドで眠ってきたというのに。まるでこの瞬間に一目惚れでもしてしまったかのように、いつまで経っても目の前の女性に奪われた心が戻ってこない。
魅惑的というよりは、
シャルリアが俺の手を掴んで自分の腰辺りに引き寄せる。
俺の指はシャルリアの動きに合わせて彼女のくびれを掠めるように撫でていき、やがて薄い布越しに豊かな太腿に触れた。
反射的に飛び退こうとしたのに。俺をみるシャルリアの瞳に囚われて動けない。
「…………今夜は、」
俺の手を掴んでいるものとは逆の手が、つつ、と俺の胸元を滑るように弄んでいった。
「私のすべてに触れる許可を与えてあげる」