シャルリア宮の第一夫君 作:倉庫から出す
すごくよかった。
お前あそこまで大仰にやっておいてそれしか言えないのかよって感じだけど、マジでよかった。
俺の左腕に頭をのせているシャルリアを右腕で引き寄せ、少し乱れた髪にキスを落とす。擽ったそうに身じろぎするシャルリアが愛おしい。
これまでなら賢者タイムがきて無の境地に陥ってるタイミングなのにそれすらもない。
……そんなわけであともう少しだけ、やりたかったんだけど。シャルリアの体への負担を考えると今日はここまでにしておいた方がよさそうだ。
これが最初で最後の可能性もあるわけだし、今のうちに存分にシャルリアに触れていこう。
なんてったって、今夜はシャルリアの全てに触れる許可をもらってるんだからな!
「ん?」
次は頬に唇を寄せようと思っていたら、シャルリアの体をホールドするように被せていた右腕を押しのけられる。ものすごい力だった。
油断していたとはいえ俺の右腕はそのままベッドに縫い付けるように押し付けられ、頭上にクエスチョンマークを浮かべている間に完全に形勢が逆転してしまっていた。
「こうなることは予想していなかったアマス?」
俺の腹の上に乗ったシャルリアは、罠にかかった獲物を見るような目でこちらを見下ろしていた。
あんな俺に都合のいいことがあっていいんですか?
俺が主導権を握っていた時のシャルリアは、ひたすら綺麗ですごく悪いことをしている気分にすらなったのに。
主導権は握っていたのではなく握らされていたのだと気づいてからのシャルリアは、最初から最後まで……えっちだった。
何だあれ。ここにきて新しい扉が開くなんて聞いてない。いや元々女の尻に敷かれたいタイプの下々民だったから、素質がありすぎたのかもしれない。
漸くやって来た賢者タイムに放心状態になっていたら、俺の腕の中で丸くなっていたシャルリアが熱を求めるように擦り寄ってきた。さっきまではむしろ暑いくらいだったけど、汗が引いたせいか肌寒さすら感じる。
重だるい体を引きずるようにして足元の上掛けを手繰り寄せ、自分とシャルリアの体を隠すように被せた。
なんていうかこれ、幸せの縮図って感じだな。
身も心も満たされた上に、愛しい人が腕の中で眠っている。この先俺の人生がどれだけ続くかは分からないけど、これ以上の幸福はもう二度とやってこない気がしてくるなあ。賢者タイム乙。
シャルリアが眠っているのをいいことにぎゅっと甘えるように抱きしめる。
明日からはまた強制的に体を眠らせる薬を投与される生活に戻るんだろうか。
シャルリアは「今夜は」って言ってたから、本当にこれが最初で最後になるかもしれない。
……ところで、もしこれが最後でなかったとして、今後シャルリアに夜を請うたびにグラジオラスの花束を渡すことになるんだろうか?
それだけでシャルリアの夜をもらえるなら、あらゆる手を使ってでもあの花を手に入れそうな自分が怖い。庭にあるやつがなくなったらどうしよう。シャルリアとシャボンディ諸島を散歩してる時にでもこっそり買えたりしないかな。
ああでも、今の俺は金を持ってないから誰かから強奪することになるのか。まあシャルリアとの夜のためならそれも仕方ないよな。
いや、天竜人の夫の立場にある人間がそんなことをしたらシャルリアが他の天竜人に嗤われてしまうか? 事前に付き人にお願いしておけば用意してくれるかもしれない。シャルリアにはバレそうだけどそんなの今更だし。
なんてことを悶々と考えているうちに、すっかり眠りの世界に旅立ってしまった。
「この後は
全ての意識を集中させてシャルリアの髪の泡を洗い流していた俺に、彼女の機嫌の良さそうな声が届く。
シャルリア専用の浴室はかなり広く、贅の限りを尽くした造りをしていた。
「ロズワード聖もご一緒にですか?」
「私とあなたの二人だけアマス」
「…………分かりました」
昨日の夜からシャルリアが俺のことを「あなた」と呼ぶタイミングがあるようだが、これまでの「私の可愛い夫」や「私の一番目」と比べるとどうにも降格した感が拭えない。
どうして急に余所余所しくなったんだろう。呼ばれるたびにそわそわして仕方がない。まだ前者の「私の可愛い夫」は健在っぽいのが唯一の救いだ。
少しずつ暑くなってきた今の季節に合わせてなのか、爽やかな柑橘系の香りがするボディーソープを手にとる。それを専用のタオルできめ細かくなるまで泡立て、シャルリアの透き通った肌に滑らせていく。
あんなに自分中心の人生を送ってきた俺が他人の髪や体を嬉々として洗ってるだなんて、昔の俺が知ったらドン引きするだろうな。
こうすれば待遇が良くなるだろうとか、そういった打算抜きで誰かの世話をするのが楽しいなんて思ったのは初めてだ。
この後の髪を乾かす役目も俺にさせてくれないかなーと思いながらシャルリアの体を隅々まで洗い、先ほどのようにちょうど良い温度のお湯で泡を洗い流す。
さて、シャルリアが湯に浸かってる間に俺も自分の体を洗ってしまおう。
シャルリアの浴室にはシャンプーだけで何種類も置いてある。俺が使っていいのはどれだろうと悩んでいたら、右手に持っていたシャワーヘッドをシャルリアが持っていってしまった。
彼女はバスチェアに腰掛けている俺を見下ろし、指を俺の横髪と耳の間に滑り込ませてくる。そして不思議そうに首を傾げた。
「私には洗わせてくださらないの?」
シャルリアには髪どころか全身を洗ってもらった。本当にこんな俺に都合のいいことが二度もあっていいんですか?
前から思ってたけど、シャルリアって結構世話好きだ。
浴室を出てからはなんと俺の髪まで乾かしてくれた。シャルリアの手つきがあまりにも気持ちよくて、眠くないはずなのにうとうとしそうになってしまったほど。
シャルリアの髪は色々手入れの工程があるために複数人のメイドが担当していて、俺は見ていることしかできなかった。あれはプロの技すぎる。俺が分裂しても出来そうにない。
その後は支度を終えたシャルリアと軽めの朝食を済ませてから外に出た。
「あそこアマス」
一応奴隷を連れてはいるが、それほど距離がないこともあってシャルリアのことは俺が終始抱き上げた状態での移動だった。
腕の中のシャルリアが指差した店の前で立ち止まり、彼女を地面に降ろす。
店の看板名は『聖なる
「これはこれは……シャルリア宮! 本日はどの犬をご所望でしょうか」
「私や夫と相性のいいコが欲しいアマス」
シャルリアの言葉に店主は驚いたような顔で俺を見たが、すぐに気を取り直して「それではご案内いたします」と店の奥へ続く扉を開いた。
ここでは血統はもちろん、躾が行き届いている優秀な犬のみを扱っている。貴族に所有される前提だからか、どの犬もその辺の人間より大切にされているようだった。
「どのコも吠えないアマスね」
「はい。こんなにじっくり犬を見られたのは初めてです」
試しに手を伸ばしてみたらどの犬も小刻みに震え出したので、触れることは叶ってない。
最初は怯えているのかと思ったが、これまでに出会ってきた犬同様、俺の存在が心底気に入らないようだった。
それでも吠えないのは大したものだ。おかげで持たされてる銃を出さずに済んでる。
「これで最後アマス?」
「今すぐお出しできる犬はここにいるもので全てです」
シャルリアはピンとくる犬には出会えていないらしく、少しずつその表情が曇っていく。あれだけ楽しみにしていた分、落胆が大きいんだろう。
普段彼女の買い物に俺が口を挟むことはないが、今回ばかりは大目に見てもらえるだろうと店主に声をかける。
「今すぐ出せる犬ということは、ここにはまだ躾途中の犬がいるのですね」
「は……はい。その通りです。何か失礼があってはいけませんので、普段から部屋を分けております」
まさか俺に話しかけられるとは思ってなかったんだろう。店主は俺とシャルリアをチラチラと交互に見て、シャルリアが何のリアクションも起こさないことを確認してから答えてくれた。
「では、その犬のうち最低限の躾が済んでいるものを見せてください。……シャルリア宮、それでも構いませんか?」
隣で俺の腕に自分のものを絡ませていたシャルリアは、満足そうに笑って頭をこちらへ寄りかからせる。
「ええ。夫の言う通りに」
「すぐにご用意させていただきます!」
店主はその言葉通りあっという間に準備を済ませて俺たちを別室に案内してくれた。
先ほどの部屋と比べれば随分狭いものの、ここにいる犬の数を考えれば妥当に見える。
店主によればこの部屋の犬は吠えたり噛みつくことは滅多にないが、性格に難があり矯正の途中なのだという。
犬の性格に難があるってどういうことだろう。そんな疑問は実際にこの目で見て納得した。
「申し訳ありません…………」
シャルリアの差し出した手をチラ見だけしてケージの隅で丸くなってしまった犬に、店主が「こうなるから嫌だったんだ」と言わんばかりに頭を抱えている。
最初の部屋の犬たちはどれも愛嬌があり、シャルリアを目にした途端に嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってきたものだが、ここにいる犬たちは我関せずといった様子でリラックスしている。
これもまた犬の自然な姿とはいえ、気難しい貴族相手の商売では、犬にもそれなりの愛想が求められるんだろう。
「…………可愛いですね、犬って」
なんとここの犬、俺が近づいても怒りで震えるどころか完全に無視だ。鼻に皺が寄っていない犬も初めて見た。
遠目で見てる分には可愛かったのに、近づくとイマイチだったのは表情のせいだったんだな。
「ふふっ」
犬の様子に感激している俺が可笑しいのか、シャルリアが随分やわらいだ様子で笑っていた。
「気に入ったアマスわ。ここにいる犬から選ぶアマス」
びっくり仰天という言葉がぴったりな反応をしている店主など気に留めず、シャルリアはあるケージに目を向けて驚いたような声を上げる。
「とても可愛い」
あのシャルリアが「とても」を付けるのは珍しいな、と思いながら俺もケージの中を覗き込む。
そこにいた犬も例に漏れず太々しい態度をしていたが、何とも独特な姿形をしていた。
どことなくチャルロス聖に似ている気がしないでもない顔に、クッションの上に座っている状態でも分かるスラッと伸びた長い足。
顔全体がチャルロス聖に似てるかって言われるとそうでもないんだけど……そうか、目元が似てるんだ。この円らなのに感情が読み取りにくく、そのくせ邪気は一切感じられない瞳。
俺が何かとチャルロス聖を避けて過ごしてるのも、あの目にじっと見つめられるのが苦手だからだったりする。
正直この時点で勘弁してほしかった。でもシャルリアの手前「可愛いですね」としか言えない自分が恨めしい。
「よろしければ抱っこされますか? 大人しい子ですから、さらに気にいっていただけると思いますよ」
店主、余計なことを。
俺に睨まれた店主は何を勘違いしたのか引き攣った笑みで「シャルリア宮のご夫君もぜひ」と促してくる。
「先にあなたがこのコを抱っこしてみせて」
「……やってみます」
抱っこするどころか撫でさせてくれるかどうか。店員によってケージから出された犬に恐る恐る手を伸ばしてみる。
俺の指が今にも触れそうな位置にまできても目の前の犬は吠えない。それどころか、くわぁっと気の抜けた欠伸をする始末。
…………コイツ、なんだか可愛いな。
認めたくない感情に苦悶の表情を浮かべる俺の腕に、トンッと軽い衝撃がきた。
「まあ。私の夫が気に入ったアマス?」
もう少しで触れられるはずだった犬が、俺の手のひらを尻に敷いた挙句、どっしりと体全体をこちら側にもたれさせていた。大人しいというか態度がデカすぎる。
短めの体毛は意外と柔らかくて触れても痛くない。無性にさわさわしたくなる魔性の毛だった。
勝手に尻置きにされた手とは逆の手を犬の胸元に差し込めば、やはり抵抗一つされずに抱き上げることができた。こんなに小さいのに触れている部分はとても温かい。
俺の腕の中で大人しくしている犬の鼻先に、シャルリアがつんっと指で触れる。
「なんて可愛いの。このコにするアマスわ」
「ありがとうございます! すぐに手続きをさせていただきます」
俺から犬を受け取ったシャルリアは、犬の頭を撫でながらこちらに笑みを向ける。
「このコにぴったりな名前を決めてくださいませ」
「俺が付けてもいいのですか?」
「あなたがいいの」
キッパリと言われてしまっては断れない。でも自分にネーミングセンスがあるとも思えない。
シャルリアの所有物となった犬に妙な名前を付けてしまった暁には、あのロズワード聖に射殺されるんじゃないか? この犬、一応あの人からの贈り物ってことになってるし。
悶々と考え込んでいた俺の隣で、犬がシャルリアの顔を長い舌で舐めていた。
「ふ、擽ったいアマスわ」
犬に顔を舐められるのは下々民ですら嫌がることが多いのに。……この犬、なんて羨ましいんだ。
俺はもう二度とシャルリアにまともに触れられないかもしれないのに、この犬はこの先一生シャルリアを舐め放題ってこと? そんなのおかしいだろ!
俺は一度も名前を呼んでもらえないから、いっそイヌでもサルでもいいって謙虚な願いを持ち続けてるんだぞ!
「名前は決まったアマス?」
「はい。サルでいいと思います」
「サルウ、このコらしくて可愛い名前アマスね」
「…………そうですね」
シャルリアの腕の中でハッハッと息を荒くしていた犬は、返事をするかのように再度彼女の頬を舐めた。
サルウを飼うようになってからというもの、俺の毎日のタスクに犬の散歩が追加されるようになってしまった。
本来サルウの世話は使用人たちの役目だ。
あの犬は天竜人と俺以外の人間を木か草とでも認識しているのか、容赦なく足に尿や糞を放とうとするので、散歩くらいは率先してやるようにしている。
庭園にはサルウ専用の散歩コースが設けられ、下界での散歩にはシャルリアや俺と同じように頭にシャボンまでつけられており、何とも王族のような扱いを受けているようだった。
「世界政府に宣戦布告?」
マリージョアで暮らすようになってから、ここに流れてくる情報にかなり偏りがあることに気がついた。
とくに世界情勢。戦争や貧困、経済の低迷。そういった情報は自分で探さない限り滅多に流れてこないのに、マリージョアやシャボンディ諸島に新しくできた流行りの店だとか、とある天竜人の武勇伝だとか、そういったものばかりが新聞の記事になっている。
俺が今読んでいるのは、世界経済新聞――世経の一面を飾るほどの大事件。この会社の新聞が俺とシャルリアの寝室にあること自体が珍しい。それほどの事件ということだろう。
「海賊がエニエス・ロビーにて政府の旗を撃ち抜いて宣戦布告……島は火の海」
聞いたことのない海賊団だった。シャボンディ諸島で暮らしていた頃はそれなりに新聞に目を通していた俺でも知らないってことは、この一年の間に台頭してきた海賊か?
新聞には事件が起こる前の手配書が挟まれていて、満面の笑みで映る少年にはやはり見覚えがない。じっくり見ると俺と同じくらいに見えるのに、この屈託のない笑顔のせいか随分幼く見えた。
それにしても外は随分と騒がしくなっていて楽しそうだな。
結局は刺激よりも安定だとシャボンディ諸島では堅実に生きていたが、もしあそこでの暮らしに飽きたら適当な海賊船にでも乗せてもらおうと思っていた。一度くらいは魚人島に行ってみたいし、人魚にも会ってみたい。まあ昔の俺が人魚に会いたかったのは美人が多いって聞いてたからだけど。
新聞記事で目についた『革命』という文字に目を細める。
ああ、そういえば革命軍の動きも注視していたんだった。いつか彼らのような存在が世界政府が支配するこの世界をひっくり返してくれたら、それこそ退屈とは無縁の……。
「庭園ではなくここにいたアマスね」
「シャルリア宮」
いつもならこの時間は庭園でサルウと一緒に光合成してるからか、無駄足を踏ませてしまったようだ。
寝室に入ってきたシャルリアが俺の手元を覗き込んでくる。
「何か気になるものがあったアマス?」
「この記事を読んでいました」
「司法の塔の。まったく下々民はおバカな生き物アマス」
すでにこの新聞に目を通していたらしいシャルリアが憎々しげに呟く。予想通りの反応に静観していたら、急に彼女の表情が曇った。
「……あなたは違うアマス」
絞り出したような言葉に、手に持っていた新聞を床に落としてしまった。
シャルリアの下々民に対するこのような発言は何度もあったし、その下々民に今の俺は含まれていないことは理解している。そのことを彼女自身分かっていたはずだ。
つまり、この「あなたは違う」の意味は。
「私たちに仇なす存在が私の『所有物』を『解放』することがあったとしても、私から離れることは許さないアマス」
今回の海賊による世界政府への宣戦布告という大事件に触発されたのか、新聞には各国で革命の動きが強まっているという文字が添えられていた。
革命とは、すなわち下剋上。
革命が成功して世界政府という巨大勢力が彼らの前にひれ伏すということは、天竜人の地位が失墜することを意味する。
天竜人が権力を失えば奴隷たちを縛る鎖も解かれる。容赦なく踏みつけられてきた彼らは、怒りを力に変えて天竜人に牙を向けるだろう。
一歩足を踏み出したシャルリアが、先ほど俺が床に落とした新聞をぐしゃっと踏みつける。その両手は俺の頬に伸ばされ、彼女以外を視界に入れることすら許されない。
こんなにも不安そうなシャルリアは見たことがない。
この新聞を読んで、当時の俺だったら心を躍らせていただろうなどと愚かなことを考えていたことを悟られたか?
人の感情は不変ではない。どのような形であれ必ず移ろっていくものだ。とくに俺のような人間にとっては。
「……貴女が望んでくださる限り、お側を離れないと約束します」
俺が俺自身のことで他人に誇れる部分があるとすれば、誰かと交わした約束を反故にしたことは一度もない。それくらいのものだった。
過去の自分が約束を持ち出すほど重視していた物事を、未来の俺が無視することはできないと知っているから。
少し震えているシャルリアを腕の中に閉じ込める。
あれほど待ち望んでいた革命も、今となっては煩わしい以外の何物でもなかった。
「今日は庭を歩きたいの」
「もう庭園の改修工事は終わったのですか?」
「ええ。噴水のそばでお昼にするアマス」
今日は久しぶりにサルウ抜きでの時間をシャルリアとのんびり過ごせそうだった。
「シャルリア、手を」
嬉しそうに差し出された手を握る。
二人でいる時は彼女のことを名前で呼ぶことが増えた。今のところ怒られていないのでそのままにしている。
ここ最近のシャルリアは元々大人っぽく魅力的だった容姿にさらに磨きがかかっていた。そのあまりの美しさにうっかり頭を下げることを忘れ、射殺される下々民が増えてきたほどだった。
シャルリアの手を引いたまま寝室を出て、長い廊下を歩く。
久しぶりに庭園の奥へ足を運んでみたら、何もかもが変わっていた。
とにかく景観が美しいエリアに加えて、謎に食人花がゴロゴロいる物騒なエリアがある。後者はチャルロス聖の趣味かと思いきやシャルリアの要望らしく「いらなくなった奴隷をここで処分するのアマス」などと恐ろしいことを言っていた。
ちなみに、うっかり近づきすぎた庭師が一人食われてるらしい。
シャルリアには正直に食人花は怖いと伝え、そっちのエリアには行かないことにした。
「頬が切れてアマス」
シャルリアを抱き上げたまま庭園を散歩していたら、一際成長が速い葉っぱが俺の頬を傷つけたらしい。シャルリアは気遣わしげな眼差しを向けてきて、切り傷の周辺を指でなぞるような動作をする。
「こちらも見せて」
言われた通りに逆側の頬も見せる。そちらは問題なかったらしい。最後に両手で俺の頬を包み込んだシャルリアは、顔ごと自分の方へ向けさせた。
暫く見つめあった俺たちは、どちらともなく目を閉じる。ややあって唇に降ってくる、すっかり慣れ親しんでしまった感触。流れるように差し出された舌をゆっくり絡めとり、自分のものを裏側に這わせた。
……最近、かなり大胆になってきたな。そのくせ毎回恥じらいの表情を見せるのだから、こちらとしてはギャップでどうにかなりそうになってしまう。
シャルリアが声を我慢できなくなったタイミングで止める。物足りない顔をされたけど気づいていないフリで散歩を再開した。
寝室ならまだしも外でそういう雰囲気になるのはマズい。健全な男の性欲を舐めないでいただきたい。
なんだかんだシャルリアとの初めての夜以降も頻繁にそういった機会を与えられてるとはいえ、こういうのは無限大なんだよ。
「そこの花をとってくださいまし」
機嫌を直したシャルリアが指差した花を手折り、彼女の手のひらにのせてやった。
「きれい」
残酷なことを平気でやってのける人ではあるけど、こういうところは下々民と変わらない。むしろ、俺の知る誰よりも純粋で美しい。
「寝室に飾るのアマス」
愛おしそうに花を胸元で抱きしめるシャルリアを見つめながら、彼女が満足するまでゆっくり庭を歩いて回った。
「サルウ。一人……いや一匹だけで先を行くなって言ってるだろ」
その垂れた耳のせいでこちらの声が聞こえていないのかと思うくらいには、サルウはマイペースな犬だった。
日が落ちてきて涼しい時間帯を狙い、犬の散歩に繰り出す日々。
そんなサルウの首には昨日までシャルリアの叔父、つまりはティアンナ宮の父親から贈られた首輪がついていたのだが、サルウが頻繁に首輪の裏を爪でカリカリするので「きっと気に入らないのアマス」と早々にシャルリアによって外されてしまっていた。
数日前にシャルリアが選んだ犬用の服を半日でボロボロにしたことといい、この犬はあまりにも甘やかされてる。
長い前足と後ろ足を使ってタタタッと軽い足取りで進んでいこうとするサルウを抱き上げ、顔を舐められないように頭を後ろに逸らす。案の定、サルウの出した舌は空振りして数滴の唾液だけがとんでくる。
エアー顔舐めだったのに尻尾はブンブンと左右に振られていて実に嬉しそうだった。
「垂れ耳だと健康面でいくつかリスクがあるって本にあったけど……。念の為シャルリアに相談しておくか」
サルウを迎える際に犬関連の本にはある程度目を通してある。サルウの耳をパタパタと指で上げ下げしても、状態が良いのか悪いのか俺のような素人には判断がつかない。
人間と違って犬は話せないから俺が気づいてやらなきゃな。
「本当に聞こえてないわけじゃな……うわっ、だから舐めるなって言ってるだろ!」
俺がサルウの耳を覗き込もうとしたのを顔舐めチャンスだと思ったらしい。全力で舐められてしまい、頬と顎をベタベタにされてしまった。
「はぁー…………」
サルウを腕に抱いたまま背中から後ろに倒れる。
サルウ用の散歩コースには全面に芝生が張られているから横になっても痛くない。むしろどんな高級な芝草なんだと思うくらいふかふかだ。
そのまま両手を広げて大の字になる。今度は俺の左手にじゃれついてくるサルウの顎下を指で撫でてやれば、甘えるように擦り寄ってきた。
「……俺もお前も今日はお留守番だな」
不思議そうに見つめ返してくる目に、思わず苦笑いが浮かぶ。まさか自分が犬にずっと話しかけるタイプの人間になるとは思わなかった。堅苦しい敬語もどきを使わなくてもいい存在に飢えていたのかもしれない。
「シャルリアまだかなー」
「シャルリア宮のご帰宅は三時間後の予定です」
「……気配を消して近づいてくるのやめてもらっていいですか?」
完全に気を抜いていたところに付き人の声がすぐ近くで聞こえてきて飛び上がるところだった。
俺のプライバシーに配慮して離れたところで待機してくれてるのはいいんだけど、かなりの地獄耳らしくほとんど意味がない。
自分の仕事の気配を察した途端に瞬間移動してくるし。気がついたら隣にいるなんて日常茶飯事だった。あまりにも心臓に悪すぎる。
シャルリアが帰ってくるのは三時間後か。今日はティアンナ宮のところにいるんだったかな。
「もうお部屋に戻られますか?」
「はい。サルウをお願いします」
サルウを付き人に預け、寝室で軽くシャワーを済ませる。
そういや近いうちに俺の部屋を移すって言ってたような。今よりシャルリアの寝室が遠くなったら嫌だなあ。
窓際の椅子に腰掛け、まだ読んでいなかった新聞を手にとる。
「ああ、手配書か」
新聞の隙間から落ちた複数の紙を拾い上げると、どうやら新しい手配書のようだった。
「麦わらのルフィ、懸賞金……三億ベリー!?」
この男、司法の塔の事件を起こした海賊団の船長じゃなかったか? 前見た時には一億くらいだったはず。あの時点ではまだ手配書の額は更新されていなかったんだな。
記事が出てから一週間足らずで一億から三億の首に。とんでもないスピードだ。
「ん? なんだこのふざけた顔は……でもどこかで見たことがあるような、ないような……」
まるで右利きの神が左手どころか左足で描いたような、手配書にそんなレベルの人物画が載っていれば嫌でも目を引く。人物画の下に書かれたサンジという名前には見覚えはなかった。
この記憶の感じは直接コイツと会ったことがあるっぽいのに、何で名前すら知らないんだ?
こんな大事件を起こすような人間を俺が忘れるとは思えないのに。まあこれだけ特徴的な顔をしていたら、すれ違っただけで嫌でも記憶されるかもしれない。
どこでこの顔を見かけたんだろう。シャボンディ諸島……よりも少し前、か。ここからそう遠くない田舎寄りの小さな島だったような気もする。
この海賊団、他にもペットやら妙なお面を被った長鼻の男やら、海賊じゃなくてサーカスでもやってんのかってくらい愉快な顔ぶれが混ざってる。
それにしてもこのニコ・ロビン……相変わらずの美人だな。今はこの海賊団に所属してるのか。
でも不思議と、シャルリアと出会う前に手配書で見かけた時よりは心が動かなかった。
あっという間にニコ・ロビンへの興味は失せてしまい、次こそ新聞を読もうと椅子に座り直したところに部屋の扉がノックされた。
「シャルリア宮がお戻りになられたようです」
部屋に入ってきた付き人の言葉を聞いた瞬間、手に持っていた新聞を椅子に放り投げる。
すぐに部屋を出て廊下をギリギリ走ってない速度で歩き、ちょうど玄関でロズワード聖やチャルロス聖と別れたばかりのシャルリアの姿を見つけた。
「シャルリア宮っ!」
うわ、思ったより弾んだ声が出た。シャルリアのたった半日の外出にすら寂しがってたのがバレバレで恥ずかしすぎる。
シャルリアに駆け寄る寸前で固まっていたら、なんと彼女の方から俺に抱きついてくれた。首の後ろに回された両腕が少しひんやりとしていて気持ちいい。
「ふふ。会いたかったアマスわ」
「……はい」
シャルリアの優しさが身に沁みる。
暫くして俺から離れたシャルリアは、機嫌の良さそうな顔で笑っていた。
「そう遠くない日にお父上様やチャルロス兄さまと一緒にシャボンディ諸島に行くことになったアマス。