シャルリア宮の第一夫君 作:倉庫から出す
最近のあの人は思ったことがすぐ顔に出る。
それとも、私があの人の思考を読み取れるようになったのだろうか。
私との夜をとても気に入ってることや、サルウのことは可愛がっているけれど、時々子供のような嫉妬心を向けていること。
チャルロス兄さまのことが少し苦手で、ティア姉さまのことは清々しいほど眼中にないこと。
――そして、私のことを心の底から愛していること。私は全部知っているの。
以前にも彼から好意的な感情を向けられている自覚はあった。
しかしそれは男と女が同じ時間を過ごしたことによる必然的なものでしかなく、ある時からお互いがお互いであることに意味が生じたようだった。
彼にとってのそれがいつからのことだったのか。正確な時期は私にも分からない。
「今日こそは人魚を手に入れるえ〜! に〜んぎょ、にんぎょっ!」
チャルロス兄さまがいつになく機嫌よさげに口にする。
今日は私の夫も連れて人間オークションに参加する日だった。
「これまでに人間屋に行ったことがあるアマス?」
「いえ。以前は遠目に見かけるだけで、中に入ったことは一度もありませんでした」
私の夫がシャボンディ諸島の無法地帯で一年ほど暮らしていたことは従者の報告で把握している。
そこでの暮らしは造船所と会社が用意した寮との往復ばかりで、稀に同僚の結婚式や例の女とシャボンディパークへ足を運んだこともあったようだった。
従者からの報告書類に人間屋に行ったという記述はなかったが、ただの一下々民の行動を後から追うことがどれだけ困難かは理解しているつもりだ。結局はこうして直接聞くことでしか確信は得られない。
それに、シャボンディ諸島に来る前の彼の足取りは一切掴めなかったとも聞いている。
記録が残らないとなると……商船や客船ではなく、海賊船に乗って来たのだろうか。そもそもシャボンディ諸島で名乗っていたという名前すら、本当に彼のものなのか疑わしい。
私の夫は未だにそのほとんどが謎に包まれた存在だった。
「では、今日が初めてアマスね」
以前お父上様から譲っていただいた奴隷の背に二人で乗り、私の体を支えるようにして座っている彼の肩に寄りかかる。
この奴隷も少しは大きいようだけれどやっぱり巨人がいい。巨人であれば、背中に二人分の席を取り付けても余裕があるはずだから。
でも、今みたいにこの人に寄りかかりながら移動するのも悪くない。
「あなたはどの種族の奴隷が欲しいアマスか」
「……俺は、貴女に忠実であればどの奴隷でもいいです」
「男の奴隷は嫌だと言わないのアマス?」
揶揄うように口にする。彼はきまりが悪そうに私から目を逸らしていた。
彼が私が男の奴隷を持つことに対して思うことがあることは知っていたけれど、こればかりは聞いてあげられない。
女の奴隷は総じて力が弱く私たちを運ぶことすら出来ないし、仮に巨人族の女だとしても、この人に私以外の女が触れるなんて絶対に許されないもの。
だからすでに私が所有している女の奴隷には日傘を持たせるなど、布越しでも夫に触れることのない役目だけを与えている。
「オークションは何時からだったアマス?」
「四時からです。シャルリア宮」
夫の付き人が即座に答える。
私の従者の中で最も優秀な男で、夫もこの男のことをそれなりに気に入っているようだった。
「今日はシャボンディ諸島を見て回る時間はないアマスね」
オークション自体は長くても一時間半ほどで、その後の入金手続きや奴隷の引き渡し込みで二時間はみておく必要がある。
オークション後はすぐにマリージョアに向かわなければ夕食の時間に間に合わない。
「どこか行きたいところがあるのですか?」
「ふふ。ないアマスわ。ただあなたともう少し外で過ごしたかったの」
するっと自分の口から飛び出してくる素直な言葉には、毎回自分でも驚いてしまう。
以前の私は一度も口にしたことのないものばかり。彼に出会っていなければ、今でもこのような言葉を誰かに向けることはなかったかもしれない。
私の夫は「たしかに」と思ったようで何度か頷き、「俺ももっと一緒に過ごしたい」という顔をした。
「……少しくらいなら夕食の時間に遅れても」
「だめアマス。今日はお父上様やチャルロス兄さまと食事をとる予定アマスから。それに、今夜はあなたも一緒アマスわ」
夫は途端に「嬉しい」と「チャルロス聖も一緒か……」という感情が混ざった複雑そうな表情に変わっていた。
「やっとここまできたえ」
ノロマな奴隷により随分と遅れてしまっていたチャルロス兄さまが額の汗を拭う仕草をする。
私たちはついにマリージョアからシャボンディ諸島へと降り立ち、再び奴隷の背に乗って1番GRを目指した。
「暫く来ない間に見慣れない店が増えているアマス。今日は無理でも、次にここへ来た時に行く店を決めておくのもいいアマスわ」
「俺は……花を見に行きたいです。ですが、この辺りでもあまり見かけませんね」
私と同じようにGR内を見渡していた夫がため息混じりに口にする。
夫の付き人によれば、どうやら最近の彼は花を一から育てることに興味があるらしく、マリージョアの土ではそれが難しいと知って残念がっていたそうだ。
聖地で見られる植物の大半が人工のものであり、それは『神の庭』や私たちの庭園でも同じこと。外部から入手した花を植え替えているだけであって、あの土地で一から育てたものはほとんどない。
とくに繊細なものに関しては適さない環境に置くことで本来より早く枯れてしまうことが多く、庭園の管理もより手間がかかるという。
そんなマリージョアと違ってシャボンディ諸島には緑が溢れているものの、さほど需要がないのか、個人が経営している小さな
「なければ作らせればいいアマス。私も時々は庭園以外の花を見たいと思っていたの」
夫は「嬉しいです」と甘えるように私の肩に頭を乗せてくる。
しかし隣で別の奴隷に乗っていたお父上様の咳払いによって、あっという間に離れていってしまう。
夫の頭を撫でてあげようと持ち上げていた私の手は、中途半端な位置で止まることになってしまった。
「……まあ、お父上様。私と夫の時間に割り込んでくるなんて酷いアマスわ」
「まったく。お前は時と場所を選ばなさすぎるえ」
「ここにはお父上様とチャルロス兄さましかいないアマスのに」
まさか私たちが下々民の目を気にしなければならないはずがない。
お父上様もそれが分かっているからか、最後にもう一度ため息をつくだけに留めていた。
「…………シャルリア宮っ!!」
夫と一緒に乗っていた奴隷の背中が大きく揺れ、手に持っていたはずの鎖の持ち手部分が宙に放り出されたのを視認する。
猛スピードで変化していく状況を上手く飲み込めないでいる私が理解できたのは、これまでに聞いたことのないほど焦りの滲む夫の声と、私を抱きしめていた彼の腕はすでに離れていることだけ。
いつの間にか奴隷の背から投げ出されていた私を夫の付き人が受け止めた。
「奴隷如きが天竜人であるこの私に何を……!」
咄嗟に銃を奴隷に向けたところ、私の無事を確認して安堵している夫の姿が視界に入る。
彼は奴隷の屈強な腕に閉じ込められていて身動きが取れないようだった。
「…………あ」
引き金にかけていた指がカタカタと小刻みに震える。一歩間違えば銃口から鉛玉が飛び出していく事実が頭をよぎれば、震えはより一層酷いものになっていく。
そんな私を夫は無言で見つめるだけで、むしろ私が照準を定めやすいように身じろぎ一つしていないようだった。
…………どうして。
あの人は、私が引き金を引くことを疑っていないの?
それは正しい。目の前にいるのは天竜人である私に無礼を働いた奴隷であり、奴隷としての価値すら失った存在だ。
チャルロス兄さまだって以前そうなさっていた。奴隷が兄さまの妻を人質にとった時には妻ごと撃ち殺した。当時の私は何の疑問も抱かなかったし、今も変わらない。
――でも、私たちは違うでしょう。
訴えかけるように夫に呼びかける。
チャルロス兄さまにとっての妻と、私にとっての夫は違う。
あの人が私を愛しているように、私もあの人のことを愛してしまった。
兄さまとお父上様、ティアや周りの天竜人たちは、私がサルウに対するような愛玩目的であの人を可愛がっていると思っている。
私だってそうだった。そのつもりだったの。
いつの間にかあの人のことを考えるだけで胸が熱くなって苦しくなってしまう。あの人に触れるだけで心は安らぎ、触れられるだけで何もかもが満たされる。
これまでは知識としてだけ知っていた愛という感情。
お父上様やチャルロス兄さまに向けているような家族愛とはまた違う、穏やかなのに時々ひりつくような……そんな複雑で厄介な感情。
いつまでも引き金を引かない私を怪訝に思ったお父上様が、自身の懐から銃を取り出そうとする。
「だめアマス!」
手に持っていた銃が地面に落ちようが全く気にならなかった。お父上様の手を掴み、その手に持つ銃が夫に向けられないよう必死にお願いする。
お父上様が「死んだなら新しいのを夫にすればいい」と口にした瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
どうして分かってくださらないの。あの人の代わりなんてこの世のどこにもいない。
私にとってのお父上様やチャルロス兄さまがそうであるように。
「では、お父上様は! 私が死ねば新しい娘を探してくるというのアマスね!!」
サングラスの裏側で瞠目しているお父上様に、私は肩で息をしながら責めるように叫んだ。
「…………お前はただの夫に肩入れしすぎだえ。
「お父上様なんて大嫌いアマス。夫が見つかるまで口もききたくないアマスわ」
私とお父上様が口論している間に、奴隷は夫を人質にとったまま消えてしまった。
お父上様はここまで言っても私の言動が少しも理解できないようで、「お前は昔から所有欲が強すぎる」などと呆れたように口にする。
確かに私は奴隷以外のものに対して一度私の所有物だと認識すれば、それが私の手を離れることを許容できないところがあった。
幼い頃、私の衣装棚にあったドレスをティアが欲しがった時には彼女の目の前でそれを引き裂き、懇意にしていた天竜人一家の男の子が『私を』欲しがった際には、サロンで頭から紅茶をかけて相応しい姿にしてあげた。
私の物を他人に譲るなんてあり得ない。それは私自身にも適用される。
この前提が崩れたのは夫が初めてだった。
彼自身もまた私の所有物ではあるけれど、あのドレスのように壊れたならティアに譲ってもいいとは思わない。それどころか、あの人には私が所有する全てを与えたって構わないの。
お父上様が予備で連れていた奴隷の背に乗りながら、苛立ちを紛らわせるために耳飾りに触れる。
「……奴隷の分際で、私の夫をどこへやったのアマス」
「ご安心くださいシャルリア宮。鎖が外れた奴隷はそう遠くへは行けません。すでに首輪が爆発している頃でしょう」
「黙るアマス、この役立たず! 私の夫が爆発に巻き込まれていたら、お前にも奴隷の首輪をかけてやるアマス!!」
私の付き人はあっという間に顔を青くさせて「申し訳ございません!」とその場に膝をつく。
「シャルリア宮。腕輪の生体反応が消えておりませんので、ご夫君は間違いなくご無事です」
「……怪我をしているかもしれないアマスわ」
「すでに聖地の優秀な医療チームをシャボンディ諸島に向かわせております。直に到着するでしょう」
夫の付き人の言葉を聞いて頭を支配していた怒りが少しずつ冷めていく。夫の首輪と対となる腕輪に視線を向け、『問題なし』を示す緑色のランプを見つめる。
こんなことになるなら首輪に発信器を付けておけばよかった。
見た目を重視するならこれ以上の機能は付けられないと言われ、仕方なく私以外の女が触れた時にだけ警告音が鳴るように設定した。最初は爆薬を詰めておくつもりだったが、それだと日常的に使う物にしては重くなるとも言われ、体を痺れさせる薬に変更した。
……今となっては、どちらも不要になってしまったけれど。
少なくとも今の夫が、自らの意思で私以外の女に触れることはないと断言できるからだ。
「シャルリア宮」
いつの間にかそばを離れていた夫の付き人が、二人の下々民を連れて戻ってきた。
下々民はすっかり怯え切っていて、今から何をされるのかと私と付き人を交互に見ている。
「この下々民が『31番GRで奴隷が天竜人を人質にとって暴れていた』と証言しました。正確な場所まで案内させますか?」
下々民に案内させた31番は、以前あの人と一緒にケーキを食べた店があるGRだった。
シャボンディパークの近くにある為に島民よりも観光客の方が多く、いつ来ても人で賑わっている。
それが今や私たちが足を踏み入れる前から辺りはシンと静まり返っており、予めここに天竜人がやってくるのが分かっていたかのように皆が地面に膝をつけていた。
普段であれば疑問にも思わない光景に、今回ばかりは嫌な予感で胸がいっぱいだった。
「シャルリア宮。あちらに、奴隷が」
GR内の中心的な位置にまで来た頃、全身血だらけで焼け焦げている奴隷を見つけた。
無言で奴隷に近づき、周りにあの人の持ち物の一つでも残っていないか確認する。
…………ない。夫が身につけていた装飾品どころか、服の切れ端一つ見つからない。
「では……私の夫はどこにいったのアマス」
「この場に残っている下々民に確認してまいります。今しばらくお待ちください」
再び私の元を離れていった夫の付き人が、さっそく近くの下々民に聞き込みを開始していた。
「お前は躾が下手だえ。ちゃんと毎日鎮静剤を与えていれば、バカな奴隷でも大人しくしているというのに」
ただでさえ苛立っている時にそのような話は聞きたくない。
私はお父上様の言葉を完全に無視して、奴隷の男に向かって勢いよく足を振り下ろした。
「どうやらご夫君は奴隷を病院へ連れて行こうとしていたようです。ここから一番近い病院は24番GRにありますから、近くの店でボンチャリを入手するつもりだったのでしょう」
「なぜあの人が奴隷ごときを病院へ?」
「……無礼を働いた奴隷をご夫君が殴り、それから首輪が爆発したそうです」
夫の付き人は意図的にこの情報を伏せていたらしく、私の顔色を窺いながら答える。夫が私の所有物に手をかけたことを知れば私が激昂するとでも思ったのかもしれない。
「あの人が私の奴隷をどう扱おうが問題ないアマスわ。それでは、私の夫はボンチャリ店にいるのアマスね?」
あの人が無事で、ここから移動できる状態であることが知れただけでも大きな一歩だった。
すっかり安堵していた私に、付き人が言いづらそうに「そのことですが……」と続ける。
「ボンチャリ店の店主に直接確認したところ、ご夫君は確実にボンチャリをレンタルして去られたそうですが……。店の近くにはそのボンチャリが乗り捨ててあり、ご夫君の姿は見当たりませんでした」
そんなはずはないと理解していても、頭のどこかから「あの人は逃げ出したのではないか」という声が響いてきた。
そうして響き続けた声は、やがて少しずつ妙な現実味を帯びてくる。
この先私なしでは生きられないくらいに、もっと心と体を縛り付けておくべきだった。
本当に彼が逃げ出したのだとすれば、必ずあの女を探しに行くはず。
「シャルリア。このままではオークションに遅れてしまうえ」
私たちは造船所へ向かう為に10番台のGRにまでやって来ていた。
チャルロス兄さまと違って、未成年である私を置いて自分だけ先にオークション会場に向かうことはできないのだろう。お父上様はすっかり私の
「私の我儘にお父上様が付き合う必要はないアマス」
「お前の夫のことは衛兵にでも探させなさい。あれほど楽しみにしていたオークションに全く参加しないつもりかえ?」
「夫を見つけるのが先アマスわ」
キッパリと答えれば、お父上様はこれ以上は無駄だと諦めたのか何も言ってこなくなった。
「シャルリア宮。ティアンナ宮より電伝虫でご連絡が入っております」
「それどころではないと伝えるアマス」
今回のオークションにティアも参加することをすっかり忘れていた。
彼女とはオークション会場で待ち合わせる予定だった。私たちがいないことに気づき、一体どこにいるのだと連絡を入れてきたのだろう。
お父上様の付き人が電伝虫越しにティアへ私の言葉を伝え、それでこの件は終わりだと思いきや、慌てた様子で「すぐにシャルリア宮にお繋ぎします!」と返事をしていた。
「何事アマス?」
「それが……直接お話になられた方がよろしいかと思います」
やけに言葉を濁す付き人を怪訝に思いながらも、差し出された電伝虫を受け取る。
「ティア? こちらはそれどころではないと伝えたはずアマスわ」
『……フフ。ええ、それどころではないはずアマスね……私もとても驚いたもの』
電伝虫越しに聞こえてくるティアの声の調子がいつもと違う。
彼女は常に私を目の敵にしていて、何かとちょっかいをかけてくる。
でも私がお父上様に厳しめに叱られた時や、正気を失った奴隷に傷つけられた時には、私以上に狼狽える変な女だった。
「……ティア姉さま。知っていることをお話しくださいませ」
焦りと困惑の混じる声を聞きながら、つとめて冷静に尋ねる。
昔からそうだった。ティアが自分の感情を隠しきれずにいる時は、必ず私絡みだったのだから。
『シャルリア。貴女が可愛がっていたあのコだけれど、今そこにはいないアマスね?』
ティアはこの短時間ですっかりいつもの調子を取り戻したらしく、楽しげな口調で続ける。
『あのコ、これからオークションに奴隷として出品されるアマスわ。シャボンディ諸島で別行動をとっていた私の従者が、人攫いに連れ去られるところを見たと言っていたから』
ティアが最後まで言い切るのを待たずに、私は「今すぐオークション会場に向かうアマス!」と叫んでいた。
天竜人だからといって、全てを望み通りにできるわけではない。私たちの世界にもルールというものがある。
条件に当てはまらない下々民を勝手に奴隷にすることは許されず、逆に奴隷の身分に落ちた者を下々民に戻すこともできない。
……どうして私の夫が人攫いに狙われた?
仮にシャボンディ諸島の住民だと思われたとしても、この島の人間は世界政府の名の元に、犯罪者ではない限り人攫いの標的にされることはない。
そもそも、夫には一目見て天竜人に連なる者だと分かる格好をさせていたはずだ。その上で人攫いがあの人を攫ったのだとしたら、
「夫を攫った人攫いチームを探し出し、必ず私の前に連れてくるのアマス!!」
連れていた衛兵のうち半数を、あの人を攫った人攫いチームの捜索に向かわせる。
普段は奴隷の背に乗って移動することが多い私たちだが、今回ばかりは購入したボンチャリを奴隷に漕がせてオークション会場へ向かっていた。こうでもしないと間に合わないからだ。
目まぐるしく変わっていく景色を見つめながら、ボンチャリに設置されている肘置き部分を強く握りしめる。
…………もしもあの人がすでに出品され、誰かに購入されていたとしても大丈夫。出品されること自体が間違いだったのだから、きっと元の身分に戻してあげられる。
ただ、このような事態は恐らく前例がない。
落札前ならまだしも、落札後であれば人間屋だけでなく購入者をも巻き込んでより一層厄介な状況になってしまう。
「奴隷に落ちたのなら、これからは奴隷として飼えばいいだけの話だえ。お前は物事を複雑に考えすぎるきらいがある」
相変わらずなお父上様の言葉に腹を立てる気力もなかった。
チャルロスお兄さまが観賞用の踊り子の奴隷を連れ歩いているのとはわけが違う。
私たち天竜人は、どれだけ容姿が優れていようとも相手が奴隷であれば直接触れることはしない。奴隷はただの物であり、人の形をしているだけの穢らわしい存在だからだ。
……私はあの人をそのような目で見られない。そのような扱いもしたくない。
この先あの人に触れられないなんて絶対に嫌だ。
「ロズワード聖、シャルリア宮。オークション会場に到着しました」
夫の付き人の手を借りてボンチャリから降りる。
「これはこれは……シャルリア宮! ロズワード聖! お待ちしておりました。先にお着きになられたティアンナ宮は別の席に――」
「さっさと扉を開けるアマス!」
「は……はいっ!」
鈍臭い人間屋の男がもたつきながらオークション会場へと続く扉を開けた。
視界に広がるものが自然の光から会場全体を包む人工の光へと移り変わり、目が慣れるまでに多少のラグが生じる。
一際眩い光を放つステージ上には、ずっと探し求めていた人物が立っていた。
後ろに回された両腕には手枷がかけられており、両足には奴隷用の足枷と鎖が付けられている。驚いたように目を見開いたその人が一歩足を踏み出し、鎖が重たい音を立てた。
変わり果てた夫の姿を見た瞬間、頭が沸騰するような怒りが込み上げてくる。
ギリッと唇を噛みしめた。全てを飲み込んでステージへと続く階段を下りていく。
一切視線を外さず見つめてきていた夫は、私がついにステージの前に立った時には泣き出しそうな顔をしていた。
距離があった時には見えなかったけれど、頬に小さな擦り傷がいくつかある。両足の枷から伸びる鎖は隣に立つ司会の男が持っており、強く引っ張られたのか足首には薄ら痣が出来てしまっていた。
「え、ええーと……現在は1450万ベリーが最高額です!」
私が案内された席を素通りしたからだろう。司会の男が何度も私に視線を寄越しながら現在の入札額を宣言する。
……天竜人の夫が1450万。あの人に与えた首輪の価値すら分からない人間がこんなにもいるなんて。
私はフェイスベール越しに笑みを浮かべる。
「私の夫はこんなところで遊んでいたのアマス? 困った人アマスね」
今すぐ目の前の司会者を撃ち殺すのは簡単だ。しかしそれでは、夫が一瞬でも奴隷の身分に落ちたことを認めることになってしまう。
私の発言の意図を読み取った司会者が大慌てで話を合わせてくる。
「お前には褒美を与えなければならないアマスね。……夫のお遊びに付き合ってくれたのだもの」
「めっ……滅相もございません!!」
ステージ上で跪いた司会者を冷ややかに見つめ、夫に視線を戻す。
「もう満足したアマス?」
司会者が鎖を手放したことで、夫はステージの端にまで近づいてきてその場に片膝をついた。私の目線に合わせる為だろう。
「……申し訳ありません、シャルリア宮。お遊びが過ぎたようです」
夫の声は僅かに震えていた。
夫に付けられていた枷は首輪を除いて全て外され、彼は感覚を確かめるように両手を開いたり片足を軽く持ち上げたりしている。
やがて司会者たちに促されてステージから降りてきた夫が、私のすぐ目の前までやってきた。今の私は彼よりも数段高い位置に立っているから目線はほぼ同じ。
「さあ。もうどこへも行かないでくださいまし」
いつもは彼が私の手を引けるよう、手の甲を上にした状態で差し出していた。でも今日だけは手のひらを表にして、反射的に差し出された夫の手を掴む。
「予約席でお父上様がお待ちになっているアマスわ」
「シャルリア宮」
彼の手を引いて階段を上っていた私の背に、いつになく硬い声が投げかけられる。夫は控えめに私の手を後ろに引こうともしていた。
まるで、自分には私と一緒にそこへ行く資格がないとでも言うように。
「どうして事実を捻じ曲げてまで俺をお側に置いてくださるのですか? 俺の生まれが下々民であることはこの先一生覆ることはなく、今もあと一歩で奴隷に落ちるところでした」
どう考えても貴女のような高貴な方には相応しくないとまで続いた言葉に、私は静かに彼の目を見つめることしか出来なかった。
この人がこんなにも直接的に自分の感情を吐露したことなんて、今までになかったからだ。
夫は苦しそうにぎゅっと眉を寄せる。
「…………もう、来てくださらないのではないかと思いました。本当は奴隷としてステージに立つ姿を貴女に見られたくもなかった」
私に掴まれている手に少しずつ力が込められていく。自分でも制御が効かないのか、何度か力を抜こうと指先が震えていた。
「でも、それでも……俺は最後に一目だけでもいいから貴女に会いたかった」
彼は気がついているのだろうか。
今、自分が全身で私にその感情をぶつけているという事実に。
「それで満足だったはずなのに、いざこうやって貴女を目にしたら苦しくて仕方がないのです。……貴女は一体、俺に何をしたのですか?」
自分だけが被害者だとでも言いたげな様子に、思わずくすっと笑ってしまった。
私はとっくに
「ふふ。おかしなことを言うのアマスね」
なぜ私が笑っているのかこの人には理解できないだろう。
私たちはお互いにゼロから始まったのだから、この人にも私と同じところまで落ちて来てもらわなければ不公平というもの。
「まさか、その感情を与えられたのは自分だけとでも?」
意地悪な笑みを浮かべる私に、夫は心底驚いているようだった。
「自分を過小評価しすぎているアマス。あなたは他でもない私が選んだ最初で最後の夫だもの。もっと貪欲でなければならないアマスわ」
「…………シャルリア、どうして」
無意識なのか夫は人前にも関わらず敬称をつけずに私の名を呼ぶ。
それを咎める気にはなれなかった。……少なくとも私は、この人にはその権利があると以前から思っていたから。
「どうして? あなたが私に花束を贈ってくれた日、私はそんなことは口にしなかったはずアマス」
向けられた愛に理由を問うなど無粋だ。
私たちにできることは受け入れるか、受け入れないかだけ。
私はとっくにこの人を受け入れていた。知らずにいたのはこの人だけだ。
「でも……そうアマスね。私たちはいつだって言葉足らずなようだから」
掴んでいた手を強めに引っ張り、大人しく私の方へ倒れ込んできた彼を抱きしめる。
お互いにしか聞こえない小さな声で囁いた。
「あなたにも分かるようにお家に帰ってからじっくり教えてあげるアマス。私がどれだけあなたを愛しているのかを、この先決して忘れることのないように」