ぎゅう、と。
箱のなかに詰め込まれている気がする。軽く眼を閉じて、開く。ほら大丈夫。ホグワーツの廊下はいつもの通り。壁が迫ってくるように思うのも、天井が下がってくるように思うのも、気のせいだ。だって人が多いから、それでなんだか混んでしまっている。
――本当なら
もっと空いているはずなのだ。肩掛け鞄の紐をきゅっと握る。人混みを縫い歩く。サフィヤなら器用に抜けるのになあ、とぼんやり考える。猫のような彼。きっと金色の長毛種で眼は緑色だろう、とくだらないことを思う。埋められた空白のことを考えないようにする。いまだけのことだ。傷口に包帯を巻くように、応急処置されているだけ。ホグワーツは壊された。だから、いろんな人が修復のためにやってきているし、教師も足りないのであちこちから呼んだりしている。
そう、どうにか埋めないといけないくらい、穴は大きい。
たくさん死んでしまった。百はいかない、と聞いている。それでも数十人は死んでしまった……。
たった数十人でよかった、と言う人もいるだろう。まだよかった。『例のあの人』が倒されたのだから、と。善良なその人は、どこにでもいる誰かは、慰めるように口にするのだろう。
けれど。
あの日のホグワーツにいれば、そんな慰めなんて口にできないはずだ。
ルーナの靴は、ぬめった何かを踏む。滑りそうになった――と思う。誰かにぶつかりそうになって、とっさに謝る。迷惑そうな顔に、一瞬息を呑む。ああ、変人ルーナだと誰かが言う……。鼓動がはやくなる。なんとか笑顔を浮かべて「ひどいなぁ」と言う。ひどいなぁ。ひどいなぁ……なにもかもが、ひどいのだ。
なにももとに戻ってなんかいない。ルーナの頭のなかには、あの日の光景が刻まれている。そして、ときどき顔を出す。こればっかりは夢幻でもデタラメでもない。そこに在るから在ると思うのか、思うからこそ在るのか。流れた血。穴の空いた壁。暗い空、きらめく星、誰かの悲鳴。青ざめた、死人の顔。
太陽がなにごともなかったかのようにのぼり、沈み。素知らぬ顔をして月が地上を照らしても、ルーナの記憶は消えはしない。死んでしまった母親の、青ざめた顔と同じように。神秘部の『門』の囁きは、最近特によく聞こえてくる……。
「大丈夫だもン」
足を動かす。とにかく動かす。問題ないはずなのだ。戦いに勝って、慌ただしく家に帰って、しこたま叱られて。お見舞いに行って。ホグワーツに戻って、前と同じような日常を送れると、思っていた。
けれど忘れていたのだ。思うだけ、想像するだけなのと――体験してみるのとではまったく違うのだと。
教室に入る。闇の魔術に対する防衛術の教室で、先学期に使っていたのとは別の教室だ。壁におどろおどろしい絵はないし、誰かの悲鳴も聞こえてこない。柔らかい陽が射していて、ルーナはほっと息を吐く。レイブンクローが固まっているあたりの端っこ、スリザリンの近くの席に滑り込む。
おかしなルーニーだ、と囁きが聞こえる。ルーナは無視した。そんなことにかまっていられない。スリザリン生が意地悪なのは今にはじまったことじゃない。だいたい、レイブンクロー生からだってルーナは浮いていた。もう靴を隠されることはなくなったけれど、ルーナはおかしなことを言うし、おかしな格好をするルーナなのだ。カブのイヤリングの良さを誰もわかってくれない。
悲鳴が聞こえる。ないのにある悲鳴。ルーナのなかにある悲鳴。教科書を開き、拳を握る。震えていないといいけど。なんでみんな平気な顔をしているんだろう? 薄い薄い膜を隔てた向こうに、いびつで狂った世界が広がっているのに。時間が解決してくれるはず。人は忘れることができる。痛みは穏やかなものになっていく。空白は繕われる。だから、辛抱するしかない。
抵抗運動の中心人物の一人だとか、おかしな子だとか妙な注目を浴びても平気だ。それよりなにより内側のこの世界と織り合いをつけないといけない。
変な子だなんて言われ慣れている。それに、誰だってどこかおかしい。ふつうなんてない。傷や歪みがあるものだし、欠けないものはない。完璧にまるいのは月だけだ。そして、誰からも好かれ、愛される人間なんていない。
じっとりと汗が滲む。ああ、ジニーの隣に行けばよかったかな。でもあの子はお兄さんを亡くして、落ち込んでいて、ルーナはどう声をかければいいかわからないのだ。なにを言っても羊皮紙よりも薄く、蝶のはばたきより軽い言葉になりそうで。
平気なふりくらいできる。誰にも理解されなくていい。そんなことはずっとやってきた。
――理解じゃなくて
そんなこともあるよね、と思ってくれる誰かがほしい。一人だけでいい。ルーナの世界があるのだとわかってくれたらそれで……。
がたん、と音がした。ルーナは我に返る。音のほうを見る。スリザリンがざわめいてる。
災難だな、と声がする。椅子の足が折れた、と。二本折れて、誰かが――ああ、陰口をたたいていたスリザリン生だ――が尻餅をついた、らしい。よろよろと立ち上がる彼を見るともなしに見て、ふと窓辺に眼をやった。淡い金色の髪。頬杖を突き、とても退屈そうにしている彼の手に、指輪が煌めいている。そういえば、と思ったそのとき「ああ、古くなってたんだね」と落ち着いた声がした。復学組にして闇の魔術に対する防衛術臨時講師の一人、ハリー・ポッターだ。彼は備品が壊れようが、生徒が尻餅をつこうがかなりどうでもいいようで「授業をはじめるよ」と告げた。もし壊れた椅子にジニーが座っていたら、ハリーはどういう反応をしたかな、と思った。言ってはいけないことはある。
ルーナはもう一度、窓辺の席を見た。相も変わらず退屈そうな背中だ。彼が糸使いらしい、というのはおおっぴらにしていいことじゃないだろう。つまり、彼ならば椅子の足を折るくらいは朝飯前なのだ……と、ハリーに言うのはやめておこう。誰だって多少の秘密は持っているものだ。
◆
とある日、やたらと人の多い城から抜け出して、ルーナはほっと息を吐いた。別に人見知りなわけではない。けれど誰かと積極的に関わるほうでもない。レイブンクローにはそういう生徒が多い。けっこう個人主義で、成績の上下に敏感。ルーナが「ルーニーのくせに」と言われ、あれこれとちょっかいをかけられていたのも、そのせいだろう。靴を隠されたり――これはエリュテイアが見つけてくれたし、履かせてくれた――ルーナはポケットから手鏡を取り出すのを我慢した。いくらエリュテイアがおはなしのなかの王子様っぽくても、おはなしはおはなしだ。いやだって靴を履かせてもらうってそうない。同性でもない。思い出してちょっと赤くなってなんかない。たぶん。だいたい、森のなかで手鏡を出しても意味がない。ちょっとお洒落な鏡はハーマイオニーがくれたものだ。
彼女はルーナの「妄想」をバッサリ切って捨てる人だったけれど、それはそれ、これはこれ。最近では「目に見えるものだけがすべてじゃないんだよ」と言えば「そうよねえ」と頷いてくれるようになった。頭は固いけどけっして愚かじゃないし、優しいほうだ、と思う。なんで手鏡? と訊いたら「お守り代わりよ」と真顔で言われた。秘密の部屋騒動のトラウマなんだろうなあと思ったがルーナはなにも言わなかった。そんなちょっと優しい気持ちは「ねえルーナ、占いとかオカルトとかあんまりはまっちゃだめよ」という助言で吹き飛んだ。なにを心配しているんだろう。占い師もとい怪しい詐欺師がすり寄るのは、魔法大臣とか高官とかだ。権力者でも助言がほしくなるときがある。そこにつけこむのだ。ルーナには縁がないし、占い師を名乗る詐欺師はたいていが潰される。
ルーナはただの学生で、今は人探しに森に来ている。探し人の名はサフィヤ。休日だというのに副校長のスラグホーン先生は、彼に用事があるらしい。忙しそうなので、呼んできましょうかと言ってしまったのだ。たいてい図書館か校庭か温室あたりか森にいるのだとルーナは知っていたから。
ちょうど気分転換がしたかった。城にこびりついた――ルーナの中にうずくまっている記憶から、離れたかった。あちこちを見て回り、絵を描こうと思ったのにスケッチブックを忘れ、森をぶらついている。
森は静かでいい。よほど奥まで入らなければ安全だし、人の喧噪もなく、視線もない。囁きもない。抵抗運動の「主犯格」の一人なんて名声はルーナには必要ない。ネビルがすごかったんだよ、と彼に全部押しつけている。まだおかしなルーニーのほうがマシだった気がする。妙な賞賛と、漂う敵意に、じりじりと削られていく気がした。ハリーはずっとこんな風にやってきたのか、と今更すぎるが思い至る。やっぱりハリーはすごい。
森を進む。フィレンツェ先生がだいたいの方向を教えてくれた。先生は仲間と和解……までいかなくとも妥協したようで、普段は森にいて、授業の時にやってくる。「危ないから帰れって言わないんですか?」と訊いてみたら「私は月の名を持つ女の子に甘いらしい」と返された。彼の種族にしてはわかりやすい回答だ。友達だったの、と重ねてきけば「語りあったものですよ」とのことだ。フィレンツェにも人間の友達がいたらしい。
フィレンツェに見送られ、こうして歩いている。いつの間にかセストラルの仔が寄り添っていた。派手ではない。しかし無駄もない。美しい生き物だ、とルーナは思う。共感してくれるのはハグリッドかサフィヤくらいかもしれない。ハグリッドは危ない生き物でも美しいとかかわいいとか言うから、ちょっと違うか。やっぱりサフィヤのほうが気が合う。彼は綺麗なものが好きらしいし、自然のなかで安らぎを得る類なのだ。だから、用心深い獣のように森に潜んでいるのだ。
――居づらいんだろうなあ
弱音なんて聞いたことがない。スラグホーン先生に似てのらりくらりっぽい。サフィヤは賢いんだろう。成績ではなくて、知恵が働くほうの「賢い」だ。言い換えれば狡猾。悪いことではない。ただ、サフィヤは巧くやりすぎたのだ。闇側に付かず、けれど反旗を翻すこともなく、一年余りをくぐり抜け――最後の最後に勝者に付いた。闇側のスリザリン生が恨みを買うのはわかる。だが「こちら側」に付いたスリザリン生への当たりも厳しい。闇側からすれば裏切り者。こちら側からすれば、さして手を汚さずにおいしいところを持って行った信用ならない者。あの時参戦したスリザリン生はほとんどが成人していた――サフィヤの誕生日は知らないが、彼もそうだろう。そして、実力者揃いで、けして無理をしなかった。勝てない戦いはせず援護を主として、怪我人の回収、離脱の支援をしていたという。もちろん混乱した戦場だ。死喰い人とやりあい、始末しただろう。怪我も負っただろう。だが、死者はいない。それが生き残った者は気に入らない。まったく損害を受けていないように思える蛇、油断のならない蛇に見えるのだ。
彼らのお陰でどれだけの人間が助かったかなんて言ったところで聞かないだろう。だからこそ、サフィヤも標的になった。カロー兄妹の狗、わかりやすい的。養父を侮辱してまで狗に徹し……まんまと生き延びた、と。
ホグワーツはけっしてスリザリン生にとっていい場所ではない。サフィヤにとっても。そして彼らは落ち込んだ様子を見せることはない。以前と変わらない、ように見える。それがまた癪に障る……だからスリザリン生に刺々しい眼が向けられる……とどうしようもない状態だ。
本当は、とルーナは唇を噛む。サフィヤはさっさと試験を終えてさっさとホグワーツを卒業したっていいのだ。たぶん彼にはそれができてしまう。なにせ補佐をするくらいには優秀だ。そして頼まれれば、意外と断らない。ルーナの「卒業されたら困るな」発言にどれほどの影響力があるかわからないけれど、つい言ってしまったのだ。ちょっと後悔している。
「……だって去年はろくに」
話せなかったし。去年というか先学期というか。サフィヤは笑ってしまうくらい「悪のスリザリン生」をやっていたし、ルーナは抵抗運動に忙しかった。つまり立場が違ったし、下手に接触なんてできなかったのだ。
「サフィヤが貧乏くじをひかなくてよかったのにねえ」
さびしくなって、ついついセストラルの仔に話しかける。端から見たら変人だ。でもいいもん、ルーニーでも。少なくとも、サフィヤに呼ばれるのは嫌じゃない。しょうがないルーニーだな、と言う彼の言葉に悪意も侮蔑もないから。ルーニーは「そういうものだ」というあきらめというか寛容がそこにはある。本人はツンケンしたいらしいが、本当に意地が悪かったり、臆病者だったら湖でおぼれたルーナを助けやしない。どうせ礼を言ったところで、釣りをしたかった、とか言うのだ。そして先日の闇の魔術に対する防衛術の一件だって「僕、あいつのこと嫌いでさ」か「なんで君のためにわざわざするんだよ」か「ラックスパートでも耳から入ったのかルーニー」とか言うに決まっている。けっこう腹が立つな。素直じゃないんだから。
――そんな素直じゃない彼に
レイブンクローの髪飾りをつくってくれだなんて。まったく正気の沙汰じゃない。でも言ってしまった。理性とか理屈じゃなかった。心というのはままならないものだ。
ルーナは名門の生まれでもないし、純血でもなさそうだし、変わり者の父と、変わり者の母の娘だ。スラグホーンのお坊ちゃんとは本当は釣り合わない。言われなくたってわかる。そしてスラグホーン先生が養父なのだから、それこそ輝ける星々と結ばれるだろう。周りが彼氏だ彼女だと言っているのは、お遊び、いいやままごとみたいなものだ。なんとなくそんな感じで卒業まで過ごし、なんとなく距離ができて終わるのだろう。そういうものだ。レイブンクローの髪飾りを、彼がつくってくれることはない。なにせ期限もない、そのうちの口約束なのだから。
ため息を吐く。せっかく城から離れたのに、わけのわからないことばかり考えてしまっている。なんだかとっても女々しくない?
ふ、と花の香りがした。とことことセストラルの仔が先をゆく。ルーナは追いついて一緒に歩く。森の中に花の香りがする場所があったろうか。疑問に思いながら土を、枝を、葉を踏む。やがて開けた場所に出た。失われし庭、さまよえる園、という言葉がふと浮かぶ。泉がわき、花が一面に咲いている。ああ、夜になればさぞかし綺麗だろう。泉に月がおぼれ、風が吹けば花が揺れ、かぐわしい香が広がる……。
絵の道具をもってくればよかった、と臍を噛みながら、ルーナはあたりを見回す。そして見慣れた金色を見つけ、我知らず声をかけていた。
サフィヤ、と。
けして大きな声ではなかった。だが、彼ははっと顔を上げた。花の中に膝を突き、春草の色をみはって。まるで夢から覚めたような眼だった。それか、夢を見ているようだった。現世の喧噪から切り離されたかのような。だからこそ、ルーナはサフィヤから滲む陰を見初めた。いつもならわからないような陰。彼という男を取り繕っていたなにかが、今この瞬間に失せている。そんな気がした。
そっと歩を踏む。もろい夢幻を壊さないように。無防備に見える彼を刺激しないように。
こんなところにいたんだ、とか口が動く。話して、この男の眼をルーナに向けさせないといけないと思った。なぜかはわからない。直感というものかもしれない。それとも本能か。
サフィヤ、とまた呼ぶ。彼の前に膝を突く。花びらがふわりと散った。花が散れば惜しそうにしそうなものなのに、彼はとてもぼんやりしている。普段はあれこれと計算高く振る舞っているだろうに、今は本当に――奇妙なことだが――そのままの彼に見えた。自分で編んだのだろうか、なぜか花冠を持っていた。
彼が、手を上げる。髪に葉っぱでもついていたかなと心配になる。軽いなにかが頭に乗る。芳香がルーナを包んだ。花冠の香が。
瞬く。くれるの、と訊いたように思う。答えを聞く前に、彼に抱きついていた。彼はルーナを突き放さず、むしろ離したくないのは彼のほうに思えた。肩に重みがかかる。彼は顔を上げることなく、伏せている。ルーナの肩に。ひどく傷つき、欠け、汚れきってくたびれたように。あらゆるものを取り払ったように。
じわじわと互いの熱がしみていく。そこには欲ではない――ダンブルドアならば――と言うようなものがあった。これから芽を伸ばしていくものが。
レイブンクローの髪飾りには及ばないけれど。小さな小さな声に、ルーナは自分がなんと答えたのかわからない。二つの眼が――彼が月の色だというそれが、ひどく熱かったから。こぼれそうになるなにかをこらえるのに忙しかったから。
だから、ルーナは彼の背をなでた。
他人を命がけで助けて傷だらけの。
不器用なその背を。