「少し見させてもらうぞ」
囁くように口にしたその人は、包みを解く。軽い音とともに姿を現したのは布の塊だった。白い手が伸び、艷やかな布地をそっと撫でた。
すらりとした手は、貴族のものではない。あちこちに傷が刻まれた魔法騎士の手だった。流れるように手が動き、音もなく布地を広げる。
卓に夜の帷が落ちて、星々が静かにきらめいた。いいや、それはローブであった。一見して黒に見紛うほど深い紫、あるいは黒に紫が秘められた――紫黒色。冬の、たよりない陽を受けて輝くのは、星々ではなく刺繍だった。けして目立たないように、ローブを飾るのは方陣と古代の力ある言葉、魔法文字とも古代語とも言われるものだ。
席に着いたまま、静かに待つ。暖炉の火だけがおしゃべりだ。ひっきりなしにぱちぱちと爆ぜている。
その人――顧客は、ローブをためつすがめつし、ふっと息を吐く。丁寧にローブを畳み、小さく笑んだ――ように思った。
「確かに受け取った」
「ではこちらを」
羊皮紙を卓にすべらせる。羽根ペンがさらさらと署名し、額面に打ち消し線を引き、新たな額を書いた。
「過ぎた額ですよ」
取り決めた額の二倍はいかないが、それでもローブにしては高い。もらえるものはもらっておけという者もいるだろう。損するよりはいいと。たが、あまり余計な借りはつくりたくないのだ。
「あんたの腕に見合った額だよ」
なあスラグホーン。砕けた口調。しかし譲る気はないと明らかな態度で顧客は言う。淡々としていて、なにを考えているか読み取りにくい。サフィヤ・スラグホーンは顧客の紅と青の眼をじっと見て、引き下がった。
「――では、ありがたく」
ウィスタ・ブラック=リアイスと署名された羊皮紙を仕舞う。やれやれ一仕事終わった。
「ご注文いただけるのは嬉しいですが」
卓に、包装紙とリボンの見本を並べながら口にする。
「ご子息への贈り物なら、他にあてがあったのでは?」
三つの見本をそれぞれ見て、顧客ことウィスタが「これを」と示す。
「リガーダントどもは忙しくてな」
返事に、軽く頷いた。なるほど? わざわざ一族ではなく、外部のサフィヤに「息子へのクリスマスプレゼント」を依頼したのには相応の理由があると。顧客――ウィスタの一族はあらゆる分野に進出している。もちろん服飾関係にも噛んでいるし、職人のあてはある。しかし、別件に集中させたい事情があるのだろう。
――さてどれか
鞄から袋を取り出す。指定された包装紙とリボンが入っている。
「こちらですね」
袋から包装紙とリボンを取り出し、確認してもらう。その僅かな時間でサフィヤは目まぐるしく考える。リアイスがそれなりに集中しなければならない案件。さてどれか。
卿と名乗る者が倒されて、十数年――約二十年。英国魔法界はほぼ復興した。闇の影はない……はずだが。
闇の帝王の子がどうこうという噂はある。定期的に流れては消えていく、なんの根拠もない話。噂とはそういうものだ。たいてい純血家の誰それが帝王の子を……と噂される。純血家――スリザリン系はそんな噂を無視する。下手に反応していられないからだ。幸い、スラグホーン家はそんな噂の的にはならなかった。サフィヤが「由緒正しい」純血婚をしなかったせいともいえる。もはや純血なんて概念は形骸化しているが、まだまだそれにすがりたい連中はいる。そして「あのルーニーなんかと」結婚したサフィヤは、意地の悪い、いや頭も悪い純血の極々一部から、よく言えば変わり者、悪く言えば異端の扱いを受けていた。昔の話である。今やそんなことを表立って言う、トロール並の知性の者はいない。よからぬ噂にまみれ、叩けば埃が出てきて、社交界から放り出されたのはそいつら自身のせいである。サフィヤは姿を隠した屋敷しもべのそばでおしゃべりをしたり、給仕の側で談笑しただけだ。費用対効果は抜群だったとだけ言っておく。そして妻と結婚したのは成り行きであり、純血婚への反抗ではない。闇の帝王の子がどうこう……から逃れられたのは、妻の交友のお陰でもあるのだが。
――なにせ
ハリー・ポッターとジニー・ポッター、旧姓ウィーズリー――の娘のミドルネームは、妻由来なのだ。リリー・ルーナ・ポッター。赤毛の女の子である。
交友が浅いとはいえないだろう。意外なほど深い。そして、英雄の片割れ、ウィスタ・リアイス――ブラック=リアイスとも交友がある。主に妻のほうだが。
「茶でも飲んでいけ」
ローブと包装紙一式を無事に引き渡し、ではまたご縁があれば……とはいかなかった。予想はしていたので、予定は空けてある。サフィヤは暇なほうだけれど。浪費しなければ、働かなくても食べていけるだけの資産はある。たいして有名ではないがスラグホーン家は貴族なのだ。労働は卑しいなんて頭の固いことは思わない、今どきの貴族である。
速やかに茶の用意が整えられる。ちょうど三時のお茶の時間だ。まさか少年時代のサフィヤに「お前は将来、ゴドリックの谷に呼ばれてウィスタ・リアイスとお茶をするようになる」と言ったところで正気を疑うだろうなぁ、と遠い眼になる。いまでも信じがたい。サフィヤは仕立て屋である。あくせく働いてるわけではない、お気楽な貴族ではあるが仕立て屋である。まさか魔法騎士一族の重鎮、闇の帝王を倒した英雄の一人と茶をするなんて。トレローニーでも予言しないだろう。
「ところで、ホグワーツの教職に興味は?」
そら来た。天気の話もなにかもすっ飛ばしたストレートすぎる話が。
サフィヤは茶器を傾け、紅茶を飲む。喉と舌を湿らせ、さらりと返した。
「スラグホーン先生がいるのでは?」
「もう老骨が砕けそうだと」
「それは大変だ」
まーーったく他人事らしく返す。ウィスタが片方の眉を上げた。仮にも養父では? と言いたいのだろう。だが、養父は養父でもあれを父親という分類に入れていいものか、だ。祖父か曽祖父だろうあれは。いや違う。どちらかというと同居人――だった。サフィヤは養父を追い出した冷血な養子ということになっている。実態は「後はお前が好きにしろ」とスラグホーンの家督をサフィヤに譲ったのだ。今どき当主もないもんだが、スラグホーン家の当主はサフィヤである。
養父にはスラグホーン所有の別邸をあてがい、サフィヤ一家はお屋敷に住む、でほどよい距離を保っている。
「それこそリアイスのどなたかを放り込めばよろしいでしょう」
こっちに振るな、と暗に言う。妻が世話になっているので、できる限り頼みは聞きたいが、サフィヤは教師になってあくせく働くつもりはない。娘が入学し、卒業してからならありだが。
だいたいなんでサフィヤなのか。妻を誘われても困るが。たとえば魔法生物飼育学とか……打診されれば妻に訊いてはみる。みるが、あんまりリアイスとべったりはしたくないのだ。なにかあるならリアイスでなんとかしてほしい。そこでふ、となにかがかすめた。
――リアイスでないほうがいい、とか?
たとえば「別件に集中させたい」もありえる。しかし……と考える。なにかあったかな最近――と思い、ウィスタを見た。
「闇の帝王の子とスリザリンに組分けされたポッター」
数か月前飛び交った噂を思い出した。ハリー・ポッターの息子がスリザリンに。ドラコ・マルフォイの子……闇の帝王の息子という噂のある子と仲がいい、とか。あとはなんだったか。ポッターの息子がスリザリンになったのは、卿の呪いがどうこうもあった気がする。馬鹿馬鹿しい。ブラック家からグリフィンドール生が輩出され、リアイス家からスリザリン生が輩出されたのだから、もはやなんでもありだろうに。なにせマグルとマグル生まれの間の子、大嘘吐きの「スラグホーン」だって、スリザリンに入れたのだ。組分けなんていい加減なものだ。
「いい加減、骨通り越して塵になりそうなスラグホーン先生から、僕に交代させたい。そしたら自動的にスリザリンの寮監にもなる……で」
考えを口に出す。ウィスタの様子を窺う。ここまでは正解か。
「マルフォイとポッターに絡むやつらを牽制したい、と」
ホグワーツの理事とはいえ、英雄たる魔法騎士が噛む範囲ではないだろうに。ほかになにかあるな? 疑いが表に出ていたのか、ウィスタがひらひらと手を振った。
「俺を極悪非道の冷血漢と思ってるな」
カロー兄妹殺し、死喰い人たちを始末したスラグホーン? 歌うように告げられ、顔をしかめる。昔の話をほじくり返すとは。
「なんのことやら」
しらばっくれる。サフィヤはなにもしていない。なにもなかったのだ。あの戦いを検証しようにも困難であるし、今更サフィヤの服従の呪文の行使、死喰い人たちの殺害についてどうこう言えるわけがない。サフィヤもだが、誰もが厳密に言えば罪があるのだ。あの戦場は通常の法規の適用範囲外である。言い出したらきりがない。
「先生が腰が痛いとお嘆きなのと」
ウィスタは親指を折る。
「スリザリンを締め上げるためと」
今度は人差し指。
「きな臭くなりそうだから、実力者を配置したかった」
最後に中指。
理由があるといえばある、ないといえばない、か。サフィヤは息を吐く。どう返事をしたものかな。正面から断ってもいいのだが――というか、ウィスタは切れる札を切っていない。
「そこは、誰のお陰でルーナ・ラブグッドが旅行記を出せたと思っている……と圧力をかけるところでしょう」
クッキーをかじる。ふん、とウィスタが鼻を鳴らした。
「友人を脅しつけるのは趣味じゃない」
あと、ルーナの感性を俺は好いていてね。実にさらーーっと言うが、かなりギリギリの発言に聞こえなくもない。あいつは人妻なんだが? サフィヤだってあいつの絵や文はいいと思ってるが? まだ見ぬ魔法生物を探す旅がしたいと最初に相談されたのは僕だが? そしてスケッチブックと添えられた文の出来を見て「架空の話としてマグルのブログに載せても面白いかもな」と酔って適当に言ったのは僕だが!
だめだ。かなり大人げない考えが一秒の百分の一の時間で嵐のように過った。
――架空の話を載せたブログを
ウィスタが発見し、まんまと特定し「出版社に話を持ちかけるぞ」と妻に言ったのはなんの冗談だよ、だが。今では『旅行記』はダイアゴン横丁の書店を始めとした本屋に並んでいる。安定した売上を誇っている。内容はマグル向けのぼかした話ではない、ちゃんと魔法族向けのものだ。
芽生えた棘をなんとか呑み込む。やっぱ正面から断ろうか、と心の中の死喰い人が囁いたが無視した。大人なので。
「……臨時講師なら受けますよ」
いまは正規の教職どうこう、は先走りすぎでしょう。あとスラグホーン先生は限界まで頑張る人ではないので、駄目だと思ったら誰か引きずってきて後任にしますよ。
サフィヤの譲歩を察したのか、ウィスタが喉を鳴らす。
「わかったよ。今のところはな」
嫌な返事だ――と思っていると、彼はさらに続けた。
「うちの庭から、土産を持って行くといい」
土産、とはゴドリックの谷――ウィスタの住まい、その庭に咲き誇る花だった。
薔薇である。ウィスタの従者――エリュテイア・リアイス・リエーフに案内され「お好きなものを」と言われ、薔薇を何輪かもらった。棘を丁寧に除き、小さな花束にした。
――棘があってこその薔薇
そう、妻は言いそうなものだ。人の都合でありかたをゆがめるのはどうか、と。サフィヤも半分は同意するけれど、やっぱり棘は除かないと。危ないし。なにごとも自然のままがいいというのはやりすぎだ。
ゴドリックの谷から住まいの近くへ移動し、ゆっくりと歩く。ウィスタの「土産」は詫びのつもりなのだろう。サフィヤが大人げなかっただけだし、それを見抜かれたのはかなり忸怩たるものがある。仕方ない。誰しも調子が狂うことはある。
「……薔薇か」
赤い薔薇は妻には合わないだろうが、見事に咲いてるのは間違いない。白薔薇や淡い色なら合うんだろうけれど――サフィヤの脳裏に浮かぶのは、妻の笑顔だった。
合おうが合わなかろうが喜ぶだろう。そんなことは気にしないのだ。
なにせ、なんの価値もない花冠に喜んだくらいなのだから。
――くだらないものを喜ぶ、幼稚なやつ
そう、馬鹿にする者がいれば、サフィヤはこう返すだろう。
見る目がないのは、心が貧しいのはどちらか、と。
我が家が見えてきた。門扉を開け、小路を行き、玄関へ。扉を開けば、ほどなくして妻がやってきた。
土産だよ、とささやかで、ちっぽけな花束を差し出せば、思った通り妻は笑った。
昔と変わらずに。