音もなく、箱が置かれる。装飾もない簡素な箱だ。ルーナは箱を見て、向かいに在る、春草の眼をじっと見た。誕生日でもなんでもない、とある日。招かれたお屋敷の居間。照明は明るすぎず、暗すぎず。床も壁も――卓も椅子も使い込まれていて好ましい。ルーナの生家にはない重みだ。波に削られ角がとれた石のようだ。降り積もる時の、あるいは打ち寄せる時間に研磨された美しさがこのお屋敷にはある。浜辺で拾った石を思い出す。それは硝子の欠片だった。丸くなり手になじみ、柔らかく光るそれ。お屋敷にはそんな良さがある……。
「開けてみてよ」
さりげなく言った相手の眼が、少し濃くなっている。それが感情の揺れを示しているのだと悟ったのはいつのことだったか。
置かれた箱、相手の様子から、これから何が起こるのかわかってしまった。中身が蛙チョコや百味ビーンズではないのは明白だ。
――本当に
目の前にあるのだ、と思うと同時に、もし違ったならどうしようかと思う。
サフィヤ・スラグホーンにとって、ルーナとの結びつきは必須ではない。いいや、益がない。合理的ではないのだ。目の前の男は貴族の令息であっても放蕩息子ではなく、むしろ賢いほうだった。賢さの定義については置いておく。そして優しい男であった。本人は断固として否定するだろうが、ルーナから見れば優しい……と思う。賢くなければあの一年間をくぐり抜けられなかったろうし、優しくなければ湖でおぼれた誰かを助けなかったろうし、勇気がなければ人狼に殺されかけた誰かや、マグル生まれの誰かを助けなかったろう。まったく素直ではないひねくれ者なので「気まぐれだ」「僕の目覚めが悪くなる」等言うのだろうが。あまりにひねくれているのでスリザリンに入ったのだろうと思う。たぶん、グリフィンドールの適性もあったんだろうけど。
背中に汗がにじむ。望んでいたはずなのに、今更になって狼狽している。滑稽なほどに。ありえないのでは、と身のうちのどこかが囁く。だって口約束だもの。心が通じ合ったと思ったけれど、卒業してからはなんというか、進展なしで。
――出かけたりもしたし
食事にも行ったし、ルーナが生家を出たい、サフィヤの家の近所に家を借りようと思うのと言えば「いいんじゃないの」と返してきたし、家探しも手伝ってくれたし、防護の呪文もかけてくれたし。一応、なんだ……その、客観的にみれば「付き合っている」に入るのだろうけど。が、付き合っている男女が肉体的繋がりがないのはどういうことか。ルーナもそのあたりはいまいち詳しくないのだけど、せいぜい接吻止まりってどういうことだ。はっきり訊いたことはないものの、サフィヤ・スラグホーンという男はかなり慎重だった。悪く言えば奥手だった。
もてあそんでどうこうはないだろう、で早数年。曖昧模糊とした霧の中を進み、ルーナはサフィヤのすすめで旅に出て――旅仲間にスキャマンダー家の孫息子がいるんだ、と言ったらむっとしていたが――帰ってきたら呼び出され、今に至る。
スキャマンダーさんとことはなにもなかったよ、と報告すれば「あってたまるか」と機嫌が急降下した。ルーナだって「あってたまるか」だ。サフィヤの機嫌と反比例して、ルーナの機嫌は浮上した。浮上したのに箱を出されて急降下、いや乱高下だ。
「……開けるよ?」
どうぞ、と言われる。早くしろと眼が言っていた。サフィヤが変な悪戯心を発揮して、開けたら玩具の蛇が飛び出てくるなんてありませんように、と祈りながら留め具をはずす。
現れたのは銀の輝きだ。
「つくってくれたんだ?」
「遅くなったけど」
「本当だよ」
軽口を叩きながら、深い青のクッションに鎮座する、銀の冠に手を伸ばす。尊いなにかを愛でるように、そっと触れた。夢ではなく現実だ。言葉もなく息を吐いた時、小さな箱が差し出された。
「――通常」
婚約期間を設けるものだけど。それは飛ばしていいかなと。
堅苦しい声。いくつも指輪がはまった手が、小箱の蓋を開ける。澄んだ輝きが現れる。
「……やっぱりこれもないとね」
青い石がはまった指輪が、そっと取り出される。あっけなく、ルーナの薬指に銀色がおさまった。
まさか、ルーナに旅をすすめたのは、このためだったのか。冠と指輪をつくるための。訊こうとしても訊けない。どうせ訊いたって答えてくれないだろう。そういう人だ。そして、指輪の石を緑色のものにしなかったのだって、適当な理由をつけるだろう。決してルーナの出身寮に合わせたなんて言わない。素直じゃないから。
「ねえ」
素直じゃない男の対処法はわかっている。多少の意地悪をすることだ。
「はっきり言ってくれないと、あたし」
誰かに売っちゃうかもよ。
「おい」
声が尖る。なかなかいい雰囲気がぶち壊しだった。そうしたのはルーナなのだけど。でも、一度くらいはっきり聞きたいじゃないか。
「だってあたしたち友達だもんね」
「――ッ」
ぐっと手を握られる。痛いほどに強く。彼が歯を食いしばる。春草の色がぎらりと光った。それでもルーナは続けた。
「友達の接吻だったじゃ、」
ない、と言おうとして、熱いものが唇に触れ――
「……僕だって友人以上の接吻くらいできるが?」
ふん、と彼は鼻を鳴らす。
「あくまでも君はよそのお嬢さんで一人娘だろう、一線を越えるとしたら」
杖を交わした後にしよう、と僕はまあ、あれこれ考えていたんだが。
「精神的な繋がりで我慢できないのか、君は」
肌を重ねるだけが情愛の示し方じゃないだろうに。つ、と逸らされる眼に、笑みがこぼれる。ひねくれていて、堅苦しい男だ。そしてどこまでも貴族だった。今時「杖を交わす」前にどうこうはあるだろうに。
「冠と指輪をくれておいて、それはないでしょう?」
はあ、と男は嘆息する。ぼそぼそと何かを言った。ルーナはさらに意地悪した。
「言ってくれないとわからないよ」
「くそっ……暗黙の同意について話し合わないとだめなのか? わかったよ」
男は両手を上げる。
「こう言おうじゃないか」
■■■■■ると。囁くように口にする。ルーナはにっこりした。ほら、こうしてつつかないと言ってくれないんだから。大事な言葉を。
くすくす笑っていられたのは数秒間だけ。卓を回りこまれ、手をひかれ、立ち上がる。
「いいんだな?」
僕は今更を君を捨てるような真似はしないが、と男が言う。声にも眼にも熱がこもっていた。ああ、抑制という仮面の下はこうなっていたか……とルーナは瞬く。奥手な男の箍を、どうやら外してしまったようだ。
「そのときは、あたしの見る目がなかったんだよ」
小さく小さく呟いた。
「……心配しなくていい」
しくじらない。扉へと導かれ、居間を出る。廊下を進み、階段を上り、とある扉が開かれた。
そうして、踏み越えた。
友人も、恋人も、なにもかも。
越えたあとに「婚前交渉」「破廉恥」なんて言われてもルーナは知らない。
とっくの昔にヤドリギの下にいたのに、気づかないこの男が悪いのだ。