【完結】なめくじにも角   作:扇架

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なめ角本編後の話。短い。ネタバレあり。


月乙女に耽溺す

 あたたかい手の感触。細くて、けれど大きくて。

 なにごとか、影が言う。それがなにかはわからなくてもよかった。ただ優しく、誇らしげに見てくるその眼が、魔法のような手が好きだった。

 好きだったのだ。本当に。

 

 

 ふ、と眼を開けた。柔らかい敷布の感触。夜の底のように静かな室。ぼんやりと眼を凝らす。カーテンの隙間から、か細い光が差し込んでいる。寝台から降りて、カーテンを開けて、月の居場所を見れば――それか時計を確認すれば今が何時かわかるだろう。だが、サフィヤは動く気にならなかった。第一に、自分がいわゆる、あられもない姿であるということ。これは主に女性向けの表現か、と一人首をかしげる。女性ばかりはしたないだの恥じらいだの、あられもないだのという表現があるのはどうなんだ、ちょっと不公平な気がするぞ、とも寝起きで考える。本当にぼんやりしている。まったく気が付かなかった真理を掴んだ心地ですらあった。

 端的に今の状況を言い表すと、サフィヤは襤褸布一枚すら身に着けていなくて、寝台から出ようものなら、傷だらけの背中も、あまり男らしくない細い身体もなにもかも、さらす羽目になるのだ。

――別に

 ここにはサフィヤともう一人しかいないからいいけれど。養父はホグワーツだし、ティルには養父の世話を言いつけて、体よく外に出している。何泊かしておいで、と。

 恐る恐る隣を見る。金色の頭があった。身体は布団の下だ。サフィヤが余すところなく見て触れた――とまで考え、眼を細める。夢でもなんでもなく、サフィヤは一線を越えてしまったわけだ。自分にそういう欲などない、と思い込もうとしていた。いただけるだけいただいて、捨てるような男にはなりたくなかった。だから、世間一般の恋人たちのような、気軽な行為に及べなかった。

――できてしまうと困るから

 半身を起こし、そっと手を伸ばす。細い金糸に触れた。本当なら、情を交わすのは互いの杖を交わらせ、誓いの言葉を述べてからが最善だった。不用意に愛の結晶ができてしまったら、と考えるだけで寒気がする。無責任な男だと思われたくない? それはある。自制もできない愚か者と思われたくない? それもある。だが、建前を取っ払ってしまえば、サフィヤの奥底にあるのは、肌を重ねた後の結果に対する、説明のつかない恐れだった。

「僕は」

 己に確かめるように、戒めるように囁く。なぜだか夢の名残が胸を刺した。喪われた幸福。きっとあれは、あの影は父だ……。

「彼とは違う」

 母と愛し合っていたはずの人。息子のことも愛してくれていたはずだった。なのに破綻した。引き裂かれた。事切れた父の姿。硝子玉のような眼……血に塗れた居間。記憶の断片。

 なぜ、と問うこともできない。母を、僕を捨てたのはどうして、と。夢の名残があまりにも優しいものだったから、もはや取り戻せない過去に心が軋む。

 ちらちらと、よぎる影がある。眼を見開き、憤激をたぎらせ、サフィヤをなじる誰かの影。化物なんてほしくなかった、とその人は怒って……。

 かすかな吐息と、布の擦れる音に我に返る。幻にもならない記憶の砂粒は、どこかにさらわれ消えていく。サフィヤは、自覚もないままにその救いの恩恵に与った。彼は自ら「なかったこと」にすることを選んだのだ。そうと知らないままに、忘却の川(レーテ)の水を飲んだ。あまりに辛い記憶だから……。

 かすかに顔をのぞかせたその記憶は、今回もそっと封じられ、蓋をされる。主の知らぬままに。知らないことが救いなのだ。

 過去に蓋をし、改竄をした大嘘つきは、身じろぐ妻――ほぼ妻のようなものだ。心も身体も結びついてしまった――を見やる。けしかけてきたのはこの月乙女だ、と言い訳をした。合意の上だ。そういうこともありえるかと思って、お屋敷からティルを遠ざけた。あるかもしれない、もしかしたら、万が一、くらいの気持ちだった。友人の接吻どうこうで挑発してきたのは向こうである。いや、接吻だけで済ませるつもりだった。つもりはつもりでしかなくなった。

「……君か意地悪をするからだぞ」

 小さく言う。夢見がちな女、とこの月乙女を評する者がいれば、サフィヤは鼻で笑うだろう。その眼は節穴か? と。

 月乙女は夢だけでなく現実を見ているし、想像以上に積極的で……多少は淫らな欲を持ってもいた。婚前交渉は避けるべし、と慎重に振る舞っていたサフィヤの思惑は木っ端微塵になった。なった、というのは不公平だろう。

 突き詰めれば……サフィヤが溺れてしまっただけだ。どうしようもないほどに。愚かしいほどに。わざわざ大嘘つきのスラグホーン家の男と結びつこうとする、この女に。

 きっと『純血』の、しかもスリザリン系の男と結ばれるより、どこかの魔法生物学者の孫と添ったほうが幸せだろうに。

 僕でいいのか? と訊いたところで答えは変わらないだろう。だから、サフィヤはそっと囁いた。

 陽の下では意地悪でもされないと言わない、大嘘つきの本音を。

「あいしてる」

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