窓の外には鮮やかな草花。居間に香るのは珈琲の香。
サフィヤは小さな冊子をめくる。いわゆる計算ドリルというやつだ。羽根ペンではなくマグル製品の水性ペンで丸をつけたりバツをつけたり。
小さな生徒は気ままにお絵かきに興じている。淡い金の髪。眼は蒼――澄んだ燐の色。妻の眼は銀で、サフィヤの眼は妻が言うところの「春草の色」だ。だったら灰か銀、緑の系統が娘には引き継がれるだろうに、なぜだか蒼の系統がひょっこりと現れた。謎である。どっちかの先祖から流れ着いた、いわゆる隔世遺伝というやつか。片眼の下には泣きぼくろ。サフィヤと同じ位置にある。血の不思議はあるけれど、ディアナ・スラグホーンは紛れもなくサフィヤ・スラグホーンとルーナ・ラブグッドの娘だ。
ちら、と娘を見ながら、サフィヤはせっせと手を動かす。決戦から数年して結婚し、それまた数年して生まれた娘は十歳。そして今年はホグワーツでのあの戦い、勝者と敗者を分けた戦から二十年という、記念すべき年だ。
――敗けていたら
ふ、と手が止まりそうになる。敗けていたら。ヴォルデモートが勝っていたら。この光景はなかったのだろう。サフィヤは恐らく始末されていただろう。裏切り者の末路は悲惨だ。碌な死に方をしないに決まっている。
勝っていようが敗けていようが、まさかルーナ・ラブグッドと結婚して一女をもうけているなんて当時のサフィヤは思わないだろう。しかも、こうして娘の面倒をみているなんて。ホグワーツ入学までに読み書き計算その他基礎を仕込もうとサフィヤはがんばっている。妻は上の階でなにやら執筆中。妻は「読み書きくらいでいいんじゃないの? ディーは賢いモン」とか言っていたが無視した。貴族は馬鹿でも遊んで暮らせると思われがちだが、貴族だからこそ馬鹿では困る。資産管理をしなければならないわけだし。あまりにも莫大な財があるならば管財人を置くわけだが――その管財人が必ずしも正しい報告をするとは限らないわけで、やはり数字には強くないといけない。信用できそうな人の見抜き方、馬鹿のあしらい方も仕込みたいが、ホグワーツという名の集団生活で身につけてもらうしかないだろう。小さな柔らかな頭に、あまり詰め込みすぎもいけない。
将来を見越した親の心配など娘は知らず、買い揃えたカラーペンでご機嫌になにか描いている。サフィヤが家庭学習じゃあなくマグルの学校にとりあえず入れとくべきだったかなんて思っているなんて気づきもしない。
――でもなあ
うーんと軽くうなりながら、採点していく。悪くはない。一応合格点だ。サフィヤもルーナも比較的自由のきく職業だから家庭学習でなんとかなっているだけで、よそのお宅はどうしてるんだろう? ガリオンを使って家庭教師を雇う手もあるが、そんなに余裕がある家庭ばかりじゃないだろう。魔法族が多いところなら、元教師が子ども教室なんてものをしていることもあるけれど……。魔法族の教育はけっこうゆるくて「ホグワーツか学舎に入れればなんとかなるさ」が主流だ。学舎というのは魔法力はあるがホグワーツに入れるほどではない子どもたちが行く場所だ。魔法力と一口に言っても色々あるのだ。ちなみにマグル生まれの逆、スクイブはマグルの学校をすすめられるとか。
ほんとは子ども教室がもっとあったほうがいいんだろうなあ……と考えながら手を動かす。そういう、世の中をよりよくする試みは、リアイスの英雄が考えているだろう。孤児院ぶっ建てたり、子どもを回収したり、図書館ぶっ建てたり走り回ってるし。
彼に動いてもらったほうが都合がいいのだ。スリザリン系はやはり、未だに肩身が狭い。孤児院や聖マンゴに寄付したり、戦災孤児や望まれなかった子、捨て子と養い親を結びつけたり、手ずから引き取ったり、スリザリン系も目立たないように動いているけれど。そんなものは一部の者に言わせれば偽善だそうだ。無惨にも家族を、恋人を奪われた彼らはスリザリンを憎む……。
傷痕は、未だに深い。
サフィヤの背が疼いたその時、窓を叩く軽い音がした。娘がお絵かきを放り出し、弾むような足取りで窓へ駆け寄る。軽い軋みをあげて開け放たれた窓から、ふくろうが滑るように入ってきた。とん、とテーブルに着地し、ふくろうは偉そうにサフィヤを見て、くちばしから封筒を落とした。
ああ、リリーからだったらよかったのになぁ、と娘が言っているのを流し、さっさと開封する。竜の紋が眼に入り、サフィヤは軽く息を呑んだ。
『偽善でもやらないよりはいいもの』
そんな、穏やかな声が、記憶の中から蘇った。
「やらないよりはいいもの」
二年前に開かれたパーティ。主催は「片翼もがれた」マルフォイ家。名目はなんだったか覚えていない。実質は孤児院への寄付を募るためのものだった。
サフィヤは彼女の小さな手をとり、ゆったりと踊りながら問いかけた。
「わざわざ目立たなくてもいいんじゃないの」
マルフォイ夫人?
アストリアという名ではなく、夫人という呼称を強調すれば、彼女は小さく笑った。
「片翼を失った、哀れな竜ならば」
縮こまっていないと駄目かしら。
「そんな竜を選んだ私は愚かと思う?」
どっちつかずの蝙蝠さん。からかうような、しかし寂しさの漂う言葉。
「悪かったよ」
「私もあなたも愛を選んだものね」
にこにこされれば、サフィヤは黙るしかなかった。こんな昼日中に愛について語り合わなくても。愛は夜に囁くものだ。
「……僕とルーニーは成り行きだよ」
君たちはなんというか、艱難辛苦だよねえ。ついつい感情がこもってしまう。ドラコ・マルフォイとアストリア・グリーングラスの婚姻は語り草になっている。マルフォイ家とグリーングラス、その分家の娘との婚姻にさしたる利はなかった。グリーングラス本家の娘、リディアは戦場に乗り込んで勇ましく戦ったが、分家の姉妹は逃げ出したのだ。実際には闇側に付こうとする連中をまとめて隔離して監視していたのが、外から見れば「スリザリンらしく逃げ出した」とまとめられる。その貢献は目に見えず、評価もされず、グリーングラスの分家はかなり微妙な立場になった。あの時ヴォルデモートに背いたスリザリン系は似たようなものなのだけど。
なんにせよマルフォイ家もグリーングラスの分家も勝ち馬に乗り損ねた。婚姻という手札を切るならば、中立家門のマグダラ家、それは無理でもハッフルパフやレイブンクロー系の家門と結びつく。それかグリーングラス本家と手を結ぶ……さらに思い切ってリアイスなどのグリフィンドール系に近づくなどの選択肢があった。貴族の婚姻とは同盟のための手続きに過ぎず、政略婚など珍しくもない。
しかし、だ。生粋の貴族たちは政略など蹴り飛ばし、まったく利のない婚姻に踏み切った。理よりも情。利よりも愛。
「……粋だとは思うけどね」
マルフォイ家の当主殿も幸せそうでなによりだよ。ちら、とどこかの夫人と踊っているドラコ・マルフォイを見る。昔は甘やかされた呑気なお坊ちゃんらしかったが、あれやこれやあったからか、少し精悍になったようだ。時は人を変える。
「あの人がよかったのよ」
たぶん、きっと妥協することもできた。でもねサフィヤ。
私はあの人を選んだの。
囁き。アストリアがふらつく。慌てて受け止めれば、ひどく熱かった。ふ、とかすめたのは何かが腐ったようなにおい。
――朽ちてしまえ
――濁ってしまえ
誰かの願いが響く。
――苦しんで苦しんで
――苦しんで苦しんで苦しんで
――果てよ、と
「……お疲れのようですね」
夫人。
務めて平静を装い「マルフォイ夫人」を支え、会場をぐるりと見回す。彼女の夫、ドラコ・マルフォイが優雅な足取りで――しかし早足にやってきた。
彼も、アストリアも心なしか青ざめていた。サフィヤはなにも聞かず、マルフォイ家のパーティが終わるまで居残った。アストリアの姉ダフネもまたそうだった。
寄付金の箱をもって会場を回り、たまにマルフォイ家子息のスコーピウスの相手をし、招待客を誘導し帰らせた。
サフィヤはただの部外者だった。しかし、知らぬふりはできなかった。なんだってそうだ。知る前には戻れない。
お開きになった会場。スコーピウスは早く寝なさいと部屋から出された。鎮座する長椅子に横たわるアストリア。招待客に気取られないように気を張り続け、くたびれ果てていた。
サフィヤはふーっと息を吐いた。
なにをやっているのだと思う。これは他家の事情……極めて繊細な事情だともわかっている。けれど、こんな弱々しいアストリアを見ては帰れないではないか。
「僕より腕のいい薬師はいます。でも、鎮痛剤をお渡ししておきます」
とても座る気にもならず、サフィヤは卓の上に薬瓶を置いていく。
「スラグホーン」
なにごとか、ドラコ・マルフォイが言いかける。サフィヤは手を振ってそれを制した。
「僕は一度帰ってまたお邪魔します」
なにせ血の呪いなんて与太話だと思っていた。早口で言えば、ダフネがうめいた。
――グリーングラスの呪われた血
歴史のなかに埋もれた話。過去の影でしかなかったはずだった。名家になにかの逸話は付き物だ。それは怪物退治の英雄譚であったり、奇跡かと思うような癒やしの伝説であったりと様々だ。そしてグリーングラス家の場合は呪いだった。血の呪い。ただの箔付け、でたらめだったらよかったのに。
「せめて眠れるように、強めの薬を」
そしてあなたはさっさと聖マンゴの予約をとることですね、とドラコ・マルフォイに告げた。片翼がもがれようが、寄付は継続してるんでしょう? なにがなんでもねじ込むことだ。
さっさとこんな呪いは解いてしまうに限る、と。
――解けなかったのだ
正確には、間に合わなかったのだ。
色の乏しい庭園、並べられた椅子のひとつに腰かけ、サフィヤは拳を握る。設えられた壇の上には花々が飾られ、柩が鎮座している。参列者によって花が手向けられ、その蓋は閉じられた。永遠に開かれることはないだろう。そうして、柩を守り、寄り添うように掛けられているのは、深い緑色の布――柩掛けであった。
サフィヤは寝不足で重い瞼を必死に上げ、己の仕事の出来栄えを確認する。昨日受け取ったのはマルフォイ家からの手紙。アストリアの死の報せと仕事を頼みたい旨の内容だった。
布や糸の見本、筆記具その他を持ってマルフォイ家へ飛び、柩掛け作製を請け負った。本来ならば死を見越して用意しておくべき品である。だが、やつれ果てたドラコ・マルフォイ――文字通り片翼を失った男をこれ以上追い詰めてなんになるだろう。サフィヤは図案の希望を聞き、葬儀の日程を聞き、前金をもらい、スラグホーンのお屋敷に戻り、作業部屋へ飛び込んだ。
緑の布に、マルフォイ家の竜とグリーングラスの隼を挿す。死後の眠りの安らかならんことを祈り、遺された者の幸福を願う。花々を針と糸で布地という世界へ現し、彩った。
それくらいしか、サフィヤにはできなかったのだ。せめてもの手向けだった。
サフィヤがぼんやりしていようが、葬儀は進んでいく。純血家――傾いたとはいえ名のある家の正夫人、その弔いの場にしては参列者は少なかった。前のほうに見えたのはリアイス夫妻――ウィスタ・リアイスとレディ・リアイスことクイン・リアイス。旧姓マグダラ。参列者たちはひそひそと英雄の参列、その意図について囁く。
――意図もなにもないだろう
ただ悼みに来た、それだけだ。サフィヤのように。貴族だって人間で、誰かの死を悲しむこともあるのだ。
ぎゅっと眼を瞑る。
『心のままに』
動きたい時だってあるもの、とアストリアの声が蘇る。あれはずいぶんと昔の慰霊祭でのこと。ホグワーツで執り行なわれるそれにサフィヤとルーナ――スラグホーン夫妻は出席した。そして妻は心ない囁きにさらされたのだ。暗に妻を石女と、子無しと嘲笑うようなもの。しかし厳粛な場を乱すわけにはいかず、サフィヤは妻の手をきつく握ってやることしかできなかった。あまりに無力だった。自分の「巧くやりすぎた」振る舞いをあの時ほど後悔したことはなかった。最初から闇の陣営に背いていれば、と。
息の詰まるような時間。妻は震えていて気づかなかったようだが、段々と雑音は消えていった。ふつ、ふつ、と途切れて、ぱたりと止んだ。そっとあたりを窺えば近くにいたのがマルフォイ夫妻だった。アストリアは貴族の御令嬢、いいやマルフォイ夫人らしかぬ、してやったりという顔をしてサフィヤに片眼を瞑った。
慰霊祭が終わり、ぱらぱらと人が散り……噂好きなドクシーどもは、氷のような眼をしたウィスタ・リアイスに放り出されていた。次の年からドクシーどもは慰霊祭を出禁となった。
サフィヤは少しの間、妻をジニー・ポッターに任せ、アストリアを探した。礼を言えば「なんのことかしら?」ととぼけられた。
借りを返しただけなのよ。ほら、どこかの仕立て屋さんがお馬鹿なグリフィンドール生の海賊から助けてくれた、その借りをね。
ホグワーツの沼と小舟……日常の一コマを思い出し、ふと笑う。アストリアめ。あんな昔のことを持ち出すなんて。じわじわとこみあげてくる懐かしさおかしさは、どこからともなく聞こえてきたその声に打ち消された。
マルフォイも馬鹿だな
身体の弱い女を娶ることなんてなかったのに
言わんこっちゃない
報いなんじゃないか? だってマルフォイは闇側だ……。
ひく、と喉が鳴る。いくつもいくつも。最前列には聞こえないくらい。しかし近くにいる者に聞こえても構うまい、というくらいの声量。小さな棘と悪意があった。
視線を滑らせる。ポケットの中に手を突っ込む。セバスチャン・サロウの杖に命じた。
不届き者を黙らせろ、と。
――葬儀が終わった
椅子から立ち、庭を抜けようとする流れに従う。背後から肩を叩かれ振り向いた。
「これはお久しぶりです」
パーキンソン先輩。言えば、簡素ながら趣味のよい喪服に身を包んだ魔女が「やるじゃない」と返した。まったく文脈がつながっていない。まぁ先輩とはそういうものだ。ついでに「可愛い私の天使」と娘を可愛がり、余計なごてごてを付けていたママの呪縛からは脱したようだ。あの事件は何年前のことだったかなあと記憶を探るサフィヤを無視し、魔女は続けた。
「あの頭が残念な連中、黙らせたのはあんたでしょ」
「さぁ?」
庭の一角が少々ざわついている。ああ、スリザリンメンバーがお騒がせドクシーどもを引っ立てているようだ。まったくドクシーはどこにでもいる。ドクシーどもを連行しているのはブレーズ・ザビニか。スリザリン、性格が悪いと言われるがそれなりに結束は固いのだ。
「いいわよ。どうせあんたはとぼけるし」
なぁに、ラブグッドのボケっぷりが伝染ったわけ。あんたも変わってるわよねスラグホーン。
もう好き放題の傍若無人の自分勝手の自由奔放である。仕方がない。先輩ってそんなもんだ。
「この後集まるんだけどさ」
「決定ですか」
「そりゃそうよ」
自分勝手だな。
「僕と先輩方で?」
わかってます? 僕は裏切り者であなたたちは逃げ出した組でしょうと言えばどつかれた。ああそうだったよ。パーキンソン家の御令嬢は昔ドラコ・マルフォイに矢を射掛けようとしてたのだ。恋破れたというやつだ。
「誰かを悼む時くらいごちゃごちゃ考えなくていいのよ」
あたしだってちょっとはいいことしてるんだからね、とパンジー・パーキンソン嬢は胸を張る。お貴族らしく、孤児を引き取ったと聞いていた。あの戦の余波で捨てられたわけありの子を。どうせ初恋のドラコ・マルフォイに頼まれたからだろうが、それは言ってはいけない。
「わかりましたよ」
あーあ、とおおげさにため息を吐いてみせる。庭を抜け、門扉から外へ出る。ドクシーどもを明らかに違法なポート・キーでどこぞへ追放し、ブレーズ・ザビニがやってきた。彼に片手を上げながらサフィヤは言う。
「みんなで悼みましょう」
逝ってしまったアストリアに杯を捧げて。