さらさらと流れる衣擦れの音は穏やかな潮騒を、かすかに輝く様は月に照らされた水面を思わせた。流れ落ちる衣は小さな星々が縫い止められているようで、時折ちらちらと光る。裾は優雅に長く、魔法を持たない人たちが想像する、美しい人魚の尾びれのようだった。
「……完璧だ」
とある地方のとある村、とある酒場でサフィヤはあふれてきたものを飲み下した。眼が潤む。もう完璧だよ花嫁さん。しごかれながらもがんばってよかった。間に合ってよかった。
――そう
間に合わないかと思った。リーマス・ルーピンとニンファドーラ・トンクスの結婚式に。
事の起こりは、とサフィヤは思い返す。ダンブルドアが殺され、葬儀が行われ、問答無用で生徒が帰宅させられた後。日延べされた普通魔法試験をロンドン――魔法省で受け、干からびながらダイアゴン横丁のマダム・マルキンの店で休憩していた時だった。
「坊や。試験はどうだった」
にこにこしながらマダム・マルキンは冷たい水を出してくれ、サフィヤはむさぼるように飲んだ。白っぽい金髪は汗でびっしょり、スプリンググリーンの眼は虚ろだった。下手に日延べされたから試験前モードが強制解除してしまい――気が抜けてしまったのだ。そんな状態で受けたものだから試験がよくできたかトロール並だったかもわからなかった。
「全部落第はないと思う」
と答えたか答えなかったか。被せるようにマダム・マルキンは言った。
「おいしい話があるんだけど」
「マダム……」
それはたいていの場合詐欺だよ。サフィヤはさっと奥の仕立て室を見回した。変な壷はない。
「投資話でも持ちかけられた?」
「いやいやまっとうな筋からだよ」
サフィヤの向かいにちょこんと座った年齢不詳の魔女はにっこりした。年なんて訊く必要もなかったし、そもそも魔法族の年齢はわかりにくいのだ。
「まっとうな筋」
言い方。言い方どうにかならないかなマダム。眼を細めてマダム・マルキンを見つめていると、扉が叩かれた。「ああ、来たね」とマダム・マルキンは言った。下っ端のアルバイト店員は立ち上がり、誰だろうこんな奥までずかずか来るのは、と思いつつ、杖片手にそっと扉を開けようとした。向こうから勢いよく開いた。よろめくサフィヤの手首を誰かががっちりと掴んだ。
「マダム」
「これが」
反対側の手首も掴まれた。サフィヤは指を曲げようとして、口を開けた。
「生きのいい羊」
「いや若いのですか」
扉口にいたのはよく知った人物たちだった。リガーダント工房の主たち。人呼んでリガーダント兄弟。ダイアゴン横丁に店がある。正確には横丁「にも」店がある。主に服飾を取り扱っていて、横丁の店は上下の揃いから靴から、装身具――結婚指輪まで注文可能。時に呪いの指輪やネックレスの解呪までする……あんたら何者だよ、というのがリガーダント兄弟であった。
ちなみに最近の実績は、即死級の呪いがかかった首飾りを解呪したことらしい。
サフィヤは彼らの店をちょくちょく覗いていた。時たま彼ら、あるいは彼の姿を見かけることはあったけれど、声なんてかけたこともない。なにせ彼らはリアイスだから。
で、そんな彼らがサフィヤを見ている。宝物、いや獲物を見つけたような目つきで。
「君は」
「新しい世界を見たくないか」
結果だけ言おう。見た。ある意味見た。あれよあれよと言う間に憧れの工房に引きずって行かれ、奥の室に放り込まれた。そこにはたくさんの職人がいて、眼を血走らせていた。
「おう新入りか」
「よしよしかわいがってやるよ」
サフィヤは震えた。あたりには白い布があふれ、スケッチが散らばり、トルソーが何体も置かれていた。新入りの通過儀礼が始まるに違いない。状況が飲み込めないながらも覚悟を決めたサフィヤに、ぎらぎらする眼がいくつも向けられた。
「じゃあこれ縫ってみな」
「刺繍は?」
等々言われるままにこなしてみせた。職人たちはにやりとした。戦力確保、と。
なんの戦力か。「さる御曹司の恩人が」「結婚式をするので」「超特急で花嫁衣装その他諸々を用意するための」戦力である。結婚式の日程を聞き、倒れそうになった。なんだその小説とかに出てきそうな三日で準備を整えな、みたいな設定は。
「どうなってんですか」
怖いその他の感情はどこかに投げ捨てた。花嫁衣装の選定は終わっている。デザインも「超特急で」起こし、仮縫いを始めたところ。魔法でさっさと服なんてできるだろうがと思われるだろうが、魔法でさっと仕上げるのは、切って糊で貼るようなもので強度の問題がある。あと美しくない。そして複雑な形状だと、針と糸を使ったほうが回り回って楽なのだ。マグルの童話に出てくる灰被りが着た美しいドレスは、老魔女が事前に用意していて、出現呪文で出したに違いないとサフィヤは思っている。
「坊ちゃんがね」
職人――魔女が言った。指揮者のように杖を振り、手を休めることなく。
「やれってさ」
ガリオンという名の暴(権)力を使用し、超特急料金の何倍ものガリオンを投下したとのことだ。
元々の出資者もとい注文者は花婿らしいけれど、その坊ちゃんがこっそり裏で手を回し、超特急かつ美しい衣装を作るようにと依頼したそうだ。絶対漏らしてはいけない最重要機密事項と言われた。サフィヤが連行されたのは、人手が足りなかったからだ。
だってティアラもつくるんだって。超特急で。
ひたすら針と糸と布と向き合い、依頼者たちの人生に星々のきらめきを添えるべく働きまくった日々から今へと意識を戻す。もう感無量だ。
ハンカチで目元を押さえ、サフィヤはいそいそとルーピン先生の元へ行った。先生もとてもかっこいい。完璧だ。酒場の隅っこで、ちらちらと先生のことを見ているのはウィスタ・リアイスか。
おめでとうございますと言おうとして、別のことを口にしてしまった。
「あのー、先生」
リーマス・ルーピンはウィスタ・リアイスの養い親、いわゆる後見人らしいと今回のあれこれで聞いていた。つまりガリオンの詰まった袋でリガーダント兄弟の横っ面を張り飛ばしたのは彼である。その彼を、サフィヤはちらりと見た。闇よりも深い黒衣をまとっている。おそらくブラック家お抱え職人の家系が守ってきたと言われる、特殊な染料を使っているのだろう。美しい黒だった。そして彼は、見間違いでなければ少し落ち込んでいるようだった。養父の結婚式だというのに。
「ああ」
ルーピンが小さく笑った。
「ちょっと彼のプライドに傷をつけたみたいで」
だって子どもから結婚祝いを受け取れないよ。苦笑気味に言うルーピンに、思わず返した。
「それは受け取ってあげてくださいよ」
「でも、」
「じゃあ、次にお祝いごとがあったときに」
ぼかして言った。なぜかそのお祝い事があると感じていた。ルーピンの顔がかすかに曇った。彼は人狼だから、あれこれ考えているのだろう。そして良識があるから懸念しているのだ。
なんでまっとうな人が苦しまないといけないのか。サフィヤの父、顔ももはやおぼろげな父のように人でなしではないのに。
血塗れの居間、息をしていない母親……べったりとついた血の幻を振り払う。サフィヤは花婿の、世界で一番祝福されるべき人の手を握った。考えてしたことではなかった。ただ……言うならば慰めたかったのだ。
「大丈夫ですよ。「それ」は遺伝しません……ホグワーツの生徒は知っています。ここにいる人たちも知っています。先生が善い人であろうとしてきたことを」
ルーピンが喉を鳴らした。じっと琥珀の眼がサフィヤを見る。
「だが」
「心配するようなことは起こりません」
静かに告げる。まるで予言者の――卓越した詐欺師のように。
「いつか困難から逃げ出したくなったら、僕の言葉を思い出してください」
彼女はあなたを愛し、選び、そばにいると決めたのだと。
あなたは信じ、その愛に報いるべきだと。
「さすがにこれだけ働いたら」
給金くらいくれてもいいんじゃないの?
サフィヤはスラグホーン屋敷の居間、大きなテーブルを示す。あちこちに便せんや封筒が散らばり、インク壷がいくつもあり、羽根ペンが転がり、点々と緑の封蝋が落ちて固まっている。マグルのほうだと封蝋の色に決まりがあるらしく、紅は男が使うもので女は青や緑を使うらしい。どこで聞いたのか、それとも読んだのかはあいまいだ。マグルは今や電子メールを飛ばすものだし、封蝋を使うような仰々しい紙の手紙を出す機会なんてものはない。ほとんど消えてしまった文化だ。
伝統を守っているのか、かび臭い慣習に縛られているのか解釈は分かれるだろうが、魔法界では未だに紙が主流だ。封蝋の色に厳密な決まりはない。
代々グリフィンドール寮の出身者を輩出する家門――グリフィンドール系の家だと、封蝋は紅が多い。マグダラ家は黄系統、男子が絶えたクラウチ家であれば青系統。もっとも、クラウチの家督はリアイスの魔女が継いだらしいと聞いている。
ブラック家であれば封蝋は黒あるいは緑。これもややこしいことにリアイスの魔法使いが――ウィスタ・リアイスことウィスタ・ブラック=リアイスが家督を継いだので、場面によっては黒と紅を使い分けるのだろう。
そしてスラグホーン家のサフィヤはひたすらに緑の封蝋を押捺しまくっている。
「家業の手伝いに給料が出せるか」
アルバイトの給料に加えて小遣いをやっているだろう。養父はぴしりと言い、サフィヤが作業しているのとは別のテーブルで、なにやら難しい顔をしている。ダンブルドアが死のうが、養父がホグワーツの教師であるのは間違いない。新学期に向けて授業計画を練っているようだ。
「むしろそっちを僕がやってさあ」
こっちをホラスがやるべきじゃないの? とサフィヤは眼をつり上げる。作成中の手紙の山は、いわゆる外交、あるいは社交のためのものだ。主に海外にいる養父の「教え子」宛。それと。
「よその校長とか先生に手紙書くのは僕の仕事じゃないだろ」
「そんだけ書けば慣れるだろう。練習と思っておけ」
親心に満ちた発言と思うなかれ。本当は仕事をぶん投げてきているだけだ。
「ホラスがやるべきことなわけ、これ」
「私が一番適任だ」
ミネルバは忙しい、と養父は言う。ダンブルドアという要を失って、ホグワーツの運営自体も不透明だ。新学期、どれだけの生徒がホグワーツに戻るのかもわからない。それに。
「マグル生まれの教育の場所を確保しておいたほうがいい」
なにをそんなに心配しているのさ、と三年ほど前なら笑い飛ばしていただろう。だが、サフィヤもなんとなーく嫌な予感はしていたし、なんとなーく、マグル生まれはホグワーツに入学できない、それか戻ることができないんじゃないか、と思ってしまう。「マグル贔屓」のダンブルドアが死喰い人に殺された今となっては、なんだって起こりそうだ。
マグル生まれは魔法省に出頭するように、とか。どこかに隔離する、とか。ありえそう。
「放置ってまずいんだっけ」
「魔法の制御を覚えていないうちに、マグル社会に放り出すのはまずい」
養父はつらつらと言う。魔法を嫌うマグルの元に生まれたマグル生まれは特に悲惨だ。疎まれるから魔法を使わないようにする。隠そうとする。ホグワーツに入学できれば問題ないが「妙な学校」に親が通わせたがらなかった場合は……。
「オブスキュラスが発生する。それに、魔法界の秘匿にも関わる」
身のうちに魔力をためこんで暴走して云々、その子は死ぬし、どんな騒ぎが起きることか等々。
「じゃあ仕方ないかなあ」
最悪マグル生まれが死にますよとか言われたらやるしかない。なにかあったときは、マグル生まれをあなたのところの学校に受け入れてね、という手紙を書いたりなんだりするしかない。幸い、ホグワーツの評判は悪くない。特にボーバトン、ダームストラング、イルヴァモーニーとは友好的な仲だそうだ。
なんと遠い日本にある魔法処からも色よい返事がきた。「あれこれ災害とかテロとかあったときに世話になったから有事の際は受け入れる」らしい。そのあたりはホグワーツが動いたわけじゃあないが、リアイスが魔法省を巻き込んでどうこう。災害派遣チームを即座に組んでどうこう。リアイスは日本の土御門家と仲良しらしい。グローバルだ。
あっちの着物とかすんごく綺麗なんだよなあ……とサフィヤは思いを馳せる。ごたごたが落ち着いたら日本に旅行したい。
――そういえば
ラブグッドは日本に旅行したんだっけ。変な置物送ってきたよなと思い出してうっとなった。木彫りの熊。魚をくわえた謎の土産。捨てるに捨てられず放っておいている。そこは君、日本の北に行ったんならさあ、マグル土産じゃなくてえ、独自の魔法文化を持つ集落に行けばよかったものを。コタンだっけ? なんとかコタン。そもそも日本は魔法文化が混沌としているらしいけど。
木彫りの熊を頭から追い払い、サフィヤは手を動かし続ける。養父の代理人、サフィヤ・スラグホーン名義なので、養父に筆跡を似せる必要はない。数が多いけれど。
書いては封蝋を押し盆に積み上げ、ティルが頃合いをみて配達に行き、場合によっては返事を持ち帰り……を繰り返しているうちに陽が暮れた。
「ホラス、夕食の準備するから」
片づけしてよ。そう言おうとしたとき、居間に白い輝きが降りてきた。いくつもいくつも。
「先生」
「大変なことに」
「ルーファスが」
守護霊たちが好き勝手に話し、スラグホーン家の居間に音楽隊でも現れたようだった。ごちゃごちゃとした断片の中、銀色の猫がはっきりと言った。
「魔法大臣が殺されました」
◆
「望むなら」
よその学校に入れるぞ。玄関先で養父は言った。拳を固く握っている。なるべく淡々とした風を装っているが、さすがの養父も心配なのだろう。魔法省が乗っ取られ、マグル生まれ登録が始まり、全学童のホグワーツ入学義務化が告知された。今なら間に合う、と養父は言っているのだ。留学名目で海外の学校に逃げればいい。どうとでも言い抜けてやると。
「僕は純血だ。やつらも手を出せないよ」
どの曲がり角を曲がるかはサフィヤ次第だった。そしてイルヴァモーニーやほかの学校へ続く角へ曲がることを拒否したのだ。
「……別になにもできないけどね」
それでも、ホグワーツに行っておいたほうがいい、と勘が告げている。単に今更別の学校に行くのが面倒なわけじゃない。
養父をじっと見る。いつの間にか背丈を追い越していた。よかったよ縦に伸びるだけで。横に伸びてだるんだるんの体にはなりたくなかった。
「そういうホラスだってよそに行けば安泰だろ」
「私は大人でお前は子どもだ」
「ああそう。たまには本音をどうぞ」
「……反抗的な生徒が殺されるかもしれない」
だから私も戻るのだよ。いつものらくらしているくせに、養父の眼には危険な輝きが宿っていた。養父は別に子どもが好きというわけではないし、慈悲深いわけでもない。が、闇の勢力は気に入らない。もっと言えば憎んでいる。
「ホラスの教え子たちみたいに?」
養父は黙って頷いた。彼なりに眼をかけていた生徒は複数いる。綺羅星のような彼らは――教え子たちの中には、例のあの人に惨殺され、あるいは壊された者もいる。たとえば闇祓いのリーン・リアイスのように。
「僕は表立って反抗はしないからね」
ほかの子に集中したら? 言って、ひらりと手を振る。片手はティルが握っていた。
「じゃああとでね」
玄関扉を開け、外に出る。「なにかあれば守護――」と養父が言い掛けたが、容赦なく扉を閉めた。
養子を見送り、彼はため息を吐いた。面倒なことになったものだ。魔法省が陥落するとは。ルーファス・スクリムジョールは精一杯がんばったのだろうが、なにせ状況が悪すぎた。自らが囮になり、例のあの人に一矢報い、時間稼ぎに成功。お陰で多数の人間が省から逃げ出せた。彼の魂に平穏があらんことを。軽く祈り、ソファに身を沈めたまま眼をつぶる。養子のことを考える。ホグワーツに戻るなんて選択をするとは。無意識になにかをかぎ取っているのかもしれない。それにしたって。
「たまに無駄に勇敢になるのだから」
まあ構わない。サフィヤは己の身を守ることにかけては卓越している。それこそ子どもの時から。
そのために、己の記憶すら書き換えた。
あの子どもに絶対に漏らすまいと思った事項はいくつかある。グリンデルバルド一族の血統であること、それに連なる異能――いわゆる未来視、あるいは先視と呼ばれる能力、そして魅了、あるいは服従と呼ばれる――支配者の能力。
特に後者は呪いのようなものだ。そのせいで教え子は死んだ。
そろそろ出かけなければならないのに、億劫になってきた。逃避するように、彼は昔のことを思い出す。
逆転時計を使ったときのことを。疑問だったからだ。教え子がマグルなんかに殺されたことが。彼女ならば、攻撃を受ける前に「夫」を制圧できたのではないか、と釈然としなかった。開けてはいけない箱だと感じながらも、興味の前に屈した。伝手を駆使して逆転時計を借り受けた。サフィヤの生家で使い――そして後悔したのだ。
『僕をたぶらかしたな』
なんでお前なんかを愛したのかわからない。血走った目をした彼女の「夫」が叫ぶ。場所は居間。整えられ、居心地がよさそうな住まいだった。
浮気をしておいてなによその言いぐさは、と彼女が震える声で言う。たぶらかしたってなんのことかと。
『ほかの女が好きだったのに。お前なんかとつき合うつもりなんてなかったのに』
まるで魔法にかけられたみたいに。好きだと思って、結婚して……子どもまでつくった。
『ある日』
僕は夢から覚めた気分になった。
けらけらと笑いながら言う「夫」。彼女は眼を見開いていた。魔法なんてそんな。愛し合っていたじゃない、と。
そこからはまさしく悪夢だった。ふらふらと居間にやってきた「二人の愛の結晶」。小さな子どもに「夫」は……惑わされ、たぶらかされたと主張する彼は銃口を向ける。
不幸にも彼女は魔女でありながら、マグルの夫を愛し、彼のために魔法を捨てた。ポケットには杖を入れていたが、とっさの行動はマグルのものだった。己の子をかばい、覆い被さったのだ。
『なにが私たちの子だ』
僕はこんな子はいらない。悪夢だよ。なんでお前なんかと一夜を過ごしてしまったのか。
無情な言葉はたしかに幼い子どもに届いた……。
初手を誤り撃たれながらも彼女は「夫」に反撃した。何発も撃たれ、とどめのように頭を撃たれても、彼女は不幸なことに魔法族だった。頑丈だった。「夫」に撃たれた痛みもなにもかも感じ、まだ生きていた。そして力を振り絞り、彼女の杖は死を歌った。
「……知らなくていい」
幼い子どもの手だけでなく、全身が血にまみれていたことも。子どもが帰宅したら両親が死んでいたのではないことも。本当は現場に居合わせ、巻き込まれていたことも。「父親」から投げつけられた言葉も。そして銃口を向けられたことも……母親がそうと知らずに魅了し、服従させ父親との間に偽りの愛を築いたことも。子どもはまがい物の愛の結果だったということも。
思い出さなくていい。知らなくていい。あまりに辛い記憶だから、あの子は自ら記憶を書き換えたのだ。
痛みに向き合えるのはある意味英雄で、化け物だ。彼は養い子を育てることにしたとき、決めたのだ。
痛みから眼をそらしていい。秘密の箱を開けなくてもいい。突出したものは望まない。
ただの子どもとして生きられるようにすると。