カロー兄妹は授業に身を入れなくなった。いいや、入らなくなった。彼らには「考えるべき重要な事項」があり、生徒に禁断の呪文を教えるのは優先順位が低いそうだ。
野蛮なマグルについての本を読むという、つまらないにもほどがある自習を言いつけられている。罰則者が引きずってこられる頻度は減った。つまり磔刑の呪文を実践する回数はぐっと減った。気が楽だ、助かるな、と思ったのはサフィヤだけではないだろう。スリザリンだからといって「あの方」万歳なわけではない。他寮の生徒が暴力にさらされている様は見ていて気分がいいものではない。
マグル学のアレクトの授業だって、反抗的な生徒が顔が腫れ上がるまで殴られたらしい。酷いことだ、とグリフィンドール生が噂しているのを聞いた。サフィヤが通りかかったら、彼らははっとした顔をしていた。なんにも知らないふりをしつつ、多少の罪悪感で胸が痛んだ。いやごめん。ロングボトムとかかなりぼっこぼこにしたよ僕も。
ぺらぺらの薄い冊子を開きつつ、憂鬱になる。カロー兄妹、『必要の部屋』に絶賛挑戦中。毎日毎日飽きもせず、突破できないかやっている。そして機嫌が悪くなる。カロー兄妹の「世話係」ことサフィヤは、せっせと食事をつくって持って行ったり、服を綺麗にしてやったり、菓子を焼いたり等々している。
こんなところで家事スキルが発揮されるとは。妖精を行かせようものならカロー兄妹が八つ当たりしそうなのだ。ついでに「お前の料理のほうが好み」らしい。ありがとう。誉められてもあんまりうれしくない。カロー兄妹にとって、サフィヤはよく気が利くかわいい舎弟になりつつある。そんな舎弟が「もうこいつらは一生必要の部屋に入れなくていい」と考えているなんて、夢にも思わないようだ。
サフィヤの願いを『必要の部屋』が聞いたのかどうなのか、カロー兄妹は延々と無駄な挑戦を続けている。ロングボトムを引きずり出すために、ロングボトム夫人こと、大奥様――つまりロングボトムの祖母に人を遣わせたらしい。そして、ロングボトム夫人は見事に襲撃者を撃退した。養父曰く「馬鹿じゃないのか。勝てるわけないだろうあれ相手に一人で」らしい。リアイスが目立って戦闘力が高いように見えるだけで、ロングボトム家も相当だ。古い大名門。ロングボトム夫人の息子は闇祓いであったし、その母親の実力は火を見るより明らかというやつだ。
姿を消す生徒が増えていった。『必要の部屋』に続々と集まっているようだ。だが、カロー兄妹にはどうしようもない。サフィヤは苛立つ兄妹をせっせとなだめ、おだて、なだめ、おだてした。スリザリン生ですらカロー兄妹を避けがちななか、サフィヤはそれはもう、献身的に世話をした。がっちりと胃袋を掴み、心を掴んだ。
「……やっぱりお前、あの方に印をいただこうじゃないか」
ソファでだらだらするアミカスの言に、フルーツたっぷりクリームたっぷりのパフェをつくりつつ、サフィヤはにっこりした。
「僕は先生たちのお役に立てるほうがやりがいがあります」
「そうかそうか」
アミカス、ご機嫌である。あとでカロー妹――アレクトにもパフェを持って行くつもりだ。兄妹、死喰い人のイメージが崩れるとのことで、デラックスパフェは室でこっそり食べるのだ。そんなに外聞を気にするなら、なんで犯罪者集団に入ったのかねとか言ってはいけない。あと、そんなにほいほい人を信用してはいけない、とか言う義理もない。
そして、春の終わり、夏のはじめの頃、グリンゴッツに強盗が入ったという噂が流れ。
――ハリー・ポッターとウィスタ・リアイスがホグワーツに帰還した。
◆
すべてが慌ただしかった。寮監の指示で生徒が大広間に集められた。そこには『必要の部屋』にこもっていたらしい「抵抗運動」の面々もいた。もちろんネビル・ロングボトムもいた。しれっとした顔をしてルーナ・ラブグッドもいた。無事でなによりだ。どうやって城に入ったかは気になるが、緊急事態にしか開けない、秘密の、とっておきの通路でもあったのだろう。
スネイプは姿を消していて、その場をマクゴナガルが仕切った。『例のあの人』がホグワーツを攻めること。戦いたい者は残り、未成年と戦う意志のない者は脱出するように、と。
もちろんスリザリン生は全員脱出した。一旦は、だが。
「どうかしてるんじゃないの」
数十分後、ホッグズヘッドの床に転がる何人かのスリザリン生は、蔑むように同じスリザリン生――サフィヤたちを睨み上げた。『必要の部屋』からホグワーツを脱出し、やる気満々でホグワーツに戻ろうとした連中である。そして拘束されている。大ざっぱに言えば、スリザリン生の内輪もめである。どちらに付くのかという。
結果、闇の陣営に味方したい連中より、サフィヤたちのほうが早かった。「さあ、あの方のために」と張り切って叫ぼうとしたのだろうが、それは果たせなかった。恨みがましい眼で「裏切り者」たちを睨んでいる。この際どっちが裏切り者かはどうでもいい。歴史が決めることだ。
「帝王がお許しに」
誰かが杖を振る。ぴたり、と声が絶えた。時間が惜しいが、こいつらは邪魔だ。どうにかしなければならない。逃げるだけならいい。だが、闇の陣営側に付かれたら面倒だ。それに、城に戻るスリザリン生と一緒に行動されて背後から襲撃されるのも嫌だ。それを言えば「奇特な」「いかれている」スリザリン生の中に真意を隠している者がいるかもしれない。闇討ちの危険はある……が、ここは互いを信じるしかない。信じるまでいかなくとも、そこまで馬鹿じゃないだろうくらいは思うしかない。『例のあの人』に心酔しているのは極一部。彼が勝てば血と暴力の世界になる。それを歓迎する者は、たとえ純血でも少ないだろう。なにせ彼の機嫌を損ねればなにをされるかわからないのだから。
勝ち目はある。皆無ではない、とサフィヤは思いながら、上級生を手伝って転がるスリザリン生たちを囲むように魔方陣を描いていく。『扉』の監視役――ホッグズヘッドのバーテンが「おいおい」と呟いた。
「違法だぞ?」
ポート・キー。ああ、思っていてもサフィヤは言わなかったのに。熟練者なら杖を振って呪文を唱えるだけでできるようだが、こういうやり方もある……らしい。というか、これが元々のポート・キー……転移の術なのだろう。
「あなたはなにも見ていないし聞いていない。誰もこれを知らない」
上級生はしれっと答える。ダフネ・グリーングラスだ。本を片手に指示を出していく。輝く方陣が完成した。彼女は陣の中に入る。ちら、とサフィヤを見た。
「サフィヤ。大きな布を出してもらえる?」
「あなたは?」
問いながら、サフィヤは杖を回転させる。中空から布――陣をすっぽり覆えるほど――が現れて、落ちる。ダフネの上に。離脱希望者と、闇の陣営のために動こうとする者たちに。
青く輝く布の向こうで、ダフネが笑った気配がした。
「私は戦いに向いてないの」
だから、この人たちの面倒を見ておくわ。
ホッグズヘッドが青色に染まる。次の瞬間には、方陣もダフネたちも消え失せていた。
これで不確定要素は排除できた。誰ともなしに『扉』に向かう。成年も未成年もごった煮だ。少しでも人手がいる。未成年でも戦える、その意志がある者は戻る。正義とかそういうのではない。マシな世界で生きるために。
「引き返すなら今だぞ」
バーテンがぶつぶつ言った。皆無視した。「かわいくねえ」とさらにバーテンがぶつぶつ言う。
「おじいさん」
彼の横を通り過ぎ際に、サフィヤは声をかけた。バーテンは嫌そうな顔をする。
「おいお坊ちゃんどもやめとけよ」
「……ホラスが戻ってくるからまだ封鎖しないでね」
「聞けよ。あいつが戻ってきてもなあ、不利――」
サフィヤはくつくつ笑った。養父の陽気な笑いとは似ても似つかないそれに、バーテンは眼を瞬かせる。サフィヤをまじまじと見て、首をひねった。誰かを思い出しているように。
「スリザリンは勝つほうに付くって言われているけど」
『扉』をくぐる。首飾り――先についた銀の珠を開き、黄金の滴を飲み込む。そして、背後に言葉を投げた。
「正確にはね、見込みがないならつくる。多少の不利ならひっくり返す」
勝者に付くんじゃない。勝者を作るんだ。
アーサー王を玉座に就けたマーリンのように。
窓の外には夜の空。月と星がきらめいて、おまけにとりどりの光が躍り、影が現れては消える。祭りのようだ、とサフィヤは唇をゆがめる。マグルが遠目にこの光景を見たら、浮かれた連中が花火でも打ち上げたのかと思うに違いない。実態はさほどよいものではない。祭りといっても血に彩られたもので、長い長い魔法界の歴史の中の、ほんの数行か数ページかがどのように書かれるか。その転換点になる戦いだ。
「スラグホーン」
前を行く影――アミカスが振り返る。興奮で眼がぎらつき、声も弾んでいる。ある意味、一年近く我慢してきたのは彼も同じ。生徒に躾だけするなんて生ぬるいことを許容してきた。ついにその枷は外された。春を迎えた獣のように、アミカス――カロー兄妹は解き放たれようとしている。
「ポッターはまだか」
「もうすぐです」
サフィヤは丁寧に答える。兄妹に捕まったのは、ホグワーツに戻ってすぐだ。スリザリン生は散開し、それぞれ手薄そうなところを援護することになった。細かい取り決めをしたわけでもないし、言葉にして打ち合わせたわけでもない。無言の同意、暗黙の了解、それともツーカーの仲というやつで、さっさと動いたのだ。つまり、臨機応変というおおざっぱな作戦未満の作戦だ。きっちり計画なんて練ろうものなら破綻したときに立て直せない。ざっくりくらいでちょうどいい。
で、サフィヤも動こうとした。杖を片手に移動していたらカロー兄妹に引っ張られた。
「さすがスラグホーンだ」
うんうん、とアレクトが頷く。かわいい弟子を見るまなざしだった。
「一旦離脱したふりをして戻り、我々に付くとは」
「すべきことをするだけです」
お任せください、とばかりにサフィヤは頷いた。ハリー・ポッターの居場所なんて知らないのだが。「お前は勝算なしには動かないだろうし」「ポッターの居場所に目星をつけて戻ったのだろう」とカロー兄妹が都合のよい解釈をしているだけだ。積み重ねてきた信頼の賜物である。
まあなんとかなるだろうと、かなりいい加減にサフィヤは歩き回り、小競り合いの中を抜けてきた。カロー兄妹が呪文を放とうが止めなかった。ホグワーツ側の誰かが死ぬような事態にはまだなっていないはずだ。
サフィヤは幸運薬の導きに従い、廊下を抜け、階段を上る。信じるものは救われる。
「サフィヤ!」
階段の踊り場に影が現れた。養父である。燃えるような眼でサフィヤを、カロー兄妹を睨む。
「裏切ったな!」
サフィヤは鼻で笑った。あまりにもべったべたな台詞だ。これくらいわかりやすいほうがいいのかもしれない。カロー兄妹にとっては。劇は観客とともに作り上げるもの。客が理解しなければ成り立たないのだ。
「老いぼれは引っ込んでろよ」
吐き捨て、失神呪文を放つ。養父は盾の呪文で身を守るのではなく、とっさに身をよじり――避けきれなくて気を失った……ふりをした。さすが大狸である。ばったりと倒れた(ふりをする)養父。サフィヤはカロー兄妹を促した。
「行きましょう」
離脱するふりをしてホグワーツに戻り、闇の陣営に付き、養父すらも裏切った男の誕生である。
よくやった。両隣からカロー兄妹にばんばんと肩を叩かれる。もはや彼らは、サフィヤに一抹の疑いも抱いていない。
転がる養父のそばを通り過ぎる。だめ押しに軽く蹴る。兄妹が気まぐれを起こして養父に死の呪文なんて放ったら目も当てられない。養父には養い子に裏切られた哀れなおいぼれ役でいてもらわなければならない。
カロー兄妹は、養父に唾を吐きかけるだけで満足したようだ。彼らの目的はハリー・ポッター。どうやらレイブンクロー寮で遭遇し、してやられたらしい。『例のあの人』に献上する前に、拷問して痛めつけたい、あわよくばうっかり始末したいらしい。
戦の喧噪は遠い。ここが何階の廊下なのかサフィヤにはわからなくなってきた。いくらなんでも適当に進みすぎた。が、ここでよいと幸運薬が言っているのだ。それでいいんだろう。
立ち止まる。広い廊下、大きな絵の前だ。なんの変哲もない風景画だ。サフィヤはその絵を示す。
「ポッターはこの絵の向こうにいます」
秘密の通路なんです、と大嘘を吐く。カロー兄妹はにんまりした。喧噪が遠いことも、なぜか誰もいないことも、ここには兄妹とサフィヤだけだということも、頭から抜けているようだ。不気味なほどの静けさに警戒することもない。目の前に生肉を差し出された狼のように興奮している。
「二人でこの絵にアロホモラを唱えてください」
一人じゃだめなんです。サフィヤは静かに言う。カロー兄妹はサフィヤから絵に向き直り、そろって杖を構えた。そうして、同時に杖を振ろうとする――杖が狙いを変える。兄は妹、妹は兄に杖先を向ける。彼らの眼はぼんやりとしていて、薄く笑みすら浮かべていた。
――こんなものか
サフィヤは一言告げた。
「やれ」
緑の閃光が廊下を染める。一拍後、カロー兄妹は魂のない抜け殻となって、互いに寄り添って倒れていた。なにが起こったかわからないうちに、なにをしたか自覚もないままに、あっけなく事が終わったのが救いだろう。
サフィヤはセバスチャン・サロウの杖をもてあそぶ。せっせとカロー兄妹に取り入り、信頼を寄せられるまでになり、お気に入りとなった。それはサフィヤに対する防御が甘くなるということで、隙をつくるということだ。カロー兄妹に捕まったのをいいことに、急遽裏切り者のふりまでし、だめ押しに養父すらも裏切ったようにみせかけた。あそこで流れにのってそれっぽい台詞を吐いてくれた養父はさすがだ。
束の間、カロー兄妹を見る。なにがどうなって人が傷つくことを喜ぶような性質を持ったのか、サフィヤは知らない。それは生まれつきなのかもしれないし、環境によるものなのかもしれない。どうしようもない兄妹だなと思っても、殺すほどの個人的な思い入れはなかった。
「……あなたたち、抜けてるところがあるからなあ」
サフィヤはこつこつと準備していたのだ。最も苦痛がないであろう手段が死の呪文による殺害で、二人同時に死の呪文を放つなんて芸当は無理なので、服従プランになっただけだ。殺すだけならいつでもできた。ホグワーツが戦場にならなければ、殺害を実行に移せなかっただけだ。彼らが纏う衣はサフィヤが仕立てたもので、そこにはあれこれと刺繍が挿してある。装飾に見せかけたそれは、起動させれば、カロー兄妹を絞め殺すものが混じっている。服従の呪文が失敗すれば陣を起動してもよかった。絞め殺すに至らなければ、サフィヤが死の呪文を連発するしかなかっただろう。彼らは死喰い人で、排除しないという選択肢などない。
小さくため息を吐く。
「もうちょっと何か思いそうなのに」
二人も殺したにしては、笑えるくらい心が静かだ。吐くかなにかしてもいいのに。
――今更か
たぶん、サフィヤは両親が倒れているのを見たとき、どこか壊れたのだろう。だから手を汚してもなにも思わない。
最後にカロー兄妹に一瞥をくれた。
「ご愛顧ありがとうございました」
戦場の混乱の中を縫い進む。カロー兄妹殺害の現場は誰にも見られていないと思っていたが、ばっちり目撃されていた。リガーダント兄弟に。堂々と犯罪を犯したサフィヤをとがめるわけでもなく「是非リアイスの婿に」とスカウトされた。絶対嫌だ。
途中でリガーダント兄弟と別れ、サフィヤは援護に徹した。死喰い人と一騎打ちなんて冗談ではなかった。
混戦状態の廊下を駆ける。死喰い人が多く、ホグワーツ側が少ない。サフィヤは片腕を振った。指輪が煌めく。戦っていた死喰い人たちが硬直し、見えざる手に捕らわれたように、つり上げられる。
きっついな。呟き、サフィヤは片手を振った。死喰い人たち――十人ほどだ――が弧を描き、窓へたたきつけられる。悲鳴とともに姿を消した。
なにが、と誰かが呟く。サフィヤは素知らぬ顔をして離脱した。アクロマンチュラの糸は強靱だ。養父にもらっておいてよかった。
広範囲におよぶ全身金縛りには自信がなかった。魔法でなく物理で拘束するほうが性に合っている。サフィヤがはめている指輪は魔法具だ。糸を出したり引っ込めたりするだけのものだが、けっこう使える。さすがにリアイスにあるという『狼縛り』のように巨人の首を落とすまではできないが。
血でぬめる廊下を進む。悲鳴がしたような気がして、足を早める。うなり声がする。倒れる影。広がる血。かがみ込んだ誰かが、影に顔を近づける。
――フェンリール
サフィヤは杖を振る。服従の呪文がフェンリールをからめ取る。
「ここはもういい」
そいつは死んでいる。ポケットに手を突っ込む。己の杖に触れ、フェンリールの前に幻を出現させた。血塗れの亡骸を。それは金髪の女に見えた……。
「ああ」
別の獲物を狩りに行く。フェンリールはにたりと笑う。黄色い眼がサフィヤを見て逸らされた。去っていく背を見送る。後ろから討ってしまうべきだ、と理性がささやいたが、そんな必要はないと確信していた。
フェンリールは確実に死ぬ。ちらと窓の外へ眼をやる。そう……恐怖に凍り付いて、あれは無惨に落ちていく。終わりに向かって。
戦の昂揚が見せる幻を振り払う。倒れた影の側に膝を突いた。何度も眼を瞬かせる。頭の芯がぐらぐらした。血の臭いがする。
――これは
母ではない。夫に殺された女ではない。たぶんグリフィンドール生だ。まだ生きている。オレガノのエキスを振りかけ、止血の呪文をほどこした。抱き起こし、サフィヤはローブを脱いで負傷者をくるむようにする。なんとかかんとか背負い、糸で己にくくりつけるようにする。透明マントでまるごと覆った。
担架で運ぶのは無理だ。目立ちすぎる。静かに、なるべく迅速に進む。医務室まで運ばなければならない。マダム・ポンフリーと治療が得意な人間が詰めているはずだ。
隠し通路を駆使し、進んでいく。あと少しで医務室だ、というところで、サフィヤは眼を瞑った。どうやら幸運の女神が去ったらしい。死喰い人が複数。誰かを殴り、蹴り、磔刑の呪文をかけている。
グリフィンドールのマグル生まれだ。姓は忘れた。たしか名前はコリン。
知らぬふりをして抜ければいい。治療を要する人間をサフィヤは背負っているのだ――が、コリンと眼が合ったような気がした。苦痛に満ちた眼だった。
鼻腔に鉄錆の香が蘇る。全身をべったりと濡らす、赤い色と、痛みと絶望に満ちた眼がふと過ぎる。助けられなくていいのか。後悔しないのか。まだ間に合うのに、と心の深い――深い部分が囁いた。
背負った女生徒をそっと下ろす。まだ死喰い人たちは気づいていない。透明マントで彼女をくるみ、サフィヤは指を曲げた。細い細い――見えざる糸が、死喰い人たちの首にからみつく。拳を握る。なめらかに、首が両断された。首が――首たちが転がる。遅れて、重いものが倒れ伏す。じんわりと血が広がった。まるで悪夢だ。見ろ、マグル生まれがおびえている。
――化け物を見る眼だ
拷問のせいもあるだろう、傷だらけなせいもあるだろう。がたがたと震え、マグル生まれはへたり込み、口を開けている。見開かれた両の眼を、サフィヤはどこかで知っている。誰かにお前などいらない、と言われた。化け物を見る眼で見られた……。刹那にも満たない痛みは、やるべき事を前にして、淡雪のように溶けていく。
片膝を突く。手を伸ばせばおびえられた。無視し、サフィヤはマグル生まれを検分する。
「フェルーラ」
ひ、と悲鳴を上げられたが知ったことではない。マグル生まれの片足に添え木が当てられ、包帯で固定される。出現呪文で松葉杖を出して、マグル生まれに顎をしゃくった。
「行くぞ」
「えっ」
「頭が悪いな医務室に行くんだよ。足手まといだ」
先に行け、と促した。えっちらおっちらとマグル生まれが歩き始める。サフィヤは身を翻した。冷たい床に転がしたままの女生徒に駆け寄る。手探りで透明マントの感触を掴んだとき、予感がした。横に転がろうとして、とっさに女生徒を引きずり寄せる。盾の呪文でどうにかすればいいものを。マグルのように無様な動きだった。
とっさの動きが致命的な隙になった。熱い痛みが降り注ぐ。セクタムセンプラか、と振り返る。死喰い人がいる。
「お前かひっかきまわしてくれたのは」
怒りに顔を赤くしたそいつが、サフィヤに杖を向ける。じわじわと血が流れる。女生徒を庇うように覆い被さる。馬鹿げている。サフィヤが殺されれば、この子も殺されるだろうに。
腕を動かせない。指一本動かせない。足音がする。
「息絶え――」
ここまでか、と眼を瞑ったとき。
「サフィヤ!」
と声が聞こえた。
どっと誰かが倒れる音。軽い足音。誰かがサフィヤの肩に手をかけて、ひっくり返す。床に転がり、痛みに顔をしかめた。優しくしてくれない、と言うこともできない。
天井が見える。淡い色の眼がサフィヤをのぞき込んでいる。しっかり、と言っているようだった。
しっかりりもなにもあるか。こっちはセクタムセンプラでずっぱり全身切られてるんだぞと言っても聞かないだろう。
ろれつの回らないなか、かろうじてこう言った。
「うるさいルーニー」
話ならあとで聞いてやる、と。
ずるずると闇に引きずり込まれる。浮かんだ二つの月が遠ざかり――サフィヤは眼を開けた。
カーテンがそよそよと揺れている。清潔なベッドの上に、サフィヤはいた。
「なんて夢だ」
はあ、とため息を吐く。そうかそうか夢かよかったよ。カロー兄妹に媚びを売りまくった黒歴史なんて夢だったのか。
「夢じゃないもン」
サフィヤの希望的観測は打ち破られた。ゆっくりと声のほうに顔を向ける。それだけでとても疲れた。なんでかベッドの傍らにラブグッドがいた。
「妄想はそこまでにしろよ」
「ちがうもン!」
なんだか知らないがめちゃくちゃ怒っている。
「戦いは終わったんだよ。ハリーたちが勝ったんだ!」
もう一度寝たくなった。え、マジなのか。サフィヤは歴史的瞬間を見逃したのか。途中離脱? リタイアですって?
「一番盛り上がるところが……」
「落ち込むところなの?」
夢見がちな女に、極めて常識的な説教をされた。屈辱だ。
「未成年なのに戦いに参加するなんてさ」
「君が言うなよ」
「あたしが助けてなかったら死んでたんだよ」
「僕は自分でどうにかできた」
ぎゃあぎゃあと言い合いになった。勝利の夜明けになにをやっているんだろう。
「あたしとジニーの髪を切るし」
「君たちならわかってくれると思うけど」
「それとこれとは別」
「髪なんて伸びるだろう」
「最低だよ」
容赦なく最低の烙印を捺された。はあ……とため息を吐いて、投げやりに言った。
「なんかお詫びするよ」
なにがいい、と訊けばラブグッドはにやりとした。
「じゃあね――」
よく晴れた秋の日、サフィヤは黙々と手を動かしていた。ものは黒いローブである。針がすいすいと動いて、刺繍を挿していく。とある英雄からの依頼が回ってきたのだ。正確には英雄からリガーダントへ、リガーダントからサフィヤに流れてきた。息子へのクリスマスプレゼントにしたいとの仰せだった。大まかに守りの陣を挿せば後は英雄が手ずから仕上げするらしい。楽な仕事だ。
ちくたくと時計が時を刻み、サフィヤはソファに座り、ゆったりとした気分でいた。それを打ち破ったのは、軽い――軽やかな足音だ。
「お父さん!」
なんだい、とサフィヤは扉口に眼を向ける。小さな娘がなにかしでかしたか、と身構えた。本人曰く「斬新」な調合をしては失敗しているのが娘だ。今日はなにかを爆発させたわけでもないし、顔に煤をつけていないな、と安堵しかけた。娘の頭に載っているものを見るまでは。
「ねえ、この髪飾り、どうしたの」
「どこから引っ張り出してきた?」
「書庫の奥の奥の奥から」
サフィヤは天を仰ぐ。おいどうしてだ。あんだけ奥にぶち込んだのになんで引っ張り出す。
そんな父の心子知らずだ。娘はととと、とサフィヤに駆け寄る。小さな手を膝に載せてくる。きらきらした眼でサフィヤを見上げた。
「ねえ、なあにこれ」
「レイブンクローの髪飾り……の複製」
お父さんがつくったんだ。きれい、すごい、と娘ははしゃぐ。純粋な娘だ。よかったサフィヤのようにひねくれなくて。
「じゃあこれを結婚式で着けたんだ、お母さん」
ずいっと写真を差し出され、うめきをこらえた。これも奥の奥の奥に放り込んでいたのに。くそっ。
「僕はちゃんと依頼して結婚式用のティアラをつくろうって言ったんだよ」
「でもお母さんとてもうれしそう」
「まあね」
悪くはないかな、とサフィヤは呟いて、娘の小さな頭をなでた。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。なめ角本編完結。