マンハッタンカフェは大人の階段を昇りたい   作:あばなたらたやた

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9話:サトノダイヤモンド④

 サブトレーナーは自室のドアを閉めると同時に、肩から力が抜けたように壁に凭れた。

 白いシャツの襟元は汗で湿り、少し黄ばんだ蛍光灯の光に照らされて、彼の顔に落ちる影が一層深く見えた。目元のクマは薄いメイクでも隠しきれず、普段は輝きを放つ瞳が今は曇ったガラスのようにぼんやりとしていた。

 

 彼は乱暴にジャケットを脱ぎ捨て、床に落ちる鈍い音を無視してソファに倒れ込んだ。革の表面が軋む音が一瞬響き、すぐに静寂が戻る。指先でこめかみを強く押さえ、ぎゅっと目を閉じると、眉間に深い皺が刻まれた。そこには溜まった疲れが凝り固まり、脈打つような痛みが走っているようだった。

 

「はぁ……疲れた」

 

 と漏れた息は重く、掠れた声が喉の奥から絞り出される。普段の穏やかな口調はどこにもなく、ただ疲労に塗り潰された響きだけが残っていた。彼の手は無意識にネクタイを緩め、首を振って締め付けから逃れようとするが、その動作さえ億劫そうで中途半端に止まる。

 

 ソファに沈む彼の身体は、まるで重い鎖に縛られたように動かず、ただ時折、肩が小さく震えるだけ。そこには、アイドルとしての仮面を脱ぎ捨てた、疲れ果てた一人の人間がいた。

 

 サブトレーナーは楽屋のソファに凭れ、膝の上に広げたノートにペンを走らせていた。テーブルの上には空になったコーヒーカップが転がり、こめかみを軽く押さえる指先にはまだ疲れの跡が残っている。

 

 それでも、彼の目はノートに書かれた「デートプラン」という文字を見つめ、どこか柔らかな光を宿していた。

 

「サトノダイヤモンドなら……スイーツが好きな筈だ」

 

 と呟き、彼はペンのキャップをカチカチと鳴らしながら考え込む。頭の中では、彼女の優雅な笑顔や、紅茶を手に持つしなやかな仕草が浮かんでいた。疲れた身体とは裏腹に、心のどこかで彼女との時間を想像することで、少しだけ息が楽になる気がした。

 彼はノートに「カフェ」と書き込み、横に「フルーツタルト」と付け足す。だが、すぐに線を引いて消し、「いや、もっと特別なものがいい」と独り言を漏らした。指先が髪をかきむしり、乱れた前髪が額に落ちる。彼の眉が寄り、ストレスで固まった表情が一瞬戻るが、深呼吸して気持ちを切り替えた。

 

 窓の外から差し込む夕陽が、ノートにオレンジ色の影を落とす。サブトレーナーはペンを止めて目を閉じ、サトノダイヤモンドと一緒に歩く公園の風景を思い描いた。桜並木の下で彼女が笑う姿、スイーツを手に「美味しいね」と言う声――そんなイメージが、彼の疲れた心に小さな灯りをともすようだった。

 

 「散歩の後に……有名なパティスリー巡りとかどうだろ」と呟き、彼は再びペンを動かし始めた。手は少し震えていたが、文字は丁寧で、彼女への気遣いが滲み出ている。

 

「最後は夜景の見えるレストランでデザート」と書き終えると、ラスティは小さく頷き、初めてその日に笑みを浮かべた。

 ノートを閉じ、彼はソファに背を預けて天井を見上げた。

 

「これならサトノも喜んでくれるだろうか」

 

 と呟く声は掠れていたが、そこには疲れを超えた優しさが宿っていた。ストレスと戦いながらも、彼女のためにプランを練るその姿は、サブトレーナーらしい紳士的な一面を静かに映し出していた。

 

 デート当日。

 朝の柔らかな光が街に差し込む中、サブトレーナーはサトノダイヤモンドと並んで歩き始めた。彼女の白いワンピースが風に揺れ、サブトレーナーは少し緊張した声で切り出した。

 

「サトノダイヤモンドさ?、今日は楽しんでくれるといいな。まず、カフェからスタートだがどう思うだろうか?」

 

 サトノダイヤモンドは微笑んで、

 

 「素敵ですね。朝のティータイムって、なんだか優雅な気分になれるから好きです」

 

 と答えた。最初の店は、木の温もりが感じられる小さなカフェ。ショーケースに並ぶスイーツを見て、サトノダイヤモンドが目を輝かせた。

 

「わぁ。サブトレーナーさん。このフルーツタルト、まるで宝石みたいですね?」

「ほんとだね。じゃあ、それにしようか?」

 

 とサブトレーナーが提案すると、サトノダイヤモンドは

 

「はい、ぜひ!」

 

 と嬉しそうに頷いた。タルトをシェアしながら、彼女が一口食べる。

 

「甘酸っぱくて美味しい。これ、朝にぴったりです」と言うのを聞いて、サブトレーナーは「サトノダイヤモンドって、爽やかな味が好きなのかな?」と内心で考えた。

 

 「どう?紅茶と合う?」と尋ねると、彼女は

 

 「はい、ダージリンの軽い渋みがタルトを引き立ててくれる」

 

 と満足げに答えた。

 

 次に二人が訪れたのは、和菓子が自慢の老舗店。

 ショーケースを覗き込んだサトノダイヤモンドが言う。

 

「抹茶の香りが素敵ですね。サブトレーナーさんはどう思いますか?」

 

 と聞いてきた。

 

「確かに、落ち着く香りだね。抹茶大福、試してはどうだろう?」

 

 と返すと、彼女は「いいですね!」と笑顔を見せた。

 

 一口食べる。

 

「この味、ほっとする…」

「レースの後って、こういう和菓子で癒されたりするのかい?」

 

 彼女は少し考えて。

 

「はい、甘すぎないのが疲れた時にちょうどいいんです」

「穏やかで繊細な味が好きなんだね」

 

 午後、商店街のパティスリーに立ち寄ると、サトノがショートケーキを指差す。

 

「ねえ、サブトレーナーさん。この苺のケーキ可愛いと思いませんか?」

「可愛いし美味しそうだね。注文しよみる?」「お願いします!」

 

 と目を輝かせた。ケーキを食べながら、サトノダイヤモンドは言う。

 

「甘すぎないクリームがいい。苺の酸味と合ってて最高です!」

「見た目も味もバランスが大事なんだね、君は」

「そうかも。綺麗なものには理由がありますよね」

 

 二人は小さく笑い合った。

 夕方、レストランでクレームブリュレを注文すると、サトノダイヤモンドがスプーンで表面を叩く。

 

「このパリッとした音、好きです」

「音まで楽しむんだ?」

 

 とサブトレーナーが驚いて聞くと、サトノダイヤモンドは答える。

 

「ええ、小さな幸せって感じがして」

 

 と微笑んだ。

 夜景を見ながら、サブトレーナーが訊ねる。

 

「今日、どうだっただろう?」

「全部素敵だったけど……サブトレーナーさんと一緒だから、特別でした」

「私も楽しかった。サトノダイヤモンドの好きなもの、ちょっと分かった気がする」

「ふふっ、私のこと、ちゃんと見ててくれたんですね」

「レースでのジンクスとか。あれって、結構気にしてるんじゃないか?」

 

 と切り出した。

 

 サブトレーナーの表情が一瞬固まり、すぐに柔らかな笑みに戻った。

 

「ジンクス……ね。サトノ家の話ですね? 確かに、私は破りたいです」と静かに答えた。サブトレーナーは興味を引かれ、「やっぱりそうなんだ。どうしてそんなにこだわるの?」と尋ねた。

 

 彼女は窓の外を見つめながら、「サトノ家には、ずっと勝ちきれないレースがあるんです。ダイヤモンドは硬くて美しいけど、脆さもある……ってく言われますよね? 私、その脆さを乗り越えたいんです」

 

 と語り始めた。声は穏やかだが、どこか熱を帯びていた。

 

「脆さって……負けること?」

 

 とサブトレーナーが聞くと、サトノダイヤモンドは首を振った。

 

「違います。負けるのは怖くない。ただ、ジンクスに縛られて、自分らしく走れないのが嫌です。サトノ家の名にふさわしい勝利を、私の手で掴みたいって思うんです」

「それって、プレッシャーだろう。そんなに頑張らなくても」

「プレッシャーかもしれないけど、私の誇りでもあるんです」

 

 とサトノダイヤモンドは即座に返した。

 

 「ジンクスを破るのは、過去を塗り替えること。サトノ家の歴史に新しい輝きを加えたいんです。サブトレーナーさんには分からないかもしれないけど……」

 

 サブトレーナーはクレームブリュレを一口食べて、

 

「いや、分かるよ。私だって、疲れてても誰かのために頑張りたい時がある。サトノダイヤモンドのその気持ち、凄くかっこいいと思う。好きな考え方だ」

 

 と真剣に言った。サトノダイヤモンドは目を丸くして。

 

「かっこいい…なんて、初めて言われました」 

 

 と照れ笑いを浮かべた。

 

「でもさ、ジンクスって本当に破れるものなの?」

「破ります。だって、私には走る理由がありますから。誰かの期待とかじゃなくて、自分が納得したい」

「なるほどね……サトノダイヤモンドらしいよ、そのこだわり。じゃあ、僕も応援するよ。ジンクス破ったら、また一緒にスイーツでお祝いしよう」

 

 サトノダイヤモンドはくすっと笑って、

 

「ふふっ、サブトレーナーさんらしい提案ですね。約束です。破ったら、最高のデザートを一緒に食べましょう」

 

 と手を差し出した。二人は軽く握手を交わし、夜景に映る笑顔が一層温かみを増した。

 




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