アルバは暗闇の中で目を覚ました。目の前には鉄の檻が広がっており、周囲は冷たく、閉塞的な空間だった。
アルバが周りを見回すと、鉄の檻と尋常ではない本の山がどこまでも続いていることに気づき、息を呑んだ。辺りを見渡すと、その中にただ一人、黒く長い髪を持った少女が佇んでいた。少女は椅子に腰掛け、その机の上にも本が山積みになっている。
「ここは…?」
その問いが口をついて出た瞬間、少女はゆっくりとその山吹色の瞳でアルバを見た。彼女の目には何もないような深い沈黙が宿っていた。だが、彼女は無表情で答える。
「ここは、私の居場所。」
少女の声は、冷たいがどこか悲しげで、アルバはその言葉に驚きつつも心を打たれた。そして彼女の足元に目をやるとその細く、白い足には無相応な鉄枷が嵌められていた。
「君は誰かに囚われているのか?」
アルバが尋ねると、少女は少しだけ目を細め、淡々とした口調で答えた。
「虜囚、か。そうね。」
彼女は少しだけ呟き、空を見上げるような仕草をした。
「私の名はエル。世界を見つめる者でも、何かを成す者でもない。ただ、ここにいるだけ。」
その言葉に、アルバは何か引っかかるものを感じた。エルは、自分が囚われていることに対して無感動であり、彼女がどうしてここに閉じ込められているのか、何も語らないようだった。
「エル…」
アルバが続けて言う。
「君は一体どうしてこんなところにいるんだ?」
エルはしばらく黙っていたが、やがてその冷徹な目をアルバに向けて言った。
「私がここにいるのは、ある神の仕業。」
彼女の言葉は軽いものの、どこか深刻さを含んでいた。
「その神は私を、ここに閉じ込めている。私がここで何をしようとも、逃げることはできないの。」
「神に? どうして?」
アルバは驚きと疑問が入り混じった表情で尋ねた。
エルは少しの間黙った後、冷たい笑みを浮かべて言った。
「理由は分からない。ただ、私はその神によって、何もかも奪われた。自由も、時間も、希望も。」
その言葉に、アルバは胸の奥が痛んだ。エルの瞳の中に見える無力感と絶望は、彼女の存在がどれほど深い閉塞感に包まれているのかを物語っていた。
「じゃあ、君はずっとここにいるのか?」
エルは静かに頷く。
「数百年、数千年、いや、もっとかもしれない。ここで過ごした時間が、どれだけ長いのかもう分からなくなってしまう位にね。」
その時、アルバはふと何かを思い出したように顔を上げた。彼女がそのように長い時間を閉じ込められているのであれば、もし自分が何かできるなら、彼女を解放してやりたいという気持ちが湧いてきた。
アルバは自分の思いを口にした。
「君を檻から出してあげたい。」
その言葉にエルは驚いたような表情を一瞬見せたが、目線を逸らしながら冷静に答えた。
「私は、解放されることはない。」
彼女は冷たく自嘲するように笑う。
「私がここに閉じ込められたのは、私自身が弱すぎたから。だから、大丈夫。」
「でも、俺が…」
アルバは必死に続けようとしたが、エルはその言葉をさえぎるように言った。
「私は、この檻の中でただ生き続けているだけ。それが私に課せられた役目であり罪なの。」
彼女の声は、冷たく響いた。
アルバはその言葉に反論できなかった。何もできない自分が情けないように感じたが、それでも何かをしなければならないという思いが強くなる。
「エル、君がどう思おうとも、俺は君を解放する方法を探す。」
その言葉に、エルは静かに目を細めた。まるで少しだけ嬉しそうに見えたが、すぐにその表情を消して言った。
「それは、無謀だと思う。でも、そういう気持ちを持つこと自体は悪い事だとは思わない。」
エルは少しだけ静かに頷き、そして言葉を続けた。
「でも、覚えておいて。私はもう、この場所に永遠に閉じ込められている。逃げる方法はない。ただ、私自身ですら何を望んでいるのかも分からない…その事だけは、忘れないで。」
アルバは彼女の言葉に深く頷く。
「君がどれだけ長い時間をここで過ごしてきたとしても、君がせめてもう少しだけ自由を感じられるように、俺がその方法を見つける。」
少女は黙ってその言葉を受け止め、そして静かに目を閉じた。
「そういえば...名前を聞いてなかった。最後に、貴方の名前を教えて」
「アルバ。」
「…ありがとう、アルバ。」
彼女は少しだけ穏やかに微笑んだ。
目に映ったのは、見知らぬ天井だった。薄暗い室内、天井には古びた木材が組み合わされており、そこに淡い光が差し込んでいる。自分の体は布団の上に横たわっていることがわかり、思わず左手を顔に当ててみると、手には包帯が巻かれている。
「生きてる…」
アルバは自分の状況が信じられない。あの男との戦い、エリスの死、そしてエルとの邂逅。すべてが夢のように思え、心の中で無意識に目を背けたくなる。しかし、その時、ドアの隙間から一筋の光が差し込む。
「起きたか?」
その声に驚き、アルバは体を起こすと、扉の前に立っている白髪の青年が目に入る。彼は少し微笑みながら、アルバを見つめていた。
「君は無事だ。心配するな。」
アルバは彼の顔をじっと見つめる。その顔に見覚えはない。だが、どこか安心感を覚える自分に気づく。
「…あんたは、あの時助けてくれた?」
青年は軽くうなずき、ゆっくりと部屋に入ってきた。
「そうだ。君があの男に殺されかけている姿を見たとき、正直間に合わないかと思った。しかし、タイミングがよかった。」
アルバは青年の言葉を聞いて、そのときの状況を思い出す。黒い炎の男の顔、その圧倒的な力、そして父とエリスの死。きりきりと胸が痛む。
「エリスや父さんは?」
アルバは思わず叫びそうになったが、青年は気まずそうにして静かに頭を振った。
「あの後、村に他の生存者がいないか確かめに向かってみたが....。しかし、君はまだ生きている。それが重要だ。」
アルバは無力感に包まれ、声が出ない。ただ肩を落とすしかなかった。
アルバは深く息を吸った。だが、そのとき、彼はふと自分の右腕を見下ろす。包帯が巻かれているその部分は、かつての自分の腕とは明らかに違っていた。右腕が、肘の先から全て失われていたのだ。男に握り潰されたその痛みが、未だに激しく脳裏に焼き付いていた。
「うぐっ…」
アルバの漏れ出た声に、青年は一瞬だけ黙り込む。
「最善は尽くしたが、君の右腕はもう元には戻らなかった。すまない。」
アルバは無意識に自分の右肩を触れ、その感覚に茫然とする。かつては当たり前だったはずの手のひらの感覚が、今は完全に失われている。それは単なる体の一部を失うだけでなく、心の中にまた一つ深い空洞を作った。
「俺にはもう、何もできない。」
「そうかもしれない。しかし、それは本当に君が望んだことなのか?」
アルバは青年の言葉に目を見開いた。
「君は、ただ守りたかったものを守れなかった。弱いのは悪いことでは無いが、弱さを自覚した上で、弱いままで居る事が問題だ。」
青年はこちらの目をじっと見つめ、その後少し考えてから言葉を続けた。
「右腕は失ったが、君には別の力が眠っている。それを引き出すためには、心を鍛え、知識を蓄え、力を磨かなければならない。」
アルバはその言葉を聞いて、心の中で小さな希望を感じた。自分がまだ何かをできるのなら、何とか立ち上がりたい。だが、失ったものが大きすぎて、どうしていいのかわからなかった。
「どうすればいい?」
青年は微笑み、アルバに手を差し伸べた。
「まずは、この腕を受け入れることからだ。それができれば、次の一歩を踏み出せる。」
アルバはしばらくその手を見つめ、そしてゆっくりと自分の意識を集中させた。失ったものを悔やんでばかりいても、前には進めない。彼は青年の手を取る決意を固め、しっかりと握り返した。
「わかった。やるよ。」
青年は少し微笑み、アルバの肩に手を置いた。
「ところで、自己紹介が遅れたな。私はレギウス。よろしく頼む。」
「俺はアルバ。よろしく」
「ところでレギウス…。あんたも、俺のことを助けるために、戦ってくれたのか?」
「いや、正確には俺は他の目的でここにいる。あの黒い炎の男を追っているんだ。」
アルバは驚いた。
「黒い炎の男…あの男については謎が多く、何者なのか、俺にはわからない。ただ、俺は数年前から彼を...あの傭兵達を追い続けている。」
「傭兵達?」
「ああ。奴が所属する傭兵グループでな、奴らは金で雇われ、各国で戦争が起こる度に現れる。奴らは尋常では無い強さで、各地に壊滅的な被害を与えてきた。特にあの男が持っている力は恐ろしい。だが、俺はそれを止めるために、何としても倒さなければならない。」
レギウスの目に決意が宿る。それはアルバにとっても強い衝撃を与えた。彼もまた、黒い炎の男の正体を知りたくて、戦い続けていたのだ。
アルバはあの時の惨状を思い出し、その体を震わせる。黒い炎の男と対峙したとき、自分の無力さを痛感したからだ。
「俺は…ただ家族や日常を守りたかっただけなんだ。でも、あの男のせいで、皆が…」
アルバは頭を抑え、ぐしゃぐしゃと頭を掻き鳴らす。レギウスはアルバの言葉に黙って耳を傾け、少しだけ肩を叩いた。
「俺も君の家族を奪ったヤツを許すわけにはいかない。だからこそ、俺は君を助け、共に戦っていく。」
アルバはその言葉を噛みしめ、そしてレギウスの目を見て言った。
「レギウス...いやレギウスさん。俺は奴に対抗できる力が欲しい。奴を倒す以外にも知りたい事が沢山あるんだ。どうか、俺を鍛えてください。」
「勿論だ。だが修行は傷が治ってからだな。」
レギウスは微笑みながら快諾する。
アルバは残された手を力いっぱい握りしめる。失ったものを取り戻すために、全てを奪った者への引導を渡すために、少女と交わした約束を果たすために、そしてもう二度と何も失わないように戦うために。