「久しぶりね、チェリーニア」
「久しぶりだな、ジョヴァンナ」
双剣を携えて、ジョヴァンナの居るであろうボックス席に辿り着いたテキサスは、だがその構えを解いた。
机の上に無造作に置かれたボトルからグラスにワインを注ぎ、それを揺らしてぼうと見つめるジョヴァンナの姿にはまったく戦意というものを感じられなかったから。
むしろそれは、テキサスが自分のことを殺しにきたのではないと、そう確信しているかのような余裕ですらあった。
「座らないの?あなたのために用意したクルビアのワインなのよ。生年が同じやつね」
「あいにくと仕事中でな。飲酒は控えるようにしているんだ」
「あら、その仕事って私の暗殺でしょう?ならちょっとくらい酔ったって変わらないわ、あなたがそう望むなら抵抗するつもりもないし。それにあなた、お酒にはとことん強かったじゃない」
懐かしそうにグラスを傾けたジョヴァンナは、わずかに頬を上気させながら傍の座席を手で叩く。
座らなければ話を進められなさそうだ、と察したテキサスは嘆息しつつそこに腰を下ろす。双剣は手の届く所に置いたままだったが、寸鉄ひとつ帯びていないだろうジョヴァンナはそれを咎めることもしなかった。
あまりにも無防備なその様子に、思わずテキサスは眉を顰めた。ロッサティのドンともあろうジョヴァンナが、自分の命の重さを分かっていないはずもないだろうに。
ただ、それはもう自分には関係のないことでしかないので、結局それを口に出すことはできなかった。
「龍門での勤め先の規定でな。違反すれば一ヶ月間減給されてしまう」
ジョヴァンナはからころと笑った。いくらテキサスが龍門で稼いでいたとしても、それはベッローネの下で働いて得られるだろう金銭とは比べ物にならないだろうに。
テキサスにとってはベッローネからの報酬など鐚一文の価値すらないということなのだろうか、とまで思い至って、それでもジョヴァンナの微笑は揺るがない。
テキサスにとってもジョヴァンナにとっても、それこそ今更という話だったからだ。
硝子細工の煌めく天井照明に千々に映るテキサスの影に、ふと目を細めてジョヴァンナはグラスを空にした。
傍の机の上に置いたグラスは一際大きくテキサスのことを映しているが、同時にそれは膨らんだ表面に反射し歪曲したものだった。
「それにしても、あなたは変わったわね。随分と大きくなって……龍門では、とても楽しそうに暮らしていたみたいだし」
「十年近くも経ったんだ、当然のことだろう。変わらないものなど何もないからな」
「ふふ、それはそうだけど。あなたは顕著すぎるわね……」
「まあ、まずは礼を言っておこう……どうやらペンギン急便の同僚が世話になったようだ」
「あら、私がカタリナ名義で活動していることは言ってなかったと思うけど」
「ああも真に迫った脚本を書けるのは、実際にロッサティかテキサスに深く関わっていた者だけだろう。つまりはお前しかもういない」
「その鋭さは流石あなたと言ったところかしら……まあ、世話になったのはむしろ私の方よ。シラクーザを去った後のあなたのことを色々と教えてもらったし、多少の便宜を図る分には構わないでしょう」
ソラ、エクシア、クロワッサンの三人がジョヴァンナに教えてくれたテキサスの情報は、ある意味ではジョヴァンナが予想していたものに近かった。
どこかの移動都市に身を寄せて、そこで細々と生活をしている……もしかしたら、シラクーザのことを知らない誰かと仲間になっているかもしれない。そういう類のものだ。
まあ……ペンギン急便は、「細々」とか「大人しい」とかの形容が全く似合わない騒々しい企業だったようだが、それはそれでテキサスらしい。
それに、予想通りだったからといって無意味だなんて言えるわけがない。
テキサスのことをいくら知っていようとも、理解なんてできるはずがないのだから。今回がたまたま予想があっていたというだけの話なのだ。
だからこそ、その確度を高めるためには色々と知らなければならなくて……ペンギン急便の面々はそれに多大な貢献をしてくれた恩人と言える。
「ああ安心していいわ、彼女たちにはロッサティからは手を出させない。そもそも私はロッサティのドン・ジョヴァンナとしてじゃなくて、劇作家カタリナとしてしか彼女たちと関わっていないけど。念には念のためね」
「……礼を言っておく」
「どういたしまして、と返すべきかしら……まあ私はじきにロッサティのドンから下ろされるから、それでもあまり長居しない方がいいとは忠告しておくわ。ウォラックはそこまで馬鹿じゃないけど、近頃一部の構成員が血気だってるのよ」
テキサスは一見して、何もその言葉に感じていないようだったが……ジョヴァンナは、テキサスのオレンジ色の双眸がわずかに揺れたことに気付いていた。
そういうところは昔から変わらない、と思うけれど。
逆に言えば、それ以外の何もかもがジョヴァンナの知るテキサスから変わってしまったのだということを改めて突きつけられたようで。思わずテキサスから目を逸らしてしまった自分にジョヴァンナは苦笑した。
「……そうか」
「あまり驚いてくれないのね?私にとっては一世一代の決断だったのだけど」
「お前の選択はお前だけのものだからな。私が口を挟むことでもないだろう」
「自分の運命を自分で切り拓いたあなたが言うと、説得力が段違いね」
変わらず笑みを浮かべて言ったジョヴァンナだったが、そこに込められた感情は先程の苦笑とは全くの別だ。
ようやく砂中の盛街が見えるようになったと思えば、それがただの蜃気楼でしかなかったと気が付いた時のような……そういう、圧倒的な隔絶と不足を思い知った時に無意識のうちから漏れ出る笑いだった。
だがそれでも。笑みが浮かんできてしまうほどだとしても。
それはジョヴァンナにとって、テキサスを追うのを止める理由にはならない。
ちょっとした昔話を聞いてくれる?と問いかけたジョヴァンナは、新たに注いだワインの苦味を舌の上で転がして微苦笑した。己の不足を恥じるような、あるいは逆に懐かしむような、そういう柔らかい笑みだったが。
「あなたはテキサスファミリー粛清の日に、それから逃れた……あなたの生死は公的には不明だったけど、きっとあそこで死ぬような子じゃないのは分かっていたわ。だから、あなたがどこへ行ったのかが気になって仕方なかったの」
「結局は龍門まで辿り着いていたわけだけど……残念ながら、当時の私はそれを知る由もなかった。だから結局は、あなたのことを想いながらも何もできなかった」
「でも、そのおかげで却ってあなたについて考えるようになったのは幸いだったかもしれないわ。あなたについての認識をもう一度見直すことになったのね」
それまでテキサスとジョヴァンナは、同じクルビアに暮らし、同じくクルビアマフィアの一人娘で、同じく次代のドンとして有望視され育てられてきた。
だからジョヴァンナにとってテキサスは限りなく近しい、もう一人の自分か半身のような存在だったのだ。テキサスがシラクーザへ遊学に行った時でも、それは変わりはしなかった。
だが自分自身とは、もっとも認識することの難しい存在だ。
自分以外の全てのものを説明しきり、それでも残ったのが自己である。そういう循環論法の罷り通る程には、「自分」とは難しい概念であるから。
ならジョヴァンナがテキサスのことを真に理解できていなかったのも、無理はないのかもしれない。
そしてその盲目に初めて気がつけたのが、あるいはジョヴァンナにとって真実幸運なことだった。
「私はあなたのことを、シラクーザ人、あるいはクルビア人でもいいけど、そうなんだと考えていたわ。強くて、冷徹で、でも義理堅くて、本当に理想的なシラクーザ人みたいな」
「でも、あなたはきっとただのチェリーニア・テキサスだったって……ようやく気がついたのね。いくらシラクーザ人らしいって言われても、あなたにとってシラクーザは自分にまとわり付いてくるイバラみたいなもの」
「だから、あの日に嫌気がさして……シラクーザもクルビアも去ることになったんだろうって。そしてあなたにとって、私はもう訣別した過去の存在になった。でなければ、手紙の一通くらい送ってくれてもいいでしょう?」
大袈裟に肩をすくめたジョヴァンナは、それでも悲嘆や怒りを抱いているわけではない。
もし彼女自身がテキサスの立場にいたとしても、わざわざ追手を差し向けられるリスクを負ってまで手紙を出すなんてしなかっただろうし。
それに、リスクを度外視したとしてもジョヴァンナに連絡を取りたくないというのだって十二分にあり得ると……そう、理解しているから。
「冗談よ、別に音信不通だったのを恨めしくなんて思っていないし。私がシラクーザのやり方に染まりきっているのは確かだしね」
「でも、私があなたのことを想う気持ちも確かなものだったわ。それはあなたがテキサスでなくても、シラクーザ人でなくても同じはず。チェリーニア・テキサスという一人の人間のことを私は想い続けていたのね」
「そして私はあなたにとって過去の存在だけど……だからと言って、あなたに追いつけないわけじゃないでしょう?私だってあなたみたいに変わることはできるはずだし……変われなくたって、時間の流れは残酷なものよ」
「ヴィヴィアン・ロッサティが結局はサルヴァトーレ・テキサスから離れられなかったみたいに。時流は二人の間の溝を埋めてしまえる」
「なら私とあなたの間に横たわる断絶も、きっと埋められて然るべきじゃないかしら?」
自分なら出来ると……確信を持ってそう言い切るジョヴァンナは、確かに長年ファミリーのドンに君臨してきただけの威厳があった。あるいは、それを支えるだけの傲慢なまでの自信と自負も。
それはテキサスが今までに見てきた、マフィアのドンたちともよく似ていた。
「だから、お前はロッサティのドンの座から降りるのか」
テキサスがあえて悪し様に放ったその問いかけにも、ジョヴァンナは何らの臆面も躊躇もなく。
「ええ。逃げるのよ、シラクーザから。七年前のあなたと同じように」
そう言い放ちむしろ達成感すら浮かべたその表情は、確かにシラクーザの秩序からは抜け出してこそのものだった。
だが──それを容易には認められない者だって、シラクーザには居るものだから。
「ふうん。でも君たちは二人とも忘れてるんじゃない?このシラクーザっていう泥沼からは、そう簡単に逃げ出せないってこと……!」