【書籍版1巻2/20発売】貞操逆転ハードモード異世界を鋼メンタル冒険者が生き抜く 作:風見ひなた(TS団大首領)
「今日はできそうですか」
「いや……無理だ。すまない」
アンドレイがそう言うと、アンゼリカはいつものように頷いた。
「そうですか。ではもう眠りましょう。おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
ふっと明かりが吹き消され、部屋が暗闇に閉ざされる。
アンゼリカは何も言わず、アンドレイに背中を向けてベッドに潜り込んだ。
明かりの消えた寝室で、アンドレイは静かに妻であるアンゼリカの背中を見つめた。
十数年もずっとそうだ。アンゼリカは常にアンドレイに背中を向けて就寝する。
妊娠するまでは夫婦で寝室を共にするのが務め。それを忠実に守るアンゼリカは、アンドレイと同じベッドで寝ているが、性交渉はなくなって久しい。
アンドレイの側が年齢を理由に夜の勤めを拒否しているからであり、アンゼリカはでは仕方ありませんねと言ったきり、アンドレイを求めることもなかった。
アンゼリカの体に魅力を感じない、と言えば嘘になる。大きな胸は母性を感じさせる魅力に溢れていたし、潔癖症で毎日温泉への入浴を欠かさない肌や髪は20代後半を過ぎてなお少女のように艶がある。
だが、それ以上にまるで機械を抱いているようで、それがアンドレイを委縮させた。
今はまだ普及されていない概念ではあるが、夫に跨って腰を上下させるアンゼリカはまるでピストン運動をする機械のようだ。
以前雄士は想像上のアンゼリカのセックスを下ネタにしていたが、それは半ば冗談ではなく、ただ子作りするという義務を果たすだけの機械のようなセックスをする。
そして、無機質なあの目。アンドレイになんら性的魅力も恋心も感じておらず、ただ義務だから腰を動かしているのだという、感情の籠らないあの視線。まるで自分の存在価値を頭から否定されているようで、アンドレイは妻が大の苦手だった。
夫と二人きりになると、アンゼリカは普段まとっている人当たりの良さやおっとりした喋り方を捨てて、非常に寡黙になるし、目つきも無機的になる。
それは夫の前では人当たりよく振る舞う必要がないということであり、ある意味では素のままの自分を曝け出しているということでもあるが、アンドレイはそんなアンゼリカに馴染めなさを感じてしまう。怯えを感じている、と言い換えてもいい。
ホットテイスト家に婿入りした当初から、この結婚に何の夢も見ていない。
ごく平凡なジェントリの一家に生まれたアンドレイは、政略結婚の一環として結婚した。アンドレイの実家にとって、サウザンドリーブズとの同盟は身を守るために必要なものだったからだ。アンドレイ自身も、それでいいと思った。
元々アンドレイ自身もバツイチなのだ。一度は別の家に婿入りしたが、その家の当主であった妻に先立たれ、寡夫となって家に戻された経緯がある。
年齢のいった自分が実家の役に立てるなら本望ではあったし、実家で腫物を触るような扱いをされるよりは政略結婚の道具として扱われる方がマシだった。
むしろ花嫁より一回り以上歳を重ねた自分のような男が夫で、本当に満足できるのかと疑問に思ったほどだ。
だが実際にアンゼリカに会って、その疑問は氷解した。
アンゼリカは自分以上にこの結婚に何の夢も見ていない。ただ必要だから夫を迎え、義務だから毎晩子作りをする。
そこには結婚への夢も、伴侶への恋心も、何もない。機械的に作業をこなす、ただそれだけ。
アンドレイはそんな妻が恐ろしかった。
特に酷いことをされたわけではない。アンゼリカは一度だってアンドレイを虐げなかったし、かくあるべしと何かを強制することもなかった。そんな興味すらも抱かれなかった。
ただ自分という機械の付属品であればそれでいい。そう言っているかのようだった。
だからアンドレイにとって、アンゼリカが別の誰かを抱こうと、何ら気にするところではない。
いや……むしろ驚いた。アンゼリカが別の男性を抱きたいと言い出したことに。そんな人間性が、妻にあったのか。アンドレイはそう思ったのだ。
自分の恋心をうまく消化できず、結局初夜権の行使などとカビの生えた死文に逃げ道を求めるのは、ああ……いかにもうちの妻だなあという感じではあったが。
ゴーレムの誤作動、後の時代で言えばロボットがバグったような行動だが、それでも万事機械的に判断するアンゼリカに人間に恋する心があったことがアンドレイには驚きだった。
アンドレイはつまらない男だ。自分でもそう思う。
40代も半ばで、痩せぎすで、これといって得意なことも趣味も持ち合わせていない。
毎日時間が過ぎるままに生きて、昼には仕事であるが特に人から褒められたこともない裁縫仕事をこなし、夜にはアンゼリカに今日は頑張れそうかと問われ、首を横に振る。アンゼリカはそうですかと残念でもなさそうに答え、背中を向けて寝る。
それで自分の一日は終わる。そんな日がずっと続くのだと思っていた。
その日常が壊されたのは、ある一人の男との出会いだった。
まだ若く、黒髪の東洋人で、活力に満ちた筋肉質な青年は、妻が想いを寄せている人物なのだという。悉くが自分とは真逆の人間で、それはアンゼリカが自分に興味を示さないわけだ。
青年はアンゼリカが自分を抱くことに何も思わないんですかと尋ねてきたが、実際何も思わない。婿入りした当初ならともかく、アンドレイはアンゼリカに恐れを抱いているし、そもそも自分はアンゼリカの所持者ではなく、自分がアンゼリカという機械の付属品なのだ。自分風情が嫉妬心など抱くいわれがあろうか。
だがどういうわけか、青年はそれで諦めるどころかアンドレイに執着を始めて、毎朝館の前で人を集めて体操してはアンドレイくん遊びましょと呼びかけてくる始末だ。
これは本当にわけがわからなかった。アンゼリカに何かを言うならともかく、自分に執着して一体何がしたいのか?
しかもそれを何とかしろと義母である領主には詰められるし、普段冷血で知られている何を考えているのかわからないウェンズディはイキイキと活動に加わるし、何が何だかわからない。自分ごときに一体何を期待しているのか。この世の唯一つでも、アンドレイの好きにできることなど何一つないというのに。
そんな突然の嵐のような日々も、青年の結婚を機に終わりを迎えた。
あの頭がおかしいとしか思えない青年は自分を体操に誘ってくることはなくなったし、アンゼリカはあの青年を抱くことを諦めたようだ。
これで万事元通り、元の落ち着いた日々に逆戻りだ。めでたしめでたし。
……だが。ただひとつ、心に棘が刺さっていた。とても小さく、見過ごしても構わないような、そんな小さな違和感が。
あの日、結婚式の帰り道。ただ夫としての務めだからとアンゼリカを形だけでも慰めようと出向いたとき、アンドレイは見た。感情も露わにデアボリカに大声を出し、心のままに涙を流す妻の姿を。
それはこの家に婿入りしてから十数年来、見たことのない妻の姿だった。
これまでずっと、人間味のない妻が怖かった。
妻には人間性の欠片もなく、ただ人ではない何かが人間の振りをしているのだと思っていた。
だが、そうではなく……。
妻が人間性を示していないだけだったとしたら。ただ自分にそれだけの価値がなかったとしたら。
妻に執着を向けられるような人間的魅力のない男だから、一顧だにされることもなかっただけの話なのだとしたら。
それは悔しいことだった。自分に価値などないと思っている痩せっぽちで初老手前のアンドレイにとってすら、身震いがするほどに。
「なあ、お前」
気付けば妻の背中に向けて声を掛けていた。
「……なんですか?」
アンゼリカはベッドのシーツを被ったまま問い返してくる。
その態度にめげず、アンドレイは力こぶを作ってみせた。
「その……最近朝の体操に参加してな。こう見えて結構体力は付いてきた気がするんだ。そりゃあの青年や、スラムの娼夫たちに比べれば筋肉も大したことはないが……。以前に比べればだよ。以前に比べれば、ちょっとはマシになった……んじゃないかと……思うんだが……」
徐々に尻すぼみになりながら、アンドレイは言葉を紡ぐ。
これまで自分に自信などもてたことが一度もなく、ただジェントリの一族に生まれついただけの、流されるままに生きて来た男の主張は、いかにも頼りない。
とうとう沈黙に潰されて黙りこくってしまう。
ああ。やはりこうなる。自分程度の男が出しゃばって何になるというのだ。
こうなることは目に見えていたではないか……。
「それで?」
「えっ……」
「それで、何を言いたいのですか」
気付けばアンゼリカが身を起こして、こちらを見ていた。
夜闇の中ですべてが暗く閉ざされる中、彼女の視線だけがはっきりしている。だがそれは無機質な光ではなく……初めて興味の色が混じっているように、アンドレイには思えた。
「だからその……さっきは無理そうだと言ったけど。やっぱり今日は頑張れそうだ……と言いたかったんだ」
「そうですか」
そう言うと、アンゼリカはおもむろにネグリジェを脱ぎ捨てた。
蒼ざめた月の光に、アンゼリカの裸身が照らされている。
それを見たアンドレイは、初めて……妻を美しいと思ったのだった。
「では久しぶりに始めましょうか」
「あ……ちょっと待ってくれ」
「何か? 睡眠時間が惜しいです、手早く要件を言ってください」
アンドレイの制止に、アンゼリカは事務的な口調で問い返す。
そんな彼女に、アンドレイは少し口ごもってから言葉を続けた。
「その……体力がついたから。今日はお前が僕の上に乗るんじゃなくて、僕が上になろうと思うんだけど……どうかな」
「…………」
恐る恐る提案するアンドレイの言葉は、やはり尻すぼみに小さくなる。
アンゼリカはじっと沈黙するばかりだ。
やはり無理だっただろうか。それは非効率的です、推奨しませんと切って捨てられるだろうか。
沈黙の中、アンゼリカは小さく噴き出すように笑った。
「わかりました。これまで散々種を絞ってダメだったのです。たまには逆にするのもいいかもしれませんね」
「えっ」
思わず言葉に詰まるアンドレイに、アンゼリカは股を開きながら小首を傾げた。
「どうしました? 貴方が言い出したのですよ。早くしてください」
「あ、ああ。あと、それから……もう一つ言いたいことがあって……」
「何です?」
アンドレイはしばし迷った後、年甲斐もなく真っ赤になりながら口を開いた。
「その……抱いてるときだけでいいから、優し気な口調をしてくれないか。あの青年の前では優しそうでいて、夫の前ではしないのは道理に合わない……気が……するのだが……」
「……はぁ。素のままでいられて楽なのですが」
アンゼリカは億劫そうに溜息を吐き、それから穏やかな笑顔で夫を見た。
「これでいいかしら~?」
「ああ、うん。ありがとう。……頑張れそうだ」
そして闇の中、ふたつの影がひとつに折り重なっていった。
ホットテイスト家に待望の子供が生まれたのは、翌年の暑い夏の日のことだった。
しんみりしましたか? では引き続き後編、ユウジ編をお楽しみください。