【書籍版1巻2/20発売】貞操逆転ハードモード異世界を鋼メンタル冒険者が生き抜く 作:風見ひなた(TS団大首領)
これはアイリーンとウルスナが雄士の元を離れてロングフィールド領にいたときの話である。
「ふむ……私の養子になりたいというのは其の方か」
応接間のソファに腰掛けたローズ伯爵は、じろじろとアイリーンを見据えた。まるで美術品の価値を値踏みするような遠慮のない目つきで、見られているアイリーンはガチガチに緊張しながら脂汗を滲みださせている。
「あ、アイリーンと申します、伯爵様」
「お前の名などどうでもよい。姓は? どこの家の出身かの方が重要だ」
「ほ、ホットテイスト家です……。サウザンドリーブズのジェントリの」
「ああ、あの美人局の家か。木っ端貴族だな、伯爵家の養子に迎えるにはいかにも物足りんが」
そう言って扇子を拡げ、ローズ伯爵は鼻で笑う。
アイリーンもつられて苦笑いを浮かべそうになるが、その足は思いっきりウルスナに踏んづけられ、アイリーンはなんとか表情を噛み殺した。涙目でウルスナの方を見たアイリーンは、ウルスナに目配せされて言葉を飲み込む。
追従の笑みなど浮かべるな、毅然としていろというサインだった。
「……だが、家格を無視して私に養子縁組を申し込むということは、それなりの自信があるということだ。そうだな、アイリーン?」
「は、はい。頑張ります。……じゃなくて、えっと、実力を証明したく思います」
「ふ……。まあ期待はせんがな。あまり私を落胆させぬようにしてくれ。……面談は終わりだ、下がってよい」
「し、失礼します」
伯爵が鷹揚に手を振ったのに合わせ、アイリーンとウルスナは深々と頭を下げて、応接間を退出する。
着慣れないドレスの裾を踏まないようにしずしずと外に出たアイリーンは、そのまま無言で宛がわれた客間に入り、背後のドアを後ろ手に締めてからはあーっと深い息を吐いた。
「た、助かった……」
「緊張しすぎだ、アイリーン。リラックスしろとは言わんが、もう少し余裕を見せろ」
横からそんなことを言ってくるウルスナに、アイリーンは涙目を向けた。
「他人事だと思って好き放題言って! めちゃめちゃ怖かったんだから! そもそも、なんであたしが伯爵家の養子になるの!? その前段階はホットテイスト家の四女になってるし! 本来なら伯爵様と話すこともできない身分なんだよ、あたし!?」
「声が大きいぞ。そうは言っても、俺が養子になるわけにはいかんだろ。お前がアンゼリカより上の立場になるのが、初夜権をひっくり返す一番の方法なんだよ。それにお前がホットテイスト家の四女ってことは、アミィが当主を説得して公的にそうなってるはずだ。お前はとっくにジェントリの娘なんだぞ、そうビクビクするな」
「だ……だってえ……」
情けない声を上げるアイリーンに、客間のドアを開けて姿を現したジャニスがくすりと笑う。先ほどまで無言でローズ伯爵の横に控えていたが、アイリーンたちを追って客間までやって来たのだ。
「アイリーンさん、ご心配なく。母様の威圧的な態度は、使用人に混じって様子を窺っている他家の間諜を誤魔化すためのブラフですよ。伯爵家が諸手を上げてジェントリの娘を養子に迎えた、となればいちゃもんを付ける者もいますからね」
「え……だってよその家のことでしょ?」
「貴族社会は複雑怪奇です。伯爵家と婚姻同盟を結んでいる家は、次期当主の男性よりも年上の養子を迎えることに待ったをかけられるんですよ。まあ同盟は結んでるけど、潜在的にはこちらを牽制しようとする敵ですね。彼らの目を欺く必要があるのです」
「はえ~」
アイリーンは言葉もない。スラム育ちのアイリーンには、ジャニスがさらりと言ってのけた陰謀飛び交う貴族社会は、あまりにも想像のつかない世界だった。
間の抜けた返答をするアイリーンに、ウルスナは小さく溜息を吐く。
「おいおい、こんなの序の口だぞ。貴族社会で信用できる相手と巡り会うことなんか滅多にない。誰もがナイフを背中に隠しながら握手を交わす修羅の
「まあまあ。僕も母様も、アイリーンさんにそこまで望んでいませんよ。そういうのは次期当主である僕の仕事です。アイリーンさんは謀略とは無関係のところで、兄貴と仲良く過ごしていてくれればそれでいいんです。それに、母様だってアイリーンさんが元平民だということは承知の上ですよ。なんせ以前ここに来たんですから。それでも貴方を養子に迎えるのは、兄貴との縁を大事に思っているからです」
そう言って、ジャニスはアイリーンに右手を差し出して友好的に微笑む。
アイリーンが差し伸べられた手におずおずと握手すると、ジャニスはにぱっと爽やかな笑みを浮かべた。
「よろしくお願いしますよ、姉上。貴方は兄貴と我が家の縁を繋ぐ架け橋になるんですから。母上も兄貴との強い縁を結びたくて仕方ない。無論、僕もです。貴方という存在を通じて兄貴を身内にできるのですから、最悪貴方は立っているだけでも構いません。ロングフィールド家の長女が兄貴の妻であるというだけで、大事な仕事をしてくれているのですから」
「あ、うん……」
ジャニスの言葉には悪意はない。立っているだけでも構わないというのはお前には何も期待していないという風にも捉えられるが、実際は何も貴族らしいことができなかったとしても気に病むことはないという励ましだった。
無学な者が、そう易々と貴族の仕事をこなせるわけがない。それは次期当主となって大好きな母の気苦労を和らげたいと願い続けたジャニスがよく知っている。本来はする必要もない次期当主としての勉強を、己に課し続けてきたのだから。スラム育ちの平民となれば、その素養は仮にも貴族の端くれだった自分とは比較になるまい。
アイリーンはジャニスの手から、そんな思いやりを感じ取った。
「ありがとう。でも、折角あたしを養子に迎えてくれたんだもの。あたしにできることなら、何とかやっていきたいと思ってるの」
アイリーンははにかみながらそう口にする。
たとえ誰からも期待されていなくても、ポストに就いたからには全力を尽くしたい。それはアイリーンの美徳であり、ウルスナは優しい目で妹分を見つめた。
「そうですか……。ですが、くれぐれもご無理をなさらないように。貴方は兄貴にとって大事な
不意にジャニスはアイリーンの手を両手で握り、彼女の華奢な手をすりすりと愛おしそうにさすった。
「え?」
「……この手で兄貴と愛し合ったんですね。兄貴の大事な部分を触ったんですね。うふふ、ちょっと憎いけど、貴方には感謝していますよ」
「えっと」
「貴方という姉ができたことで、僕も間接的に兄貴の弟になれた……。そう、貴方を通じて僕と兄貴は繋がっている……」
「ちょ、怖い怖い怖い! いきなり眼の光を消さないで!!」
「おっと」
どろりと闇色の目になっていたジャニスは、アイリーンの声に応じて手を離し、ハハッと爽やかな笑みを浮かべた。
「失礼しました。ちょっと兄貴への想いが溢れ出してしまって」
「……き、貴族って怖い……!!」
「いや、こいつがヤバいだけだと思うが……」
雄士と別れてから数か月、少年の思慕は大分アブない方向へこじれていた。
もっとも、だからこそこんな養子縁組を組むことができたのだが。
「それより、この屋敷への滞在についてだが……」
「ああ、承知しています。アイリーンさんが貴族の作法を身に着けられるよう、僕たちが教育をサポートする。アイリーンさんの結婚式には、僕が母上の名代として出席し、アイリーンさんの身の証を立てる。すべてそちらの要求通りで構いません」
ジャニスの言葉に、ウルスナはほっと安堵の息を吐いた。
「助かる。正直アイリーンを教育しながら、式の段取りをゴールドンと組むのは俺だけじゃ厳しい気がしていてな」
「大事な姉夫婦のためです。任せてくださいよ。ところで、ウルスナさんの手も握っていいですか? 兄貴のぬくもりを感じたいんです」
「断る」
「……さ、先行き不安……」
こうしてロングフィールド家でのアイリーンの貴族修行の日々が幕を開けたのだった。
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そしてあっという間に3週間が過ぎた!
アイリーンにとっては慣れない貴族修行の日々だったが、逆に言えばそれ以外特筆すべきことはない日々が続いたと言える。
「平和だねえ」
「ああ、そうだな。アイリーンの身元を探ろうとする間者は俺の方で見つけ出して、警備兵長に突き出しておいたし。万事順調、平和そのものだ」
「それくらい大したことないよねえ。ユージィの傍にいると毎日もっととんでもないことが起きるもの」
「そうだな。ユージーンの傍にいることを思えば、どうってことないよ」
いや、2人ともすっかり感覚が麻痺しているだけだった!
他の貴族家からの間者を巻き込んだ大捕物といえば数話使ってもいいくらいの大事件だが、もはやそれくらいでは動じない精神状態になっている。
なお、その頃の雄士は毎朝領主の館の前でマッチョ集団を引き連れて「アンドレイくーん! あっそびましょー!」と叫びながら卑猥な服装でブートキャンプをキメている真っ最中だ。これくらいやらないと事件ではない。比較対象が悪すぎるだろ。
「ううっ……!」
「アイリーン!? どうした!?」
突然うずくまって呻き声を上げる妹分に、ウルスナは切迫した声をかける。
「く、苦しい……!」
「なんだ!? どこが痛む!?」
「む、胸が……!!」
「胸!? 肺か!? 心臓か!? くそっ、今この屋敷には医者がいねえってのに……!」
「胸が……! ユージィを思うと胸が痛いよお! 今すぐサウザンドリーブズに戻ってユージィに甘えまくりたいよお!! 子犬になりきって顔をぺろぺろしたいよお!! 喉元を指で撫で撫でされながら分厚い胸板に頬ずりしまくって男の人ってなんでこんな逞しいんだろ……♥♥♥ってうっとりしたいよお!!」
「なんだ……。いつもの発作か」
ウルスナはほっと胸を撫で下ろした。
アイリーンが禁断症状の発作を起こして悶え苦しむのもすっかり慣れたものである。どう見たって異常な光景なのだが、何度も発症しているので今更であった。
かわいそうに、基本男性が女性を避けるこの貞操逆転世界において、どんなエロ行為でもNGなしのドスケベ聖者に散々愛されたせいで、アイリーンは長期間雄士と離れて暮らせない体になっているのだった。
「まあ気持ちはわかるぜ。俺もユージーンが恋しくて体が夜泣きしてるからな」
ウルスナまでそんなことを言って、しみじみと頷く始末である。
あいつ常習性がある違法薬物か?
そんなウルスナに、アイリーンは苛立ったように絶叫を叩きつける。
「もういいよ修行なんて! もう十分でしょ!? 早くサウザンドリーブズに戻ろうよ! 一刻も早くユージィに会いたいよお!!」
「まあ俺もユージーンに会いたいのはやまやまだが……。だからって
「それは……」
ぽりぽりと頭を掻くウルスナに、アイリーンは言い淀んだ。
その様子を見て、ウルスナは深いため息を吐く。
「どう切り上げたもんかなあ。この事態はさすがに俺も想定外だったぞ」
そう呟いた矢先に、コンコンと客室のドアをノックする音が響いた。
「アイリーンちゃん! 今日もお庭にお散歩に行こうね♪」
「来た……」
げんなりとした顔をするウルスナをさておき、アイリーンは「はい、ただいま!」と返事をして小走りにドアへ向かう。アイリーンにとって、その客人を待たせるなどありえないことだ。
なにせその客人とは……。
「伯爵様、お待たせしました!」
「もう、アイリーンちゃんったら、いつまでも他人行儀な呼び方をするんだから。私たちは親子なんだから、お母さん♥とかママ♥とか呼んでいいんだゾ♪」
「ええと……じゃあお母さん……」
はにかむように呟くアイリーンに、ローズ伯爵はきゅーん!となって思わず彼女をその豊満な体で抱きしめ、すごい勢いで頭をナデナデし始めた。
「あーもう、可愛い♥♥ アイリーンちゃん素直で可愛い♥♥ 魔力も申し分ないし、物覚えは良いし、可愛いし! こんな娘を迎えられて私は幸せ者だなあ♥♥」
気が触れたんかお前?
3週間前のローズ伯爵を知る者が見れば思わずそう口にするであろう狂態だが、アイリーンはまんざらでもなさそうに照れ笑いを浮かべる。
「えへへ、お母さんったら褒めすぎだよぉ」
「褒めすぎなものか! うちのアイリーンちゃんは世界一可愛い、自慢の娘だぞ」
「…………」
ウルスナはイチャつく伯爵とアイリーンを、物言わぬ彫像のように真っ白になりながら見つめていた。
「どれ、私が直々に魔術の稽古をつけてやろう。まあ、平民の魔力などたかが知れているが……我が家には魔力の引き出し方の秘伝がある。それを用いれば、多少は魔力があるように偽装できるかもしれんからな。泣き言は聞かんぞ、覚悟せよ」
そう言って伯爵が気まぐれを起こしたのが2週間ほど前のこと。
しかし稽古が終わる頃には、伯爵は信じられないようなものを見る目でアイリーンを見ていた。
なにせアイリーンに流れる血は、シャルスメル王族のものなのだ。潜在的に秘めている魔力はまさに桁違いであり、そこに加えて伯爵からのレッスンを受けたことで、その魔力は本格的な覚醒を迎えつつあった。
この一件でアイリーンをただの平民娘じゃないのではないかと疑うようになった伯爵は、より身近で彼女を見極めようと、事あるごとにアイリーンを傍に置いて観察を開始した。
「アイリーンちゃん、おやつはいらないか? 焼き菓子を持ってきているんだ」
「わーい、ありがとう! 食べる食べる! ……じゃなくて、いただきますわお母様!」
「よしよし、たんとお食べ」
その結果がこのザマである。
元々愛嬌があって人好きのするアイリーンは、瞬く間に屋敷に溶け込んだ。その速度はウルスナが舌を巻くほどのもので、アイリーンが歩くだけで「お嬢様、庭の樹からリンゴが多く取れました。おひとついかがですか」とか「お嬢様、ドレスの裾がほつれてますよ。手早く直して差し上げますね」とか、使用人が好意的に呼びかけてくるほどだ。それにアイリーンは逐一嬉しそうにお礼を言うので、ますます親切にしてあげたくなる。
たった3週間で、アイリーンは生まれたときからこの屋敷のお嬢様だったかのように皆から慕われていた。
アイリーンはよく知略に長けたウルスナや度胸のあるアミィを羨むが、ウルスナに言わせればアイリーンの人たらしの才能が一番ヤバい。しかもそれを計算ではなく天然でやってるあたり、末恐ろしいものがある。
王族の落胤として、これ以上相応しい才能があるだろうか。無自覚に人を惹き付ける才能は、王者の素質として唯一無二のものだった。
そして立て続けに娘を失った伯爵と、親を知らないアイリーンの噛み合い方がまずかった。生まれながらに強い魔力を持った少女に娘を重ねてしまう伯爵と、無自覚のうちに親の愛に飢えているアイリーンの需要が、がっちり噛み合ってしまったのだ。
結果、伯爵は2週間でアイリーンにドハマりし、目に入れても痛くないというほどに溺愛するようになり、アイリーンも満更ではなくその愛情を受け入れるようになった。
なまじ実の母親を知らないので、伯爵からの行き過ぎた寵愛を、世の母親はみんなこんな感じなのかなと受け入れている節があった。
客観的に見ると最悪の相性である。本人たちは幸せそうなのだが。メリーバッドエンドかな?
ユウジ欠乏症を起こしたアイリーンが無理やりにでも帰ることができないのは、アイリーンを気に入った伯爵が手元から離そうとしないからだ。アイ○ルのCMに出て来るチワワに魅了されたオッサンのごとき気に入りっぷりだった。無理にでも引き離すと死ぬかもしれない。伯爵が。
だが、たとえそうであっても、言わねばならないことがある。
アイリーンは僅かに残った理性をフル動員し、凛と決意に満ちた表情で伯爵を見据えた。
「お母様、実は……そろそろお暇してサウザンドリーブズに戻ろうと思うんです」
「なんで!? なんでそんな悲しいことを言うのだ!? ずっとこの屋敷で楽しく暮らせばいいじゃないか! 誰かに何か言われたのか!? この屋敷にいればご馳走食べ放題だし、おやつも出すし、三食お昼寝つきで私が一生面倒をみるぞ! アイリーンちゃんが働かなくても生きて行けるようにしてあげるから!」
ニート製造機かお前は。
とんでもない好条件に思わずうんと平民根性を発揮して頷きそうになるが、アイリーンは雄士への想いを胸に首を横に振った。
「残念だけど、それはできません。あたしには愛するユージィがいます。彼がサウザンドリーブズであたしを待っているんです、結婚式を挙げに戻らないと」
「そうか……そういえばそんな話だったな……」
すっかり忘れるほどアイリーンにドハマりしていたのか。
噛み締めるように呟いた伯爵は、ふとぽんっと手を打った。
「あ、そうだ。じゃあ聖者殿もロングフィールドに呼ぼう! そしてアイリーンちゃんとこの屋敷にずっと住んでもらえば、誰も不幸にならないな!」
「えっ」
「本人はサウザンドリーブズで冒険者をすると言っていたが、別にこの屋敷を拠点にしても冒険者はできるだろう? もちろん聖者殿の食事もちゃんと出そう。よしよし、それがいい。早速サウザンドリーブズから聖者殿を拉致……いや、
我ながらナイスアイデア!と言わんばかりに伯爵は一人合点する。
息子夫婦によかれと思って二世帯住宅を勝手に発注する母親のごとき傍若無人っぷり。鬼女板なら確実に炎上案件だが、それが許されるのが伯爵という階級である。
そして肝心のアイリーンは。
「さすがお母様、名案です!」
「だろう!?」
「おいおいおいおいおい!!! 駄目だろそれは!!!」
瞳をキラキラさせるアイリーンに、ウルスナは慌てて突っ込んだ。
まあロングフィールドを拠点にしてもいい気がするが、今この状況で雄士を拉致するためにロングフィールドから兵を送り込めば、間違いなく揉める。アンゼリカは激怒して絶対に雄士を手放さないだろうから、戦争になるだろう。アンゼリカの妹ということになっているアミィとアイリーンの立場も複雑なことになる。泥沼まっしぐらの提案だった。
「あの……」
気付けばウルスナの背後で、ジャニスが申し訳なさそうに佇んでいた。
「あ、ごめん。何だ?」
「すみません、大変言いにくいんですが……もう帰ってくれません? このままだと、母上がトチ狂ってアイリーン姉様を次期当主にすると言い出しかねないので……」
「……はい。すみません、帰ります……」
こうしてアイリーンのロングフィールドでの貴族修行は、慌ただしく終わりを迎えたのだった。
「ジャニーーーース!! 邪魔をするな!! アイリーンは私の娘だぞ、どこに連れて行こうというのだ!!」
「みなさん、早く出発して! 僕たちが母様を押さえているうちに、早く!!」
「お、おう」
「アイリーン! 我が娘よ、カムバーーーック!!」
「君たち早く! 早く逃げるんだ! 長くはもたないぞ!!」
母親に全力で拘束魔法をかけて足止めするジャニスと夫のミドラーたちの緊迫した声を聞きながら、ウルスナは馬車を出発させる。ソウルメイツ全員の魔力を集めて、伯爵をなんとか足止めしていた。前回ロングフィールド家を去ったときとはまるで別物の去り際である。
そして夫や妾、息子の総動員で足止めしてなお、伯爵がじりじりと馬車に一歩ずつ近づいてくることにウルスナは戦慄を禁じ得ない。母の愛、おそるべし……!!
馬車の後部から身を乗り出し、アイリーンは悲痛な声を上げる。
「お母さーーーん!!」
「アイリーン!! くそう、娘は絶対に嫁にやらんぞ!! 娘夫婦を我が家に迎えてあったかい家庭を築くんだ!!」
「お前、正気に戻りなさい! アイリーン君は養子なんだぞ!」
「そうです母上、正気に戻ってください! 兄貴と一つ屋根の下で暮らすなんて……あれ? 悪くないかも」
「出発進行ーーーーー!!!」
ジャニスの声色が変わったのを悟り、ウルスナは全力で馬に鞭を入れた。
このままではジャニスまで雄士を無理やりロングフィールドに連れてこようと言い出しかねない。
遠ざかる母(その期間……2週間)の姿をいつまでも見つめながら、アイリーンははらはらと泣き続けていた。
その手には大きな宝石のついたブローチが握られている。
「……それは?」
「あ、伯爵様にもらったの。家宝の品で、これがあればあたしが伯爵家の娘だと証明できるから、私だと思って大事にしなさいって」
「そ、そんな大層な品までもらってたのか……」
そういえば伯爵が雄士を押し倒したとき、胸元に大きな宝石がついていたなと思ったが。
家宝の品を伯爵の生前にもらうって、それ次期後継者はお前だって言ってるようなもんじゃないのか?
ウルスナはすんでのところでその指摘を飲み込み、首を横に振った。
アイリーンは単に綺麗な宝石だとしか思っていないようだし、余計な火種を焚き付けるのはやめておこう。アイリーンが我こそは次期後継者と主張しなければ、何の問題もなくジャニスが継承して終わる話なのだ。
まあ、欲のないアイリーンがそんなことを主張することはないだろうが。
「……まあ、ともかくこれでユージーンのところに戻れるな」
「うん!」
2人を乗せた馬車は、ゴトゴトと揺れながら静かにサウザンドリーブズへの道を辿っていく。
出る直前にゴールドンには手紙を出しているので、慌ただしくなるが結婚式は帰ってすぐに開かれるはずだ。
ユージーン、待っていてくれよ。今帰るからな……!
結婚式を3日後に控えた、秋の日の出来事であった。