わたしにとって酔いと後悔は切っても切り離せない関係であり、酔えば必ず後悔する。といっても後悔する飲み方をするのではなく、酔後の、あの有耶無耶になっていた意識が覚醒する途中で、酒席での会話やこれまでの失敗の何もかもを同時に思い出して、その重みに自らが潰されるのだ。
お酒がどれだけ美味しくても、酒席がどれだけ楽しくても、胸の内に充満する鬱積がもたらす圧迫感を中和し、清算することはできない。後悔は常に先行しないのだから、心情的に負債の方が大きく感じられるのは当然のことで、そうであれば飲まなければよい話であるのに、飲んでしまう。
かといって、わたしはお酒を愛しているわけでもない。飲まなくても飲めなくても平気だ。だとすれば、わたしは後悔することを期待しているのだろうか。わたしは後悔と痛みを愛しているのだろうか。
後悔の最中は普段よりも何倍も何十倍も頭が冴え渡り、自らの言動と他者のリアクションを客観的に無心に切り刻むことができる。そうした解剖から得られる理解は確かに価値があるもので、この一瞬だけ得られる明晰さを求めて、お酒に頼っているのかもしれない。
しかし痛いものは痛いのだ。心にメスを入れるのは、肉体に生じる傷よりも除去しがたく無視しがたく、とても痛い。わたしは確かに屈折して倒錯した性格の持ち主だけれども、痛みを愛するようになるほど、辛い状況にはないはずだ。
痛いのは、きらいだ。帰りの電車の中で、車両が揺れるたびに、わたしは内側に向かって沈み込むような痛みに向き合わなければならない。痛みがきらいだからこそ、途中まで一緒に乗ってくれる人は気を紛らわすことを助けてくれるので、わずかな間であっても、救いの天使に思えるほどだ。
しかし、この日は、この日の痛みは別格だった。わたしの中身は荒れ狂う後悔の嵐と波に満たされていて、いつもであれば心強い道連れであるまひろのかける言葉も、まるで届いていなかった。
ビールを飲み過ぎて酩酊して、呆けていたわけではない。むしろ酩酊とは真逆で、酒席の最中から後悔が始まったことで、わたしはまるで酔えていなかった。ただ後悔と苦痛の時間が、聖域である楽しい時間までをも侵して、わたしの芯を貫いていた。
あんなに楽しみにしていたクラフトビールを持ち寄る集まりが、かつてないほどの痛みをわたしに与えることになるとは思ってもいなかった。思ってもいなかったはずだ。酔って後悔することはあっても、酒席そのものを後悔することは今までなかった。それなのに、こんな気持ちになるくらいだったら行かなければよかった、そうとさえ思えていた。
はるか先生、観音さん、まひろ。3人に好き放題言われて、少しも、何も言い返せなくて、行き場を失ったわたしの言の葉が視界を黒く塗りつぶしていた。殺意にも似た激情が、経験したことのないような巨大な感情がそこにあった。
クラフトビールを持ち寄る集まり、通称ビール会が楽しみなわけは、皆に会えることだけに留まらず、恐らく、ここが唯一のわたしの独壇場になっているからだった。
わたしの出すものを皆はただ飲むことしかできない。別に無理に飲む必要なんてないのだけれど、飲めなければ、何かに勝った負けたような気がするのだ。用意したものを出すだけなので、わたしの苦手な臨機応変の対応も必要ない。
どうやっても歯が立たない、はるか先生と観音さんに「参った」を言わせられる。自己満足の極みに違いない。でも回数を重ねることで、わたしは臆することなく、能動的に、そのような機会だと認識していた。
なぜ「参った」と言わせたいのだろうか。いつもいいように言われているから、わたしが負けてばかりだから、勝てるところが何一つないから。その仕返しと卑屈な心。
彼女たちにとっての有象無象にわたしはなりたくなかった。悪くても胡乱でも構わないから、何か印象を残したい。彼女たちの記憶に自分が確かに存在していた事実を残したい。そうすれば、彼女たちの長大な功績の中に、何か爪痕を残せるかもしれない。そう思っていた。
わたしは卑怯者であるがゆえに、ユイ先生やヨーコさんをこの会に巻き込まないように立ち回っていたのだろう。だって本物が現れてしまえば、わたしの立つ瀬は本当になくなってしまうから。いかにも小賢しい、卑怯者の考えそうなことだった。
けれど最近はこの会を開きたいと言い出せずにいた。はるか先生も観音さんも、とても忙しそうで、声をかけるのが怖くて単にタイミングがなかった、だけではない。
そういうことじゃないだろうと、クラフトビールで「参った」を言わせたいだろうと、わたしの中で誰かが声高に主張し始めていたのだ。
とてつもなく困難で途方もないことだとしても、彼女たちと同じ土俵に立つことを願ってしまったのだから。奇天烈なビールのような飛び道具じみた方法で仕返しを果たそうとするべきではないと言っているのだ。
あくまで作品でぶつかるべきであって、それ以外の手段はむしろ彼女たちを遠ざけてしまうことに繋がりかねないと警鐘を鳴らしていた。
だから、そう、正直にいえば、はるか先生たちと少人数で集まることを恐ろしく感じていた。言いくるめられ、言い負かされてばかりだから、今度は何を言われるのか恐ろしくて仕方がない。わたしは更なる追及を恐れていた。
ただ、そのような怯える声が頭の片隅で響いていても、ビール会は楽しみだった。きっかけをくれたまひろにはとても感謝していたし、エンターテイナーとしてありたいと思う自分が、普通ではないビールを懸命に用意した。
責任逃れに付け加えておくと、まひろの入れ知恵もあったのだ。
ある晩、彼女は急に切り出した。
「はるか先生のところに持っていくビールってもう決まったの?」
「候補は考えているけど、まだ確定してない感じかな」
「もうさ、ぜんぶ変なビールでいいんじゃない?」
「へ?」
「どうせ観音さんがちゃんとしたビールを持ってくるじゃない?だからぜんぶ変なビールにしちゃおうよ」
まったくもって、まひろは騒乱の種を蒔くのが大好きな性分で、しかも自らは当事者になろうとしない困りものだ。でも、彼女はわたしのフラストレーションを見抜いてもいるので、アルコールが入って良い気分になっていたわたしは
「わかった!今回は阿鼻叫喚狙いにしよう!」
二つ返事で答えてしまった。
実際にまひろの言った通り、観音さんは緊急避難用のビールを持ってきていたし、まひろはまひろでビール会当日には
「全部変なのにしなかったの?どうして日和ったの?」
開口一番これである。
だから今回変なビールが多いのはわたしだけのせいではないのです、たぶん。
以前のビール会では、暫く経ってから観音さんにやや本気のトーンで
「もう少し普通のビールを増やそうよ」
とたしなめられていたけれど、それは昔の話。
はるか先生も観音さんも最近では日常的にクラフトビールをかなり嗜んでいる様子。わたしが普通のクラフトビールを持っていっても面白くない。
「僕はね、面白いものを求めているんじゃないんだよ。美味しいものを求めているんだよ」
観音さんはこうも言っていた気がするけれど、無視、無視。
とは決意したものの、いざリストを作成する段階に入ると、小心者のわたしが猛烈に抗議してきた。これはやりすぎだ、もう二度と開催できなくなるリスクを考えろと。
別に嫌がらせがしたいというわけではないのだ。2人のことを尊敬しているし、とても好きだ。それはそれとして、わたしが好きなものが2人にとっては酷いものという事実は、オチが付くので、ひとつ面白いものでもある。
だから今回もコンセプトは変わらない、面白くて美味しいもの。
今までと異なるのは、わたしがぜひ飲ませたいものを選択するということだ。一般的な嗜好とかけ離れていたものとしても、構わない。
―――
結果から言えばビールのチョイス自体は、ほぼ成功だった。美味しいものと面白いものを交互に差し出し、その反応は銘柄によっては期待以上でもあった。
でも恐れていた通り、会話の流れは不穏な方向へと流れ続けた。
いっぱい褒められた気がしたし、いっぱい貶された気がした。わたしには受け止める余裕がなくて、全部は覚えていられなかった。
缶を3本ほど空けたあたり、武夷岩茶の入った強烈な酸味のワイルドエールを注いだ時に、観音さんがこういった。
「復讐心の解消には実に色々な方法があるけれど、広瀬君はそれをクラフトビールで解消しようとしているんだね。最近になってようやくわかったよ」
どきりとした。その通りであって、人にこうやって言語化されると馬鹿馬鹿しくて、わたしは居心地悪そうに笑うことしかできなかった。この指摘は手始めに過ぎなかった。
繰り返し、最後まで出てきたのは
「それで君は何になりたいの?」
この質問だった。何回も聞かれた。何度か答えようとしたけれど、遮られたり、最後まで離せなかったりで、まともに答えることは一度もできなかった。いや、どちらにせよ、わたしには答えられなかった。
わたしは直接的な答えを本当に持ち合わせていなかったのだから。
作家になりたいとか売れっ子になりたいとか、年商1億プレイヤーになりたいとか、言いようならいくらでもあった。でも、わたしはそのように言い切ることができなかった。
格好つけたかったわけではない。本当に、そう言えなかった。わたしはなりたいものや目標にしている人は、本当にいない。はるか先生だって観音さんだって、その対象ではない。尊敬の念とは全く別の話だ。
そうではなくて、わたしは誰かになりたいとかどうなりたいとか、自分事として、真剣に考えたことがなかった。もちろん、わたしだって人の子であるから売れっ子作家になったり、文豪たちの生活を想像したりしたことがないわけではない。物語のヒーロー、主人公になったり、転生して絶大な力を持ったり、そんな妄想をしたことがないわけではない。
けれども、どれもしっくりこないのだ。わたしが売れっ子になって誰からもちやほやされて、四六時中サインをせがまれて、お金に困ることなんてなくて、かつて見放された友達に仕返しして、そういうカタルシスを想像することはできる。でも、わたしはそうなるとは、どうしても思えなかった。わたしのこととして想像できなかった。
「それで君は何になりたいの?」
わたしは全くもって、何も言い返せなかった。
「自分が書きたいものを書き切って、終わりたいです」
それではダメだという。確かに、何になりたいのかという質問の答えにはなっていない。でも、わたしの持つ回答の中で最も近いものがこれだった。
何になりたいかという質問は、今あなたは何者であるかという質問と同義だ。将来というまだ見えない一点から、今の自分に向かって線を引っ張る。この見えない点について、正直に、錯覚なく、錯誤なく答えられる人間がどれだけいるのだろう?
自分が何者であるか?何者になりたいのか?常に自問を続けている人間にとって、どのように答えればいいのだろう?
誰かがよく言うのだ。
「人間が嫌いで、人間なんてわからない」
それは方便であって、かの人は誰よりも人間を熟知しているからこそ、成功を収めている。
わたしは少し違う。わたしは人間が嫌いで苦手でわからないけれど、だからこそ人間を愛している。集団としての人間ではなく、個人が、どのような経緯で人格を獲得して、どのような心理で選択し、どのような人間になるのか、興味は尽きない。
その興味はわたし自身にも向けられている。わたしは、わたしの感情を解剖せずにいられないのだ。アランだかゴーリキーだかドストエフスキーだかは、彼は感情を解剖せずにいられぬ結果、恋ができなくなったと書いていた。彼らほどの洞察なんて持っていないけれど、それと同じなのだ。
わたしだって、自分が何者なのか、何者になりたいのかを断言したい。だが、できないのだ。自らの感情を非人間的な目で観察して、メスを入れて解剖しても、わからないのだから。
学生の頃、ホヤを解剖したことがある。海のパイナップルとも呼ばれる、この赤いボールのような生き物はかたい外皮に覆われていて、その中にオレンジ色の臓器が詰まっている。
ホヤは植物のような見た目でも脊索動物で、脊椎動物である人間の祖であるから、教材に選ばれたわけであるが、彼らには前後というものがない。あるのは口と肛門と消化器官の内臓だけだ。動物の感覚で切り開いても、ちくわを広げるようなもので、何がどの臓器なのか、図説と見比べてもてんでわからなかった。ただ黄色の肉塊があるだけだ。
わたしの感情は、あの肉塊と変わらない。自分でも、その上下左右の方向がわからないのだ。そしてわたしは発言の責を重視するからこそ、断言しないのだ。
作家になりたい?そうだろう。売れっ子になりたい?そうに決まってる。でも、それが本当に自分の求めているものであるかはわからなかった。
わたしが解剖の結果わたしの内に発見できたのは、臓器をよりわけてどうにか見つけられたのは、自分が面白いと思える物語を書き上げたい、そしてその物語は、この世にあるいかなる物語よりも面白いかもしれない、いや面白いのだという奇妙な確信だけだった。
状況はヒノキのサワーを開けてから、より悪くなった。ヒノキのサワーはヒノキのサワーとしか形容できない代物で、檜風呂のお風呂場そのものを無理矢理口に突っ込まれたような、とにかくパンチがある味わいだった。
全員がこれには参った。はるか先生が咆哮する。観音さんはあまりの味に、自分で持ってきたビールを代わりに開け始めた。仕掛け人としては喜ぶべき状況であったものの、わたしに向けられる言葉は切れ味を増し続けた。
言いたい放題だった。先の「君は何になりたい?」はフルオートで連続に浴びせられた。今までの言いたい放題が消えてかすれるほど、好き放題だった。
会話というものは文字通りに空中戦で、いかに用心深く慎重にバリケードを設置して塹壕を掘って待ち構えていたとしても、それらは容易く飛び越えられて、なかったものとして扱われる。
直近でこれから何をするのかを聞かれた時、わたしはあるコンテストに応募するつもりだと答えた。それがまずかった。特に酒量が気持ち良いラインを超えて、耐久戦が始まりだしていたところ、はるか先生の琴線に触れてしまったのだ。
わたしとて、一発逆転を狙って応募しようとするつもりなど毛頭ない。だから
「わたしが熱心な読者だった頃から、そこは流行に乗るより流行を創る側のとても信頼できるレーベルで、作家になりたいと思い始めて以来、憧れでもありました。だから、そこで入賞することが目的ではありませんが、そこに認められることができれば、わたしにとっては一つ特別な意味を持つのです」
酔いが思考を邪魔する中、なるべく丁寧に答えた。ところが、別に今さら驚くことでもないけれど、2人はわたしの言ったことを何も聞いていなかった。
「広瀬ちゃんは余裕があるね」
はるか先生はばっさり。
「どこかに入賞するとか、そういったことに頼れる余裕があるのはいいよね」
観音さんも渋い顔で続けた。
「コンテストにはそれぞれ入賞するための作法というものがある。その作法を技能として習得することと、面白くて売れる作品を創り出すことは同じようでいて違う。あるいは、その両方を満たす才能が必要だ」
わかってる。わかってるって。
だからそれが唯一の目標だなんて言わなかったんじゃないか。
わたしだって、コンテストの建前と中身が違うのは理解している。これまでだって、ルールの枠外のルールに翻弄され嘲笑され拒否されたとことは一度や二度じゃ済まされない。世の中、そういうものなのだ。
それでもわたしは、かつての憧れの舞台に挑戦したいという気持ちを捨てきれていない。ただそれだけなのだ。
必死さが足りない?そうかもしれない。余裕がある?そうかもしれない。
でも手も指も届かない異物がのどの奥に引っかかっているもどかしさを、取れたらいいなと思う気持ちを口にすることは、そんなにいけないことだろうか?
コンテストの話なんて口にしなければよかった。はるか先生と観音さんの言葉を黙ってやり過ごす。こうやって火が付いてしまったら、わたしにはどうしようもないのだから。
あわよくば、提出する作品の中身について相談しようと淡く考えていたことを思い出す。そこまで口を滑らせなくて本当によかった。
言いたい放題は終わらない。わたしの存在と尊厳を否定するためなら何を言っても構わない、そういう時間だった。とんでもない言い掛かりだってあった。
「なんでも否定から入るべきではない」とか。
それはそうでしょうよ。しかし、この説教は途轍もない詭弁から端を発しているのであって、最初から破綻している。わたしが逐一逐語書く必要もないだろう。
人は何かを議論している時、反対の意見をもっていなくとも、いやとかしかしとかそれでもとか、いずれかの言葉が出てきてしまうものだ。会話の最初になくたって、どこかには必ず含まれている。そうでなければ文として成立しないのだから。
最初に言わないのが肝心などと宣うのなら、それこそ思考停止の動物的反射だ。わたしは本当に憤慨した。けれど何も言い返すことができなかった。
はるか先生、観音さん、まひろはいよいよ徒党を組んでわたしひとりをやっつけようとしていたからだ。論理とか整合性とか、まるで話にならない。
どれかひとつの話題だけじゃない。誰も彼にも何もかも、腹が立った。腹が立ったでは済まされない。殺したいとさえ思った。死ねとか死ねばいいのにとか、曖昧で他人頼りな感情ではなかった。
純粋に、自分の手で、この手で彼女たちの心臓を抉り出して、彼女たちの瞳から生の光が消える前に握り潰してやりたいと、比喩ではなく、そのままに思った。ただ彼女たちが死ぬだけでは許されない。わたしが殺さないと、そう思った。
わたしが貴方をナメている、ですって?冗談も大概にしてほしい。言うまでもなく、ナメられているのはわたしの方で、わたしが何も言い返さないし言い返せないと理解したうえで、言いたい放題しているのだ。
彼女たちの言葉と詰問が、かりに将来のわたしにとって役に立つものであっても、この気持ちは、殺してやりたいと思う気持ちは容認できるものではなかった。
わたしが彼女たちを憎む気持ちでさえ仕組まれているような気がして、尚更腹立たしかった。
彼女たちはこれまでも、こうやって焚き付けるなりなんなりして、大勢を崖から突き落としてきたのだ。モノになれば「面白かったね、またやろう」、ならなければ「残念だったね、次を見つけないと」という具合だ。
でも実験対象になる身ではたまったものじゃない。尊厳をいじくりまわされて、どうなるか保証はないのだから、治験よりもタチが悪い。
ああ、わたしは彼女たちの犠牲になった彼ら彼女らのために祈ろう。その彼ら彼女らとはわたしは違うのだと信じながら、それでも祈る。
わたしのような人間にとって、すべての問題は生きるか死ぬかの二択に還元される。これが失敗したら死ぬしかないと、本気で思っている。ただそう滅多に死ぬわけにもいかないので、これは勝負ではないとか、試合は始まってすらいなかったとか、あらゆる手で巧妙に言い逃れしようとするだけだ。
殺したいほど憎い。殺したいほど愛している。死にたいほど憎い。死にたいほど愛している。ゼロかイチかの人間にとって、これらは純然に等価なのだ。
クラフトビールで復讐心を解消しようとしている。そうだ、そうかもしれない。だとすれば、これだけ言いたい放題を喰らっているのは、わたしがやりすぎたからなのだろうか。
それでも、いや、そうだとしたら不公平だ。だって向こうは「参った」さえ言えばビールを注がれるのは止まるのに、わたしはいくら「参った」と降参してもやめてもらえなかったのだから。
―――
思えば、わたしはわたし自身を追い込もうとしていたのかもしれない。本当はひどく、惨めに、叩きのめされることを期待していたのかもしれない。曖昧な態度の自分を2人の手で暴いてつまびらかにさせて責めさせて、自分を動かそうと思っていたのかもしれない。
あるいは、そうなることを予見しながら、持ち前の怠惰さを発揮して放置していただけかもしれない。
「毎週金曜日に何かを更新します」、なんて自分で言い出せば白々しいことこの上ないから、誰かに宣言を強制されたかったのでは?わたしはそこまで自虐的で被虐の気があるのだろうか。
なるほど、確かにわたしは約束と、約束の持つ言霊の力を神聖視しているきらいがある。スピリチュアルな意味ではなく、運命論的に、宿命的に、言葉を特別視している。
わたしは自分自身と将来の自分の双方を信頼していないので、約束することが大の苦手だ。ただの待ち合わせも大事な取引も、等しくきらいだ。
約束を破ってしまう、守れなくなる可能性が、約束が果たされるまでの間の行動をすべて拘束するからきらいだ。どうせ限界ギリギリまで手を付けることができないのに、頭の中はその約束のことだけ一色に塗り潰されてしまう。
だからわたしは約束を避ける。可能な限り回避しようとする、不言実行の女だ。むしろ約束しない方が、誰かに何それをすると宣言しない方が、行動を貫徹できるくらいだ。
ビール会のメニュー表だってそうだ。つくると誰にも言ってないけれど、下手な絵まで描いて、ペラ一枚でもコピー本としての体裁が保てるように作成した。こんなものは別に用意しなくたって構わないのに。
有言実行は恐ろしい。実行の完遂まで気が休まらないから。
だがこの恐れも、わたしの卑屈で打算的な性格の産物なのだろう。
比較すれば単純なことだ。有言実行は実行されれば「そうだね」と淡々と肯定を受け、されなければ「うそつき」となじられる。対して不言実行は実行されれば「こんなことをするなんて」と驚かれ、されなくとも認知されていないがゆえに何も言われずに済む。
どちらに実利があるかは明らかだ。不言実行の姿勢はその意外性によって正当な評価から逃れることができる。不言実行は常に不意打ちであり、正面から挑むのをなんとしても避けたいわたしのような卑怯な人間が好むのはそのためだ。
卑怯で卑屈な人格がわたしの中で支配的であると同時に、そのままでいたくないという思いが存在する。ビールに頼らずに「参った」と言わせたい、あの思いだ。
これは人格と呼べるほどの自我を持っていない。主格からすれば気の迷い程度の小さな思いだ。この意志、意見は実直で正々堂々とありたいという憧れを切に抱いている。この憧れは矛盾しているように見える。
しかし、卑怯者ほど正々堂々が何たるかを熟知している人種はいない。正面切っての対決を恐れるために、卑怯者は相手がいかに正々堂々としていないかを顕微鏡的な緻密さで並べ立て、自らがそのような不利な勝負に出る理由とするからだ。
だから用意したビールに対する、はるか先生と観音さんの反応を想像して暗く笑いながら、やはり2人には正面から自らの創造物でぶつかるべきだと思うアンビバレントはとても自然なことであった。
今回の一件は、卑怯者が相手を屈服せしめるための劇薬の量を見誤ったというだけではなく、わたしのわたしらしくない反骨心が、わたしさえも飛び越えて、2人の前にわたしを立たせようと仕向けた、のかもしれない。
自分の尻を自分の脚で蹴り飛ばすことはできないから、2人を唆して着火して、わたしの曖昧な態度を断罪させるように仕組んだのだ。あるいは、そのような帰結を期待していた。そう考えなければ、やりきれない。自らが蒔いた種が原因の方が、まだ救いがあるというものだ。
いずれにしても、反骨の作戦は功を奏した。目論見通り、わたしはボコボコのズタボロにされたのだから。まんまとハメられたのだ。
わたしのみすぼらしい自尊心はかき回され、強烈に攻撃的で、わたしらしくない自我が飛び出してきた。
ながらく忘れていた、いや、このようなわたしに会うのは、初めてかもしれない。ここまで強い感情をおぼえたのは。憤りや怒り、恨み妬み、これまでの持ち合わせでは足りなかった。
それは強い否定。否、いいえ、ノー、違うと叫ぶ、否定の感情だった。何よりも、それをこん棒にして振り上げて叩きつけたいと、目の前の敵を撃滅せんと叫んでいた。
この否定が恐らく、わたしにとっての殺意だと思ったのだ。暴力を振るいたいのではない、より原始的でより純粋な否定のために、消し去るために、相手に白旗を上げさせるために、私の中に殺意が芽生えたのだった。
否定が投射するのは2人そのものだけではない。2人がわたしを説明したこと、断言したこと、それを体現するわたし自身に対する否定でもあった。
このままではいけないとか、日和った表現では済まされないのだ。
あの瞬間、あの瞬間に、わたし自身の存在が許せなくなった。否定しなければならなくなった。わたし自身の存在を否定して消し去って、全く別のものへと作り変えなければならなくなった。
殺意とか敵意とか、憎悪に属するあの濁った粘度の高い感情は、この否定に比べれば、ああ、なんて無駄が多いのだろうか。この全身を引き裂いて突き抜けた否定は、雲のない空、真っ白の原稿用紙のように心地よく、呆れるほど晴れ晴れとしている。
わたしより何枚何十枚も上手の彼女たちのことだ、わたしの迂遠でいじけた胸のうちを見抜いて、こうなることを期待していたと見透かして、激励したのかもしれない。そうだ、あれはまったく激励だった。酔って好き放題を言っただけかもしれない。それでもいい。
それでも、わたしは厳として謹んで、激励を賛辞として受け入れよう。彼女たちの座する山頂へ上るための通過儀礼として、喜んで受け取ろう。
だってそうではないか。批判も尊厳の否定も暴言も方言も、わたしがそれを耐えて乗り越えることができるという信頼から為されているのだから。
わたしはそれを全て頬張って咀嚼して味わって呑み込んで腹の底に落としてから、それでも否!と、彼女たちに否定を叩きこんで、蹴落とさなければならない。それが礼儀というものではないだろうか。
「またこの娘も崖から落ちて、這いあがってくることはないだろう」
そうタカをくくって、さも残念そうなふりをしている彼女たちに全力の否定をぶつけるのだ。
はるか先生と観音さん、どちらの視座も、わたしは持ち合わせていない。心境だってわかるわけがない。けれども文筆で、創造で身を立てようと志しているのだから想像することはできる。
彼女たちのような高みにいる人間は、わたしのような下々が謙虚で卑屈な仮面の下に敵意を隠しているように、尊大で天衣無縫な顔の裏に、破滅願望を隠している。
彼女たちは破滅が身に起きることはないと知りつつ、しかし敗北を、自分自身を否定されることを期待しているのだ。特にクリエイターという奇特な人種なら尚更で、より面白いものを何時も求める人間であるのだから、自らの創造物が最高傑作だと確信するかたわら、その最高を超えるものに出会いたい、打ち砕かされたいと願ってやまない。
彼女たちがわたしのようなワナビーに発破をかけるのは、呼吸を止めるような言葉をかけるのは、それが理由だ。
優しい言葉をかけ続けて、毎日水をやって、せっせと世話をしても芽は出るかもしれない。だが、そうやって育てられた苗は、育ての親にとって毒にも薬にもならず、ただただ頃合いを見て刈り取られるだけだ。
しかし厳しい言葉をかけられて崖から突き落とされて、怒りと憤りと恨みの混合物を募らせた者はどうなるだろう?彼の者は自身の全霊をもって、親を叩きのめそうとするだろう。彼女たちは、その瞬間を待ち望んでいるのだ。
だからわたしは怒りに身を任せるべきではなく、喜ぶべきなのだ。将来の好敵手になれる可能性があると期待されているのだから。爪を研ぎ、牙を生やし、彼女たちの心の臓に全てを突き立てるまで、懸命に、筆を振るうしかない。
倒すべき相手が目の前に見えた。目標はあそこにいる。相手は、どうせ今回もダメだと諦めて油断している。わたしは彼女たちの全てを貪欲に吸収して盗み取って我が物にして、よりよいものを創り出そう。
わたしが面白いと確信するわたしの作品で、彼女たちを否定する。
それがわたしにとっての復讐であり、恩返しとなるのだから。
このようにして結論に至ったのだから、報復を恐れてビールのチョイスを遠慮する必要はなくなった。むしろ突飛なビールを飲ませる方が、わたしへの攻撃もとい賛辞は一層苛烈なものになると期待できる。
さあ、次はどんなものを飲ませてやろうか。
(恩讐 終)