13.藤真と中学
藤真が私立中学校に進学すると決めたのは、明確に理由があった。その裏には、皮膚に刺さったまま抜けない“棘”のような痛い記憶がある。
あの頃――80年代。ニュースをつければ「校内暴力」「学級崩壊」なんて言葉が日常的に流れ、藤真の上の世代で、中学に進学した先輩がミニバスに遊びに来た際に、やんちゃな中学校の噂を何度も耳にしていた。藤真の住んでいる地区の近隣の公立中学でも不良と教師の緊迫した空気は珍しくないという。
―――……あんな世界で、バスケを真面目に三年間出来るのか?
まだ幼いくせに、やけに冷めた判断を下した藤真は、バスケの未来を守るため、そしてなにより自分自身を守るために私立を選んだ。しかし、思い出は時に容赦なく襲ってくる。
――思い返すと、今でも胃の奥がざわつく。
トイレに連れ込まれ、「生意気なんだよ」と先輩から腹に拳を叩き込まれたあの日。昼練が許可された初日、ヤンキーを呼び込んだ仲間のせいで吸い殻が見つかり、練習そのものが消えたあの日。
放課後、イタズラでタイヤの空気の抜かれた自転車と、遠くまで続く暗い坂道を見てため息をついた夕暮れ。窓ガラスが割られた教室。消火器の黄色いピンが抜かれ、粉が床に舞う廊下。どこかの公園のトイレでは連日立ち上る怪しい煙――。
「はぁ……なんで俺、あんな場所でバスケなんてしてたんだろ」
胸の奥がじくじくと痛む。
不良たちは校舎を我が物顔で闊歩し、教師は「これは教育的指導だ」と体罰を正当化する。いじめは、誰も“見てはいけないもの”として扱った。
中学校とは、前の藤真にとって“学び舎”ではなく、脱出口のない迷宮のようだった。
◆◆◆
記憶の底に沈殿していた過去が呼び起こされる。
体罰――その単語を思い出すだけで、頬が熱くなる。
小学生の頃。担任教師に打たれ、黒板に背中をぶつける音がした瞬間、教室の空気が凍った。
「これは体罰じゃない。愛のムチだ」
そう言って自分の暴力を笑顔で正当化する教師。笑っているのに、目はまったく笑っていなかった。
中学に入ってからも状況は変わらない。練習試合の途中で急に交代させられ、体育館倉庫に押し込まれた。
「気持ちが籠ってないんだよ!」
振り下ろされた拳が、右胸に深く刺さる。息が詰まり、言い訳すら出てこなかった。
高校では、集合に息を切らして走っただけで、監督の足がみぞおちにめり込んだ。
「ハァハァ言いながら来んじゃねぇ!」
蹴りの衝撃で膝が折れ、視界がぐらついた。
――なんのために、誰のために、俺はバスケをしているんだ?
その問いは、声にならない悲鳴のように、胸の奥でいつも疼いていた。答えは見つからず、傷ついた心だけが膨らんでいく。やがて藤真は、社会人になる頃には自然とバスケから離れていた。
そんな藤真に響いたのは、プロ野球界の名選手・桑田真澄の言葉だった。
「体罰に愛情なんて感じたことは一度もなかった」
テレビ越しのその声は、藤真の過去を代弁するようにまっすぐだった。
「絶対に仕返しされない立場から暴力を振るう……それは本当に卑怯なことです」
藤真は、胸の奥が救われていくような感覚を覚えた。
だからこそ、彼は決めた。昭和の“服従指導”とは決別しよう。データと対話で、科学的に強くなる未来へ向かおう、と。二度目となる中学バスケに向けた戦いは、こうして始まった。
◆◆◆
私立中に入学した藤真は、春の身体測定で思わずガッツポーズをした。
「っし! ついに160超えた!」
身長161.2cm、体重50.2kg。数字が努力を裏付ける瞬間は、全身がふわっと軽くなる。
体力測定も万全で、握力から持久走までバランスよく上位の成績を記録する。女子たちのざわめきが背中に刺さってくる。
「ねぇ、見て見て。あの子、藤真くんっていうんだって」「持久走すごかったよね」
女子達の声が耳に入ってしまい、顔が少し熱くなる。
休み時間になると、さらに複数の運動部が勧誘に訪れる。特に水泳部の顧問は、藤真の肩をガッとつかみ、
「小学生の頃の君のタイムを見たよ。すごいね。ぜひうちに来ないか!」
と熱烈なアプローチをしてきた。
「すみません……入る部活はもう決まっているんです」
即答だった。
◆◆◆
藤真が入部した中学バスケ部には独特の伝統があった。三年生が引退するまで、一年生はボールに触れない。ひたすら走り込み、筋トレ、基礎練の繰り返し。体育館は複数の部活で分担されているため、階段の下やコート端の隅っこで練習する日も多い。
「うわ、また階段ダッシュ……」
「今日こそサボりたい……」
そんな一年生たちの声をよそに、藤真は端のスペースで黙々とドリブル練習をしていた。
その様子に、先輩たちがざわついた。
「おい、あれが“ミニバス県選抜”ってやつだろ?」
「全国行ったチームの主将だってよ。調子に乗ってんじゃねぇの?」
やっかみと好奇心が混ざった視線が刺さる。
「ちょっと来い、藤真」
呼び出された藤真は、上級生たちに囲まれた。その空気には、妙な緊張感が漂っていた。
「お前。特別に今日から三年の練習に入れ」
ざわ……
他の一年生たちが驚きで目を剥き、先輩の一人がニヤリと笑った。
(……なるほど。試されてるってことか)
藤真は理解した。“噂の新人を恥かかせてやろう”という先輩たちの意図が、空気越しに伝わってきた。
しかし――予想は、裏切られる。
「スクウェアパスいくぞ!」
「はい!」
「……お、おい、全然ミスらねぇじゃん」
「2メン、3メンも問題なし……ってマジかよ」
藤真は淡々と、ミスなくメニューをこなしていく。5号球と6号球の違いに戸惑う経験者は多いが、藤真はすでに慣れていた。
なぜなら、彼には強力な“協力者”がいたからだ。
◆◆◆
「叔父さーん! 今日も体育館空いてる?」
「おう、申請はしてある。行くぞ藤真!」
ギャンブル好きの叔父は、“甥っ子の成長”という名目であらゆるサポートをしてくれた。
アッシー(送迎)、メッシー(食事の奢り)、ミツグ(必要なバスケ用品購入)――叔父は三拍子揃った、理想の“味方”だった。
「今日は6号球でシュート300本だ!」
「了解っ! 外したら拾ってね!」
「……おい、そこは俺に甘えるのかよ」
文句を言いながらも嬉しそうな叔父。藤真は小学五年のとき、ミニバスで練習参加ができなかった期間から、叔父と共に中学仕様のボールを使った個人練習を積み重ねていた。その積み重ねが、中学での“驚異の新人”という結果に繋がっていく。
◆◆◆
英会話は続けている。だがスイミングは卒業と同時に辞めた。
「高校までは日本、大学はアメリカ……かな」
塾の帰り、ロビーで叔父を待ちながら独り言のように呟く。そのとき、自動販売機の前で見慣れない背の高い男の子がいた。黒縁メガネをかけ、どこか冷たい空気をまとっている。
(ん? どこかで見たような……)
男の子はジュースを買い、ソファに座って雑誌――バスケ雑誌を開いた。気になってつい視線を向けると、彼はピクリと顔を上げ、藤真を睨む様に目を細めた。
「……なに?」
低い、けれど澄んだ声。ぶっきらぼうなのに、不思議と耳に残る。
「あ、ごめん! バスケ好きなのかなって思って……」
「……だったら?」
そっけなく、そして刺々しい。でも、どこか気になる。
(あ、そうだ……名乗ってなかった)
藤真は慌てて前に進み、謝罪する。
「ごめん、礼儀なかったよね。俺、藤真健司。君は?」
男の子は雑誌を閉じ、短く答えた。
「花形透」
その名前を残して、立ち上がり、玄関へ向かう。ジュースの缶がゴミ箱に落ちる“カラン”という音がロビーに響いた。去っていく背中を、藤真はしばらく動けずに見つめていた。
(……マジか!?)
衝撃と驚愕の連打を浴び、藤真はベンチにストンと腰から倒れる様に座りこんでしまった。