花形透――翔陽高校バスケットボール部、副主将。
その名を聞けば、県内の強豪校の多くが警戒する。
得点よりも、チーム全体の均衡を保つことを優先する稀有なセンター。
高さ、強さ、技巧――そして驚くほど静かな冷静さ。
藤真健司という“司令塔”が桁外れの輝きを放つとき、
その光を受け止め、コートの重心を変えずに支え続ける影の柱がいた。
花形は、その象徴だった。
だが――それは原作での話であった。
中学生の時分では、まだ互いに別のチームのプレイヤーであり、偶然同じ塾に通う同い年に過ぎなかった。
◆◆◆
藤真は、塾の廊下でその花形を“ただ眺めるだけの存在”になっていた。
白い蛍光灯の下、花形が静かに歩く。
いつもの無駄のない歩幅。
背筋は伸びているが、緊張はない。
肩に置いた鞄がわずかに揺れるたび、花形の影も廊下に長く伸びる。
藤真は、その影を見送るだけだった。
声をかける距離ですらない。
(……こんなに遠かっただろうか)
原作の描写ではコート上で互いに信頼し、目が合えば、互いが求めるプレーの方向が分かった。
だが今は―“自身が藤真となった世界”では――あの夏の親密さは影を潜めていた。
声をかけたくても、タイミングがない。
ロビーは人で埋まり、自習室は私語厳禁。
花形はほとんど休憩を取らずに勉強へ戻る。
(……結局、今日も話せなかった)
喉元まで出かかった言葉は、空気の圧に押し戻されていく。
藤真は静かに息を吐き、掲示板の前で立ち止まった。
新しいクラス分け表。目に飛び込む文字。
――花形:特進クラス。
――藤真:進学クラス。
見る者によってはほんのわずかな差だ。
だが、その差は大きく、原作の描写では見られなかった、見えない壁の様なものを藤真は感じていた。
藤真の胸に、鉛のような重さが落ちる。
(……同じクラスなら、話す機会も増えるかもしれない)
目的が定まった瞬間、勉強は“面倒な作業”ではなくなった。
得点も模試の判定も上がった。
学校の成績が上がった時も、うれしさより先に――
「これで少しは近づけたかな」という思いが浮かんだ。
だが。
花形のいる高さは、まだ遠い。
(追いつくまで……止まらない)
藤真の瞳は、教室の窓に映る夕焼けよりも静かに熱かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
体育館――。
バッシュの音、ボールの弾む音、笛の短い響き。
体育館特有の締め切った空間の大気が、選手たちの動きで少しずつ熱を帯びていく。
「全員、集合」
老監督の声は、いつもより低かった。
藤真は練習の途中でタオルを首にかけたまま列に並ぶ。
汗が額を伝い落ち、首筋に細い線を作った。
その後ろで他の部員たちがざわつく。
老監督の隣に、若い女性教員が立っていた。
肩が少しこわばり、不慣れな空気が漂っている。
「……健康上の理由で、本日をもって男子バスケ部の顧問を退任する。後任の先生を紹介する」
体育館に張り詰めた静寂が落ちる。
部員たちは少し目を伏せ、誰も言葉を発せない。
藤真もまた、僅かに唇を引き結んだ。
「今日から男子バスケ部を担当することになりました。不安もありますが……全力で向き合います」
緊張した声の奥に、芯があった。
藤真はまっすぐその言葉を受け止める。
(やる気はありそうだけど、大丈夫かな?)
監督が不在のコート。
だが彼の残した空気は、まだ消えていない。
それを形にするのは、自分たちの責任だ。
藤真はゆっくりとまぶたを閉じた。
◆◆◆
放課後の職員室。
窓から差し込む夕日が、机に積まれた書類を金色に照らしている。
「藤真君、少しいいか」
担任は、書類から顔を上げ、穏やかな目で微笑んだ。
「はい」
「学級委員を任せたい。クラスの意見も一致していたよ」
一瞬、胸の内がざわめいた。学級委員――責任が重い役割。不安はあったが、藤真はすぐに姿勢を正した。
「……やります。お願いします」
その声は自然で、迷いはなかった。バスケで培ったリーダーシップは、別の場所でも活きる。そう確信できた。
「ありがとう。頼んだよ」
職員室を出た瞬間――
「藤真くん」
柔らかく、それでいて緊張を含んだ声が背中を打った。振り返ると、女子生徒が数名。彼女たちは視線を合わせられないまま、少しうつむき、互いに背中を押し合っている。
「すこし、いい?」
「……はい」
案内されたのは校舎裏の静かな木立。風が枝葉を揺らし、影が地面に揺れている。春の匂いを帯びた空気が肌に触れ、高揚する気分を包み込む。
「……これ、渡してほしいの。君を迎えに来ている……貴方の叔父さんに」
長身の女子生徒が、封筒を胸元に抱えたまま差し出す。封筒はどこにも折れがなく、彼女がどれほど大切に持ち歩いていたかがわかる。
内心で期待していた予想とは違う結果であったが、藤真は短く息をついた。
「わかりました。必ず渡します」
女子生徒は深く頭を下げ、仲間とともに去っていく。その背中を見送りながら、藤真は掌を握った。
(……さて、どうしたものか)
花形に対して抱えている気持ちも、まだうまく言葉にできない。ただ、胸の奥に重みとして確かに存在していた。
視線の先に広がる夕空は、ゆっくりと朱に染まりつつある。封筒の温もりが胸ポケットから伝わる。
その小さな重みが、不思議と藤真の背筋を伸ばした。
歩みを止める理由は、どこにもない。
――勇気を出して、一歩前に進んでみるか。
それは叫びではなく、静かで、強く、揺らがない決意だった。