埼玉県選抜を乗せた大型バスが、ゆっくりと神奈川県総合体育館のロータリーへと入っていく。窓の外に広がる巨大な建物の輪郭を眺めながら、藤真は静かにウォークマンの音量を調整した。
季節限定カラーのSONY製ウォークマン WM-501──叔父が「必要なものなら」と買い与えてくれたものだ。耳を包む音楽の中で、彼の意識はすでに試合のコートへ向けられていた。
バスが停車し、空気の揺らぎが変わる。他の選手たちはざわつきとともに立ち上がり、荷物を手に出口へ殺到した。緊張と期待、疲労と興奮、それらが入り混じった雑然とした気配が車内に充満する。
だが藤真は、目を閉じたまま最後のイメージトレーニングを終え、深く息を吸ってからゆっくり立ち上がった。
―――準備はできている。あとは、どれだけ自分の力を“示せる”かだ。
今日の対戦相手の名簿には、同学年の二人の名前があった。原作で知っているはずの存在が、今ここで現実の相手として対峙する──その事実は、彼の胸を自然と高鳴らせた。
しかし、選出イコール出場ではない。県選抜とは、そういう場だ。
選手の将来性を見据えた育成枠。あるいは、身長という絶対的アドバンテージのみを理由とした選出。埼玉県の選抜会では実際、上手い下手に関わらず県内の180cmを超える選手はほぼ例外なく招集されていた。
その中から──動ける者、技術がある者、そして何より“伸びる”者だけが残される。
―――選ばれる基準はシンプルだ。デカい、速い、上手い。そのどれかが突出しているか、二つ以上兼ね備えているか。三つ全てを備える人間など、稀だ。選抜とは、選ぶ側の哲学と好みの反映にすぎない。
埼玉県選抜12名の中で、藤真は最も背が低かった。計測すると168cm。以前より伸びてはいたが、全国区の舞台ではまだ心許ない数字だ。
「春には170cmを超えるだろうな」
そう言った叔父の声を思い出す。努力してきた栄養管理も、体づくりも、睡眠も──確かに、成果は出ている。そして原作の“藤真”は高3で178cm。そこへ向かう道筋の上に、自分も確かに立っているのだと実感できた。
だが、今は成長期の進捗よりも、目の前の試合の方が重要だ。
牧と魚住──本来“物語の中でしか知らなかった名”を、現実として感じられる機会がやって来る。それがどれほどの刺激となるか、藤真自身がよく理解していた。
◇◇◇
スタメン発表は出発前に済んでおり、藤真はベンチスタートであった。サービスエリアでの休憩中、総監督から「シックスマンとして流れを変える役割を期待している」と告げられていた。
中学生の選抜チームは、所属校とは違う。誇りと焦燥が入り混じる年頃の選手たちを、どう扱い、どう導くか。総監督が選手一人ひとりの心情に気を配っているのは、話しぶりからも明らかだった。
ただ──藤真は、胸の奥にわずかな悔しさを抱えていた。今日に限って言えば、最初からコートに立ちたかった。
県選抜は寄せ集めだ。だからこそ、個々が最大限の力を発揮できれば勝利は現実に近づく。勝つことで初めて、チームとしての機能が強化されるのだ。
―――途中からの投入では、対峙したかった相手がベンチに下がっている可能性もある。理想を言えば、最初から戦いたかった。……だが、与えられた役割で結果を出す。それだけだ。
体育館の関係者入口へ向かいながら、藤真は呼吸を整えた。実業団の前座試合として扱われているため、会場の客入りはまばら。小学生女子の前座試合が終わりかけているが、観客席の大半は保護者の姿で占められていた。
その光景に違和感はない。当時のバスケットボールはまだ注目されにくく、実業団でさえ一般客を呼び込むだけの土壌は整っていない。高校や大学の一部の強豪でない限り、声援は限られる。
―――自分たちの試合も、観客は多くはないだろう。だが、環境がどうであれプレーは変わらない。
そう思ってアリーナへ足を踏み入れた瞬間、藤真は立ち止まった。
埼玉県側のスタンドだけが、異様な熱気に満ちていた。お揃いの衣装を身にまとった集団が、席を埋め尽くしている。明らかに神奈川県側の倍以上はいる。ざわつきではなく、明確な“期待の気配”が漂っていた。
理由は、理解している。だが理解しているからこそ、藤真の胸には静かな負荷がのしかかった。
ファンクラブ──母が主導し、いつの間にか県外にまで広がり、今は試合に合わせて組織的な応援を行うまでに至ってしまった集団。その存在は決して軽くない。
今日の試合も例外ではない。観客席からの声援は、藤真に向けて一点に集中していた。
それは“誇り”と呼ぶにはあまりにもキツい光景であった。重圧ではなく羞恥が勝る。
―――わざわざ県外にまで応援に来てくれたんだから、期待には応えたいけど。穴があったら入りたい。
ため息をつきながら、出来るだけ親類縁者の方は見ない様に心がけ、藤真は視線をコートへ向けた。
◆◆◆
試合開始。牧が神奈川選抜のスタメンで出ているのは、むしろ必然だったのかもしれない。一度動き出した彼は、恐ろしい速度とパワーでもって埼玉守備陣を切り裂いていた。
一方の魚住はベンチだが、メンバー表を見た時から“今の段階では”と予想できていた。
コート上には188㎝の魚住よりもデカい選手が牧からのパスでシュートを決める。両選抜チームの中で最も身長の高い男―――192cmの二年生センター。猫背気味で、ジャンプは浅く、走れば遅い。だが、残酷なまでに身長の高さはカテゴリーの若い年代においてはそれだけで他を凌駕してしまう。ハンドリングが覚束なくとも、スタミナが無くとも、ゴール下のシュートしか入らなくとも、背の高さはそれだけで勝負を決めてしまうポテンシャルを秘めていた。
だが、藤真はそのポテンシャルを活かしきれていない相手センターに同情にも似た感情を抱いていた。
―――勿体無いな。恐らくあのセンターは身長が高いことがコンプレックスなんだろう。高身長であるがゆえの負荷と歪み。指導環境が整っていなければ、身体もメンタルも正しく育たないからな。
バスケへの情熱が伴わぬまま、ただ“背が高い”という理由でチームに入れられた選手たちを、“過去”を含めて藤真は何人も知っていた。成長期に周囲から好奇な眼に晒されることを忌避し、身を縮めて生活したことで、正しい姿勢を覚えないまま大きくなる者もいる。それは、競技者としての将来を奪う可能性さえある。
―――だが、魚住は違う。あれだけのサイズで姿勢が崩れていない。あれは伸びる。
そんな考察をしている間に、試合は10点差へと拡大していた。バス移動の疲労、慣れない会場、初対戦──負けている言い訳はいくつもある。だが最大の理由は、単純明快であった。
牧の存在。
重さと速さを兼ね備え、ぶつかっても軸がぶれず、リバウンドにも絡む。原作で“怪物”と呼ばれた所以が、現実のプレーでも明確に見て取れた。
―――このままでは、後半には手がつけられなくなる。
「藤真、行くぞ。流れを変えろ」
総監督の声に、藤真は頷いた。役割は明確だ。状況をひっくり返す。それが“シックスマン”に求められる仕事。コートに入った瞬間、観客席から再び声が上がる。ただその雑音をすべて断ち切り、藤真は牧を正面から見据えた。
―――行くぜ、牧。こっからが埼玉県選抜の実力だってところ見せてやる。
神奈川選抜の攻撃。藤真とマッチアップする牧がチェンジ・オブ・ペースから仕掛ける。一瞬の踏み込みでラインを破られ、藤真が抜かれた──しかしその背後から、藤真の指先がボールを叩き出す。
藤真のバックファイヤーが炸裂する。牧が抗議の視線を審判に向けるが、笛は鳴らない。藤真はすでに反転しており、走りながら味方からのパスを受け、速攻を沈めた。
牧は短く息をつき、静かに表情を改めた。互いの力量を、短い攻防で理解したからだ。
そこからは完全な拮抗。牧のフィジカルと突破力。藤真のシュートレンジと視野の広さ。左利き特有の角度から放たれる3Pは、ネットを正確に射抜き、会場の空気を震わせた。
藤真のこの日4本連続となる3Pシュートが沈んだところで、試合はついに同点へ。牧の額に、わずかな汗が光る。
藤真もまた、呼吸を整えながら相手を見据える。互いに心の中で同じ言葉をつぶやいていた。
―――厄介な相手だ。
“怪物”と“神童”。
二つの才能は、違う軌跡を描きながらも同じ地点に立った。前半が終わる頃には、観客席の空気でさえ変質していた。ただの中学生同士の前座試合ではない。ここに“勝負”があると、フロアにいる誰もが理解し始めていた。
そして後半へ。真価が問われる時間が、静かに幕を開けようとしていた──。