対藤真のためだけに神奈川県選抜が用意した秘策――「ボックスワン」。その要は、単なるマンツーマンではない。牧紳一という“専従兵”を、藤真健司の思考と視界に常駐させ続けるシステムだ。
牧に課された任務は明確で、そして凶暴だった。藤真から、ボールを“奪う”のではなく、“選択肢そのものを死滅させる”。
藤真がスクリーンを使う。普通ならヘッジかスイッチで守る場面だ。しかし牧は違う。スクリーンの肩に右手を押しつけ、ファイトオーバーで“通過”する。身体でこじ開けると言うより、スクリーンと藤真の間のわずか20cmのギャップを、筋力と重心操作でねじ伏せて割り込む。その動きは、理屈を超えた執念そのものだった。
神奈川は埼玉からの対抗試合案内を受けた瞬間、ただ一つの結論に達していた。藤真の司令塔機能を止めなければ、勝負にならない。
そこで生まれた作戦名、“ブラック・ドッグ”。牧の肌の色を引き合いに出した乱暴な仇名だが、その意味は一つ。一度噛みついたら最後、藤真から離れない黒犬。
牧はこの作戦のために、冬の三か月を丸ごと“壊しに”かかった。反復横跳びはスピードより角度を意識し、藤真特有のズレを半歩単位で潰すためのフットワーク強化。ランメニューはバテ防止ではなく、2Q終盤~4Qの勝負所でスプリントを3本余計に出すための心肺改造。牧自身が“戦術の駒”と化し、その存在が神奈川県選抜全体の基準値を変えた。
その影響をもっとも強く受けたのが、同学年の魚住純である。牧の狂気にも似た練習姿勢に触れた魚住は、これまでの怠惰な己を恥じた。サボり癖のついた朝練に毎日出るようになり、部活後は体育館が閉まるギリギリまでポストムーブの分解練習。苦手だったフットワークにも自ら取り組み、汗が床に落ちて線を描くほどの量をこなした。
そんな魚住の変化を中学バスケ部の顧問は、どこか信じられない思いで見つめていた。一年前、魚住の入部を知った時は心底喜んだ。が、1ヶ月後には落胆していた。体格だけで優位に立ち、基礎練習は形だけ。
「ゴール下なんて、いつでも入る。入らなくても、リバウンドを取ればいい」
そう豪語して練習しない自分を正当化する。そんな慢心に、指導する側が疲弊していった。強く叱れば部を辞める。そうした過去の生徒の記憶が顧問を鈍らせ、魚住への指導は“静観”に変わっていった。
しかし県選抜を経験した直後、魚住は顧問の前で深く頭を下げた。
「俺、バスケットが……上手くなりたいんです」
その言葉の重さに、顧問は息を呑んだ。
――逸材が遂に“本物”となるか。
そう感じた瞬間、指導者としての情熱が一気に戻ってきた。魚住はまだ粗いが、ゾーンディフェンスでの三角形の作り方も理解しつつある。体力も筋力も上がった。
――あと二年。試合経験さえ積めば、世代トップのセンターになる。
魚住の成長ぶりに顧問はどこか確信めいたものを感じていた。
◆◆◆
そして迎えた埼玉県選抜戦。スタメン起用された魚住は、寸分違わぬタイミングで手を上げ、スクリーンの合図を送り、状況を読み続けていた。
藤真が動く。牧が追う。藤真は裏をとろうと一気に加速し、死角からレシーブを狙う。だが牧は、ボールマンと藤真を肩越し同時視野で捕捉したまま、決して間合いを消さない。牧のディナイは強すぎて、藤真のルートが一本ずつ“封印”されるかのようだった。
(……これが対俺用の秘策、か)
藤真は軽口を叩く余裕こそ残していたが、内心では驚いていた。“ブラック・ドッグ”――ベンチから聞こえた妙なワード。最初は牧の顔がブルドッグ並みに厳ついからだと思ったが、今なら意味が分かる。外れない、絶対に。
オフェンスの連携はぎこちなく、埼玉はターンオーバーを連発する。逆に神奈川の攻撃。牧はセンターサークルでボールを受けると、右手で一瞬だけサインを切り、味方4人が同時に動き出す。藤真はドライブ警戒で距離を取った――その一瞬の判断遅延を、牧は見逃さなかった。放物線が描かれる。
――ロブだ。
そして、誰よりも早く動いたのは魚住だった。リングへ直線で走り込み、空中でパスを捕らえ、そのまま――叩き込んだ。
アリウープ。中学カテゴリではほぼ発生しない、空中完結型のスキルアタック。会場全体が一瞬、音を失い、次の瞬間、爆発したようなどよめきが起こる。
「……初めて見た」
藤真が、試合中にも関わらずつぶやいた。
「奇遇だな。試合じゃ、俺もだ」
これは牧にとっても賭けだった。練習成功率は低い。魚住の成長を信じなければ使えない選択肢だった。だが、魚住は成功させた。その事実が、牧の表情をわずかにほころばせた。
その一撃で、神奈川県選抜は一気に主導権を握った。藤真は司令塔としてのリズムを完全に奪われ、オフェンスは停滞する。逆サイドで三人が連携しても、魚住のブロックに行く手を阻まれる。そして――
「ピッ! 24秒バイオレーション!」
埼玉の攻撃が寸断される。
(……どうする?どうやって、この包囲網を破る?俺が止まれば、チームは止まる。でも、この状況をどう……)
藤真の思考速度がギリギリまで高まっていく。だが、追い詰められたのは埼玉側。試合序盤にして、藤真は考えざるを得なかった。
――ここまで徹底されたディフェンスは、“初めて”だ。
そして埼玉は、たまらず最初のタイムアウトを要求した。試合はもう、戦術戦ではなく“意志の衝突”のフェーズに突入しつつあった。