夏休み――インターハイを10日後に控え、海南大附属は恒例の強化合宿へと突入していた。“自他ともに認める全国トップレベル”のチームが、そこからさらに一段階上へと加速するための、まさに地獄の一週間。
普段から苛烈を極める海南の練習だが、この期間だけはさらに別格だった。メニューの負荷は倍増し、走る・跳ぶ・当たる・追い込む――そのすべてが肉体の限界値を更新し続ける工程だった。
朝昼晩、グラウンドでも体育館でも、選手たちはずっと“バスケ”の中にいた。海南のユニフォームを背負う選手でさえ弱音が漏れるほど、心も身体も擦り切れる鍛錬だった。
「あー……しんど……」
「モモが攣りそう……」
「足の裏の皮めくれて歩くのも地獄なんだけど……」
午後練を終えた選手たちが食堂に流れ込む。テーブルには並ぶのは“栄養のバランス”を徹底計算した食事。量こそ尋常ではないが、内容自体は食欲をそそる――はずだった。
問題は、その“量”である。成人男性の一日摂取カロリーをはるかに超える暴力的ボリュームに加え、大盛り丼ぶり飯3杯という鬼のノルマ。
全員が着席し、「いただきます」の声が響く。それは“食事”ではなく、“摂取トレーニング”という名の拷問開始の合図だった。箸が止まり、胃が拒絶反応を起こす者も多い中、一人だけ淡々と食を進める細身のサウスポーがいた。
「藤真、お前……よくそんなに食えるな……」
ぐったりした先輩が、不思議そうに問いかける。藤真は湯気の向こうで、微笑むでもなく淡々と答えた。
「ご飯、美味しいですから」
地獄のような量に涙する者もいる中、藤真の表情は涼しい。アメリカでの本格的な食トレで鍛えた胃袋は、一日4000kcalなど日常扱いで飲み込んでいく。
やがて完食した藤真は食器を整え、立ち上がる。
「ご馳走様でした。腹ごなしに少し散歩してから、夜の個人練に行きます」
「……お、おぅ……オレも……食べ終わったら……な……」
先輩の前にはまだ三分の一残った食事が鎮座し、彼の精神力を削っていた。全国の猛者に挑むには“食える身体”が必要だと理解しながらも、箸が進まない。夏は減量しがちであるがゆえに、ここで食べ切れるかどうかが勝負の分かれ目。
アスリートにとって、食事は“楽しむ時間”ではない。“身体を作る練習の一部”だ。話す余裕がなくても、味が分からなくなっても、顎が痺れても――完食は義務。
食堂に響くのは、咀嚼音だけだった。
「……ご馳走様」
二番手で食べ終わったのは意外にも花形だった。4月から藤真に触発されて始めた食トレの成果が出ていた。
続いて牧。帝王と呼ばれる男でも、この地獄の量には嫌な汗を流していた。
「無理ならギブアップしても良かったんだぜ、神奈川“No.3”」
花形が涼しい顔で挑発する。牧は睨みつけるが、口内の咀嚼が追いつかず、怒りの感情は目に宿すのが精一杯。去年の“お前にゃ(完食は)無理だ”の仕返しが見事に決まる。
「……ご馳走さん。キャプテン、オレも散歩してから練習に参加します」
二年生トリオが揃って完食すると、他の選手にも焦りが走る。合宿中の彼らは、常に競争し、互いを押し上げ合っていた。
厳しさの中に確かな実りがある。極限を仲間と共に乗り越えた者だけが得られる結束と自信。理屈を超えた価値がそこにある。
それは分かっている。だが、身体は悲鳴を上げていた。
疲労、筋肉痛、眠気、空腹、満腹、倦怠――全てがごちゃまぜになった地獄の一週間。
合宿終了まであと3日。食堂のカレンダーを眺め、天国へのカウントダウンを指折り数えながら、黙々と箸を動かす部員たち。
その日の最下位は高砂と武藤。そして、神と宮益はノルマ未達の罰として、食器洗い&トイレ掃除が個人練後に確定した。
◇◇◇
合宿最終日。海南の体育館に、練習試合の相手として他校が到着する。
「チューース‼」
疲労のピークを迎える中、現れたのは――。
「安西先生、わざわざありがとうございます。遠い所を本当に何とお礼を申し上げれば良いか」
高頭監督が深々と頭を下げる。
「いやいや、近いですよ。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願い致します。おい、更衣室へ案内しろ」
湘北のメンバーが控え選手に連れられていく。海南の選手たちは、“なぜこの時期に湘北なのか”と首を傾げた。
ベスト8止まりのチーム。去年・一昨年の相手と比べても格が落ちる。嬉しそうな者もいれば、ペナルティ回避に安堵する者もいた。(20mシャトル150本、マイカンドリル7種9/10成功、スリーメン10分2セット外し&ライン踏みは追加――地獄のペナルティ)
三年生たちも、調整試合にしては意外すぎる相手に違和感を覚えていた。
「アレが赤木か。確かにデカいが……魚住と互角って噂、本当かどうか確かめるか」
花形がパスを拾い、藤真へ返す。藤真は軽く3Pを沈める。
「魚住をある程度抑えてたからね。攻めの幅は少ないけど、得意な位置で仕事させると厄介だよ」
「なら引っ張り出せばいい。魚住より攻略は楽かもな」
花形は軽快にフェイダウェイとフックを決め、余裕を見せる。
「油断しないようにね。僕らも疲れてるから、想定以上に厳しくなるよ」
「任せとけ。ところで藤真。今日もなんかやる気か?」
藤真は一瞬だけ視線を宙に泳がせ、笑った。
「んー、秘密」
◇◇◇
「久しぶり。陵南戦、惜しかったね」
「久しぶりだな、神奈川MVP。合宿最終日で大変だろうが手加減はしねぇぞ」
「うん、全力でどうぞ」
三井と軽く握手し、藤真はティップオフを待つ。花形と赤木がセンターサークルに向かう。赤木の眼には剝き出しの闘志。
――そんな睨まなくても、相手してやるよ。ただし、アウトサイドで……だかな。
ベスト8のセンター如きが調子に乗っている。そう思われたくない花形は、胸の奥で静かに火を灯した。宮城は海南を見て素直に思った。
――デケぇ……これが全国区。なんてチームだ、海南。
牧は186㎝、宮城との差は15㎝以上。藤真は春以降さらに伸びて牧と同じくらい。花形は199.8㎝。前線のサイズは県内トップ。
すべてのポジションでミスマッチが発生する様相であった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ジャンプボールを花形が制し、藤真の手に渡る。
「一本じっくり」
藤真はセンターサークル付近でゆっくりとドリブルし、味方がセットするのを待つ。三井はドライブを警戒しながら対峙。藤真は視線だけで湘北の布陣をスキャンする。
――コイツ、なんか企んでるな。
三井の勘が鳴る。藤真が肩を落とすようにドライブの姿勢。反応した三井が重心を後へ――その瞬間。
流れるような“後ろへのスライドステップ”。前に出るように見せて、同じ自然さで後ろへ引く。
距離が生まれた瞬間、藤真はディープスリーを放つ。高く、そして美しい弧がリングを射抜く。
三井の脳裏に県対抗戦の記憶が閃く。異次元のムーブからの超長距離スリー。視線が合うと――藤真は軽くウィンクした。
三井の闘争心が一気に燃え上がる。彩子は思わず息を呑んだ。
――なんて綺麗……。まるで時が止まったみたい……
まさに“音が消える”シュート。ネットすら揺れない完璧なスリーであった。だが海南は、早くも疲労の影響でターンオーバーを連発する。
――相手は万全、こっちは満身創痍。全国前に“逆境の対処”を経験させるつもりか。
……なら、流れを取り戻す。
藤真はドライブでディフェンスを圧倒。赤木のヘルプを誘い、コーナーへ鋭くパス。
ローテの遅れを突き、花形が冷静に3Pを沈める。
藤真―花形ホットラインは、海南の生命線だった。安西は腕を組みながら目を細める。
――ゲームを動かせる選手だ。彼がいるだけで空気が変わる。全国でどう化けるのか……楽しみで仕方ない。
前半終了。まさかの海南1点ビハインド。疲労はピーク。そして――さらに地獄の後半が始まろうとしていた。