―――藤真の動きが、微かに“噛み合っていない”。
ハイポストでのわずかな沈み込み。1stステップに生じた、ほんの一拍の遅れ。クローズアウトに出た際、普段なら詰め切れる距離で残る半歩。花形は、誰よりも早くその異変を捉えていた。
河田を揺さぶった、あの鮮烈なアンクルブレイク。切り返しの鋭さも、間合いの奪い方も、間違いなく藤真健司本来のものだった。だが――着地の瞬間、足元がわずかに流れた。続くダンクで体幹に生じた、ほんの僅かなブレ。
「疲労」や「河田の徹底マーク」だけでは説明がつかない。経験から来る直感が、花形の胸奥をざわつかせる。
―――この局面なら、迷わず踏み切る男のはずだ。
円陣に入る直前、ふと交わった藤真の視線。その濃紺の瞳は、勝負師の強さを保ちながらも、どこか揺れていた。助けを求めるようでいて、同時に覚悟を押し隠す光。そして藤真は、息を削るように短く告げた。
「……忘れろ」
その一言で、花形は理解した。踏み込むな。問いただすな。今はただ、コート上の“役割”を全うしろ――それが藤真の意思だと。フリースローポジションへ向かう足取りは重い。だが、迷いはない。
―――分かった。
この局面で、花形に出来る選択は、信じる事。それだけだった。
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海南側に走った“異変”の波紋は、すでに山王の面々にも届いていた。
「……本当なのか、河田?」
低く抑えた声で、山王のキャプテンが問いかける。河田は視線を切らさぬまま、静かに頷いた。1on1での接触時――藤真の軸脚は、沈み込みが浅い。スクリーンをかわす瞬間、左腰の回旋がほんの一瞬、遅れる。一流同士でなければ見逃すほどの誤差。だが河田は、その違和感を確かに掴んでいた。
深津は表情一つ変えず、頭の中で勝利へのルートを再構築していく。残り時間、点差、ファウル状況、そして“藤真の状態”。すべてを噛み合わせ、最短で頂点へ至る道筋を描く。
沢北もまた、後半に入って藤真が執拗に仕掛けてこない理由に、ようやく腑に落ちた。藤真健司は、“誤魔化す”選手ではない。動けない時ほど、無理に芝居を打たず、勝負を他へ委ねる。山王は、その性質を嫌というほど知っている。キャプテンが短く、しかし断定的に指示を落とした。
「三本目は、わざと外す。沢北、レーン侵入ギリギリで飛び込め。深津はフォローしろ。絶対にセカンドチャンスを拾うぞ」
「了解……ベシ」
「OKッス」
「決まれば1点差だ。最後は2―2―1のゾーンプレス。特に“藤真”にボールが渡った瞬間、即ダブルでトラップする。―――河田、頼んだぞ」
射抜くような視線。河田は一拍も置かず、短く応えた。
「……向かってくるなら、容赦しません」
ハドルが解け、山王は一斉に散っていく。藤真の“異常”を、迷いなく“勝利の条件”へと転換するために。
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ロングスリー―――放った瞬間、時間がきしむように引き伸ばされた。高く描かれた弧。指先を離れた回転が、空間を切り裂く。次の瞬間、確かにネットを打つ乾いた音が届いた。
そして、着地。
床から返る反力が、脚部を介して体幹へと一気に突き上げる。腰椎、とりわけL4―L5の深部。そこへ、鋭利な刃で内側をなぞられたような激痛が走った。
原因は明白だった。直前のドリブルの切り返しで生じた、横方向の剪断ストレス。河田との空中での接触で、無理やり捻じ込まれた体幹回旋。ワンハンドダンクの際、反動で背骨を反らせた瞬間の過伸展。さらに、アンクルブレイクで踏み込んだ一歩―――股関節の屈曲と腰椎回旋が同時に最大化した、最も危険な局面。それらが分散されることなく、静かに蓄積され、ついに耐性の境界線を越えた。急性腰椎椎間関節性障害。アスリートが最も恐れる、“動けなくなるタイプ”のぎっくり腰。神経症状こそ伴わないが、瞬時にパフォーマンスを断ち切る、本物の故障だ。
異変はすぐに表れた。体幹をわずかに捻るだけで、稲妻のような痛みが肋腹へ走る。屈めば関節が噛み合い、伸ばせば骨の隙間に何かが挟まる感覚で可動域が奪われる。下肢に痺れはない。―――だが、力が“伝わらない”。
床反力を受け止め、推進力へ変換するはずの体幹が崩れ、1stステップに不可欠な爆発的初速が、霧散したかのように消えていた。それでも藤真は、表情を変えなかった。揺らぐ脊柱を、意思の力だけで固定するように立ち続ける。痛みを呑み込み、視線だけを次のプレイへ向けた。―――まるで、何事も起きていないかのように。
ダブルチーム。深津と沢北の寄せは、利き手側のドライブラインを完全に遮断する理想的なトラップ。角度、間合い、タイミング―――すべてが噛み合っていた。だが、藤真は躊躇しない。アメリカ仕込みの広い視野と瞬時の判断。深津の一歩前を読むと、身体を半身に開き、股下を通す“ノールック・ビハインド”でボールを逃がす。腰椎に最も危険な負荷がかかる動作。それを理解した上で、藤真は選んだ。ボールは、寸分違わず牧の手に収まる。牧は迷いなくギャップを突き、河田の体勢を崩しながらフィニッシュ。バスケットカウント。割れるような歓声。
だが、牧が振り返った瞬間―――藤真は、フロアに倒れていた。腰部の筋防御反応が限界を超え、起き上がるための初動すら許さない。選手としては致命的な状況。それでも、あのパスは“正しい判断”だった。自分が終わることより、チームが前へ進むことを選んだ。勝利を最優先した結果の、自己犠牲。残り30秒。藤真は無念の負傷交代となる。だが、その胸に後悔はなかった。
―――チームを勝たせるために、バスケをする。
亡き叔父と交わしたその誓いを、彼はこの瞬間まで、一度たりとも裏切らなかった。
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灼けつくような夏の光が地面を白く焦がし、霊園のあちこちで陽炎が静かに揺れていた。
藤真は手桶に水を汲み、石畳を一歩ずつ踏みしめて進む。頬を撫でる風は熱を含んでいるはずなのに、不思議と涼しく、どこか導くような感触があった。
ほどなく辿り着いた墓前は、つい先刻まで誰かが佇んでいたかのように整えられている。新しい水を含んだ墓石は薄く光を返し、黄菊の鮮やかさが夏空に映えていた。線香の灰は風に乱されることなく、静かな形を保っている。叔父を想う人の気配が、まだそこに残っていた。胸の奥が、きゅっと熱を帯びる。藤真は柄杓を傾け、墓石に水をかけた。石の表面がひやりと潤う。花を整え、今朝コンビニで買ったレモンスカッシュの缶と、叔父が好きだった菓子を並べる。それから正面に立ち、掌を合わせた。最初に告げる言葉は、ここへ来る道すがら、何度も胸の中で繰り返してきたものだった。
「叔父さん……無事に、成し遂げました」
ふっと口元が緩む。目を閉じると、準決勝の喧騒が耳の奥で鮮やかに蘇った。
「山王戦の最後さ。あとでビデオ見返したら、本当に冷や冷やしたよ。牧はバスカン決めたくせに、フリースローは外すし。でも……花形と神が踏ん張ってくれてさ。1点差で、何とか勝てたよ」
石畳を行き交う参拝者の声が、独特のイントネーションを伴って通り過ぎていく。その音がなぜか懐かしく、胸の奥にぽつりと落ちた。
「……決勝は、俺、怪我で出られなかった。でもさ、優勝できたのは……仲間のおかげだよ」
一陣の風が吹き抜け、黄菊の花弁がかすかに揺れた。
「うん……ありがとう。リハビリも、ちゃんとやってる」
木立の陰から流れ込む涼やかな風が、胸の底に沈んでいた重さをそっと撫でていく。叔父なら、きっとこう言うだろう――そんな言葉が、自然と浮かんだ。
「分かってる。腐ってる暇なんてないよね。……もう、後悔したくないから」
線香の火が消え、灰がふわりと崩れる。供え物を片づけようと腰を伸ばした、その瞬間、森の奥で野鳥が鋭く鳴いた。短く、強く――まるで返事のように。藤真は、小さく笑う。
「――大丈夫。また来るよ。次も……ちゃんと、いい報告ができるように頑張るからさ」
気づけば、陽は西へと傾き始めていた。墓石は穏やかな夕映えに染まり、長く伸びた影が、静かに藤真の足元へ寄り添っている。
「それじゃ、また。……うん、忘れてない。俺、NBA選手になるから。今度は嘘じゃない。カッコいい叔父さんに、誓ってね」
吹き抜けた風が、汗ばんだ首筋を心地よく冷ました。藤真は石畳をゆっくりと歩き出す。黄昏の光の中で、墓石の輪郭は次第に小さくなり、やがて柔らかく溶けていった。