51.藤真と花道
1992年6月20日。満員のスタンドが、試合前特有の低くうねるようなざわめきに包まれていた。期待と緊張が混ざり合い、空気そのものがわずかに重い。観客の熱量が、この一戦の注目度を雄弁に物語っている。
「来たぞ!」「海南だ!」「湘北も入ってきた!」「牧――!」
海南の司令塔・牧紳一が姿を現した瞬間、会場のテンションが一段引き上げられる。だが次の瞬間――
「きゃあーーー!」「藤真さーーーん!」「フジマーーー!」「こっち見てーーー‼」
明らかに質の違う歓声が、コートを包み込んだ。“サウスポーのスコアリングガード”藤真健司。その名に反応した女性ファンの声量が、一気に跳ね上がる。当の本人は、観客の反応に一切気を取られることなく、淡々とアップを続けていた。シューティングフォームは相変わらず無駄がない。体重移動は最小限、キャッチからリリースまでが極端に短い。ディップも浅く、ボールは迷いなくリングへ向かう。外角の感触は、すでに仕上がっている。
「……なんだよ、あれ」「ルカワより目立ってねえか?」「そんなに有名なのかよ、藤真って」
ざわつく桜木軍団に対し、晴子が落ち着いた口調で説明を添える。
「藤真さんは海南の副主将で、去年のインターハイ予選のMVPと得点王を獲ってるの。左利きで、180㎝後半の身長にあの容姿でしょ?実力も人気も、全国レベルで雑誌にも何度も特集されている高校バスケ界注目の選手なの」
一瞬言葉を区切り、視線をコートへ向ける。
「それで、去年の冬の大会で湘北と当たった時は……ほとんど何もさせてもらえなかったの。お兄ちゃんは“海南で一番厄介なのは藤真だ”って言ってたぐらいで」
その評価は、誇張ではない。会場の熱と、リングに吸い込まれるボールの音が、それを何より雄弁に証明していた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「……ただ、どうしても大きな大会でコンディションを落としやすくてね。インターハイ準決勝は腰、ウインターカップは発熱。どちらも決勝を欠場しているわ。それでついた渾名が“ガラスのエース”」
スタンド上段、記者席では相田弥生が新人記者を相手に藤真について語る。
「休みがちですけど……そんなに評価が高い選手なんですか?」
新人記者の中村が、隣の相田に小声で尋ねる。
「ええ。コンディションが万全なら、高校バスケ全体でも確実にトップクラス。関係者の間では、神奈川No.1ガードは牧か藤真かで意見が割れているくらいよ」
相田は視線をコートに向けたまま続ける。
「去年、主将を決めるときも選手間の投票は同数。最終的に監督判断で牧がキャプテンになった。それだけ二人の評価は拮抗しているということね」
「内部でライバル関係が激しいんですか?」
「派閥と呼べるほどのものは聞かないけど……練習を見ていると、明らかに互いを基準にしている。アップの強度から違うの。シュート一本、ディフェンスの一歩、その全部が“全国基準”だったわ」
海南は昨夏のインターハイで優勝、冬のウインターカップでは準優勝。それでも藤真自身は、エースとして決勝の舞台に立てていない。今年に懸ける覚悟と焦りは、長く取材してきた相田にもはっきりと伝わっていた。
――それなのに。
「……あれ?」
相田はラインナップ表に目を落とす。
「藤真が、いない……?」「怪我ですか? それとも――」「決勝リーグを見据えた温存かしら……?」
胸の奥で、記者特有のざわつきが広がっていた。
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ジャンプボールは王者・海南相手に湘北の赤木が競り勝つ。ティップは宮城の進行方向へ――湘北が狙っていた形だった。宮城は着地と同時にボールを収め、視線を上げる。
流川がすでにサイドライン沿いを全力で駆け上がっている。宮城は一拍も溜めず、走路を切るようなリードパスを放った。
「狙い通りだ――!」
湘北ベンチの木暮が声を上げる。だが、ゴールへ踏み切ろうとしたその瞬間。
「牧ッ!」「高いっ‼」
ヘルプサイドから牧が滑り込む。パスが出た瞬間にローテーションを完了させていた。“読んでから動く”のでは遅い。事前に位置を取る――王者の判断速度だった。
片手で叩き落とす、完璧なブロック。流川は即座にセーフティへ切り替え、バックパスを選択する。だが、そのパスコースを――
「カットされた!」
神が一歩目から予測していた。パスの角度、リリースの高さ、すべてを読み切ったインターセプト。
「よし!」
牧の声に神は間髪入れず、清田へロングアウトレット。
――しかし。
「桜木っ!」「任せろい!」
桜木が身体能力だけで空中を制圧し、パスをキャッチする。だが着地時に軸足が流れ、トラベリング。ファウルや得点にはならない。それでも会場の空気は一気に沸騰した。
次のポゼッション。牧は迷いなく宮城を狙う。ミスマッチを作り、ハイポストの高砂へハイロー。だが――赤木が一歩早い。パスの軌道に身体を入れ、ブロックショット。湘北は一気にトランジションへ移行する。三井がウイングでキャッチ。スリーポイントのフェイクからドライブへ――しかし牧はステップの初動で意図を見抜いていた。踏み込みに合わせ、再びブロック。
海南は即座に切り替える。神と清田の2メンゲーム。清田が鋭くペイントへ切り込む。桜木はリバースを警戒して跳ぶが――
「何っ!?」
清田はゴールに背を向けたまま、身体の向きとは逆へ跳ぶ。空中で体を反転させ、そのままリバースダンク。方向転換と跳躍を同時に成立させる、NBA選手の様なアスレティシズムであった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
前半残り10分。湘北は健闘している。だが試合のテンポは明らかに速い。その中心に、牧がいる。桜木が執念でオフェンスリバウンドをもぎ取り、会場がどよめく。
――運動量はある。だが“読む力”はまだ粗い。
牧がマークを自ら引き受けた。
「来い、桜木!」「おお! 行くぞジイ!」
だが桜木のドライブは、正面から叩き落とされる。即座に神が走り、レイアップ。6点差。宮城は桜木に近づき、小声ですぐさま指示を出す。
「桜木。アレやってみろ」
桜木にパスが渡るとフェイク一つでで清田を揺さぶり、レイアップを決める。4点差となったその瞬間。
「藤真。神と交代だ」
海南の高頭監督が動く。ベンチで様子を見ていた藤真が、腰の状態を確かめるように立ち上がる。
「前半で決めてしまっても?」
「構わん。ただし無理はするなよ」
その短いやり取りだけで、海南の空気が引き締まった。コールと同時に、割れんばかりの歓声。藤真がコートへ入る。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
スクリーンでマッチアップを入れ替え、藤真が桜木との1on1を作る。一瞬、コートが静まった。藤真はスキップステップでリズムを刻み、横に揺さぶる。次の瞬間――シュートヘジテーション。
わずかな間。上体の硬直。桜木の重心が前に流れた。ボールを死角に置いたまま、クロスオーバー。桜木の足が絡み――
「上手ぇぇぇっ‼」「アンクルブレイクだぁぁっ!!」
藤真は一切の無駄なく、ミドルジャンパーを沈める。サウスポーは倒れた桜木をあえて跨ぎ、淡々と駆け戻る。牧が苦笑する。
「素人相手に、大人げない」
「OB枠で出てる人に言われたくないな。免許証、確認してもいい?」
清田が慌てて割って入るが、海南の強度は明らかに一段上がっていた。記者席の相田弥生は、背筋に走る寒気を抑えられなかった。――減速と再加速の質。ストライドの使い方。
ボールハンドリングの柔らかさ。どれを取っても高校生の域を越えている。しかも、無理がない。それが何より怖い。
「……アンビリーバブルや」
湘北20-26海南。眠っていた王者のエースが、ついに試合を支配し始めた。