国体優勝から三日後。埼玉の空は、冬の気配を先取りしたように透き通っていた。
藤真は、かつての通学路をゆっくりと歩いていた。腰に残る鈍い痛みは、まだ完全には消えていない。それでも、その足取りに迷いはひと欠片もなかった。
迎えに現れたのは、神と花形だった。三人は横一列に並び、校門へ続く緩やかな坂を上っていく。
「で、行きたい場所って結局どこなんだ?」
花形が肩に手を置きながら、いつものクールな調子で尋ねる。
「……ミニバスの体育館だよ。バスケットを始めた場所。NBA選手を夢見て、毎日籠って練習してた場所」
花形は「なるほどな」と短く頷き、言葉の続きを委ねるように歩みを揃える。
目的地の体育館に着く。
―――懐かしいな。母さんに連れられて、恐る恐る中に入っていったっけ。
玄関口の扉を開けるとロビー付近から既にバッシュの音が響いている。スリッパに履き替え、開け放たれた大扉からフロアを覗くと、掛け声が体育館に反響し、外気とは異なる暑さと熱を帯びた練習に小学生が精を出している様子が見えた。
すると、不意に背後から声が飛んできた。
「おお、藤真くんじゃないか!」
振り返ると、そこに立っていたのは――藤真が小学4年で主将に抜擢された頃の、あのミニバスのコーチだった。藤真の姿を目にした瞬間、コーチは目を見開き、次の瞬間には懐かしさと驚きが入り交じった笑顔になる。
「いやぁ、久しぶりだね。元気にしてたかい?随分と大きくなって……!」
「国体、この間の試合も見たよ。現地には行けなかったけどね、知り合いがビデオ回しててさ。次の日に子どもたちと一緒に見たんだ。みんな大興奮でね――“ここで練習してた人なんでしょ? 連れてきてよ!”って騒ぎになって、大変だったよ」
「それで、今日はどうしたの?まさか本当に指導しに来てくれたのかい?」
立て続けに浴びせられる言葉に、藤真は思わず口元を緩めた。その瞬間、体育館の奥がざわついた。
「あーっ、藤真だ‼」「ホントだ! コーチが嘘ついてなかった‼」「すげぇ、本物だ……サインください‼」「押すなって‼ 痛ぇんだよ‼」「海南の花形も神もいる!マジかよ!」
「牧は?今日いないの?」「バカ、お前知らねぇの? 仲悪いって噂だろ。来るわけないじゃん」「え、てか何でいるの?」「コーチが呼んだんだろ?」「嘘つけよ、呼べるわけないじゃん。だってコーチだぜ?」
ロビーへと続く通路口が、一気に人だかりになっていく。
――ピーーーーッ‼
突如、鼓膜を震わせるほどの大音量で笛が鳴り響いた。子ども達が一斉に耳を押さえ、びくりと肩を跳ねさせる。
「はい、君たちはまだ練習中! 終わってから相手をしてもらいなさい!」
名残惜しそうに振り返る子どもたちをなだめつつ、コーチがフロアへと押し戻していく。その光景を見て――藤真の胸の奥に、かつて自分がこの場所でキャプテンとして奔走していた頃の記憶が、静かに蘇っていった。
◆◆◆
ミニバスの練習が終わり、子どもたち一人ひとりのサインや握手に丁寧に応え、「また来るよ」と笑って約束を交わしてようやく解放されたあと、叔父の墓参りにも付き添ってくれた二人にジュースをご馳走した。そして、通い慣れたバスケットゴールのある思い出の公園のベンチに腰を下ろす。
日は沈みかけ、夕暮れ独特の淡い光がリング越しにのびて、奥に広がる森は息を潜めたように静まり返っている。古びたバスケットゴールの下には薄く枯れ葉が積もっていた。外灯の音が「ジジジ」と低く唸り続ける。叔父と夜遅くまで練習した、あの時間だけがそのまま冷たく保存されているようだった。
藤真は空き缶をゴミ箱に放り込むと、ふいに足元のボールを拾い上げてドリブルをつき始める。アスファルトに響く外のバウンド音とともに、亡き叔父との記憶が走馬灯のように押し寄せてきた。
―――健司、今日はもう終いにしよう。暗くてボールが見えねぇよ。
そう言いながらも、リングに向かって何度でもシュートを放つ甥の練習に、結局いつも最後まで付き合ってくれた。
藤真はボールをそっと置き、リングの柱に背を預ける。あの頃の景色がよみがえり、耳の奥に叔父の声が柔らかく響く。昔と変わらぬ調子で、優しく、温かく。けれど、もう二度と届かない声――小学生だった自分が想像もしなかった、突然の別れ。
花形も神も何も言わなかった。それぞれ空になった缶を握ったまま、静かに、ただ藤真の背中と、その背中を支える柱を見守っていた。
しばらくの沈黙を破ったのは、藤真だった。視線は変わらず、古びたセンターサークルの中央に落ちたまま。
「……あの頃は、ずっと怯えてたんだ。全部が夢で、ある日ふと目が覚めたら――もうバスケができない、いや……“バスケをやらない人間”になってるんじゃないかって」
自嘲めいた声だった。けれど、その奥に宿るものは紛れもない“本音”だった。
「それを振り払いたくて、バスケ漬けの日々を送ったよ。でも今度は別の不安が押し寄せてきた。周りの期待、雑誌の評価。活躍すればするほど応援は増えるだろ? それが全部重荷になって……勝手に背負い込んで、勝手に怯えてた。“いつかバレる”んじゃないかってさ。本当の藤真健司は、そんな大した人間じゃないって。弱くて、小さくて……情けない奴なんだって」
柱にもたれていた背中を離すと、錆びたたリングに垂れ下がる古いネットが風もないのにわずかに揺れた。
「でもさ、ある日腹をくくったんだ。“藤真健司だからこそ、やるしかない”って。そこからはもう必死だったよ。できることは全部やった。本も読むだけ読んだ。バスケ以外の分野もさ。栄養、スポーツ科学、心理学……哲学の本まで。カントなんて難しすぎて心折れかけたけど」
小さく笑い、続ける声はどこか柔らかかった。
「……そんな苦しい時期に、ずっと側にいてくれた人がいた。俺の弱さを笑わないで、ちゃんと味方でいてくれた人。思い切って夢を話したら、“じゃあ、日本人初のNBA選手の叔父って肩書で名刺作って、キャバクラで配んなきゃな”って真顔で言うんだ。馬鹿みたいだろ? でも、それ聞いた瞬間、力が抜けて笑っちまってさ……ほんと、可笑しいよな」
その笑みは、どこか泣き出しそうで、けれど風通しの良い清々しさがあった。
―――最後の国体で、はっきりした。もう胸を張って生きていく。誤魔化さず、腐らず、バスケを始めた頃のあの夢を“安い現実”に押しつけて終わらせない。挑戦を笑わなかった人達のために。信じてくれた人達のために。そしてなにより、自分自身のために。
神はそっと目を閉じ、深く息を整える。花形は腕を組んだまま、何も言わず藤真の横顔を見つめていた。藤真は二人へ向き直り、どこか照れくさそうに、それでいて凛とした笑みを浮かべる。
「……二人とも、今日はありがとう。それに――海南でバスケができて、本当に良かったよ」
その表情には、もう迷いの影など一つもなかった。
「俺、NBA選手になる。――そのために、もう一度アメリカに行く。今度は、“独り”で挑みに行くよ」
◇◇◇
留学当日の早朝。まだ陽も完全には昇りきらない空港のロビーには、神奈川代表の面々がほぼ全員顔をそろえていた。
「なんで俺まで来てんだよ……」
文句を言いながらも、誰よりも早く到着していたのは義理堅い男・三井寿だった。清田はというと、目を真っ赤にしながら「帰ってきたら、また一緒にバスケしてくださいよぉ!」と半ば叫び声で泣いている。宮城は神に湘北と海南の合同合宿の案を真剣に提案していた。そして牧は、まだ松葉杖こそ手放せないものの、しっかりと自分の足で立っていた。
「……お前、最後まで俺のこと“仲間”だとは思ってなかったんじゃないのか?」
牧が笑いながら言うと――
「違うさ。互いに全力でぶつかり合って、高め合って……そういう対等の関係。“仲間”ってより、“ライバル”って言葉のほうがしっくり来る。だろ、牧」
藤真は柔らかく目を細めた。
その瞬間、清田が「うぉぉぉん……‼」と、再び泣き崩れる。海南が誇る二大巨頭の、長い確執に区切りがついた瞬間を目の当たりにしたようで、感極まっているのだった。高頭監督は紙袋を差し出す。中には海南の選手たちからの寄せ書きとアルバムがぎっしり詰まっていた。
「藤真……アメリカでのプレーを楽しみにしてるぞ。そしていつか――日本代表として帰ってこい」
言葉を受け止め、藤真は無言で深く頭を下げた。
搭乗アナウンスが流れはじめる。藤真は見送りに来てくれた全員の顔をひとりずつ見渡し、丁寧に頭を下げると、最後に花形へ短く声をかけた。
「……またな」
静かに片手を上げ、ゲートの向こうへ消えていく。誰も声を発しなかった。ただ、その背中を見送りながら――全員が胸の内で、彼の新たな挑戦にエールを送っていた。