藤真のバスケ   作:ドラマ・ドラマ

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69.藤真と二度目の挑戦

藤真の背中が搭乗ゲートの向こうに消えたあと、ガラス越しの滑走路には薄く朝靄が漂い、静かな波のように揺れていた。エンジンの低い唸りが空気を震わせ、その振動に誰もが無意識に呼吸を合わせていた。誰一人として口を開かない。しかし、誰一人として、その場を離れようとはしなかった。

 

やがて機体がゆっくりとタキシングを始める。宮城が小さく息を呑み、清田は泣き声を必死に押し殺しながら鼻をすすった。牧は無言のまま、松葉杖を握る手に力を込め、その背中をまっすぐに保っている。

 

「……行っちゃいましたね」

 

神の低く落ち着いた声が、静けさの中に溶け込むように響いた。三井はそれに黙って頷き、やや間を置いて言葉を紡ぐ。

 

「応援するしかねぇよ。あいつの挑戦は、もう俺たちが口を挟める領域じゃない。……でもさ。帰ってきた時、“お前らも成長したな”って笑われないように、俺らも前に進まねぇとな」

 

その言葉に、牧がほんのわずか口角を上げる。

 

「ふん……あいつが戻るまでに、俺は日の丸を背負う代表選手になってやる。そうでなきゃ――“ライバル”なんて呼び合えんからな」

 

重く沈むはずの空気が、ふいに柔らかく揺らぐ。誰も口には出さないが、それぞれが胸の奥で“再会の日”の光景を思い描いていた。

 

そして静かに歩き出す。国体を共に戦った神奈川代表の面々は、ゆっくりと空港ロビーを後にした。

 

◆◆◆

 

着陸の衝撃は拍子抜けするほど軽かった。雲の層を抜けた先に広がる異国の空は、真冬のはずなのに妙に乾いていて、光の色さえ日本とは違って見えた。

 

―――くそ……まさか緊張してんのか、俺。

 

自嘲めいた笑みをひとつ浮かべ、肩に担いだ荷物を持ち直す。到着ロビーへ足を進めると、耳に飛び込んでくる英語は、高校の授業で聞いたそれよりもはるかに速く、低く、雑然としていた。それでも藤真の歩みは、寸分も揺るがない。

 

―――2年ぶりのアメリカ、か。

 

出口を抜けた瞬間、鋭い冷気が頬を刺した。

 

「……寒っ」

 

白い吐息が淡く宙へ溶けていく。その消えていく軌跡を目で追いながら、藤真はそっと拳を握りしめた。今日からここでは、誰も自分を“海南の藤真”とも“神奈川No.1ガード”とも呼ばない。そもそも名前を知っている者すら、ほとんどいない。

 

―――“フラッシュ”。そんな大げさな異名までつけられたっけな。

 

だが、ここではすべてがゼロからのスタートだ。いや、怪我明けでの挑戦を考えれば、むしろゼロではなく“マイナス”からかもしれない。技術も体格も、価値観も文化も、自分の常識が通じるものなど一つもない。

 

それでも。

 

「……いいじゃん。望むところだよ」

 

かつて叔父と一緒にテレビの前で見た、マジック・ジョンソンとラリー・バードが火花を散らしたあのファイナル。生まれ変わる前から追いかけ続けた、届きそうで届かないはずの光点が、いまは確かに遠くの空で脈打っている気がした。

 

藤真は背筋を伸ばし、キャリーケースの取っ手を握り直す。

 

―――始めよう。藤真健司としての、“NBAを目指す旅”を。

 

一歩、踏み出す。その足取りは大きくはない。けれど確かに、揺るぎなく前へ進んでいた。

 

◇◇◇

 

1994年・盛夏――アメリカ中西部。

 

灼けるような日射しがキャンパスを照りつけていた。立っているだけで体力を奪われるような暑さの中、それ以上に熱を帯びた視線が体育館の入り口へと向けられていた。

 

「――アレが“例の奴”か?」

 

「マジかよ……どっからどう見ても中学生だろ」

 

「監督の推薦だって話だ。なら、よっぽど何かあるってこった」

 

囁きが波紋のように広がる。その中心にいる藤真は、視線の圧など気にも留めず、無言で荷物の位置を整えた。

 

―――……懐かしい感覚だな。中3でアメリカの練習に混ざった時も、こんな風に物珍しい目で見られたっけ。英語がほとんど聞き取れなかった頃だ。内容は分からなくても、“評価は低い”ってことだけは伝わった。

 

否定も期待も、全部ひっくるめて「観察の視線」。ミニバス、私立中学、海南大附属――国が違っても、初日はいつもこうだ。案内された体育館は、想像を軽々と超えて広かった。高い天井、照度の高い照明、張り替えたばかりのようなウッドコート。NCAAディビジョンⅠの強豪校でしか味わえない“空気の密度”がある。

 

藤真は胸の内で静かに息を整えた。

 

―――半年をリハビリに、一年を復帰と学業の両立に費やした。2年から本格的に勝負する、と決めていた。叔父さんとの約束も、転生前から抱いていた夢も――ここから先の努力次第だ。

 

そこへ、スキンヘッドの長身コーチが歩み寄ってくる。NCAAでも名が通る“ディフェンス強化の鬼”だ。

 

「お前が……監督推薦の日本人らしいな?」

 

「はい」

 

コーチは一瞬だけ目を細めた。

 

「高校では“フラッシュ”と呼ばれていたらしい。監督には上手く気に入られたのかもしれんがな……俺は誤魔化せんぞ?」

 

――高校時代の異名も知ってるってことは、それなりに事前調査はしてるってことね。

 

藤真は自然な英語で、迷いなく返した。

 

「確かに俺の武器はスピードです。でも、それだけじゃ“ここ”では通用しないのも理解しています」

 

コーチの口元がわずかに吊り上がった。

 

「ほう。それは日本文化の“謙遜”ってやつか?気に入った。発音も悪くない。ウチに日本語を理解できるスタッフはいない。コミュニケーションが取れなきゃ即帰国のつもりだったが……まあ、その心配はなさそうだ」

 

顎でコート中央を示す。

 

「今日から夏の強化合宿だ。自己紹介は後でいい。顔と名前を覚えてほしいなら――分かるな?実力を示せ」

 

既に約30人が集まっていた。藤真より背の高い選手ばかりで、210cm超のセンターも数名。ウィングスパン、脚力、質量――目に入る全てが“違う”。それでも藤真は、心のどこかが熱を帯びるのを感じた。

 

―――これだ。俺が来たかったのは、こういう世界だ。

 

コート中央に出た途端、鋭い視線が一斉に突き刺さる。後方で鼻で笑う声がした。

 

「オイオイ、中坊が迷子か?NCAAはアジアの体験入部を受け入れる場所じゃねぇぞ」

 

「チャイナボーイ、今日のメニューはマジでキツいぞ?泣く前に帰っとけ」

 

「つーか話しても分かんねーんだろ?どうせ英語通じねぇし」

 

安い挑発。軽い嘲笑。だが、NCAAの体育館では珍しくもない“洗礼”だ。藤真は薄く笑い、肩をすくめた。

 

「……じゃあ、軽く1on1でもどう?10点先取。負けた方が退部。コーチ、構いませんか?」

 

一瞬で体育館の空気が揺れた。コーチが満足げに笛を鳴らす。

 

「面白い……いい度胸だ。よし、“1on1”だ。相手は――マーカス、お前がやれ」

 

「了解っす、コーチ」

 

前に進み出たのは191cmのガード。サイズもスピードもNCAA基準で一級品。横のスライドも鋭い、チーム屈指の二枚看板の一人だった。

 

―――適任だ。むしろ、こうでなきゃ意味がない。

 

笛が鳴った。藤真は、わずかに膝を沈める。その“重心の落とし方”だけで、経験者なら次の加速が異常速度だと察するレベル。

 

次の瞬間――風が走った。ざっ、と空気が裂ける音。マーカスがリアクションを開始した時には、藤真は既に“横ではなく縦”に抜けていた。

 

「ッ……は、速っ――!?」

 

マーカスが一歩遅れただけで、距離は一気に3メートル開く。“第一歩の爆発力”――制動から加速に移る切り替え速度は、完全にNCAAトップレベルの数値だった。

 

ゴール下まで一気に侵入した藤真は、踏み切る寸前で左へ細かく方向転換。追ってきたマーカスが体勢を立て直す前に、ステップバックで距離を確保。

 

――シュッ。

 

マーカスの指先が触れたのは、ただの“空気”だけ。ボールは高い放物線を描いてネットだけを弾いた。一瞬の静寂。そして――ざわり、と体育館全体が電流に撃たれたようにざわめいた。

 

「嘘だろ……マーカスが完全に置かれた!?」

 

「いやあり得ねぇ……加速の質が違う……!」

 

「何者だよアイツ……!まさか中国人がここまで――」

 

コーチが腕を組み、大きく頷く。

 

「――ようこそ、“ケンジ・フジマ”。ここが、お前が挑む“バスケットボールの本場”だ」

 

藤真は、わずかに荒い息を整えながら笑みを浮かべた。

 

―――ここで勝つ。怪我で失った時間も、叔父さんとの約束も、全部取り戻す。俺を信じてくれた人たちのためにも。

 

その瞳には一点の迷いもない。藤真には、ただ一つの道――NBAへ続く真っ直ぐなレーンだけが見えていた。

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