藤真の背中が搭乗ゲートの向こうに消えたあと、ガラス越しの滑走路には薄く朝靄が漂い、静かな波のように揺れていた。エンジンの低い唸りが空気を震わせ、その振動に誰もが無意識に呼吸を合わせていた。誰一人として口を開かない。しかし、誰一人として、その場を離れようとはしなかった。
やがて機体がゆっくりとタキシングを始める。宮城が小さく息を呑み、清田は泣き声を必死に押し殺しながら鼻をすすった。牧は無言のまま、松葉杖を握る手に力を込め、その背中をまっすぐに保っている。
「……行っちゃいましたね」
神の低く落ち着いた声が、静けさの中に溶け込むように響いた。三井はそれに黙って頷き、やや間を置いて言葉を紡ぐ。
「応援するしかねぇよ。あいつの挑戦は、もう俺たちが口を挟める領域じゃない。……でもさ。帰ってきた時、“お前らも成長したな”って笑われないように、俺らも前に進まねぇとな」
その言葉に、牧がほんのわずか口角を上げる。
「ふん……あいつが戻るまでに、俺は日の丸を背負う代表選手になってやる。そうでなきゃ――“ライバル”なんて呼び合えんからな」
重く沈むはずの空気が、ふいに柔らかく揺らぐ。誰も口には出さないが、それぞれが胸の奥で“再会の日”の光景を思い描いていた。
そして静かに歩き出す。国体を共に戦った神奈川代表の面々は、ゆっくりと空港ロビーを後にした。
◆◆◆
着陸の衝撃は拍子抜けするほど軽かった。雲の層を抜けた先に広がる異国の空は、真冬のはずなのに妙に乾いていて、光の色さえ日本とは違って見えた。
―――くそ……まさか緊張してんのか、俺。
自嘲めいた笑みをひとつ浮かべ、肩に担いだ荷物を持ち直す。到着ロビーへ足を進めると、耳に飛び込んでくる英語は、高校の授業で聞いたそれよりもはるかに速く、低く、雑然としていた。それでも藤真の歩みは、寸分も揺るがない。
―――2年ぶりのアメリカ、か。
出口を抜けた瞬間、鋭い冷気が頬を刺した。
「……寒っ」
白い吐息が淡く宙へ溶けていく。その消えていく軌跡を目で追いながら、藤真はそっと拳を握りしめた。今日からここでは、誰も自分を“海南の藤真”とも“神奈川No.1ガード”とも呼ばない。そもそも名前を知っている者すら、ほとんどいない。
―――“フラッシュ”。そんな大げさな異名までつけられたっけな。
だが、ここではすべてがゼロからのスタートだ。いや、怪我明けでの挑戦を考えれば、むしろゼロではなく“マイナス”からかもしれない。技術も体格も、価値観も文化も、自分の常識が通じるものなど一つもない。
それでも。
「……いいじゃん。望むところだよ」
かつて叔父と一緒にテレビの前で見た、マジック・ジョンソンとラリー・バードが火花を散らしたあのファイナル。生まれ変わる前から追いかけ続けた、届きそうで届かないはずの光点が、いまは確かに遠くの空で脈打っている気がした。
藤真は背筋を伸ばし、キャリーケースの取っ手を握り直す。
―――始めよう。藤真健司としての、“NBAを目指す旅”を。
一歩、踏み出す。その足取りは大きくはない。けれど確かに、揺るぎなく前へ進んでいた。
◇◇◇
1994年・盛夏――アメリカ中西部。
灼けるような日射しがキャンパスを照りつけていた。立っているだけで体力を奪われるような暑さの中、それ以上に熱を帯びた視線が体育館の入り口へと向けられていた。
「――アレが“例の奴”か?」
「マジかよ……どっからどう見ても中学生だろ」
「監督の推薦だって話だ。なら、よっぽど何かあるってこった」
囁きが波紋のように広がる。その中心にいる藤真は、視線の圧など気にも留めず、無言で荷物の位置を整えた。
―――……懐かしい感覚だな。中3でアメリカの練習に混ざった時も、こんな風に物珍しい目で見られたっけ。英語がほとんど聞き取れなかった頃だ。内容は分からなくても、“評価は低い”ってことだけは伝わった。
否定も期待も、全部ひっくるめて「観察の視線」。ミニバス、私立中学、海南大附属――国が違っても、初日はいつもこうだ。案内された体育館は、想像を軽々と超えて広かった。高い天井、照度の高い照明、張り替えたばかりのようなウッドコート。NCAAディビジョンⅠの強豪校でしか味わえない“空気の密度”がある。
藤真は胸の内で静かに息を整えた。
―――半年をリハビリに、一年を復帰と学業の両立に費やした。2年から本格的に勝負する、と決めていた。叔父さんとの約束も、転生前から抱いていた夢も――ここから先の努力次第だ。
そこへ、スキンヘッドの長身コーチが歩み寄ってくる。NCAAでも名が通る“ディフェンス強化の鬼”だ。
「お前が……監督推薦の日本人らしいな?」
「はい」
コーチは一瞬だけ目を細めた。
「高校では“フラッシュ”と呼ばれていたらしい。監督には上手く気に入られたのかもしれんがな……俺は誤魔化せんぞ?」
――高校時代の異名も知ってるってことは、それなりに事前調査はしてるってことね。
藤真は自然な英語で、迷いなく返した。
「確かに俺の武器はスピードです。でも、それだけじゃ“ここ”では通用しないのも理解しています」
コーチの口元がわずかに吊り上がった。
「ほう。それは日本文化の“謙遜”ってやつか?気に入った。発音も悪くない。ウチに日本語を理解できるスタッフはいない。コミュニケーションが取れなきゃ即帰国のつもりだったが……まあ、その心配はなさそうだ」
顎でコート中央を示す。
「今日から夏の強化合宿だ。自己紹介は後でいい。顔と名前を覚えてほしいなら――分かるな?実力を示せ」
既に約30人が集まっていた。藤真より背の高い選手ばかりで、210cm超のセンターも数名。ウィングスパン、脚力、質量――目に入る全てが“違う”。それでも藤真は、心のどこかが熱を帯びるのを感じた。
―――これだ。俺が来たかったのは、こういう世界だ。
コート中央に出た途端、鋭い視線が一斉に突き刺さる。後方で鼻で笑う声がした。
「オイオイ、中坊が迷子か?NCAAはアジアの体験入部を受け入れる場所じゃねぇぞ」
「チャイナボーイ、今日のメニューはマジでキツいぞ?泣く前に帰っとけ」
「つーか話しても分かんねーんだろ?どうせ英語通じねぇし」
安い挑発。軽い嘲笑。だが、NCAAの体育館では珍しくもない“洗礼”だ。藤真は薄く笑い、肩をすくめた。
「……じゃあ、軽く1on1でもどう?10点先取。負けた方が退部。コーチ、構いませんか?」
一瞬で体育館の空気が揺れた。コーチが満足げに笛を鳴らす。
「面白い……いい度胸だ。よし、“1on1”だ。相手は――マーカス、お前がやれ」
「了解っす、コーチ」
前に進み出たのは191cmのガード。サイズもスピードもNCAA基準で一級品。横のスライドも鋭い、チーム屈指の二枚看板の一人だった。
―――適任だ。むしろ、こうでなきゃ意味がない。
笛が鳴った。藤真は、わずかに膝を沈める。その“重心の落とし方”だけで、経験者なら次の加速が異常速度だと察するレベル。
次の瞬間――風が走った。ざっ、と空気が裂ける音。マーカスがリアクションを開始した時には、藤真は既に“横ではなく縦”に抜けていた。
「ッ……は、速っ――!?」
マーカスが一歩遅れただけで、距離は一気に3メートル開く。“第一歩の爆発力”――制動から加速に移る切り替え速度は、完全にNCAAトップレベルの数値だった。
ゴール下まで一気に侵入した藤真は、踏み切る寸前で左へ細かく方向転換。追ってきたマーカスが体勢を立て直す前に、ステップバックで距離を確保。
――シュッ。
マーカスの指先が触れたのは、ただの“空気”だけ。ボールは高い放物線を描いてネットだけを弾いた。一瞬の静寂。そして――ざわり、と体育館全体が電流に撃たれたようにざわめいた。
「嘘だろ……マーカスが完全に置かれた!?」
「いやあり得ねぇ……加速の質が違う……!」
「何者だよアイツ……!まさか中国人がここまで――」
コーチが腕を組み、大きく頷く。
「――ようこそ、“ケンジ・フジマ”。ここが、お前が挑む“バスケットボールの本場”だ」
藤真は、わずかに荒い息を整えながら笑みを浮かべた。
―――ここで勝つ。怪我で失った時間も、叔父さんとの約束も、全部取り戻す。俺を信じてくれた人たちのためにも。
その瞳には一点の迷いもない。藤真には、ただ一つの道――NBAへ続く真っ直ぐなレーンだけが見えていた。