意識が戻った時、まず先に認識したのは短い周期で繰り返される息遣い。
へッヘッヘッヘと一定のリズムで続けた後は小さな舌が耳を三ヶ所同時に舐め回す。
次は後頭部と顔を挟む柔らかい何か。少し甘い香水の匂いも鼻腔へと届き、顔を横に向ければ耳を舐めていたジークが今度は顔面を舐めまわした後で抱っこをせがむ様に前足を上げて尻尾を振っていたが
「ワン! ワンワン!」
「ん〜? ジーク、魔力全部使っちまったのか? そりゃ少し困った」
ジークはケルベロスの仔犬だが、普段は瞳に宿る理性も使いこなす言葉も今は失われ、頭が三つあって黄金の毛並みを持っている以外は普通の仔犬にしか感じられない。
喋れないだけでなく知能も犬へと戻っているらしき状態ではあるが、懐いているのには変わらない。
寝転がったまま手を伸ばせば自分から飛び付いyr抱っこされようとしており、舌が届く範囲を舐めまわされる中、ジェイルが視線を向けたのは枝からぶら下がるクララの姿。
そして頭を戻せば自分を膝枕した状態で疲れが出たのかコクリコクリと舟を漕ぐクラウディア。前のめりになっている事で成長途中の膨らみがムニムニと顔に押し当てられているのだが、その目は半目だ。
「さっさと起き…痛っ!」
付け加えるなら少し開いた口から今にも垂れそうな涎。上がったり下がったり、徐々に下へと落ちようとしていた。
このままでは顔面を涎が直撃すると飛び退こうとするも体に走る激痛に動けない。
……彼女の優雅さを汚さない為に弁明するならば普段のクラウディアならば膝枕の途中で居眠りしたり半目や口の半開き等の無様な姿は晒さない。
ユニコーンを倒した後で行った応急手当て緊張の糸が切れた事で今の姿となっている。
本人が知れば丸一日は頭から毛布被って閉じ籠りそうな醜態にジェイルは全力で見なかった事にする為、痛む体に鞭打って起き上がるも眩暈と激痛で意識が途切れ途切れになり、そして前のめりに倒れ込めば顔が何かに当たった。
「何か固い壁…が……」
倒れ込んだ先でぶつかった物の正体はルシア、彼女の胸に顔から突っ込んで抱き止められていた。空を飛ぶ剣から降りてジェイルを支えてゆっくり寝かしたルシアはそのまま膝の上に彼の頭をそっと乗せ、顔の周囲に短剣を浮かせた。
「今は安静にしてて。多分そろそろベアルコ先生が来る。……今の発言の罰は後日与えるから」
「……おぅ」
「じゃあ、寝て。無駄な体力を使ったら駄目」
ジェイルを気遣う言葉と動作、その表情からも間違いはない。同時にユニコーンに匹敵する威圧感もジェイルにのし掛かっていたが。
「わん! へっへっへっへ!」
そして状況を理解していないジークは懐いているルシアの背中に前足をかけて遊んで欲しいのか尻尾を激しく振っていた。
「まさか人前でうたた寝をしてしまったなんて。あの、ジェイルさん。私、妙な寝言なんて呟いていません…よね?」
クララに警戒を任せ、応急手当をした後でジェイルを膝枕していたクラウディアだが、目を覚ますと自分の膝の上にいた筈のジェイルはルシアの膝の上に頭を乗せている。
脳が状況を理解するまで五秒きっかり。クラウディアは何事も無かったかの様に立ち上がった。
服の土埃を手で払い落とし、少しのルシアの様子を伺う。
財力によって強い発言力を持つアルトマリン家ではあるが、それでも辺境伯が相手となれば話は変わって来る。
それにルシアの普段の態度も直ぐに声を掛けない理由だ。天才の称号と同時に変わり者の陰口を叩かれる彼女は基本的に他人に興味を持たず、一年時に取り巻きになろうと近付いた同級生や先輩達を居ないものとして扱っていたのだが、例外としてルシアが認める実力者であれば認識をする。
「……大丈夫でしょうか」
家柄と才能を鼻に掛けて周囲を見下していると,彼女を気に食わない者達は囁くが、そんな彼女が仲良く接する三人。職人の一族で同類のスロースや仮面を被ると口調が変わるメルーナ等の優秀だが遠巻きにされがちな二人と違い【持ち腐れ】の不名誉な二つ名を持つジェイルとの関係は特別な者と評されていた。
膨大な魔力と恵まれた血筋への嫉妬と其れを活かせていない事への嘲りで目を曇らせていなければ他の優れた点が見つかるのだろうが、人は誰かを見下す事で安心を得る事が往々にしてある。
親戚だから、幼い頃からの付き合いだから。落ちこぼれと天才が仲良くする理由を考えるにしても直ぐに分かりやすい理由があるのだが、それよりも面白可笑しく噂されるのが二人の恋仲説。
そんな恋バナ好きの若者達の娯楽半分の噂,もしくはルシアという絶好の結婚相手に余計な男が寄らない為の作戦として広められた話なのかは半々だろうが、クラウディアは馬鹿馬鹿しいと一蹴した者達の一人……だったが、今の光景を目にすれば少し信じつつあった。
何せ自分が膝枕していた相手が目を覚ませばルシアに膝枕されているのだ。
つまり自分が膝枕している所を目撃したルシアが自分の膝の上に態々移動して見せ付けていると、そういう事だから信じて当然である。
「別に私は恋心など抱いてはいないのですが少々気不味いですわね。兎に角誤解されているなら解きませんと」
頬を垂れ落ちる冷や汗。その気は無くとも浮気現場に本命が乗り込んで来た様な気分と言えなくもない。
この泥棒猫! な感じで睨んで来たなら分かりやすいが、相変わらず仲良くないと分かり辛い表情のせいで判断も出来ずクラウディアは困っていた。
「えっと,お話しするのは久し振りですわね、ルシアさん」
「うん。話す必要も無かったから。それでクラウディアさん、何があった?」
先ずは様子見だと近付いて声を掛けたのはルシアの指がジェイルの頬に触れて引っ張ったり捏ねたりしている時。
頬の傷にだけは絶対に触らない様にしている彼女の横に座り込み、声を掛ければ帰って来たのは説明の要請だ。
「ええ、実は……」
どうやら誤解から怒ってはいないのだと一安心し、それでも若しかしたらという疑念と不安は消えないものの、今は友達を心配する少女に説明するべき時だと判断して自分達に何が起きたのかを話し始めた。
「そう。相変わらず無茶ばかりする。貴族にそこまでの自己犠牲の精神は要らないのに自己評価が低いから。……それで本当に良かった? 別に派閥の仲間って訳でもないのに」
「ええ、ですからご内密に。この話は関係者の間に留めて下さいませ」
クラウディアは軍門の一族ではない。鉱石を扱う商人に近いが、それでも助けられた事を躊躇無く話すなど本来は有り得ない。
それでも己を助けた相手の想い人(勘違い)が恩人を心配する中で誤魔化す事こそが我慢出来ない事だ。
そうして話している内に三人の周囲の風景が炎のように揺らぎながら薄れていき、一度目蓋を閉じて開いた時にはジェイルとクラウディアは森の外に居た。
「え? なんで外に……」
「運ぶのが面倒だから呼び寄せたのさ。じゃあ、時間掛けるのも面倒だし……」
空間転移は確かに存在する魔法。だが、予め接続された魔法陣同士を専門職の手によって一時的に繋げるだけだ。それを手間を惜しんだという理由で平然と行ったベアルコはそのままジェイルへと手を伸ばし、そっと指先を向ける。
「あの傷が一瞬で……」
「報告書を丸投げするにも一部の情報は伝えなくちゃならないからねじゃあ、アタシはお昼寝するから終わっても起こさないで」
一瞬で治療が終わった事に再びクラウディアが唖然とする中、ベアルコは何処からか持ち込んだベッドにダイブすると一瞬で寝息を立て始める。
ジェイルも地べたに直接だが静かな寝息を立てている。その顔をクラウディアは少し呆れた風に見詰めて呟いた。
「やれやれ、本当に無茶をする方ですこと。……それで助けられて好意を持ってしまった女性が苦労しそうですわ。私は惚れてなどはいませんが……」