悪魔の一撃、その様に呼ばれる症状がある。ギックリ腰だ。突如腰に走る痛みによって動けなくなるこの状態は魔女の一撃と呼ばれていた時もあったそうだが、女性達の猛烈な反対によって名称が変えられたのである。
尚、この一件を発端として男性優位だった教会の教えが改められたのだが、魔女の一撃の名称を広めようとした当時の大司教が抗議運動の途中から美貌を讃えられる事がなくなり、失墜こそ免れたが肖像画に姿を残さなくなったと一種の教訓として逸話が残されていた。
女を怒らせるな、との事だ。それでも不満を持っていた特権階級の男達が卑下する対象に選んだのが当時既に弱い立場に居た獣人達であるのだが、それはまた別の話である。
「まさかうら若い乙女の身で悪魔の一撃を喰らうなんて。驚いたなあ」
「重い物持って腰をやられただけでしょうに。悪魔だって冤罪だと怒鳴ってますよ?」
窓から月明かりが差し込むだけの薄暗い廊下をイリスとルシアを担いで歩くジェイルの耳に届くのは一歩も歩けなくなったせいで退屈してか喋り通しのイリスの声とルシアの寝息に鳥の鳴き声、そしてベルゼラの文句。
「わざわざ腰を壊してやる程暇してねえし、契約あっての呪いだろうと地味過ぎんだよ! 俺達のせいにするんじゃねえよ!」
悪辣なのが悪魔であったとしてもギックリ腰の犯人にまでされるのは悪魔の誇りが傷付くとばかりに抗議の声を上げ続けるも、イリスには届かない。
「それはそうと乙女の持ち方じゃないと思うんだけれど……。いや、医務室まで運んでもらっている身だし、変な衝撃も伝わらないけれどさ。ジェイル少年、もう少し乙女の扱いを覚えた方が良いよ?」
彼女がどの様な表情をしているのかジェイルに春姫分からない。何故なら二人共肩に担いでいるからだ。
お姫様抱っこならぬお米様だっこ、俵担ぎという少女を運ぶにはどうかと思われる方法ではあるのだが、ジェイルにだって言い分はある。
「ルシアは相変わらず起きないし、荷物共々放置する訳にも行かないですから」
「ぐぅぐぅ」
「ルシアちゃんは相変わらずだなあ。そして……うん。他所の家について口出しするのは憚られるけれど、ルシアちゃんのお婿さんになれそうなのは君くらいじゃない?」
「誰が此奴の面倒見切れるんだって俺も思いますけれど、オマニュエル家からはお祖母様が嫁に来てますからね。血を繋げる必要性は無いし、ルシアも分譲された領地を残す事に興味無いタイプなので」
「すやすや」
貴族の家の子供達は親とどれだけ良好な関係を築いていようが家の繁栄の為の道具であるし、それはオマニュエル家でもそうなのだが、ルシア単体で利益が出るので他の家と関係を結ぶ道具にする気は薄いらしいん
それを性格が理由で婚姻が結べないからチャンスがあると言い寄る者は後を立たないが、先ず役目を果たす為に尽力している事が背景以外として認識される第一歩なのでモラトリウムを満喫している学生には少々厳しい。
更に認識されたからといって好意を持たれるのは別の話。マイペースなルシアと上手く付き合えるかも別の話。
だからだろうかルシアとちゃんと結婚生活を送れるのが自分くらいという言葉自体は否定しない。
スロースならばいけるとは思いはするが、彼は彼で領地の運営を丸投げする嫁が必要な職人だ。
「未だ何処の誰と結婚するかさえ決まっていない俺が言うのもどうかだけれど、お前と結婚する相手が居たら絶対に苦労しそうだよ、ルシア」
「むにゃむにゃ」
「それにしても全然起きないな、ルシアちゃん。ジェイル少年、悪戯しちゃ駄目だよ?」
「しないですって。辺境伯を敵に回す真似したら勘当じゃ済まないんで」
この人はやはり苦手だ、と心の中でごちる。友人間での冗談なら貴族でも有り得なくはないものの、知り合い程度の中でグイグイ来るイリスはジェイルにとって苦手なタイプだ。
割と雑に運んでいる風に見せながら体に負担が掛からない運び方をしているのはそんな理由からで、イリスにもそれは伝わっているのだろう。
そのまま彼女に弄られながらも廊下を進めば見えて来たのは寮内の医務室。
「あれ? ベアルコ先生ってうちのクラスの担任になったよな? あの人が兼任とかするとは思えないんだがどうなってるんだろ?」
医務室での勤務の時から昼寝やら何やらが中心で、才能に任せての正確で手早い治療によってゴロゴロする時間を作り出した彼女が担任になってからは真面目に授業を行った事は無く、じゃあ今は医務室に誰が居るのか,その疑問からの呟きにイリスが答えた。
「自分は未だ会ってないけれど新しい人が来ているらしいよ。利用者は皆揃って押し黙ってどんな人か教えてくれないんだけれど」
だからって用もないのに医務室を訪れる気にはなれず、腰が逝った出ますのは良い機会かもと冗談の様に笑いながら喋った振動が腰に響いたのか押し黙る。飄々とした笑みが消え、完全に表情が消え去った彼女を気にせず扉を開ければ見えたのは話題に出た新任の保険医の後ろ姿。
扉の音に気が付いたらしくペンを動かす手を止めて振り返った姿にジェイルは絶句して固まった。
それはイリスも同じ事。寧ろ口をあんぐりと開いて固まる姿は普段とのギャップで言えば彼女の方が上だ。
「……どうかなさいましたか?」
そんな反応など予想していたとばかりの嫌そうな態度の養護教諭の声は女性の物だが顔は見えるが素顔は見えない。
「えっと、ウサギが好きなんですか?」
何故なら彼女は着ぐるみだから。どうかしたのはお前だと、二人は叫びそうになったのを咄嗟に堪えた。
その代わりに灰色をしたウサギの着ぐるみを着た彼女への問い掛けはイリスの口から思わず出た物で、返事の代わりに聞こえたのは舌打ち。心底不愉快とばかりに手に持ったペンを指の力でへし折った.。
「この着ぐるみを着始めてからウサギは嫌いになりました。何故この様な姿をしているかは前任者が開発した魔法による物です。……対象の衣服を強制的かつ半永久的に着ぐるみへと化すキグルニウムを圧縮して放つ魔法で……」
「実は自分がギックリ腰になってしまって。脳が仕入れるのを拒否する情報は止めて治療をして欲しいかな!?」
「私も口にするのも嫌ですので同意しましょう。それでは手当を致しますのでうつ伏せに寝て下さい」
「少しばかり衝撃が来ますが安心して下さい。ギガボルテージ」
「ひぇ!?」
バチバチと弾ける音が室内に響き、紫の電光が照らす。今まさイリスの腰へと振り下ろされそうな右手では激しい放電が起きていた。
「ちょっと先生!?」
「おや? ああ、これは失敬。私は生徒名簿で知っていますが、此方から名乗っていませんでした。私の名前はグレー
「他に忘れてる事あるから!? 名乗りよりも大切な事が! もう少し普通の手あ、あばばばばばば!?」
五月蝿え知るか! とばかりに腰に叩きつけられる拳、流れる電流。一連の流れを黙って見ているしか出来ないジェイルはルシアを抱えたまま立ち尽くすしか出来なかった。
「くかー」
そしてルシアはこの様な状況であっても眠ったままだ。
「ピクリともしてませんが大丈夫なんですか?」
「ご安心を。私は治療のプロですので、今回の様に心臓が止まろうと即座に蘇生可能で後遺症も出ません」
「今回の様にって、止まったんですか……」
「現在は問題無く動いていますし、目を覚ませばギックリ腰も治っている事でしょう」