Gunslinger Girl - Birth of Ws - (旧題『あかつきの少女たち Marionetta in Aurora.』) 作:ふじやまさん
「大阪には――」
暗曇に覆われた街は空と同じ灰色で、しかしクリスマスに備えた照明が所々で街路を染める。
大阪、天王寺。大阪府都心部の南玄関として賑わいを見せる土地だ。
この街は難波や梅田に続く北の天王寺地区と、下町としての活気がある南の阿部野橋地区に分かれており、その狭間にある太い車道には大型歩道橋が掛かっている。天王寺駅と阿部野橋駅を直接繋ぐその歩道橋は天王寺の中心である辻路を跨ぎ、橋の幅は十メートルを超える。橋よりも宙に吊られた広場と表現したほうがいいかもしれない。その半ばに、常盤とアザミが並んで立っていた。
常盤は仕立ての良い鳶色のトレンチコート姿。アザミは大きめのサイズのグレーのダッフルコートを着ており、一見すると寸胴のようだった。その背に負っているMP9短機関銃を隠す為には、ダボついた服を着なければならいのだ。
昼も幾分か過ぎ。歩道橋の手すりに手を預け、主婦やスーツ姿のサラリーマン、ちらほらと見え始めた学生を眺めている。
「来たことがあるんですか?」
アザミは隣で新聞を読みながら煙草を燻らせる常盤を見上げた。その手には爆笑したり落ち込んだり忙しいテレビCMで有名な、関西一帯でローカルチェーン展開する飲食企業の主力商品の肉まんが握られている。大阪に来たならこれを食べなきゃね、と常盤が今し方六個入りを一箱も買い与えてくれた物だ。肉と、それを包む皮の香りが芳しい。早速齧り付きたいところだが、猫舌のアザミには熱すぎて食べられない。今は外気に晒して冷ましている最中だ。
「来たことがあるも無いも、僕は大阪出身だよ。言ったことなかったっけ?」
「初耳です」
「じゃあ言ってないのか。まあセンターじゃ、あまりプライバシーに踏み込んだ話ってしないもんね。僕は生まれも育ちも大阪だよ。大阪府警を辞めるまで、旅行以外で大阪から出たことが無い」
「それにしてはムラサキみたいな訛りがないですよね」
「そりゃあ、訓練の賜物さ。それに自分でも驚くんだけど、東京に出たらどんどん周りの人たちの言葉に感化されて、訛りが無くなっていくんだよ。ムラサキちゃんみたいなのって、割と珍しい方だと思うよ。あれって条件付けの類かな?」
「さあ……。本人は意識して喋ってる感じしないんで、人格形成した技術員の趣味じゃないんですか?」
自分がその趣味の餌食にならなくて良かった。アザミは自らの標準言語仕様に感謝しながら肉まんを一口。
皮は厚く、甘く、しっとりとしている。そして皮の淡い甘みに包まれた、野菜の旨味と濃厚な肉の味わい。噛むと染みだした具から肉汁と脂が皮に吸われ、極上の味の協和を生み出した。
「何これ! 美味しい!」
「アザミちゃんいいリアクションするね、買ってあげた甲斐があるよ。……じゃあ行こうか」
「ふぁい」
口いっぱいに肉まんを頬張りながらアザミは頷く。
その肯定に苦笑しながら、常盤は短くなった煙草を放って靴底で踏み消した。新聞を折り畳み、そのまま歩を進めて歩道橋を下り、街を南西に移動を始める。
アザミは残りの肉まんが入った紙袋を引っ提げてその隣を追いかけ、残った肉まんを嚥下した。手に付いた油をハンカチで拭いながら、常盤の手にある新聞紙をチラと一瞥する。
縦に折られた一面紙には、全国の都道府県警察にSAT部隊を設立するべきだとする国会議員の発言が飾られている。先の小河内ダムに関連する記事だ。
アザミたち国立児童社会復帰センターの部隊も投入されたあの事件は、世間的には『奥多摩テロ事件』として報じられている。犯人が自動小銃を装備していた事や山麓で闘争が繰り広げられた事から、第二のあさま山荘事件などとも呼ばれ、報道機関のみならずあらゆるマスメディアが特集を組んで事件を取り上げた。大規模な銃撃戦が繰り広げられた為、一部の層から批判が出たものの、世論の大半としてはSATの対応に肯定的だ。SATの広範囲配備や戦力拡大なども、ある程度は現実の物となるだろう。
昨今の戦火が燻る世界情勢に加えて、イタリアであった大規模テロのニュースは逐一日本でも報じられていた。中国の軍事的台頭の片鱗の事もある。平和を空気と同じレベルで享受してきた日本人も、さすがに多少の危機感は心の片隅に抱いていたのかもしれない。それでも自分以外の誰かが戦ってくれるならば、という消極的肯定ではあるだろうが。
報道の内容としては、環境テロ団体が小河内ダムには爆弾を設置し、大勢の人質を取り、うち一名を殺害。最終的にSATの突入が敢行され犯行グループは全員射殺、残った人質は無事解放されて事件は幕を閉じた。ということになっている。実際には犯人のリーダー格とその部下二人の三名がセンターに拘束され、御堂と呼ばれるこの事件の真犯人とその仲間の男二名が現場から逃走を図っているのだが、それらの情報が世に出ることは無い。凶悪なテロリストが野放しになったままであると国民に知らせたところで無用な混乱を生むだけであるし、そもそも彼らを逃がしたことを報じれば、上手く手柄を手に入れた警察の面子に傷がつく事になる。こちらから頼まなくとも、情報の隠蔽を行ってくれるだろう。
「結局御堂という男の事は分かったんですか?」
二人は天王寺を西へと進む。
アザミは御堂の名を唇に乗せ、彼に殴られた頬を擦った。
「いいや、全然。警視庁のデータベースにそれらしい人間はいなかった。けれどあんな大規模なテロを武器まで持参して実行するような人間を、警察が見逃しているとは思えない。それで、まあ公安警察には公式資料にも乗せていない、個人用メモみたいなレッドリストがあるところにはあったりするから、それを今から見に行くわけだね」
「なるほど……それじゃあ今から府警に行くんですね?」
「いや、その前に寄り道をする。大阪には結構色々と預けたままの物があるんだ。次何時来れるか分からないから、ある程度回収しに行こうと思う」
「お金ですか?」
「いいや、もっと凄い物だよ。お金で動かない人間でも、あれならイチコロだ。まあそういう物の回収と、後は情報集めだね」
一体どんな物なのかアザミには見当もつかないが、常盤がそういうならそれは素晴らしい物なのだろう。
だがそのミラクルアイテムよりも、アザミの気を引くことがあった。
「府警に行く前に情報収集をするんですか?」
「うん。テロリストや犯罪者は警察に見つからないように細心の注意を払っているから、普通の警察の捜査では、本気で隠れている人間っていうのは見つけられなかったりするんだ。逃がし屋とか雇われたらもう無理だね。その辺にいる人間に聞き込みしたり監視カメラの映像と睨めっこしてるだけじゃあ、絶対に見つからない。だから、どっちかと言えば府警の方がついでで、今から行くところが本命なのさ。
情報っていうのは、地表には落ちてない。蛇の道は蛇。地下に潜っている人たちの事は、地下にいる人間が一番よく知っているんだよ」
「つまり私たちが向かっているのは……」
アザミは周囲の街並みが、少しずつ変化してきている事に気付く。
煌びやかで老若男女入り乱れる繁華街から、埃と汚水が染み付いた裏町へと。
「地下の世界の管理人――ヤクザのところさ」
小便臭い空気が鼻を刺す。
道路脇にはゴミなのか個人の所有物なのかも分からない物々が積まれ、その傍にホームレスが眠っている。
そこら中で露店が広げられ、売られているのは古雑誌やら古着やら卑猥な装丁のVHSなどだ。
道には天王寺と同じくらい多くの人々が行き交っているのだが、歓楽街のそれとは人種が違う。生気が無いか、不気味なほどギラついた目の人間ばかりだった。
天王寺から西へ数キロ。
西成と呼ばれる地域に、アザミたちはいた。
「なんていうか……浮いてませんか私たち」
「浮いてるだろうね」
何年洗っていないのか見当もつかない程汚れが折り重なった外套を着た男とすれ違う。他の土地ならば目立って仕方がないその格好も、この街ではそれが一般的な服装であるらしい。むしろ一着二十万円近くするコートを着た常盤や、染み一つ無い真新しい服を着ているアザミの方がよほど目立っている。
先ほどから街の人の目が漏れなく二人を追っていた。
珍しそうな、訝しむような、憎らしげな眼で、常に四方から見られている。
居心地の悪さに、アザミは思わず常盤に引っ付いて隠れる様に歩く。
対して常盤は周りのことなど意に介さない。勝手知ったるといった様子で汚れた街を闊歩していた。
「なんですか、ここ」
「面白い街だろう?」
「変な街です」
「その変なところがいいんじゃないか」
一笑する常盤と憮然と見上げるアザミは、背後に妙な気配を感じる。同時に鼻腔を刺激する獣臭。
首を後ろに回して見ると、ふてぶてしい顔をした野良犬が三匹、荒い息づかいでアザミの後ろに並んでいた。白地に茶斑点の冬毛で膨らんでいても隠せない程痩せこけている。
「え、何? これ?」
アザミは一瞬身構えるが、犬たちの視線が、肉まんの入った紙袋にあると気付く。だが犬に襲いかかってでも奪い取ろうとする気迫は無い。どうやら空腹のあまり、アザミの手にある肉まんの匂い引き寄せられてきたらしい。
これはどうしたものか。
放っておけばどこまでも追いかけてきそうな様子だ。アザミとしては惜しくはあるが、肉まんを彼らに譲渡しても構わない。しかしこの肉まんにはたまねぎがたっぷりと練り込まれているのだ。犬には玉ねぎを与えてはならないと咲が言っていた気がする。
アザミは常盤に指示を乞おうと犬から振り返るが、彼は薄い笑みで見るだけだ。
彼女がどう行動するかを観察するつもりらしい。
「……ほら」
このまま餓死するよりは、中毒の可能性があっても何か腹に入れた方がいいだろう。
それにコンクリートジャングルを逞しく生き抜いてきた野良犬たちだ。きっと多少の玉ねぎなど難なく消化してしまうに違いない。たぶん。
そう判断して、アザミは袋から肉まんの入った赤い紙箱を出して、少し離れた路端に放った。
野良犬たちは目を輝かせて紙箱に跳びつく。包装を噛み破って、三匹仲良く肉まんを貪り始めた。
恵んだ食料が犬の口に入ったのを見届けて、二人は移動を再開した。
「アザミちゃんはそっちを選択したか」
「常盤さんならどうしました?」
「無視してたんじゃないかなあ」
「酷い、とは言いませんけど……」
「あ、紙袋は持っててね。後で使うから」
言われ、アザミは空の紙袋を折りたたんでコートのポケットに入れる。
「それでさっきの話の続きですけど、この街は何なんですか?」
「ここは西成さ。一言で言うと、社会の裏側への玄関口かな。この街にはいろんな人間が集まってくる。日雇い労働者に彼らを雇いに来る斡旋屋、売春婦に盆屋にノミ屋に麻薬の売人、そして彼らを取り仕切るヤクザ。他には裏社会とコンタクトを取りたい人間との間を取り持つブローカーとか、あとは身を暗ましたい犯罪者とか」
「全然一言じゃないですね」
「ご、ごめんね……」
「それにしても、よくこんな街が残ってますね。警察は動かないんですか?」
「一応手は入っているけどね。ただ完璧に街を浄化してしまうと、ここの住人が変に散ってしまう。それはかえって危ないから、あえてこういう街を残しておいているんだ。一か所に集まってくれていた方が管理も楽だしね」
「なるほど」
「それに警察も色々と便利に使わせてもらっているしね…………着いたよ」
二人が立ち止まったのは、三階建ての小さなビルの前だった。真村興業と看板が掲げられたビル。ここが常盤の言うヤクザの事務所らしい。
一階はガレージになっており、その上、二階の窓からは蛍光灯の光が透いて見える。留守ではないようだ。
常盤は磨りガラスの玄関扉を通り、階段を登る。そして二階の事務所の戸をノックする。
「はい」
若い男の声で返事があり、半ばまで戸が開かれる。こちらを窺うのは金髪を短く刈り込んだ、土佐犬の様な顔貌の小男だった。
小男は常盤の顔を見て細い目を限界にまで開いて驚愕の表情を作る。
「とっ、常盤さん!?」
「や、久慈くん久しぶり。ちょっと中に入れてもらっていい?」
常盤の申し出に、久慈は奥にいるらしい他の人間に指示を求めて振り返る。
そして許可が下りたのか、彼は脇に退いて常盤たちを通した。
そこには応接用のテーブルとそれを囲むソファーがあり、ワークデスクがあり、壁には代紋をあしらった壁掛けがあり、その下には隣室に続く扉がある。そして久慈を含めた三人の男たちがいた。久慈と、ソファーに腰を掛ける黒ワイシャツの男。その男の傍に立っている、久慈と同世代の若者だ。
「……常盤さん」
ソファーにいた男は常盤の顔を見て立ち上がる。
背が高い。一八一センチの常盤よりも、まだ十センチは高いだろう。
歳は三十を数年過ぎたくらいだろうが、彫りの深い顔と、全身から立ち上る巨獣の様な威圧感が、彼の年齢を十も二十も底上げして見せた。
「真村さんは?」
「今は食事に出かけていまして。親父に用でしたら、すぐに連絡を取りますが」
「いや、いいよ。あの人僕のこと嫌いだろうし。というか、あの人がまだ組長やってたんだね」
常盤はコートを脱いで久慈に手渡し、男に言う。
「とっくに貴方が跡を継いだと思っていたよ。真村組若頭、鏑一鉄さん」
「それで」
鏑は紫煙を吸い込み、常盤に来訪の用を促す。
「何の御用で?」
ソファーの正面に座る常盤に尋ねながらも、その視線は常盤の隣にちょこんと腰掛けるアザミに向けられていた。
戸の近くで待機する久慈も、便所と言って事務所を出て行ったもう一人の男も、怪訝そうな顔でアザミを見ていた。
一体この子供は何なのだと、言葉にせずとも表情で語っている。堅気の場所ならまだしも、ここは暴力団の事務所だ。子供を連れてきて良い場所ではないし、常盤もそれを承知しているはずだ。承知しているはずなのに、わざわざ連れてきた。それが不気味であり、好奇心もくすぐられる。しかし触れてはならない領域なのだろうと、日々理不尽と暴力の中に身を置く彼らは肌で感じていた。
常盤は理由のない行動をする男ではない。この柔和な面の男が自分から言わないのであれば、それは自分たちが聞く必要のない話なのだろう。
そう理解し、鏑はアザミには一切触れずに会話を始める。
「常盤さんはもう警察を辞められたのでしょう? 我々極道者にどんな御用が?」
「要件は二つ」
常盤も懐からシガレットケースを出して、細巻きを咥える。
鏑は自然な動きで自らのライターの火を点し、常盤の煙草に近付けた。
煙を吸い、吐き、煙草を口端で咥えて人差し指を立てて見せた。
「まず一つ。最近逃がし屋と武器の輸入業者に動きは無かったかい?」
「警察の捜査じゃないんでしょう? 答える義務がありますか」
「尋ねる権利はあると思うけどね。それで、どうなんだい?」
「……私どもが仕切ってる逃がし屋連中は特に。賭場荒らしをしたアホと族抜けしようとしたガキを逃がしたくらいです。武器は、もう私どもは取り扱っていないので何とも」
「そうか……。じゃあ佐々さんと取り次いでもらえないかな。情報屋の」
「構いませんが、常盤さん、さっきも言いましたがあなたもう警察官じゃないんでしょう? どうしてそんな事を」
問われて、常盤は首を傾げる。
「答える義務があるかい?」
「……失礼しました」
「いや、僕も少し意地悪だったね。これは仕事さ。僕は今、フリーの記者をしていてね」
「記者? 常盤さんが?」
「意外かい? ともかく、奥多摩の例のテロ事件について調べているんだ。どうも関東の方にはなかなかいいネタが無くてね。面白い情報が無いかと思って大阪くんだりまで来たわけさ。……そういうことにしておいてくれないかな」
察しろ。
そう暗に言う常盤に、鏑はもうこれ以上踏み込むのを止めた。
鏑は煙草をテーブルの灰皿でもみ消し、久慈に物を書く仕草でメモを持ってくるように示す。
久慈は頷き、小走りでワークデスクからメモとボールペンを鏑に運んだ。
受け取った鏑はメモに数字の羅列を記し、破り取って常盤に手渡す。
「それが佐々の今の連絡先です。今週中はその番号で繋がります」
「いやー助かったよ。ありがとう」
紙片を懐に入れ、常盤は世間話をするように笑いながら会話を続ける。
「それで二つ目の用なんだけど」
二本目の煙草を咥え、今度は自分のライターで火を点す。
「預けていた物を返してもらいに来た」
「あれを……ですか?」
アザミを一瞥し、鏑は言い淀む。何やら遠慮しているらしい。それも常盤では無く、アザミに。
「ああ、この子の事は気にしなくていいから。早く」
今更になって、アザミについて『気にするな』と無茶な言及が入った。
「しかし……」
「早く」
静かな、腹底に響くような声だった。
「分りました」
観念して鏑は腰を上げ、そして別室への扉に消えた。
「何を預けているんですか?」
「今にわかるよ」
小声で尋ねるアザミに、常盤は煙をぷくぷく吐いてはぐらかす。
預けていた物とは、さっき常盤が言っていた凄い物の事だろう。曰く金よりも凄い物らしいが、何が出てくるのか少し楽しみである。
その時、常盤のポケットから携帯の着信音が鳴る。
「ん?」
見ると、蔵馬からメールが届いていた。件名も本文も無く、ただ画像が一枚、添付されている。どこかの代紋バッヂのようだが。
「なんだいこれは」
言ってる間に電話が来た。
「ちょっと失礼」
誰ともなく断りを入れ、携帯を耳元に着ける。
「蔵馬君か、今の画像は何だい?」
『ヤクザの代紋だ。どこのか分かるか?』
自分の経歴から知っている可能性があると、まず宛てにしてきたのだろう。確かにある程度ヤクザについての情報は持っているし、現に今ヤクザの事務所にいる。だがこれは見たことが無い代紋だった。
「ちょっと待ってね……」
常盤は携帯を操作して画像を表示し、久慈に代紋を見せる。
「これどこのか分かる?」
「これは……大柳組っすね。最近扇組の直参になったところっす。柳応会のところの若頭だった奴が親やってますね」
「柳応会……ってことは、外国人を囲ってる連中か」
記憶を探り、該当情報を引っ張り出す。確か公安時代に何度かマークしたことがあったはずだ。若頭の大柳という名前も、確かに聞いたことがある。
「大柳組だって。関西の暴力団扇組の直系だね」
『関西の? どんな連中だ?』
「詳しくは僕も知らないけれど、確か外国人の不法就労斡旋とかを主な資金源にしていたはずだよ」
『……そうか。分かった』
「どうしたんだい? 何かトラブルでも?」
『いや、大丈夫だ。助かった』
通話が切られる。相変わらず忙しない同僚だ。しかも、またトラブルに巻き込まれているらしい。今日は大した仕事は無かったはずだが、何かあったのだろうか。
ともかく、こっちの仕事は半分片付いた。早く前の職場に顔を出して、残りの仕事もとっとと片付けよう。
もしセンターで何かあったなら、急遽呼び出される可能性もある。
タスクが積み重ねられるのは、常盤が最も嫌う事の一つだった。
「お待たせしました」
戻ってきた鏑が持ってきたのは、A4サイズの茶封筒だった。
テーブルの真ん中に置かれた封筒。中には何か体積のあるものが入っているらしく、真ん中あたりがこんもりと膨らんでいる。
常盤は煙草を灰皿に捨てて封筒を引き寄せ、封を無造作に破った。そして封筒を逆さにする。
破られた封筒の口から、内容物がぼとりとテーブルに吐き出された。
「これは……」
出てきたそれが何なのか、アザミには分からなかった。
白い粉だった。手の平サイズのポリ袋に詰められた白粉。それが一袋だけである。
「何ですか?」
何と無く華美な宝石やら凝った装飾の調度品のような、宝物めいた物を想像していただけに、少し拍子抜けだった。
常盤は白粉の袋を手に取って、重さを確かめる様に上下する。
「ヘロインだよ」
「へろいん」
聞き覚えのない名称だった。
「常盤さん、子供にそんな物を見せるのはお控えなさい」
鏑の諫言を無視し、首を横に傾けるアザミの目の前に、常盤は袋を吊るす。
「麻薬だよ麻薬」
麻薬。なるほどそれは聞いたことがある。
アザミは理解の及びを頷きで表す。麻薬は一時的な多幸感や酩酊状態を引き起こす代償に多大な身体的・精神的障害を引き起こす違法薬物の事だ。
それは分かったが、そこから先が分からない。
「それを人にどう使うんですか?」
アザミの発言に反応したのは鏑だった。
眉間に深く皺を寄せ、歯を剥き出す。額には青筋が浮かび、それは明らかな憤怒の貌だ。
「常盤さん! あんた子供になんて事言ったんだ!」
落ち着きの体面こそ保ってはいるが、膨大な量の憤怒が込められている。
「うるさいよ鏑さん。この子の事は、貴方は気にしなくていいんですよ」
笑顔のまま冷たく言い放ち、常盤は三本目の煙草に火を点ける。
「アザミちゃん。それ、さっきの紙袋に入れて持っておいて」
常盤に従い、アザミはポケットから紙袋を出して広げ、ヘロインの袋を収める
「常盤さん!」
今度は間違いなく怒声だった。ソファーから半分腰を浮かせ、身を乗り出すようにして常盤を睨みつけている。ちらつく犬歯は今にも常盤の喉元に食らい付きそうで、怒り狂った虎を目の前にしているようだった。
アザミは意識を緊にシフトして、密かに腰の拳銃ホルスターに手を伸ばす。
一方常盤は笑みを持ち続け、最早せせら笑いに近い。
「落ち着いてくださいよ鏑さん」
鏑は強張らせた肩を一旦落とし、深く深呼吸した。
「……常盤さん。あんたは今も、あんなあくどい真似を続けているんですか。しかも、今度はこんな子供まで巻き込んで」
「それが何か問題かい? 君には何の関係もないだろう」
「私に関係が無くたって言わせて貰います。これはあまりにも惨い」
突如言い争いを始めた大人たちに、アザミはついて行けずにきょとんと目を丸くするしかない。
ただ、鏑が常盤に対して激怒していることは分かった。その理由が、自分の存在であるらしいこともだ。
何とか常盤を庇いたい。そう思ったのは義体の条件付け故だろうか。アザミにも、それは分からなかった。
「あの」
会話に介入したアザミに、二人の目が刺さる。
「私は好きで常盤さんに従っているんです。あまりひどい事を言わないでください」
「…………」
「…………」
アザミの言葉に、両者は口を閉ざす。
そして、
「……っく、はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」
大笑いを始めたのは常盤だ。心底愉快そうに笑い、目には涙すら浮かべている。
「はっはっはっは! いいぞアザミちゃん! もっと言ってやれ!」
こんな風に感情を露わにする常盤は、アザミにとっては初めてだった。
止まらない笑いに苦しそうにしながらも、常盤の手がアザミの頭に伸び、乱暴に撫でまわす。
戸惑うが、しかし何故か嬉しくなる。
頬に朱を差し俯くアザミを、鏑は常盤と対照的な、憐憫に近い目で見ていた。
そして身をソファーに戻し、唇を締める。
「あー面白かった。じゃ、用も済んだし行こうか、アザミちゃん。久慈君、コートをお願い」
まだ笑いの残滓を口角に残しながら立ち上がる常盤。アザミも続く。
「……………………。常盤さん」
久慈から受け取ったコートに袖を通す常盤。名を呼ばれ、動きを止める。
座ったまま彼を見上げ、鏑は腹の深底から搾る様にして呟いた。
「あんたには借りがある。組を救ってくれた大恩だ。そんな相手にこんな事を言いたくねえが、やっぱり我慢ならん。言わせてもらう。言わなきゃ気が済まねえ」
鏑の言葉。嗄れた、小さな声だった。
「常盤、お前はクズ野郎だ」
小さくとも、人の心の芯を射抜く、力のある声だった。
それを聞いて、常盤の笑みが消える。
指に挟んだ煙草を口に運び、深く吸う。
体を前に大きく折って、端正な白い顔を鏑の鼻先寸前まで寄せた。
そして、煙を吹きかけ、言う。
「ヤクザのあんたに言われたくねえよ」
ヤクザの事務所を出た常盤とアザミは、新今宮駅から環状線に乗って、大阪府警本部のある森ノ宮へと向かっていた。
午後の電車は人も疎らで、二人は赤いシートに座っていた。
電車がカーブに差し掛かり、並んだ大小の身体が横に揺れる。
「常盤さん」
「何だい?」
アザミは膝の上にある、ヘロインの入った紙袋を撫でる。
「あのヤクザとはどういう関係なんですか?」
「…………」
常盤は黙ってアザミの顔をじっと見る。
「なんですか?」
「いや、なんだか今日のアザミちゃんいつもと違うなぁって」
「別に違くありません。通常運行です」
「そうかい? ……ま、あの人たちとは、ビジネス上の取引相手だね」
「警察官の時のですよね」
「そうだよ。ヤクザって、本当に横の繋がりが広くて強い。裏社会の情報は、だいたい彼らのところに集まるんだ。だから、情報と引き換えに四課――暴力団担当の人たちがガサ入れしようとしてるぞーとか、麻薬取締官の捜査が来るぞーって情報を教えてあげてたんだ」
「それって身内売ってませんか……」
「それは言わない約束で……」
二人は笑い、しばらく沈黙する。
電車が再び揺れた。
「アザミちゃん、さっき言ってたのって本当?」
「さっきっていつのさっきですか」
「好きで僕に従ってるってやつ」
「………………」
アザミは答えなかった。自分でも実際どうなのかが、分からなかったのだ。
自分が常盤に抱く、この感情は何なのだろうか。義体が持つ、条件付けの忠誠心なのだろうか。それとも本物の感情なのか。
本物の感情だとしても、これは何なのか。
感情の定義付けが、アザミは曖昧だった。
例えばモモは、蔵馬が好きだという。条件付けなどではない、本物の愛だと言う。
何をもってして本物だとか言えるのか皆目見当つかないが、モモはそう豪語していた。
理屈ではなく感覚で分かる物らしい。
そう言われると、確かに感覚としてはネガティブな感情ではない。
ただ、恋愛とか、そういうものでは無いようにも思う。
なら何なのか。
分からない。
分からないから、アザミはこう答えた。
「答える義務がありますか?」