Gunslinger Girl - Birth of Ws - (旧題『あかつきの少女たち Marionetta in Aurora.』) 作:ふじやまさん
今後ともガンスリンガー・ガール二次創作、『あかつきの少女たち Marionetta in Aurora.』をよろしくお願いします。
楊一花(ヤン・イーファ)は住んでいる築半世紀のアパートのボロさに辟易していた。見た目が汚いとかそういう外見的な要因では無く単純に、柱や梁が老朽化して住人の誰かが身動き一つすればアパート全体が軋みをあげる、その建築的安全保障の経年劣化にである。
「………………ぬぁああ…………めちゃ揺れてる……怖い……」
一花はゆらゆら揺れている床に身体を揺さぶられて目を覚ました。ヤニの染み付いた黒い天井が、ギイギイ鳴いて埃を落としている。この激しい揺れは同じ二階の奥に住んでいる爺さんの部屋が震源地だろう。あの辺りは特にガタが来ているらしく、抜き足差し足以外で歩くのは危険なのだが、あの爺さんは何暴れているんだろう。他の住人が言うには寒い冬の日にはシベリア拘留の記憶が甦って暴れることがあるらしいが、このアパートを倒壊させて他の住人も巻き込み集団自殺をする気だろうか。
このまま揺れが収まらないのなら、避難しなければ本当に危ないので身を起こす。だが爺さんはすぐ落ち着いたのか、アパートの振幅は次第に収まって行った。
一花は小顔で童顔な割にまつ毛の長い切れ長の眼をこすり、背中まで届く長髪に一度手櫛をかける。布団の中の肢体はふくよかな体型ではない。しかし痩せ型でもない、全身に程よく筋肉が付いた、アスリートの様な体型の少女だ。
煎餅蒲団の上に落ちた埃を払って、枕元の携帯電話を手に取る。スマートフォンではない、かなり旧式の折り畳み携帯だ。開いた液晶の時計は六時八分を示しており。そして日付は、
「今日で三月か……」
一花が日本に来て、三ヶ月経過していた。
三ヶ月前までは中華人民共和国にいた。
物心が付いてからずっと、山奥の田舎で細々と米だの野菜だのを育てて暮らしていた。吹けば崩れそうな狭いボロ屋で両親と四人の弟の中で鮨詰めになり、学校など行く暇も無く働いた。自分も働かなければ幼い弟達が飢え死にしてしまうし、学校に行っても貧乏を理由で苛められるだろう。ノート一冊にも事欠く家だ。同世代の子達が通っている学校に興味がないと言えば嘘になるが、言っても仕方のないことであると、一花は幼い時から理解していた。
働くことに抵抗がある訳ではない。ただ働いても働いても、生活が上向きになる気配がない。自分のお下がりの、もう裸足と変わらないような靴を履いている末弟に、新しい履物も買ってやれないような生活には嫌気が差していた。
だから一花は十八歳になると、一念発起、もっと稼ぎのいい仕事を探して北京に出た。北京に知り合いなどおらず、仕事の当ても無い。それどころか、一花が都会に行く為の路銀を得る為に畑を少しを抵当に入れて借金しており、もし仕事を見つけて田舎に送金できなければ、家族は食い扶持の一部を失う事になる。一家の生き死にが掛かった賭けだった。都会に行けば、何とかなるかもしれない。もしかしたら、もっといい暮らしが出来るかもしれない。小さな背中からはみ出すほど大きな家族の期待を背負って、一花は出稼ぎに出た。
結果から言えば、仕事は見つからなかった。集合体として完結した閉鎖的な田舎で暮らしてきた彼女と両親は知らない事だったが、中国はすでに人材の飽和状態に入っており、働きたくても働けない人間が北京の中だけでも数多くいるのだ。教育も受けておらず、ひょっこり田舎から出てきた小娘に仕事を回せるほど、北京の街は人に困っていないのである。
もし一花に声を掛ける人間がいるとすれば、それは女としての価値を搾取しようとする輩だけだろう。そういう連中に都会の暗部に引き摺り込まれなかったのは、一花自身が極力避けてきたとは言え、僥倖以外の何物でもない。
ともかく仕事が見つからない。旅費は往路の分しかない。もし働けなければ真っ先に破滅するのは一花自身であった。財布はとっくに空になり、空腹を抱えながら北京をうろうろとしてた。そして北京に出て十日目。雇ってくれる職場を探して街の中を徘徊していると、突然身体から力が抜けて、歩くことが出来なくなった。道路の端に蹲り、ぼんやり街を眺める。北京に出て、これまでの人生で出会った人を遥かに超える人々とすれ違った。今も目の前の大通りを行き交う人の数は、田舎の村の人口を軽く超えるだろう。
この人たちはみんなちゃんと仕事を持って、毎日を生きているのだろう。これだけの人が働けているのに、自分には出来ることが何も無い。
正直、現実舐めてたなと一花は反省していた。
都会に出れば何とかなるなんて幻想を抱くなんて、人生舐めてる。今まで甘い夢など見ないように生きていたのに、自分としたことが一体どうしてしまったのだと言うのか。何に浮かれていたのだろうか。何に縋ろうとしていたのだろうか。このままではホームレスまっしぐらだ。と言うかホームレスになったとしても食っていく手段が無い。……いや、無くは無い。一つだけ、女の自分には最後の手があるにはある。
同年代くらいの、奇麗な服を着た少女の集団が目の前を通り過ぎた。そのうちの一人と目が合う。一花は居た堪れなくなり視線を咄嗟につま先に落とした。感じたことのない内側からくる胸の痛みに耐える。いや、違う。思い返せば今まで何度かこの感覚を得たことがある。しかしそれはいつだっただろうか。
胸の疼痛に思いを馳せようとしてみるが、ぐうと鳴る腹が一花は現実に呼び戻す。
……最終手段は、出来れば使いたくなかった。そんなことをするくらいなら、道端に転がる骸になって犬の餌にでもなりたいと思っていたが、しかし自分が金を稼げないと田舎の弟たちの誰かが飢え死にするかもしれない。それは嫌だ。他妈的……選択肢なんて無いじゃないか……。
もしかしたら。
両親はこうなることが分かっていたのかもしれない。
負感情は負感情を呼び、一花の思考は飛躍する。
弟たちも大きくなって、食べる量が増えてきた。うちの畑から取れる分を上回るのは時間の問題だったろう。畑は増やせない。仕事もない。そうすると、取れる手段は一つだ。食い扶持を減らすしかない。
だから自分が選ばれた。大人だから。女だから。もう一人で生きて行けと、都会に送り出されたのだ。
初めは責任転嫁の現実逃避のつもりが、考えるうちにそれが真実である気がしてくる。
目尻に涙が浮いてきた一花は、街中で見っとも無く泣いたりするのが嫌で、眉間に力を込める。あと瞬き一回で涙が零れそうだった。
耐えろ耐えろ耐えろ。泣いたらもう止まらないぞ。
ほとんど決壊寸前のぼやける視界の中。
泥水を吸ってよく分からない色に汚れたスニーカー、その爪先に一枚の紙切れが引っかかっていた。どこからか風に吹かれて飛ばされてきたのだろう。
いくつか靴跡はあれど、風雨に晒された様子の無い真新しいコピー紙。
無意識のうちに、一花はその紙を手に取っていた。
この紙が一花のこの後の人生を一変させ――そして今に至る。
「起きますか……あー寒い」
一花は一度伸びをして関節をほぐし、布団から立ち上がった。十二月の日本は、一花の田舎がある中国南部では経験したことが無いほど寒い。もう一度布団に潜るか三瞬ほど考えたが、棄却。欲は我慢するためにあるのだ。
真四角、四畳半の隅に布団を畳み、壁に立て掛けておいたちゃぶ台を部屋に真ん中に設置。家具はこの二つだけ。布団は部屋で凍死しかけた翌日に、近所で開かれていたフリーマーケットで運良く三千円で手に入れた。ちゃぶ台は初めからこの部屋にあったものだ。この二つの他には、服や雑具を入れている、実家から持ってきた大きなカバンだけがある。
今日は昼から夕方までマクドナルドのアルバイトが入っている。テスト勉強のため来れなくなった高校生の代わりに出勤だ。日本はいい。仕事がいくらでもある。しかもたくさん働きたいと言えば何故か喜ばれるのだ。
あわよくば食事を恵んで貰えるかもしれないという打算でマクドナルドのアルバイトを選んだが、面接の際に、
『週にどれくらい働けますか?』
『毎日働けまス』
これで一発採用だった。食事にしても、一応会社としては賄いなどは無しの方向らしいのだが、ゴミ箱に捨てられた廃棄品が勿体無かったのでこっそり食べようとしたら、先輩たちに廃棄品をゴミ箱に入る前に手に入れる方法を教えてもらった。今の一花の食事は三食全てがマクドナルドのキッチンから出た廃棄によって賄われている。食費はゼロ。仕事もある。先輩たちはみんな優しい。本当に日本に来て良かった。四畳半風呂無しトイレ共同のこのアパートにしたってオンボロではあるが、ここは支給された部屋なので、家賃は負担しなくていいのだ。雨風は防げるし清潔な水が蛇口を捻れば出てくる。
一花はシンクで顔を洗い、歯を磨く。
バイト先で貰った紙コップに水を注いで、残しておいた廃棄飯と共にちゃぶ台に運んだ。この廃棄飯は昨日のうちに食べ切る様に先輩に言われていたが、昨日が終わってまだ六時間しか経っていないし大丈夫だろう。
パサパサになったバンズとボソボソに油が固まったパティ。常人なら不味いの宣告を迷わず下す、そんな朝食を一花は美味そうに頬張り、しかし流石に飲みこみ難いらしく水で胃に流し込む。
ギイギイギイ、と。
部屋がアパートごと揺れ始めたのは、朝食も佳境。最後の一口を口内に放り込んで咀嚼を開始した時だった。
この揺れ方は、アパートに誰かが入った時の物だ。危険度は少ない。住人の誰かが帰ってきたのだろうと一花は構わず口を動かし続けるが、揺れは止まらず、しかも足音が彼女の部屋に近づいてきている。このアパートの二階には、一花とシベリア爺さんしか住んでいないはずだ。
「…………?」
怪訝顔で廊下の方に首を巡らせたの同時。この部屋の戸が強く叩かれた。
普通なら、早朝の訪問という非常識に憤るところだ。しかし一花は口の中のものを嚥下して立ち上がり、鍵を解いて戸を数センチ開く。部屋の外にいたのは、汚れた作業着を着た金髪オールバックの男だった。手には家電量販店の紙袋がある。
「なんの御用ですカ……?」
「仕事だ」
言って男は紙袋を戸の前に置く。それで要は済んだのか、踵を返してとっとと帰って行った。並みの廃墟よりも耐久度が低そうな建物から早く出ていきたかったのかもしれない。
仕事。一花は舌の上で軽く呟く。とうとう来たか、そんな思いで紙袋を部屋の中に入れた。
これはもちろんアルバイトではない。仕事だ。この部屋とパスポートと日本でのビザを引き換えに、雇い主から与えられた仕事だ。
一花は一家の為に出稼ぎにきた、ただの中国人労働者ではない。彼女にはバイト先の他に、もう一つ雇い主がいる。
中華人民共和国・中国人民解放軍総参謀部第二部――通称情報部。
中国と言う大国の情報を一手に担う諜報組織。それが一花の雇用主だ。
楊一花、十八歳。彼女は中華人民共和国のスパイである。
スパイと一口に言っても、その活動内容は千差万別、多岐に渡る。摩訶不思議なビックリドッキリメカを手繰って敵地に潜入し、機密情報を盗み出す。そんな映画の主人公の様な活躍をするスパイも、いないことはない。色香で異性を惑わし政府高官などを手籠めにするハニートラップを仕掛けるスパイは結構いる。
しかしそういうスパイは全体から見てごく一部。パーセンテージにして1%もいないだろう。そういうスパイのみを使う諜報機関も存在するが、、中国におけるスパイという物はもっと地味な物なのである。有能な人間の他にも大量のスパイが留学生や旅行者、会社員を装って相手国に侵入し、後は適当に日々を過ごす。そうした日常の中で少しずつ情報を集めるのだ。一人一人が集める情報は信憑性が低く、重要な情報が得られることもほとんどない。しかしそれが十、百、千と積み重なっていくにつれて、小さな情報も大きな意味を持つのだ。数千人の人間が虱潰しに情報を収集すると、入ってくる情報と入ってこない情報に偏りが生じてくる。その入ってこない情報こそが、国家が本当に秘密にしたい重要機密なのだ。機密情報の輪郭さえ分かれば、あとは1%の優秀な人材を使ってその部分だけ探ればいい。数に限りがある能力のある人間のリソースを裂かないように、有象無象を大量にばら撒く。こんな人海戦術が使えるのは人間と言う資源が異様に恵まれている中国くらいだろう。
午前九時。朝日が眩しく大気が凍える時間帯だ。
一花は紙袋を下げて歌舞伎町をぶらついていた。
今朝届けられた紙袋には『開封厳禁』とタグが貼られた小箱と、メモが一枚入っているだけだった。
メモには『歌舞伎町』という場所の指定。そして『九時半、電話』という行動の指示と電話番号が書かれているだけだった。何のことか分からないが、とりあえずメモに従って歌舞伎町に赴いた訳だ。
一花もスパイの一員と言えばそうなるが、しかし情報を集めたりはしていない。スパイには1%の優秀な工作員・99%のその他大勢の工作員と言う序列があるが、その下にはスパイ活動の援助をする準工作員という者たちも存在する。一花はその準工作員の更に下っ端という身分であった。
三ケ月前。
一花が北京の街で見つけたコピー用紙。そこに書かれていたのは、役所の短期臨時職員募集の要項だった。
つまり求人広告。しかも公務員の。
それだけが一花の意識に深く沈み込む。道端から立ち上がると、これでダメなら――そもそも学の無い自分には絶対無理だが、とりあえずもう流れるままに身を任せようという、自暴自棄に近い感情で紙に書かれてある住所へ向かった。
役所の受け付けにコピー紙を見せ、別室に通されて大勢の他の受験者に混ざってまるでパズルのような筆記試験を受けた。一応公務員試験のはずだが、何故か風体の小汚い、一花と似たような雰囲気の者が多かった。テストの後、数時間待たされ、そして一花を含める何人かが別室に呼ばれた。そこで身分証明をし、また数時間待った後に合格を言い渡された。
「え」
一花がまさかの合格に思考が停止する。
次いでこの短期臨時職員の募集が、ただの役所職員の求人では無く中国人民解放軍総参謀部第二部の準工作員の選抜試験だと知らされた。
「え?」
一花はよもやの事態に全身の細胞一片に至るまで凍結させる。
これより身柄の一切は中国共産党が預かる者とし、もし規則や命令を違反したりした場合は厳しい罰則があるらしい。厳しい罰則と聞いて死罪をすぐに連想させられるのが中国国民というものだ。状況のデンジャーステージが一気に最上階にまで跳ね上がる。
こうして、一花はその場任せ運任せの自暴自棄に出た結果、晴れて鉄の掟に支配されたスパイの一員になったのであった。
だがこの辺りの事は一花の状況理解のキャパシティ限界と、栄養失調により脳に支障を来し始めたのか何を話されていたのかほとんど記憶にない。気付いた時にはパスポートと就労ビザを用意されて日本行の船に乗せられ、日本に着いたと自覚した時にはトラックに詰め込まれ、そして例のアパートの前に降ろされて当面の生活費として十万円と連絡用の携帯電話を渡され、そのうち仕事をよこすと言い残してトラックは去って行った。
「え!?」
ボロアパートの前でしばし呆然と立ち尽くし、そして日本での生活が始まったのだった。
以降雇い主からの連絡は一切無く、一花はこの三か月を完全にフリーターとして暮らしていた。初めの一か月で日本語を死ぬほど勉強し、資金が尽きる前に辛うじて日常会話が可能なまでには言葉を習得できた。それからはマクドでバイトし、悠々自適、ある意味人生で最も豊かな時間を過ごしていたのだが。
「なんなのかなぁ、これ」
一花は歌舞伎町の一番通りをぶらぶら歩きながら、紙袋の中身を覗く。いくら見ても透視能力がある訳ではないので、そこには小箱があるだけだ。
中身が気にならないことない。しかし中を暴いてみる勇気も無い。イマイチ実感が湧かないが、これも一応スパイ活動の一環らしいのだ。わざわざ開けるなと書いてある物を開けた結果、変な物が入っていて、それを見てしまったが故に抹殺されるなんていう事態もあり得なくは無さそうだ。淑女は危うきに近寄るべからず。もう既に虎穴の最奥まで入ってしまっている気もするが、重ねて寝ている虎の鼻先を突くような真似までする必要はない。
そうして九時三十分きっちり。歌舞伎町一番街ゲート下で一花はメモにあった番号にダイヤルする。
「あのー、もしもし」
『……………………』
ワンコールで出たが、相手はだんまりだ。
妙に威圧感のある沈黙に少し気圧されながら、現状を報告する。
「歌舞伎町にいるんですが、私はどうすればいいですか?」
『……。今から三十分以内に新宿のバッティングセンター横の駐車場に行け』
低い男の声。久しぶりに聞く中国語だ。
『そこに停まっている白いセダンに荷物を届けろ。車のナンバーは――』
男は口早にナンバーを伝えると、通話を切ってしまった。荷物を持ってきた男と言い、この電話の男と言い、ずいぶんと一方的だ。こちらから何か聞く必要はないという事だろうか。
まあ必要ないなら別に構わないし、こちらから聞きたいことも特に無い。変に首を突っ込んで厄介事に巻き込まれるのも嫌だ。自分はまだまだ働いて、実家にお金を送らなければならないのだ。自分を捨てたかもしれない親にお金を送るのに思うところが無い訳ではないが、しかし借りた路銀分は返さなければならない。
ともかく三十分という制限時間が設けられたのだし、早く仕事を終わらせよう。バッティングセンターの場所なら分かる。八時には歌舞伎町に入って、一時間かけて街の主な構造は頭に叩き込んだ。ゲート下からなら歩いて十五分くらいだろうか。
早く終わらせて帰ろう。
廃棄の食糧が今朝で尽きたので、バイトに行く前に廃棄を詰め込む容器を取りに家に帰らなければならない。その時間を考慮すると、出来れば十時ごろには歌舞伎町から出ていたいところなのだ。
迷いなく道を進み、一花はバッティングセンターに到着する。その隣にあるコインパーキングには十数台、多様な自動車が置かれていた。白のセダンもいくつかある。
駐車場に入り、ナンバーを確認しながらぐるりと巡る。
「あった」
半ばほど回った駐車場の隅に、指定されたナンバーの車があった。
ナンバープレートからフロントガラスへ視線を上げると、中にいた男たちとバッチリ目があった。前座席に二人。後部座席に一人。とろりと今にも溶けて零れそうな、死魚のような嫌な目の連中だ。
気まずさから一花はぎこちない笑みを浮かべて、手の紙袋を掲げる。
運転席にいた男が小さく手招きし、それに従い運転席の窓に一花は寄って行く。
「これ、お届け物です」
半分ほど開けられた窓から紙袋を渡す。運転席の男は受け取りそのまま後部座席に紙袋を回した。後ろの男が小箱を取りだし、開封。中身は一花からは見えなかったが、彼らの望むものが入っていたらしい。頷きを見せると、セダンはエンジンを唸らせて車輪を転がし、駐車場から出て行った。
一分ほどの出来事だっただろうか。
随分と呆気ない仕事の完了だった。
「……まあいっか。帰ろ帰ろ」
一花は仕事の余韻も減ったくれも無い変な空気に肩をすくめ、駐車場から出て行った。
よく分からないスパイの仕事よりも、ご飯とお金が手に入るアルバイトの事を考えよう。今日はどんな廃棄があるだろうか、野菜がいっぱいあるといいな、などと食卓のことで頭がいっぱいで一花は気が付かなかった。
仕事が始まるのが突然で、仕事が終わるのも行き成りで。人生が変わるのはいつも急だ。
人の一生は不意の連続だ。
だから彼女の日本での三ヶ月。これも終わった。唐突に。
楊一花は厚木の街を逃げ回っていた。
街路を走り路地を走り、道とは呼べないような建物と建物の隙間を縫って全力疾走していた。
後ろの様子を確認すると、あのメスガキとっ捕まえてぶち殺してやる、という気概に溢れた怖い顔の男たちが十数メートルの後方で追ってきている。絶対に追い付かれるわけにはいかない。捕まったら最後、どんな結末が待っているのか考えたくも無い。
「待てやオイコラァ!」
前方からドスの効いた声が聞こえる。
回り込まれた? 一花は体の向きを急転させて再びビルの隙間に入る。
「はひっ……ひっ……」
生まれてこの方山奥で畑仕事ばっかりしてきたお陰で培った体力と健脚で、何とか大人の男から逃げおおせているが、そろそろ心肺の限界だ。胸が苦しい。心臓が痛い。
立ち止まりたいが、逃げても逃げても後ろの連中を引き離せない。
一体何ですか。何が起こってるんですか。
混乱と酸欠で思考が乱れ始めるが、とにかく現状の打破には現状の理解だ。
一花は歯を食いしばりながら考える。
この逃走劇が開始して約十分。事態の開始から言えば四十八分前になる。
午後十五時過ぎ。一花はバイト先の本厚木のマクドナルドにいた。
歌舞伎町から家に戻り、廃棄品回収用のタッパーを携えての出勤である。今日は高校生のヘルプで入っただけなのでもうすぐ上がりだ。
平日の午後、放課後の学生が客層としては多い時間帯。学生はジュースや単品の注文が多いので仕事が楽だ。
賑やかに友人同士でポテトを突きながら談笑に耽る学生たち。自分とそう歳の変わらない青春を満喫している学生たちを横目に、一花はレジに並ぶ客列を捌いていく。オーダーをキッチンに回し、そしてキッチンから来た商品を客に渡す。こんな単純作業を繰り返すだけでお金と食糧が手に入るなんて、マクドナルドは本当に最高だ。一生マクドの店員でいたい。
「いらっしゃいまセー、店内でお召し上がりでしょうカー?」
学生グループが掃け、次の客にマニュアルのセリフで対応する。
現れたのは、変な息が漏れそうになるほど美しい女の子だった。このファーストフード店の雰囲気とは完全に乖離している、ある種の非俗世的な空気を放っている。しかし少女は妙に人間臭い壊れたゼンマイ人形みたいな緊張した動きでカクカク頷き、
「えっと……」
一世一代の賭けに出た博徒の如き真剣な面持ちで考え込み始めた。待っている間、一花はメニューを眺める少女の顔をじっくり観察する。真っ黒さらさらな艶髪と雪のような白肌のコントラストが印象的だ。顔の造形も女としての理想形と言っていい。田舎から出てきて様々な人間を見てきたが、これほどまでに美しい女の子は初めて見た。同じ女として羨望やら嫉妬すら起きる気がしない。生物としてのステージが違う。
少女はオーダーを決めたらしい。カウンターのメニュー表から一花へ視線を上げ、
「これと、これと、これと、これ、あとこれも全部ください」
三人前の注文を寄越してきた。女性にしては高めの身長だが、一見細身のこの少女が食べ切れるのだろうか。
「えと、全部ですカ? 多いですヨ?」
一応確認する。
「大丈夫です。よろしくお願いします」
少女は汚泥の溜まった水溜りを、魚も住めなくなるほど綺麗な泉に浄化してしまいそうなくらいに良い笑顔で頷く。そんな顔で言われたらこちらも何も言えない。差し出された綺麗に折りたたまれた五千円札で会計を済ませ、キッチンにオーダーを通す。
店の奥から出てきた三人前の食事が乗ったトレイを少女に渡して一礼。少女はスキップでもし始めそうな程嬉しそうに客席へ消えて行った。
あれくらいの美人になると食べる量も違うんだなあと一人心地ながら、一花は次の客へ向き直る。
少女の後ろのいたのはザ・野獣と称するに相応しい、怒りに狂った猛牛の生首を乗せているのかと錯覚するほど恐ろしい顔をした男だった。顔の形がとかそういうレベルではない。明らかに表情筋を威嚇の形に動かしている。一花に向かって。
「い、いらっしゃいまセー……?」
「嬢ちゃん、中国人か」
野獣男は怒気満載の声色で、一花の胸の名札を見下ろす。
「てってて店内でお召し上がりでしょうカー?」
とりあえずマニュアルに従うが、男がただのお客さんで無い事は分かりきっている。どう見てもハンバーガーでは無く一花個人に用がある人だ。一花には分かる。何故なら男はスマートフォンをカウンターの上に置いて、その画面に映る『歌舞伎町の駐車場から出てくる女の写真』と自分を見比べているからだ。写真の女には見覚えがある。さっきも更衣室の鏡で見た。いやいや目の錯覚だ。違う違う。あれは私ではない。違う違う。
一花は目を写真から放してどことなく視線を泳がせる。
「これお前だな?」
スマートフォンを突きだされた。遊泳させていた視界が反射で写真を映す。
間違いなく自分だ。
「おおおおきゃおきゃお客さマー……?」
嫌な汗が全身から吹き出てくるのが分かる。
これは、やばい案件だ。スパイ関係のやばい案件だ。
汗が顎を伝ってぽとぽとカウンターに落ちる。
こういう場合、どうすればいいのだろう。すっとぼけるのが正解なのか、それとも認めてしまった方がいいのか。何も聞かされていない。ただ与えられた仕事をするようにとしか言われてない。問題が起こった場合は自己責任という事だろう。ただ下手な回答を選んだ場合、この場をやり過ごしても後で雇い主の方から罰則を食らう可能性だってある。最悪殺される、たぶん。選ぶなら出来るだけ生命の危機が少ない方を選ぶべきだ。ここは知らぬ存ぜぬで行こう。
行動のベクトルを決めた一花は力強く首を振る。全力の否定だ。
「違いまス!」
「…………。本当か?」
「本当です、本当ですヨ……ヘヘヘ」
下手な作り笑いを見せてみる。誤魔化すにはとりあえず笑顔だ。
男は一花の汗だくの顔面を隅々まで観察した後、スマートフォンを仕舞った。
「そうか。それは邪魔をしたな」
「あ、いえいえいえ、お気になさらズ!」
とりあえずこの場は収まりそうな雰囲気だ。
安堵で汗が少し引いて行くが、男の指がカウンターのメニュー表にあるビックマックを差した。
「これとコーヒー」
帰ってはくれないらしい。一花は緊張で凝り固まってしまった作り笑顔に涙を浮かべてオーダーを通し、商品を差し出す。
男が客席へ向かうのと同時に、一花は同僚にお手洗いに行く旨を告げてレジを離れた。店の裏側にあるスタッフ用のトイレに飛び込んで、鍵を閉め、ガハっと肺の底部に溜まっていた息を吐き出した。
「どっ、どどどどどどどうすれば!?」
頭を抱えて自問する。当然答えは出ない。とりあえず知らんと答えた物の、写真に写っていたのはどう見ても自分だ。あの男だって気付いているだろう。あれ以上レジの前で粘れば他の店員が出てくる可能性があったから引いたに過ぎない。明らかに自分を狙ってカマを掛けに来ていた。向こうからすれば生簀にいる魚を相手に釣りしている気分だったろう。
「やばい、やばいよー!」
このまま逃げるか。店には多大な迷惑が掛かる。恐らくクビになる。だがしかし、男が居座った店内にこのまま立ち続ける度胸は無い。もう一度接触される前に逃げた方がいい。そうと決めたら即行動だ。皆様バックれる非礼をお許しください。
一花は内心で店のみんなに謝りながら、こっそり忍び足でトイレから更衣室へ移動する。音を極力立てないように制服からパーカーとジーンズに着替え、ウインドブレーカーを羽織って更衣室から裏口へ回り込む。最後にチラリと店の方を窺うと、店の外に人相の悪い男たちが店内を覗き込んでいるのが見えた。増えてる。
やはりこれは逃げが正解だ。
一花は足早に裏口へ進む。途中でマネージャーに見つかったが、もう足を止めて謝っている余裕は無さそうだ。
「ごめんなさイ!」
一花は謝罪と共に裏口の寂れた戸からビルの隙間に飛び出した。
そこにも怖い顔の男が二人待ち構えていた。
「あ」
エマージェンシーアラームが一花の脳内でうるさく響くが、身体が反応出来ない。殺鼠剤を撒かれて巣穴から飛び出したら猫が目の前にいたネズミは、きっとこんな感じなんだろうなと一花は呑気に考えていた。
固まる一花だが、一方で男たちもいきなり一花が出てくるのは予想外だったらしい。
互いにポカンとした顔で見合っていたが、ほんの一瞬一花の方が現実に帰ってくるのが早かった。
サイドを固める男の右側を突き飛ばして、一花は必死の逃走を開始した。
そして十分後。
一花は未だに厚木を走り回っている。
現状の確認をしてみたはいいが、やはりと解決案は浮かばなかった。とにかく逃げるしかない。
もう一度振り返ると、追ってくる男は五名。揃いも揃って暴力を生業にしているのがモロ分かりな風体だ。しかもさっきはいなかった野獣男が混じっていた。こうして見ると本当に牛みたいだ。牛に追いかけられるってこんなに怖かったのか。
これは捕まったら殺される。
恐怖で涙が止まらない。鼻水もちょっと出てる。
一花は肩で息をしながら生への渇望を主動力にして走る。
とりあえず人のいない裏路地から表に出よう。
そう判断して、路を曲がって表通りに出た。
後ろに注意を払いながらの折走、曲がった先にあった障害物に一花は気付けなかった。
「あうぁっ!」
「アイヤァ!」
「うわわっ!」
そこにいたのは二人の少女。見事なまでに正面衝突だった。
それぞれが悲鳴を上げて道路に転げる。地面に顔から突っ込んだ一花は目を閉じて痛みと衝撃に備えるが、しかし来たのは柔らかい感触だった。
「んえ?」
起き上がると、不細工なカエルのぬいぐるみが転がっていた。これがクッションになってくれたらしい。自分のものでは無いから少女たちの持ち物だろう。感謝で拝み倒したい気持ちになるが、今はそれどころではない。とにかく少女たち謝って立ち上がろうとするが、それより早くぶつかった少女の一人が猫の様な体捌きで跳ね起きると、連れの少女の手を引いて立ち上がらせ、
「ごめんなさい!」
叫ぶように言って、再び駆け出して行った。次いで男の集団が一花を跳び越えていく。彼女らを追っているらしい。
「今の子……」
宙に流れる長い黒髪。さっき店にいた美少女だ。何故、という疑問が浮かぶが一花自身それどころではない。こっちはこっちで追われているのだ。捨て置かれたぬいぐるみを咄嗟に引っ掴んで、一花は逃走を再開した。
追手を寸でのところで躱し、脚を回転させる。
今の衝突で頭が冷えたのか、一つの案を思いついた。警察へ行こう。今思えば何故すぐにそうしなかったのかと自分を疑いたくなる。
ここからなら厚木警察署が一番近い。
一花は足を北に向けて走る。
表通りからまた裏路地に入り、また表に戻りを繰り返して、出来るだけ直線で走らないように気を配りながら走る。
繁華街から遠ざかり、ビルと住宅が並ぶ閑静な地区に入った。前も後ろも人気が無い。
「痛っ……」
突如右足首から疼痛が響いた。さっきの転倒と、度重なる右往左往による負荷で痛めてしまったのだろう。一歩踏み出すたびに痛みは大きくなる。
だがここで走りを止めるわけにはいかない。警察署まで直線だとあと三ブロック程なのだ。しかし後ろの連中との距離が詰まってきた。このまままっすぐ走ると追い付かれる。
一花は距離を放そうと路地を曲がろうとする。が、足首が今までにないほどの激痛を発した。全身から力が抜ける、稼働限界を告げる痛みだった。
「痛……うひっ!」
バランスを崩した身体。傾く全身を持ちなおそうとするが、上手く踏ん張れず、また転倒してしまった。速度が乗っていたためにコンクリートの地面を跳ねて転がり、電柱に背中をぶつける。肺の空気が叩き出され、痛みで呼吸が出来ない。立ち上がりたいが、身体は自然と蹲りの体勢になってしまう。
立て、一花。このままだと追い付かれるぞ、警察署まであと少しじゃないか。
そう自分を鼓舞してみるが、肉体的な限界が精神を凌駕して動けない。
痛めた足が痛い。
打った背中が痛い。
肺が痛い。
心臓が痛い。
全身が痛い。
「う、ぐ、ぐ……」
這ってでも動こうとしてみるが、四肢の筋肉が痙攣して思い通りにならない。
「やっと止まったか……すばしっこいクソガキが……!」
頭上から声がする。荒い息の男の声。初めに一花と接触したあの男の物だ。
面を上げると、追いかけてきていた男たち五人全員が、一花を囲む様にして見下ろしていた。
終わった。これは逃げられない。
「は、ははは」
一花は乾いた笑いを喉から漏らしながら、最後の抵抗を試みる。
「はは……あの、私に何か御用ですカ……?」
危険な香りがしたから逃げてみたが、そもそも彼らが危害を加えるつもりでいるのかどうかはまだ未確認だ。もしかしたら、対話が可能かもしれない。
そんな希望を踏み砕く、野獣男の蹴りが一花の腹に打ち込まれた。
「っ……!」
苦痛に腹を押さえる一花の胸倉を掴んで無理矢理立たせ、電柱に押し付ける。喉元を強く絞められ、息が出来ない。
そして鼻息が掛かる距離に顔を近づけ、唸るようにして言った。
「逃げといて用も糞もねえだろ……! 自分が何したか分かってるから逃げたんだろ? あ?」
「し、知らな……ぐっ」
顔面を殴られた。口の中に鉄の味が広がる。
「佐鹿さん、こいつどうするんですか?」
周りの男の一人が声をかける。野獣男は佐鹿と言うらしい。
「殺す」
佐鹿は一言で返す。
「ひえっ!?」
殺される殺されると勝手に怯えてはいたが、いざ相手にそう宣告されると脊髄に冷水を流し込まれるような恐怖が全身に染み込んでいく。
筋肉の痙攣ではない。目の前に現れた死への恐れで手足が震える。
「あ、あの……私本当に何も知らないんでス……私が何をしたんですカ……?」
「お前うちのシマでクスリ売っただろうが! 何しらばっくれてんだ!」
「クスリ……!?」
身に覚えが……ある。今朝届けた小箱。あれにはクスリ――麻薬が入っていたのだ。つまり情報部が寄越した仕事というのは、麻薬の運び屋だ。そして、それを歌舞伎町の麻薬売買を取り仕切っている人たち、要するにヤクザに見つかったのだ。どうして諜報組織が麻薬密売などをしているのか? どうして自分にそんな仕事をさせたのだろう? いや、そんな疑問は今は重要ではない。それよりもこの場を何とか切り抜けなければ。事情がどうあれ相手がヤクザで私はシマを荒らした密売人。このままでは本当に殺される。
「あの、あの……私はあれを運ぶように言われただけデ……中身が麻薬だなんて知らなくテ……!」
「関係ない。見せしめに死んでもらう。だいたい俺は中国人が嫌いなんだよ」
関係ないらしかった。見せしめになるらしかった。死んでもらうらしかった。しかも中国人が嫌いらしかった。
関係ないと言われたら、もうどうすることも出来ないではないか。
全身がすっと冷たくなるのを感じた。血液から温度が無くなってしまったみたいだ。
奥歯がガチガチ鳴る。小便も少し漏れた。
「おい、早く車回せ。こいつが逃げ回ったせいでやたらに目立っちまった。もうすぐサツの連中が来るぞ」
「もう呼んでいます。あと二分ほどで着くそうです」
あと二分。それを過ぎればもう生存の望みは無い。
一花は力を振り絞ってもがいた。
胸倉にある佐鹿の手を引き剥がそうにも、掴むその指は万力のような硬い。
佐鹿の身体を蹴ってみても、まるで大樹を相手にしているかのように微動だにしない。
声を出して助けを求めようにも、喉元を押さえられて大声が出ない。
通行人に助けを乞おうにも、この路地に入ろうとした人間は車も歩行者も近隣住人も皆、一花たちを見て引き返して行く。誰かがひどい目にあっているみたいだが、厄介事に巻き込まれたくない。そんな心理が見え見えだった。
「うっ……うっ……」
涙を流し、嗚咽を溢す。
「私は…………」
死にたくない。
「こんなところで…………」
死にたくない。
「放して……放せよぉ……!」
死ぬのが恐ろしい。生きていたい。
生きて、私は、幸せになりたい。
何故田舎を出ようと思ったのか。死を目の前にした今になって分かった。
両親とか弟とか関係ない。自分のためだ。
自分は幸せになりたかったのだ。
貧しい生活の中で、自分の人生はこんなものだと諦めていた。
諦めなければ、生きているのが辛いのだ。
だから諦め、平気そうな顔をして朝から晩まで働いた。
でも本当は、学校に行ける近所の子達が羨ましかった。
おしゃれが出来る同年代の女の子たちが羨ましかった。
当然のように青春を謳歌出来る日本人が羨ましかった。
羨ましさを感じる度に、胸がきゅっと痛くなった。
だから、人生を変えられるかもしれないという期待と願望を都会と言う幻想に託したのだ。口減らしだとかは関係ない。都会に行くと決めたのは自分だ。人生を変えたかったから。幸せになりたかったから。だから故郷を出ようと思ったのだ。
確かに人生は変わった。劇的に変わった。
でも、私はまだ、幸せになってない!
こんな訳のわからない事に巻き込まれて死ねない。死にたくない。
――ポコリ、と。
一花はずっと手に持っていたカエルのぬいぐるみで、佐鹿の頭を叩いた。
ダメージ何て与えられるはずもない。ただ鬱陶しいだけの、抵抗にもならない悪足掻きだった。
それでも、ポコリ、ポコリとぬいぐるみで叩き続ける。
これしか出来ないから。もうこれしか出来ることが無いから。意味がないと分かっていても、諦めて大人しく殺されるのを待つことだけは絶対に嫌だった。
「往生際の悪い……!」
額に青筋を立てた佐鹿が、一花を黙らせようと拳を振り上げる。
その時。
自動車のクラクションが響いた。
それは一花の命の灯の時間切れを知らせる音――では無かった。
「早かったな――ん?」
佐鹿は近づいてくる自動車を見て、そして怪訝そうな顔になる。この車は彼らが呼んだものでは無いらしい。
自動車に疎い一花に、その車名までは分からない。
この車の名はホンダ・ヴェゼル。
運転席にいるのは黒いスーツを着た、右こめかみに傷のある青年だった。
この道を通りたいのに男が大勢寄り集まって道を塞いでる。それが邪魔で仕方がないといった表情で、再びクラクションを鳴らした。
「急いでるんだ。どけ」
窓から顔を出して、青年は迷惑そうに言う。
「別の道を通れ!」
一花にぬいぐるみで殴られていた佐鹿は、非常に機嫌が悪い。
いつもなら厄介事を避けるために道を開けるところだが、今日はクラクションを鳴らし続けるヴェゼルに怒鳴り声を上げた。
人生はいつも唐突だ。それを一花はたった一日で学んだが、これは誰にでも当て嵌まることである。
いつもと違うことをする。それは十分に唐突を呼び寄せる引き金になりうる。
ヴェゼルに乗っていた青年は、佐鹿の物言いが琴線に触れたらしい。眉間に皺を寄せて車から降りてきた。どう見ても堅気ではない連中相手にどういうつもりだろうか。
一花は青年の正気を疑いたくなった。ほんの数秒前まで誰か助けてくれと思っていたが、いざその誰かが現れると、どう考えても自殺行為をしようとしている青年に逃げてくれと願ってしまう。
佐鹿たちは見せしめと言う理由で簡単に殺人をしようとする連中だ。自分と一緒に惨い目にあってしまうかもしれない。関係ない人間が巻き込まれるのは、やっぱり嫌だ。
「逃げテ……!」
青年にそう言うのと同時に、佐鹿の拳が一花の下腹にめり込んだ。胸倉を放され、地面に崩れ落ちた一花は刺すような痛みに悶えて動けない。
「お前は黙ってろ……それで兄さん、車から降りて何の用だ。早くどっか行け、ぶち殺」
佐鹿が言い終わる前に、青年の前蹴りがその顎を貫いた。一撃で意識を失った佐鹿は白目をむいて地面に倒れる。
兄貴分が顔を蹴られて伸びてしまい、ヤクザたちは一瞬黙りこくるが、すぐに頭に血を上らせる。雄叫びをあげながら青年に襲いかかった。
心配そうに、申し訳なさそうに、蹲りながら彼らの様子を見ていた一花。だが青年の身を案じる気持ちはすぐに無くなってしまった。
青年が強すぎたのだ。
ヤクザに強烈な拳を食らわせ蹴りを浴びせ、掴まれたらぶん投げる。地に伏す男たちの頭や腹を容赦なく踏みつける。倒れた相手を無理矢理義引き起こしたかと思えば顔面を思い切り壁に叩き付ける。全員が半殺し一歩手前の状態にまで痛めつけられ、一分もしないうちに道路端に蹴り転がされていた。
「大丈夫か?」
事が済んで、青年は一花に歩み寄ってきた。
何もかもが唐突すぎる。一花はここ数か月で何度目かになる現状把握キャパシティの限界点に到達して、よく分からないままカクカク頷く。
「だだだ大丈夫です」
「そうか。あまり大丈夫そうには見えないが……とりあえず涙と洟を拭け」
つい中国語で返答してしまうが、青年は一花に合わせて同じ言語で返してきた。
懐かしい。今朝電話で聞いたはずなのに、そう感じる言葉だった。
青年がスーツのポケットから上等そうなハンカチを出した。一花は受け取ったハンカチで顔をごしごし擦る。
「立てるか?」
「はい……痛っ」
「っと、足首痛めてるな。こっちに来い」
青年は一花に肩を貸し、自分の車のボンネットまで運ぶ。そこに一花を腰掛けさせ、車内から軟膏と錠剤、未開封のミネラルウォーターのペットボトルを持ってきた。
「湿布と鎮痛剤だ。悪いがこっちも急いでてな。病院まで運んでやれないが、それで少しはマシになるだろう」
「あ、ありがとうございます……」
一花はボンネットから離れて、車に戻った青年に頭を下げる。
淡い微笑で手を掲げ、青年は車を走らせ去って行った。フルスロットル、アクセルを限界まで踏み込んでいるかのような凄まじい勢いでの去り方だった。
タイヤの焦げる臭いを嗅ぎながら、手の中の湿布と飲み薬と水と、ハンカチを見下ろす。
ハンカチ返し忘れた。追いかけようにも、もうどこに行ったか分からない。
あとに残された、轍と気絶するヤクザと自分。
「……とりあえず逃げよう!」
一花は片足で移動を再開する。鎮痛剤を水で流し込み、そしてもう一口水を喉に流し込む。
汗と涙とその他諸々で水分を失った体には、たまらなく美味しかった。
陽もすっかり落ちた頃。
一花は何とかボロアパートに帰ってこれた。
あの後。ヤクザが呼んだ車と入れ違いに近い形で現場を去った一花は、なんとか厚木警察署にたどり着き、そこでトイレを借りるフリをしてしばらく避難した。そして署内が騒がしくなったのを確認してから、周囲に細心の注意を払いながら帰宅した。これほど後ろを警戒しながら移動したことなど無かった。本来スパイ活動をするなら、これくらいの心構えでないといけないのだろう。
一花は湿布と鎮痛剤のお陰で、なんとか歩けるようになった。階段をゆっくり登って、自分の部屋に。
「………………ん?」
おかしい。無人のはずの自室から物音がする。
ギイギイとアパートの壁が軋んでいる。誰かが、自分の部屋にいる。
一花の警戒レベルがマックスになり、そっと戸に耳を当てる。
まさか、この部屋にまでヤクザの連中が現れたのだろうか。可能性としては当然あり得ることだ。もし連中ならば、早急にここから立ち去らなければならない。
だがしかし、この部屋には全財産がある。出来れば回収したい。
一花は耳に全神経を集中させて室内の音を拾う。かすかに声が聞こえる。一人分の、男の声。
これは……中国語だ。
一花は部屋の戸を開ける。
貧相な格好をした中年の男が一花の布団に寝っ転がっていた。
「な、何だ?」
「何だはこっちのセリフです」
二人の間に交わされた言葉は中国語。恐らく彼は情報部絡みの人間だろう。人の部屋に勝手に入って、人の布団で勝手に寝て、しかも人の荷物が入ったカバンを漁った様子まである。下着がご丁寧にちゃぶ台の上に並べられていた。
「誰ですかあなた」
「誰って……この部屋の住人だよ……。中国語話せるって事は、工作員の人?」
「え……は? ちょっと待ってくださいね」
この部屋の住人は間違いなく自分である。今朝までこの部屋で寝起きしていたし、自分の荷物もちゃんとある。なのに何故知らないおじさんが部屋の居住権を主張しているのだ。
工作員という単語が出てくるという事は、このおじさんも情報部と無関係の人間ではあるまい。つまり本国の差し金か。説明を乞いたい。でなければ自分は住む場所を失うか、あるいはこのおじさんと同居しなければならなくなる。人の下着を並べて鑑賞する人とは出来れば同じ屋根の下で過ごしたくはない。
一花は懐から携帯電話を取り出す。ここにはマクドナルドの番号ともう一つ。今朝の仕事で連絡を入れた番号が入っている。
今まで情報部への連絡手段は無かった。しかし今はこれがある。繋がるか分からないが、これ以外に取れる手は無い。
一花はその番号にリダイヤルを掛けた。
着信拒否されていた。
「…………」
電話を耳から放して、しばし沈黙。
どうしよう。ていうかどうしようもないのではないか。
先ほどとは違いあっさり諦めムードに入った一花は、部屋の中から彼女を見つめるおじさんと目がある。
「あなた、中国から来た準工作員ですか?」
「え、うん。そうだけど……」
「なら、携帯電話、渡されてないですか?」
「携帯? 渡されてるけど」
「貸してください」
一花は土足のまま部屋に入り、中年男が持っていたい携帯電話をぶん取った。
このおじさんの携帯電話なら、あるいは……。
新品の携帯で番号を入力する。
今度はコールが鳴った。
朝とは違ってなかなか相手は出てこない。そして八コール目で、ブツリと異音。受話器を取った音だ。
『誰だ?』
電波の向こうから聞こえたのは、今朝の男の声だった。
「楊一花です」
『なぜこの番号を知っている』
「あなた方が私に教えてくれたんでしょう」
『何を言って……ちょっと待て。楊一花と言ったか』
「言いました」
男は言葉を中断し、受話器から息を吹き付けるような音がする。これは笑っているのだろうか。
『そうか、お前生きて帰れたのか。なるほどな』
「生きて帰れたって……どういうことですか!?」
『ふ、まあいい。……面白いから特別に教えてやる。余興だ。お前は、そうだな……言ってしまえば捨て駒だ』
「………………はい?」
『準工作員にも色々な使い道があって、用途によってリクルートする人間は変わる。お前は、生贄が必要な時に使う用の準工作員だ。死刑の身代わりとか大怪我を負った工作員の為の臓器移植とか見せしめのための人身御供とか、そういう人命が必要な時に消費される用の、ようするに家畜だ。お前らは十万そこらの現金と就労ビザと日本への渡航費だけで手に入る、安く消費される命なんだよ。理解したか?』
「………………………」
『お前は今日“消費”された。楊一花、確か日本のヤクザのシマにヤクを持って行ってたな。あそこは中華マフィアが手を出さないと取り決められた不可侵地帯だ。そこにヤクを持って行った中国人のお前は、中華マフィアの売人だと思われるだろう。そう思われるように情報を流した。これで最近癒着し始めていた日本のヤクザと中華マフィアはまた仲違いするだろう。これは我々にとって大きな利益となる。君のお陰だ、ありがとう楊一花。お前はこのゴロツキ同士のどうしようもない戦争の引き金となるべく、出来るだけ早くぶち殺されてくれ。大丈夫だ。どんな惨たらしい拷問死でも輪姦された挙句の窒息死でも、田舎の親父さんたちには交通事故で死んだと伝えてやる。まあ精々頑張って余生を楽しめ。じゃあな』
言うだけ言って、男は通話を切ってしまった。
「……………………………………」
かけ直す気力もない。もはや怒りも湧かない。
一花は携帯をおじさんに投げて返し、机の上の下着を引っ掴んでカバンに押し込んだ。
この部屋は、連中の言うところの家畜小屋なのだろう。代々、命を消費するためだけに飼われた人々がここに住んで、そして忽然といなくなる。家畜が屠殺されると、また新しい家畜が連れて来られるのだ。部屋に初めからあったちゃぶ台は、そんな家畜のうちの一人が遺したものだったのだろう。
一花はシンクの下にある収納棚を開く。空っぽの棚の上面には封筒が隠すように張り付けられており、そこには一花が今まで貯めて全資産が収められていた。
その封筒を棚から千切り取り、懐深くに大事に仕舞ってカバンを背負う。
「よし」
これで準備完了。
家畜小屋からも、ヤクザからも、情報部からも、逃げ出してやる。
逃げて逃げて逃げて、絶対に生き残ってやる。
一花はこれまで過ごしたアパートの一室から一歩、痛めた方の足で踏み出す。
そして振り返り、唖然としている中年男に言った。
「おじさんも逃げた方がいいよ?」