Gunslinger Girl - Birth of Ws - (旧題『あかつきの少女たち Marionetta in Aurora.』)   作:ふじやまさん

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第17話

 夜の大阪は闇が入り込む余地など無く明るい。煙草の吸殻や、吐瀉物の跡や、側溝から溢れた汚水で汚れた薄黒い地面は行き交う幾万の雑踏に踏み暖められ、街にひしめく人々は白い息を吐きながらも、頬を上気させていた。東京の都心部にある様な小奇麗さは無いが、しかし汚れた街特有の饐えた臭いも、体に纏わりつくような粘ついた空気も無い。寒さの中にも耐えずに燃える熱気が、この街にはあった。

 

 都心部から少し北に軸を移した場所にあるビジネスホテル街。蔵馬たちは、玉石混淆する宿泊施設の中でも一際質素な、表の看板が無ければただのテナントビルにしか見えない古びたビジネスホテルにいた。

 

 照明が切られた暗い部屋。固いベッドの他には小さなブラウン管テレビと異音のする冷蔵庫があるだけの、寝る以外の使用用途は想定されていないであろう狭いツインルーム。陰気な薄灰色の壁紙と恐ろしく趣味の悪い赤紫色のカーテンに囲まれた部屋には、煙草の臭いに混じって、かすかに消毒液と血の香りが残留していた。

 

 ベッド脇のサイドボードには、消毒液や薬品の詰め込まれたタブレットケースが散在している。部屋の隅にあるゴミ箱の中には、血で汚れたガーゼやタオルが放り込まれていた。モモの応急処置の残骸だ。

 

 傷の治療を受けたモモは、すうすう静かな寝息を立てていた。ほとんど沈まない安物のベッドに横たわる姿は下着一枚で、腹や大腿に包帯が巻かれ、細い腕には点滴が刺されている。そこから伸びるチューブは、カランビットナイフで壁に縫い止められた輸血パックに繋がる。輸血パックには、本来なら必ず明記されているはずの血液型を示すラベルが貼られていなかった。

 

 そして眠る少女のすぐ隣。ジャケットとベッドに放り、ワイシャツを腕まくりしたままの姿で、蔵馬は残ったベッドに腰掛けて、冷蔵庫の異音とエアコンの動作音が余計に際立てる静寂の中、STANAGマガジンに弾薬を黙々と詰め込んでいた。口にある煙草は咥えられているだけなのだろう。煙は真っ直ぐ真上に上がり、口元近くにまで燃えた火の尻には、長い葉灰が伸びている。

 

 ドアノブを回す音がする。蔵馬は我に返ったように弾倉から視線を上げ、煙草が燃え尽きかけていることに気付いた。灰をベッドに落とさないよう器用に、部屋に備え付けられていた灰皿に短くなった煙草を捨てる。

 

「明かりくらい点けたらどうだい?」

 

 部屋に入ってきた常盤は照明のスイッチに手を伸ばすが、

 

「モモが寝てる」

 

 蔵馬の皺嗄れた声に手を止めた。

 

「具合はどうだい?」

 

「目が覚めない事には確かな事は言えんが……身体の方は大丈夫だ。腹も内臓は逸れていた。失血もあれがあれば、しばらくは問題ないそうだ」

 

 蔵馬はソフトケースから抜いた新しい煙草で、壁の輸血パックを指す。

 

「アザミに礼を言わなきゃな」

 

「直接輸血が可能だなんて、つくづく便利な身体だよね。感心するよ」

 

 常盤は感心というよりは、呆れた風にも見れる表情で笑う。

 今モモに輸血されている血液は、アザミから抜いた血液だった。医学的には禁忌に近い直接輸血だが、義体の身体には成分が人為的に調整された、ほとんど人工血液に近い代物が流れている。よって感染症や拒絶反応の危険性は低い。

 

 この血液は当然体内では生成が出来ず、逆に自然に造血される本物の血液は、義体にとっては蓄積する老廃物に近い。その為、義体は定期メンテナンスの際に血液を一度全て抜かれ、研究所で造られた血液を新たに注入され直される。

 

 血液型の垣根を超えるには至らないが、型が同じで、かつメンテナンスから数日以内あればほぼ問題なく交換が出来るのだ。アザミがメンテナンスを受けたのは大阪に来る直前である2日前。拒絶反応を起こす可能性は無いに等しいと、義体技師の正木から太鼓判を押されている。

 

「血液型が同じで運が良かった。他の三人だったら、塩水流し込むしかなかったな」

 

「人間用の輸血は使えないしね。ともかく、大丈夫そうで良かったよ」

 

 常盤は自分も煙草を取り出して唇に咥え、ライターが無い事に気付く。

 

「あ。蔵馬君、火貸してもらえる?」

 

「ん」

 

 蔵馬は自分の煙草を点して、愛用の古びたライターを差し出す。受け取った常盤は代わりに手に持っていた新聞を蔵馬に投げ寄越した。

 

「何だ」

 

「今日の夕刊。新幹線でのゴタゴタ、上手い事処理されてるよ」

 

 蔵馬は新聞紙を開いて、ざっと目を通す。件の記事は一面の隅、警察のSAT増強や首相の国防政策に重きを置く国会発言などの、大衆の目を引く記事に混じって、目立ちも陰に隠れもせずに載せられていた。こういう載せ方が一番人の記憶に残らない。

 

「……暴力団同士の抗争、か。とんだ濡れ衣だな」

 

「こういう時のために生かれさてる連中だからね。上手い具合に東京では日中のヤクザが抗争一歩手前の睨み合いを始めてるし、こっちにもヤクザが出て来てる。そういう風に見せるのは簡単だったみたいだよ」

 

「府警の方にはお前が手を回してくれたらしいな、助かった」

 

「古巣だしね。気軽なもんさ」

 

 二人は同時に紫煙を吐いて、しばらく煙を燻らせる。

 蔵馬は煙草を唇の端に差すと、弾倉に再び弾を込め始めた。カチリカチリと弾を押し込みながら、蔵馬は顔を上げずに言った。

 

「で、どうするんだ?」

 

「そのまま任務は継続。このまま美希ちゃんを神戸まで連れて行け、だってさ」

 

「……モモも連れて行くのか」

 

「そのまま、だよ。美希ちゃんがなかなか危険な目に遭ってることを、斎藤翁に報告した人がいたみたいでね。今更他にバトンタッチは出来ないよ」

 

「さすがの坂崎もノーとは言えないか。策士策に溺れるってやつだ」

 

「あれ、彼女の策に気付いていたのかい?」

 

 意外そうな常盤の声。蔵馬は煙草を深く飲みながら答えた。

 

「さっき、大体な。まあ俺たちを出した時点で、何か小狡い事考えてるんだろうとは思っていたさ」

 

「ふーん、そうかい。……ま、僕の仕事はもう少し残ってる。美希ちゃんだけじゃなくて、斎藤翁や家族の方にも護衛を回さなきゃいけなくなって大変さ。あの子の護衛は蔵馬君に任せるよ」

 

「…………」

 

 常盤の言を聞いて、蔵馬はどこか物思いに耽る様にして、脇に置いた新聞に目を落とす。

 

「新幹線にいた工作員、どこの連中か分かったか?」

 

「中国情報部。非合法な手段で吐かせたから表には出せない話だけどね」

 

「斎藤孝三は今も防衛省と会議の最中だったんだよな?」

 

「そう聞いてる」

 

「……そっちに回す人数出来るだけ増やすように言っといてくれ」

 

 蔵馬の言葉から何か読み取ったのか、常盤は声をやや低くして頷く。

 

「……。了解。こっちも今夜中に出るから、そのつもりで」

 

 返事する代わりに、蔵馬は煙草を指で持ち、左右に振った。

 

「じゃあ僕は行くから」

 

「おい、ライター返せ」

 

「ああ忘れてた。ごめんごめん」

 

 常盤はいつの間にかポケットに入れていたライターを蔵馬が腰を置くベッドに置いて、部屋から出て行った。

 

 明らかに借りパクする気満々だった。蔵馬は常盤に対する警戒事項を脳内の人物評価表に書き加える。

 

 二本目の煙草を灰皿で揉み消して、蔵馬は常盤が置いたライターに手を伸ばした。長い指で摘まみあげ、掌に載せる。方形のオイルライターは、相当使い込まれてきたらしく、幾重にも幾重にも傷が折り重なっていた。

 

 蔵馬の指が、ライターの面を引っ繰り返す。反対の面も変わらず傷だらけだ。ただ一つ、異なる点があった。

 小さく文字が彫られている。他の傷に紛れて目立たないが、そこには確かに、

 

『Don’t smoke you!』

 

と刻まれている。三つのシンプルな単語は、それぞれ微妙に字体が違う。三人の異なる人物が、まるで寄せ書きのように書き込んだ風だった。

 

 その文字を見つめる蔵馬の顔に表情は無い。普段の険しさや気怠さすら無い。ただそこに、まだ文字があるかどうかを確認するような、そんな顔だった。

 時間にすると一秒も無かった。

 文字を親指で一撫でしてから、蔵馬はライターをスラックスのポケットに押し込む。

 

「…………」

 

 そして煙草は咥えずに、しかし煙を吸う様に細く深く息を吸い、吐く。

 次の瞬間には、いつもの険ゆるい顔に戻り、足元に置いていたモモのガンケースからタボールと取り出した。込め終わった弾倉を装填し、銃身の前方にあるスライドを引いて薬室に給弾する。

 

「……んう」

 

 金属の擦れる聞きなれた音に反応したのか、モモの瞼が薄く開いた。その目尻から一条の涙が零れる。義体は眠ると涙を流す。ただの生理現象か、義体化の障害か、それとも悪い夢を見ているのか。

涙を流したモモだが、しかし表情は呑気で、昼寝するコアラの様な顔でにゃむにゃむ唇を動かして小さく欠伸をし、再び目を閉じる。そうして二度寝の体勢に入って一秒経ち、二秒経ち、三秒経ち、ビククンっと跳ね起きた。

 

「……はあ! また寝るところだった!」

 

 涙のせいでぼやける視界、この部屋に見覚えはないが、常盤にホテルまで連れられたのは覚えている。きっとその一室だろうと納得する。

 

「まだ寝てていいぞ」

 

 起き上がって瞬きするモモは、焦点の定まらない目で蔵馬の方に視界を巡らせる。

 暗い部屋、窓から差し込む淡い街光を唯一の明かりにして、タボールを抱え、自分を真っ直ぐ見つめる蔵馬がいる。

 自然と心の安らぐ光景だった。目が覚めて、蔵馬が傍にいてくれたことが嬉しい。

 寝顔を見られた気恥ずかしさと嬉しさに、つい頬が緩む。

 

 だがその歓喜は、一瞬で冷めた。いや、燃えた。

 

「う……あ……?」

 

 ゾワリと背骨の中が怖気立つ。

 瞬きで刹那途切れた視界。

 視界の隅の隅。あるいは奥の奥。

 暗いホテルの壁に、床に、天井に、そして蔵馬に、火が揺らめいていた。

 明かりを発しない、熱も無い、ただ燃える、そこにある、火。

 

「……火、が」

 

 引き攣った声で呟く。

 しかし火炎は、モモが再び瞬き瞼を閉じたその一瞬で、消えて無くなった。

 

「あれ?」

 

 モモは目を指先で擦るが、あるのは涙と、焦げ目一つ無いホテルの一室だけだった。

 

「……火?」

 

 モモの視線を辿って、蔵馬は自身と周囲を見渡すが、そこには何もありはしない。

 

「モモ?」

 

「え、あ、……はい。大丈夫です。まだ夢を見てたみたいですね……はは」

 

 モモは固い笑みで頭を掻いて、ぶらぶら揺れる腕の点滴チューブに気付く。それを目で辿り、次に自分の下着一枚の格好に視点が落ちた。

 モモの頬に朱が差す。咄嗟にベッドのシーツを引き寄せて身体を隠した。

 

「あの、クラマさん。着る物……!」

 

 

 

 

 青く照る月も夜の半ばを通り過ぎた。ホテルの屋上は設置されたエアコンの室外機が吐き出す暖気のためか、真冬の深夜である割には温かい。

 並んだ室外機の隙間に立って、モモは延々と蔵馬に教わったジャブの空打ちを続けていた。一発一発。大切に、身体に刻み込む様に、自分の体の動きを確かめる様にして同じ動作を反復し続ける。初めはぎこちなかったその動きは、次第に鋭さを帯び始めていた。

 

 目覚めた後、着替えを終えたモモは待機を命じられた。身体を休めろという事だろう。

蔵馬は常盤と話があると言って部屋を出て行ってしまい、一人残された。しかしあの部屋でくつろぐ気にもなれず、ホテルの中をふらふらと彷徨った末にこの場所にたどり着いた。ここならばそこそこ温かく、身体を動かしても迷惑にならない。

 

 モモの頬に汗が一線流れ、シャープな顎筋を通って落ちた。室外機のお陰で多少は温かいとは言え、それは比較的マシな程度である。

 

 外気は冷えて、身を凍えさせてくる。だが、彼女の俊打はかれこれ十分近く続けられている。寒気よりも、体内から発生する熱が勝っていた。それゆえの発汗であり、モモは外の寒さと内の熱さの両方をしっかりと感じ取っていた。体感の感覚も、一眠りの間に正常に戻ったようだ。頭痛も、体のだるさも無い。一応腹に傷が残っているため万全とは言えないのだろうが、任務続行には支障ない。まだまだ働ける。

 

「身体の具合はどうだ?」

 

「クラマさん……はい、元通り、ちゃんと動きます」

 

 背後から声が掛けられる。煙草を吹かしながら屋上に上がってきた蔵馬に振り返り、モモは体に馴染んできた殴打の動きを見せた。

 

「大分マシになったな」

 

「……何か企んでますか?」

 

「たまに褒めたら捻じれた反応しやがって……」

 

 あまりにも褒められ馴れしなさすぎて、心が乾いてしまっている。哀れな事だ。というか単純に腹立つ反応だ。今度からは褒めて伸ばす教育に切り替えようか。

 恐らく採用されることの無い教育案を頭の隅に書き留めながら、蔵馬はモモに温かい缶コーヒーを投げる。ホテルのエレベーターホールで今しがた購入した物だが、額を汗で濡らすモモにはスポーツドリンクの方が良かったかもしれない。

 

 受け取ったモモは熱い飲料物には特に文句も言わずに、礼を言ってプルを空け、一口。コーヒーで唇を湿らせる。

 

「美希さんはどうしてますか?」

 

「軽く食事を取って、今は寝てる」

 

「そうですか……」

 

「……あの子が気になるか」

 

 蔵馬の問いに、モモははにかむだけで、明確な回答を出さなかった。

 モモは室外機の縁に腰掛ける。缶のプルを爪先で弄び、脇に立つ蔵馬を見上げた。

 

「クラマさんには怖い物ってありますか?」

 

「無いな」

 

 蔵馬は即答する。強がりや虚勢などではなく、本当に無いのだろう。

 

「オバケは?」

 

「死んだ戦友は多い」

 

「悪魔は?」

 

「牧師の知り合いがいる」

 

「オオカミ人間は?」

 

「俺は犬が好きなんだ」

 

「無敵ですか……!」

 

 戦慄するモモに、蔵馬は頭を掻く。

 

「そんな物を怖がる歳に見えるか」

 

「なら昔は恐かったんですか?」

 

「……ガキの頃は相応にビビってたさ」

 

「……意外です」

 

 モモはコーヒーを口に運び、ぽつりと呟いた。

 

「俺に子供の時代があったことがか?」

 

「怖い物があったことです!」

 

「……ともかく、今は特に怖い物は無い。それで?」

 

 蔵馬は脇道に逸れた話を戻し、連なる言葉をモモに促す。

 モモは缶の中身を半ばまであおり、話を本題に移した。モモが聞きたかったのは蔵馬の弱点などではなく、その先だった。

 

「怖い物は、どうすれば怖くなくなりましたか?」

 

 昔は恐くて、今は恐くない。ならば恐怖を払拭する機会があったはずだ。方法があったはずだ。

 

「どうすればいいのか……教えてください」

 

 縋りつくような声だった。

 

「…………」

 

 蔵馬は沈黙を持って煙草を携帯灰皿にねじ込み、言葉を選ぶ。

 

「そうだな……。恐怖は……未知か、あるいは喪失から生まれる」

 

 モモは次の一歩を踏み出せばいいのか、どこに着地させるべきなのか、決めかねている。

 世界をあまりに知らなさすぎる少女に、可能な限り伝えられるように。

 彼女がこの先選ぶその未来を、より良い物にするために。

 縋られれば、支えてやる。

 それが老い先長い大人である蔵馬が、命短い子供であるモモにしてやれることだった。

 

 短命故に、可能な限りの幸福を。

 そう言った女の言葉を蔵馬は思い出す。

 

「それが何なのかが分からないから、人は恐がる。それが自分から何かを奪うから、人は恐れる。だから、恐怖を乗り越えたければそれを知れ。そして奪われない強さを持て」

 

 蔵馬はちょうどいい高さにあるモモの頭に手を伸ばす。

 モモもその手に気付き、受け入れの意志として動かずにいる。

 

「…………」

 

 だが蔵馬は手を止め、開いた指を握ると、ポケットに行き先を変えた。手先にはライターの固い感触がある。

 その不自然な挙動にモモは首を傾げたが、取り繕うようにして次の煙草を吸い始めた蔵馬は話を続ける。

 

「……つまり怖がられたくなきゃ、知られ、そして与えよって事だな」

 

「……分かりました」

 

 彼女なりの答えを得たのだろう。少し表情を和らげて頷く。

 そして一転、唐突に憮然とした不機嫌顔になる。

 

「ところでクラマさん。どうして頭撫でてくれなかったんですか。なんですか今の弾道修正は」

 

「お前……止めろよ……蒸し返すなよ」

 

「私がっかりです。乙女ショックです」

 

「止めろって」

 

 蔵馬は己の軽率な行動に後悔しながら、眉を吊り上げるモモの唇に煙草を刺し込んで黙らせる。

 途端、モモは一拍置いて顔を朱に染め上げた。黙るばかりか体までカチコチに固まらせたモモの手から、缶を取って一気に飲み干す。口内に残る煙草の残香を洗い流し、空になったスチール缶をモモの目の前に掲げた。

 

「おい、モモ」

 

「あ、う、ひゃい」

 

「ジャブを少しだけまともに打てるようになったお前に、必殺技を教えてやる。だから機嫌直せ」

 

「ひゃい、直します、直ってます」

 

 モモは室外機から跳ね上がって、口の煙草を咥えたままガクガク頷く。

 モモの様子からして、お茶を濁すことに成功したと確信しながら、蔵馬は手にあるスチール缶を宙高くに放る。

 

「どんな時も、最後はこれで片が付く」

 

 そう言って、蔵馬はモモに教えた戦闘の構えを作る。そして右足の親指がコンクリートで出来た屋上の床を蹴る。鍛え上げられた脚部の筋力が生み出したエネルギーは、地面から反作用となって右脚の芯に伝わる。身体の最底辺から生まれた力は腰に伝わり、そこから身体の旋回を加えてエネルギーを蓄積する。腰部から上半身に伝来したエネルギーを各関節で散らさぬように、より強力になるように、肩から右腕に運ぶ。

 

 発射される右拳。脚から生まれたエネルギー、そして同時に身体の重心を前に倒し、体重を乗せる。

 回転しながら落下してきたスチール缶に、拳先が接触する。

 重い金属が正面衝突したような、硬い音が響いた。

 

 モモの眼前を砲弾の如き速さと勢いで缶が通過する。咄嗟に行く末を目で追うと、スチール缶はブレス機に掛けられたかのように体を潰し、屋上に張り巡らされたフェンスの金網の網目に突き刺さった。

 

「わあ、ただのパンチだけど凄い!」

 

 煙草を咥えたまま、モモははしゃいで殴られた缶に駆け寄っていく。蔵馬は構えを解くと、はしゃぐ少女に背を向けた。

 

「一時間後に出発する。そのゴミは捨てといてくれ」

 

 

 

 

 大柳組の事務所は昨夜と同じく明かりが消され、部屋はほの暗く、その中で組長である大柳が座り心地の良さそうな革張りの椅子に腰かけている。手には相変わらず50口径の弾薬が二発。そして彼の正面には組の構成員。

 

 昨夜と同じ光景に見えるが、大柳の前に整列する男たちの数が違う。二十人近くいた組員は半数が姿を消していた。今ここにいない者たちは、ほぼ全員が既にこの世からも退場している。

 

「他の奴らは?」

 

「連絡が付きませんでした……」

 

 大柳も目減りした己の部下の数について言及するが、誰からも明確な返事は無い。消えた組員の行方を知る者は、ここにはいなかった。モモとアザミが積み上げた死体はとっくにセンターが回収し終えている。彼らは明日の朝刊に、抗争事件で死んだ暴力団組員としてその名を連ねるだろう。

 

 そのような情報工作が裏で粛々と進められているなど知る由も無い大柳だが、彼は己が住まう極道世界の常識に照らし合わせて、部下の死を直感していた。

 彼らが仕事の途中で殺されたのならば、つまり仕事を失敗したことを意味する。そのことの方が、大柳にとっては組の人間の生死よりも重要だ。チンピラなどいくらでも補充が効く。そもそもヤクザなど命を張ってナンボの世界。殺し殺されで一々騒いではいられない。

 

 今対処しなければならないのは、恐らく死んでいるのであろう行方不明になった組員の捜索でも、空いた枠を埋めるリクルートの準備でもない。失敗した仕事の穴埋めだ。

 この仕事は組の後ろ盾である、中国情報部が命じてきた。大柳組にとって中国情報部は、あらゆる意味での絶対唯一、極太の生命線だ。大柳がこの世界で破格の大出世を遂げることが出来たのは、一重に彼らの協力があったからだ。

 

 使い勝手のいい不法入国者に、末端価格数億円に上る麻薬。旧ソ連軍で使用されていた、日本に置いては過剰とすら言える火器の数々。そして表向きは親である扇組すら知りえない、それらの販売ルート。それらを売り捌いて築いた莫大な資産を武器にして、日本の極道組織の中で組を持つまでに至ったのだ。

 

 彼らの存在なしにはこの組は存在しえず、また彼らの情報隠ぺいと庇護が無ければ、この組は警察に取り潰される前に、本当の親組織である扇組によって血祭りにあげられてしまう。そして中国情報部の機嫌を損ねれば、どっちみち皆殺しの憂き目にあう。

 情報部のスパイが自分にこれだけの物を寄越した見返りとして、大柳組は日本国内で情報部が動く際の手先として働くことを対価としている。

 

 しかしこの組の者たちは大柳以外全員、自分たちが中国人の便利屋さんとして雑務を請け負っている事すら知らずにいた。普段回される仕事は警察内部の情報を流したり、あるいは武器や人員の輸送や、たまに死体の処理や誘拐、監禁、拷問に殺人の手伝い程度。それを日本の極道組織でも稀にある仕事であるのを良い事に、大柳は全て扇組ゆかりの仕事であると組員を偽り続けてきた。

 

 いつしか外国人をひどく見下すようになった組の風潮。大柳は組長であるが故に、その空気を読まざるを得なかった。部下たちに対する虚偽を大柳はそう自己弁解するが、要は組員に自分が外国人にヘコヘコ頭を下げている姿を見せたくなかっただけである。

もし組員たちが自分の立場を把握していれば、もう少し身を入れて仕事に励んでいただろう。あるいは逃げ出すことも出来たかもしれない。

 

 だが大柳の安い見栄と虚栄心ゆえに、彼らは何も知らされずにいる。それがここにいる全員の、取り返しのつかない不幸だった。

 

「くそ……」

 

 大柳は震える手で煙草を咥える。誰かが火を点しに来るのを待つが、組員の誰もライターを携えて火を掲げに来る気配はない。こういう時に、真っ先に跳んでくるのは八木だった。彼も事務所に帰ってはこなかった。街のヤンキー崩れの、腕っぷしも頭の回転も下の、媚を売るしか能が無いと蔑視していた八木だが、残った組員はあの男以下のでくの坊ばかり。

 

「……ンの、ボンクラどもが!!」

 

 大柳は手に遭った弾丸を、だんまりを決め込んでいる組員たちに投げつけた。それでもなお身動きしない彼らの、自分の怒りが収まるまで黙ってやり過ごそうとする見え透けの内心と態度がまた気に食わない。

 

 怒りに肩を震わせて立ち上がる大柳。その懐で、携帯電話が着信音を鳴らした。深く深呼吸をして怒りを吐き出し、電話を取る。非通知番号だった。電話の主を察し、無灯の煙草が震える唇から零れ落ちる。

 

『私だ』

 

 のっぺりとした、若者にも老人にも聞こえる声。李明だ。

 その声を聞いて、大柳の憤怒のボルテージは一気にマイナスまで急降下する。

 

『また派手に失敗してくれたな』

 

 合成音声と話しているような波の無い言葉だが、それが却って大柳の心を委縮させる。大柳は目の前の部下たちに一瞬口ごもるが、彼らに構わず謝罪した。

 

「すま……すみません」

 

『お前がどうしてもチャンスをくれと言うから、情報をくれてやった。目標の位置情報だ。私個人のかなり貴重なコネを使った情報だ』

 

 ふー、と、スピーカーの向こうで溜息を吐く音が聞こえた。

 

『問題は……分かるか? 私はお前が失敗したことにはそこまで腹を立たせていない。身内の恥だが、我々も実は彼女の確保に失敗している。だから失敗したこと自体は、水に流してやろう。だが』

 

「……だが……?」

 

『派手に、失敗したことは許さない。派手に殺せとは言ったが、派手に失敗しろなんて一言も言っていない。……お前が事を派手に引っ掻き回して状況を悪くしてくれたお陰で、我々がどういう状況になっているは分かるか?』

 

「いえ……」

 

『お前らの無駄な大暴れの結果、警察も、公安も、テレビカメラも三文記者も地元住民もツイッターも、大阪の街に目を向けているんだ。分かるか? 分かるだろう? 我々はもう動けないんだ。私が個人的な、お前がうちのお零れで稼いだ端金の数十倍の価値のある、お前らチンピラ集団100ダース分の命より価値のあるコネを使っているのに、私たちはもう動けないんだ。分かるだろう?』

 

 平坦だった語気に、かすかな憤怒が混じった。

 大柳の奥歯がカチカチと連鼓し始める。

 

『…………。ところで、お前は海と山、どっちが好きだ?』

 

 唐突な、意味不明の質問。大柳は咄嗟に、

 

「……海……です」

 

『そうか。分かった。じゃあこっちも忙しい。別にもうどうでもいいが、仕事をする気があるなら今夜中にやってくれ。情報は……ついでだ。くれてやる』

 

 通話が切られた。

 それを確認するや否や、大柳は電話を投げ捨て、組員たちを押し退けて事務所を出ていく。

 

「お前ら全員来い!」

 

「親父! 一体どうしたんですか!」

 

 組員たちは組長の豹変ぶりに当惑しながら、その後を追う。大柳はビルを出ると、隣接する古びた倉庫のシャッターを壊しかねない勢いで跳ね上げた。

 中には幾つもの段ボール箱と、車体に布を被せられたピックアップトラックが一台停められている。大柳はトラックに駆け寄り、その道筋にあった足元にあった段ボールが蹴り飛ばされる。中から白い梱包材に混じって、十挺のAKM自動小銃と弾薬箱がこぼれ出てきた。

 

「今囲ってる外国人ども全員集めろ。それと車をありったけ持ってこい」

 

 指示を飛ばし、トラックの覆い布を掴み、引き摺り下ろした。

 トラックの荷台には黒い長銃身。大戦期にソビエト連邦によって開発されて以来、半世紀以上の長きに渡って世界中で銃火を噴き、人を、物を粉微塵にした重火器。DShK重機関銃が搭載されていた。

 

「お前ら全員、死ぬ気で斎藤美希を殺しに行け!」

 

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