ツユリヒメはミカゲに還る   作:大海 キホ

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   2. みかげ村

 

 

 

(苦しい)

 苦しかった。

 息が詰まる。誰とも分かり合えない──それが、こんなにも苦しいなんて。

 自分はもう、死んでしまうのかもしれない。だってツユリの、あのまなざしを、まともに浴びてしまったのだから。

 それなのに、まるで囚われ人のように校長室へと連れてこられた。肩を掴まれ、乱暴に押し込まれるようにして足を踏み入れる。

 次の瞬間、長い白ひげを湛えたダンブルドア校長に抱き留められた。温かかった。震えながら顔を上げるドラコに、ダンブルドアは眉を寄せる。

 心配してくれている──父とは対立する立場のはずなのに、彼だけが。

「大丈夫じゃよ、ドラコ。さあ、ソファに横になりなさい」

「その必要はない、ダンブルドア!」

 鋭く響く父の声。それでもダンブルドアは意に介さず、そっとドラコを抱き上げる。

「どうせ仮病に決まっておる! それとも時間稼ぎか? 私の度重なる訴えを、おまえはことごとく無視してきた!」

「これは異なことを。ツユリの件ならば、きちんと返答したはずじゃ」

「その結果が、この惨事だ! 様子見などと甘いことを言うから、こうして問題が起こるのだ!」

「まずは落ち着こうではないか」

 ダンブルドアは暖炉前のソファにドラコを横たえた。青ざめた顔のまま、わずかに唇を開閉させるドラコに微笑みかけ、崩れたプラチナブロンドの髪をやさしくかき上げる。

 彼のサファイヤの瞳に見つめられると、心がふっと温かさに包まれるようだった。呼吸が楽になるのを感じ、ドラコはダンブルドアへと、問うような、感謝するようなまなざしを向けた。

「ダンブルドア! 聞いているのか!?」

「もちろんじゃとも。しかし、儂はまだ、何が起こったのかを知らぬ。確かに、この学校には結界が張り巡らされ、非常時には察知できるようになっておるが──儂はいつでも監視しているわけではない」

 ダンブルドアはちらりとスネイプへ視線を向ける。

「セブルス、お主から説明してくれぬかの?」

「は······」

 スネイプが応じる。ルシウスの背後に控えていた彼は、何か言いたげな様子だったが、水を向けられると、すぐさま口を開いた。

「決闘クラブで事故がありました。ドラコがミカゲに──」

「事故などではない!」

 ルシウスが激昂し、スネイプの言葉を遮る。

「明らかに故意であった! 私が目をかけている子だと知りながら、殺意をもって攻撃したのだ!」

 だがダンブルドアは、あくまでスネイプを見つめている。

 その視線に後押しされるように、スネイプは早口で続けた。

「ツユリは医務室に運ばれました。ルシウスは私の研究室の使用を要求しましたが······今のルシウスはドラコに何をするか分かりません。こちらの方が安全であると判断し、案内いたしました」

「よい判断じゃ」

 ルシウスが弾かれたように振り返る。お気に入りの後輩であるはずのスネイプの言葉に、まるで裏切られたかのような顔をしていた。

 彼の拳がわななく。だが、糾弾しているのは他ならぬ彼の嫡子だ。

「どれ、茶でも出そう」

「不要だ!」

 ダンブルドアがソファを手で示すも、ルシウスは一蹴する。

「ルシウス、おぬしの子はツユリだけではなかったはずじゃ」

「知らぬ! 私の意に沿わぬ子など、息子ではない!」

「なんということを······!」

 ダンブルドアの目が険しくなる。

 あくまでルシウスを落ち着かせようと努めていた彼だったが、思わず語気が強まる。

「お主がどう思おうと、ドラコはホグワーツの大事な生徒じゃ! そのような暴言は許さぬ!」

「ツユリは違うとでも言うつもりか!?」

「もちろん、ツユリも大切な生徒じゃ。しかし、ドラコの話を聞くのは、この子が回復してからのことじゃ!」

「そんなもの、仮病に決まって──」

「お待ちください!」

 その時だった。乱暴に扉が開いてツユリが飛び込んでくる。

「ひっ──!?」

 ドラコはびくりと震え、青ざめる。呼吸が乱れ、肩が震えた。後ずさろうともがく姿にダンブルドアが戸惑いを見せたが、スネイプがさっと駆け寄りドラコを抱き締める。

「大丈夫、大丈夫だ──」

「は──ぁっ──······」

 拘束され、逃げられない。それでもドラコはもがくように、縋るように、スネイプのマントをぎゅっと握り締めた。

「どういうことだ!? ツユリを医務室へ連れていったのではないのか!?」

 ルシウスの叱責が校長室に響き渡った。追いかけてきたパンジーが、肩を震わせながら深く頭を下げる。

「も、申し訳ありません! ツユが突然走り出してしまって······!」

 するとツユリはパンジーを庇うようにさっと片手を上げた。

「パンジーを責めないで! 私が勝手にしたことよ──ルシウス、落ちついて」

 ツユリの目が真っ直ぐに後見人を見上げる。

「私を気にかけてくれるのは嬉しい。でも、今怒っている相手はあなたの大切な跡取りよ。私はあらかじめ伝えたはず。あなたとの養子縁組は、ナルシッサとドラコの同意なしに進めていいものじゃないって」

 その言葉を聞くとルシウスは顔を真っ赤にして言い放った。

「そんなことは関係ない! 私が当主だ、私が決める!」

「ドラコの気持ちを無視しないで!  彼にはあなたしかいないのよ!」

「君にだって、私しかいない!!」

「違うわ。私は、最初からずっとひとりだったのよ!」

 ツユリの言葉に、ルシウスは愕然として言葉を失う。

「持っているものを失うのと、最初から何も持たないのは違う。私だって、家族ができるかもしれないって、期待した。でも、歓迎されないなら意味がないじゃない! ドラコと笑い合えない家庭になんの価値があるの?」

「ツユリ、君にそのような肩身の狭い想いはさせない。私がドラコに言い聞かせる。大丈夫だ!」

 ルシウスがドラコに向き直ろうとする。だがツユリはその目の前に回り込んだ。

「それが駄目だと言っているの! 彼は彼だわ、あなたじゃない!」

「その通りじゃ」

 ダンブルドアは重々しく頷いた。

「ルシウス、おぬしのツユリを救おうとする気持ちは、尊いものじゃ。しかし、彼女の言う通り、無理強いはいかん。君はドラコの話を、きちんと聞いたのかね?」

 もどかしげに肩で息をするルシウス。ダンブルドアは更に言葉を重ねた。

「少し柔軟に考えてみてはどうかの? 何も、おぬしが必ず受け入れねばならぬわけではない。他にも身寄りのない魔法使いの子供を迎えたいと考える者はおる──」

「ふざけるな!」

 ルシウスの声が怒りに震えた。

「ツユリは私が見つけた! この子は、私のものだ······!」

 その言葉に、ドラコは息を呑んだ。

 震える指先が、スネイプのマントを強く握る。恐る恐る肩越しに父を見上げると──ルシウスの青灰色の瞳は、狂気にも似た執着で濁っていた。

 スネイプも、ダンブルドアも、パンジーさえも、息を呑んで彼を見つめる。

 ツユリはそっと目を伏せる。その心を推し量ることはできない。

 静寂を破ったのはダンブルドアだった。彼は一歩前に出ると、ルシウスを厳しく見据える。

「何か勘違いをしておるようじゃな。人は誰もが自分だけの主じゃ。子供は、親のために存在するのではない!」

 ダンブルドアは怒りに震えながら一歩前に出た。

「それが、おぬしの本心ならば──」

 ダンブルドアはドラコの親権ごとルシウスから奪い去る勢いだったが、その言葉を遮るように、ツユリが口を開いた。

「いずれにせよ、私はホグワーツを出て行きます」

 無機質な声だった。

「私の存在が誰かを苦しめるのなら、個人的な感情でここに居続けるわけにはいきません」

 あまりにも静かな宣言だった。大人達だけでなく、ドラコも言葉を失った。

 ドラコは、自分の荒い呼吸の音を殺すように、スネイプの影に身を潜めた。しかし耳に入ってくるのは戸惑う父とダンブルドアの声ばかり。その意味を推し量ることはできず、ただ成り行きを見守る。

「ツユリ······? 何を言っている!?」

「どういうことじゃ? 心配はいらん。儂らには君の生活と教育を確保する用意がある──」

「そういうことではないんです。ご厚意には感謝いたしますが、私の存在によって苦しむ者は他にもいます。ドラコはひと際霊的感受性が高いせいで取り繕うことができなかったけれど、彼だけじゃないのです。私はここに来たことで──自分がもはや人間として生きられる存在ではないのだということを思い知らされました」

(霊的感受性······?)

 聞き慣れない言葉だった。ドラコはただ、耳を澄ませる。

「それでもここに居座り続けたのは、私のエゴです。自分の運命を、受け入れられなかった。ルシウスが、手を差し伸べてくれて。ナルシッサが、抱き締めてくれて。私は普通の魔女なのだと、愚かにも錯覚してしまったのです──逃げられるはずがなかったのに」

 その声は途切れがちだった。まるで感情を抑えられなくなったかのように声を震わせ──ドラコもまた震えながら、薄水色の瞳に涙の膜を張る。

「どういうことじゃ? 何から逃げるというのじゃ······?」

「運命から、です。私は──私はどこまでも《御景津柚利比女(ミカゲノツユリヒメ)》なのだということです──」

 暗く、落ち込んだ彼女の声──。

 その背景を、ツユリは淡々と語り始めた──。

 

   ※   ※   ※

 

 事の始まりはその出生までさかのぼる。

 当時の津柚利は名もなき赤子だった。

 時は戦国時代。日本では幾人もの名のある武将が剣を掲げ、土地を奪い合っては弱者から税を取り立てていた。そのあおりは山奥にひっそりと佇む集落《みかげ》にまで及び、《みかげ村》として地図に加えられた彼らは横暴な領主の元で搾取されることとなった。

 人口は50にも届かない慎ましい村である。水神たる津柚利比女の庇護のもと、水源にだけは困らない生活を送っていたが、田畑は村人達がぎりぎり食べていけるほどの規模しかない。猪や川魚まで取られてしまえば何も残らない。更に領主は水源にまで目をつけた。男達は領地へ続く水路を掘る大事業に従事させられ、残された女子供は奪われるばかりの田畑を維持する以外にない。

 食べるものも乏しい中、酷使させられた男達は次々に病に倒れた。彼らを看病する女達も弱い者から倒れていった。拠り所であった清水を奪われ、食べ物を奪われ、労働力を奪われた村人達に残された道は滅亡だけだった。元より領主は、水源にしか興味がなかったのだ。

 そんなとき《ばば》と呼ばれていた蛇神の巫女がお告げを伝える

 ──金色(こんじき)の赤子を捧げよ。さすれば《みかげ》は救われん。

 民は男も女もなく、総出で山狩りに乗り出した──。

 

    ※  ※  ※

 

 そこで一度、ツユリは口を閉ざした。大人達の疑問のまなざしに配慮してのことだ。

 ダンブルドアが口を開いた。

「それは、いつの話じゃ? 君は、いくつなのかね······?」

「さあ······私はただ、祀られていただけですから。ルシウスという異分子が紛れ込んでくるまでは、ただ静かに、気が遠くなるほどの間、《みかげ》の民を護る──そのためだけに存在していました」

「なんと──」

 大魔法使いの青空の瞳が寂寥に沈む。

 ツユリは目を伏せ、遠い昔に意識を戻した。

「私は領主の娘であったそうです。しかし生まれつき強い力を宿していた。その力の暴走により、母は息絶え、産婆も重症を負い、父の剣により手打ちとされるところを津柚利比女に助けられました──」

 

   ※  ※  ※

 

 《みかげ》の民は津柚利比女のお膝元──苔むした神樹の根本に金色の光を見つけた。清潔な産着と豪奢な打掛けにくるまれた赤子は力無く産声を上げており、老巫女は赤子を掲げ声高に宣言する。

「これぞまさしく、お告げの通りじゃ。この赤子こそ、我らが救い主。御景津柚利比女の愛し子じゃ······!」

 《みかげ》の民は歓喜した。

「ありがたや······これで我らは救われる······!」

 地に伏し、拝み、一様に手をこすり合わせる。

 そうして赤子は集落へと運ばれた。集落の中央に位置する祭壇へ祀られ、女達は手厚く赤子の世話をした。しかし誰ひとりとして赤子を抱くことはなかった。ただ遠巻きに跪き、拝み、希望に胸を膨らませるばかりだった。

 赤子の孤独を癒やしたのは津柚利比女だ。

 彼女は夜ごと純白の大蛇となって現れては、実体のないその身体で赤子をやさしく抱いた。とぐろを巻くように冷たく包み、揺らす仕草をしては「やや子や」「妾の愛し子よ」と語りかけた。長い舌を揺らして遊ばせ、笑顔を覗かせる赤子を見ては菩薩のごとき微笑みを浮かべる。

 赤子は母の異質さに恐れを感じていたが、自分には彼女しかいないのだということを本能的に察していた。

 やがて赤子が成長し言葉を喋れるようになると、比女は百姓たちに命じて《神降ろしの儀》を執り行わせた。それは《みかげ》の民と比女の繋がりを強固にするための古き呪法なのであった。

 何も持たぬ民であったが、津柚利比女と赤子のためになけなしの食物を用意した。木の実やきのこ、痩せた川魚、御神酒。そして──赤子と比女を強固に結びつけるしもべの血──選ばれたのは、まだ何も分からぬいたいけな童女だった。

 赤子が横たわる祭壇を取り囲むように火が焚かれ、童女は伏し拝む。民が周囲を取り囲み、老巫女は矛先錫(ほこさきすず)を打ち鳴らしながら祝詞を唱えた。赤子の口に御神酒を流し込む。激しいアルコールの臭いと焼けつく喉の痛みに、赤子は激しく泣き叫んだ。だが、老巫女は錆びた鈴を振り乱し、民は拝むばかりだった。

 赤子は彼らを見ていた。自分に触れない、いつもかしずいているばかりいた者達を。それでも世話はしてくれていたのに、突然、毒のようなものを口に捩じ込んだ。誰も助けようとはしない。狂ったように祝詞を唱え、血走った目で凝視してくる。

 胸に迫るのは恐怖だった。

 逃れたい、と切に願った。

 その時──老巫女が雄叫びを上げる。

 矛先錫を天に掲げ、逆手に持ち変えたかと思えば勢いよく振り下ろす。

「ああァァッ──!!」

 耳をつんざく悲鳴が上がった。童女の身体から血が噴き出し、赤子の顔に降り注ぐ。

 老巫女は何度も何度も、童女を刺した。そのたびに悲鳴が上がり、赤子は血潮の沼に沈む。

 悲鳴が途絶えても老巫女の凶行は止まらなかった──そして赤子の全身を、慣れた冷たさが包み込む。

『やや子や──』

 赤子は総毛立っていた──魂の奥で何かが叫ぶ。

 これは駄目だ。駄目なものだ、と。

 コレから離れねばならない──。

 コレに耳を貸してはならない──決して触れてはならない、と──。

 もし万が一、触れてしまえば──?

 ──自分は自分ではなくなる──そんな確信めいた恐怖──しかし赤子はためらわなかった。知っていたから──自分を愛してくれるのは、ソレだけだけだということを。

『我が愛し子や──妾の津柚利や──』

 ナニカの名が胸に灯る──母の名であり、我が名であるもの──。

『妾を──母を、呼んでおくれ──』

 焼けついたはずの喉から──津柚利はおもむろに言葉を発した。

 「──我が母、御景津柚利比女──」

 

   ※  ※  ※

 

「そうして《みかげ》の地は隠されました。領主は滅び、地図からはかき消え、何人(なんぴと)も足を踏み入れることのない閉ざされた地となったのです──」

 静まり返った校長室で、ツユリの声は暗く、ただ暗く響いた。

「思えば私もドラコと同じだったのでしょう。強い霊力を有し──こちらでは魔力と呼ばれるものですが──人ならざるものを感知する能力を備えていた。比女はそれに引き寄せられたのです──そして、実の両親に愛されることのない私を、愛するその対価として依代とした」

「だが、私は······」

 ルシウスが信じられないとばかりに声を上げる。ツユリはゆっくりと頷く。

「ええ、《みかげ》に辿り着いた」

「なぜ······」

「私が望んだからです」

 じわり、とドラコの胸が締め付けられる。

 なぜだろう? まるでツユリになったかのように、ドラコは胸が張り裂けそうだった。

「何を望んだのじゃ?」

 ダンブルドアが促す。ツユリは唇に歯を立て、観念したようにその質問に答えた。

「自由を、です」

 苦々しげに笑みを浮かべる。

「解放されたかった──“死”という形でも構わない。ただ、何の意味もなく、甲斐もなく、見守り続けるだけの日々に耐えられなかった。頭がおかしくなりそうだった······! そうしたら、ある日、比女が言ったんです。ルシウスを指差して──アレはどうじゃ?──って」

 ツユリの細い指先がルシウスを示していた。

 まるで金縛りに遭ったかのように立ち尽くしたルシウスは、やがて頭を抱え、声を出して笑いだした。

「全て手の平の上だったというのか······」

「神を殺せる者など、いません。あれは比女の復讐でした。《みかげ》の人々は延々と続く平和な日々の中で、次第に感謝を忘れ、あぐらを掻き、娘である私に不埒な想いをいだく者さえ現れました。日本の神は、ただ人々を救うだけの存在ではないのです。敬う者には富を──怠る者には罰を──ただ、それだけのこと」

「はは······」

 渇いた笑い声が校長室に響く。

 誰もが沈鬱そうに顔を歪め、パンジーは青ざめていた。

 ドラコは、ツユリの気持ちが痛いほどに分かる──しかしそれが自らの内から湧き出た同情心なのか、霊的感受性が高いゆえの共鳴なのかは、自分でもよく分からなかった。

 

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