「おい······」
声をかけずにはいられなかった。
名を呼ぶこともできないのに、それでもこのまま見送りたくない。ドラコは苦しげに息をつき、なんとか身を起こそうとする。
スネイプが支えてくれた。ドラコは縋りながらやっとの思いで上体を起こす。ツユリのいる方向に目を向けると、ダンブルドアはそっと身を引いてくれた。
ツユリと相対する。真正面から。自らの意思でこのようなことをするのは、初めてではないだろうか?
黒い髪、黒いまなざし──まるで黒い大きな御影石がその場に突き立っているかのような存在感──ドラコには、彼女がひんやりとした冷たい神気に包まれているのが、はっきりと分かった。だけど──そのあどけない顔立ちが大人びた表情をしていればしているほど、憐れで、愛おしくて──手を伸ばしたくなる。
これも錯覚なのだろうか?
心臓がどくどくと鼓動していた。しかし胸元を握り締めて抑えこみ、薄水色の揺れる瞳に、初めてしっかりと彼女を映す。
──触れたい。
どうなるのだろう?
もし本当に、それが叶ったら──。
「行くのか······?」
ドラコは、ただ静かに問いかけた。
するとツユリは眉を下げ、少しだけ嬉しそうに微笑む。
「ええ──」
「ちょっと待ってよ!」
阻む声があった。パンジーだ。
彼女は必死の面持ちで前に出ると、涙を浮かべたウルフアイズをこちらに向けた。
「ひどいじゃない、ドラコ! だって、今聞いたわよね? ツユが悪いわけじゃなかった! 悪いのはそのミカゲノツユリヒメという神様なんでしょう!?」
ドラコが眉をひそめると、パンジーは気まずそうに胸元で手を握り合わせる。
「私、悪かったと思ってる。ドラコのこと分かってあげられなかった──ひとりで辛かったわよね? でも──ツユだって苦しいのよ? 助けてあげなくちゃ! ねえ、そうですよね!?」
そうして縋るように大人達を見回す。
だが大人達の反応はかんばしくなかった。ルシウスはショックから立ち直れずいるし、ダンブルドアは悲しそうにパンジーを見つめるだけ。スネイプはあからさまに舌打ちした。
「何ができるというのだ!?」
パンジーは雷に撃たれたように立ち尽くした。一番頼りにしていた寮監の言葉に、必死の思いで奮い立つ。
「わ、分かりません。でも! スネイプ先生はポーションマスターじゃないですか! ルシウス様もダンブルドア先生も強い魔法使いでしょう!?」
だがスネイプは嘲笑した。
「西の小さな島国に過ぎない英国の魔法使いが、人ならざる神の領域に手出しできるはずがあるまい」
「でも······でもっ······!」
「こんなのは何かの間違いだ!!」
「きゃっ······!?」
突然の大声にパンジーは悲鳴を上げた。ルシウスはお構いなしにツユリの肩をがっしり掴む。
「ツユリ! 君は私に救われねばならん!! これは運命なのだ! 君は······君は、あの集落に迷い込み、神の力によって絡め取られた私を救い、労わってくれたね。あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。君の、穏やかだが哀しい微笑み──そのぬくもりを感じた私は、君を救い導くことこそが運命だと確信したのだ!!」
するとパンジーも力を取り戻したかのように声を上げた。
「運命というなら私も同じだわ! 私はツユと初めて会った時から──いいえ、あなたの写真を初めて見た時から──まるで雷に打たれたみたいな衝動を感じた。運命だと思ったの!」
だがツユリは彼らの言葉を聞くと、更なる絶望を滲ませて言葉を紡いだ。
「それがツユリヒメの力よ。あなた達は洗脳されている。ヒメはこの地を第二の《みかげの地》とするため、皆を掌握するつもりなのよ」
ルシウスとパンジーは言葉を失う。ツユリはまるで言い聞かせるように続ける。
「だからルシウスはドラコを顧みることもしなくなった。パンジーやスリザリン生達は、ドラコが私を“穢れた血”と呼んでも揺らぎもしなかった。それに気づきもしていないなんて正気じゃないわ」
「で、でも! それだけじゃないわ! ツユは私の話に耳を傾けてくれた! 私を理解してくれた! 初めてだった──それはあなたの人柄によるものよ······!」
すると、もはやツユリはパンジーと目を合わせることすらしなくなってしまった。
「それは私がそのように存在してきたから。染み付いてるの。あなただけがそう思っているわけではないのよ」
「そ、そんな······!」
「ツユリ、時間をくれぬじゃろうか?」
今度はダンブルドアが口を開いた。ツユリは、もはや自嘲するような顔でダンブルドアを見上げる。
「時間、ですか?」
「左様······儂らは確かに無力じゃった。じゃが事情を知った今なら、何か出来るかもしれぬ」
「できませんよ」
「ツユリ······」
歩み寄ってくるダンブルドアに目を背け
「だから日本魔法省は私を幽閉しようとしたのです。ルシウスの介入で私を手離したのは、厄介払いでした」
「儂は君を厄介払いしたくないんじゃ! ここはホグワーツ──助けを必要とする生徒には、手が差し伸べられなければならん」
「ご心配なく。私は生徒ではなくなりますので」
「ツユ! そんなこと言わないで!」
ツユリは3人に囲まれ、苦笑いして目を閉じた。
「納得出来ないなら······そうね」
ツユリはドラコに視線を向けた。ルシウスとパンジーを退け、一歩前に踏み出してくる。
ドラコは息を呑んだ。正面から見据えられ、黒目が夜行性の獣のように光を宿した気がしたのだ。
反射的に目を逸らそうとする。しかしツユリが手を上げると、まるで冷たい両手で顔をホールドされたかのように動けなくなってしまった。
「っ······!?」
入ってくる──。
何かが──ドラコの魂に触れる──。
ふわり、と意識が浮上するような感覚があった。視界は白く染まり、目の焦点が合わなくなる。この上ない幸福感が心を満たし、次に焦点が合ったときには──ツユリのような、ツユリではないような女が、菩薩の微笑みを浮かべ両手を広げていた。
まるで迎え入れるように。
立って歩くことを覚え始めた我が子を手招きするように。
ようやく出逢えた──ドラコの心は満たされる。
さみしかった。
心細かった。
どうやったら生きていけるのか、分からなかった──。
でも、もう大丈夫だ。母がいるから。決して自分を見捨てず、否定せず──何があっても愛してくれる、母は、ここにいたのだ──。
ドラコは、応えるように手を伸ばした。
ゆっくりと立ち上がり、母のもとへと歩みを進める。
彼女の腕に飛び込んでしまえば、何もかも、もう大丈夫──。
※ ※ ※
まるで操り人形のように歩み寄ってくるドラコ。
その恍惚とした表情にルシウスは愕然としていた。
視界の端では、次々に崩れ落ちていく者達。驚いて周囲を見回すと、パンジーが横倒しになり、ダンブルドアが膝をついて倒れた。ドラコを守るように寄り添っていたスネイプだけがかろうじて意識を保っていたが、立ち上がることは出来ずにもがいている。
ルシウスは慌ててツユリに向き直った。
「ツユリ、どういうつもりだ!?」
ツユリはクスリと笑みを浮かべる。
「あなたの願いを叶えてあげようと思って──私を手放したくないのでしょう? それは、こういうことよ」
「な、何を馬鹿な······!?」
「大丈夫ですよ──ドラコの苦しみを、取り除いてあげるだけです」
ルシウスは言葉を失った。
始めて彼女が、得体の知れない存在に見えた。
しかし、初めて会ったあの時──彼女が助けてくれたのも、介抱してくれたのも──また事実なのだ。
(そんなツユリが、ドラコに──ひどいことをする筈がない)
スネイプは歯を食いしばり、そんなルシウスを睨みつけていた。
ドラコは一歩、また一歩と──ゆっくりツユリのもとへ歩いていく。
※ ※ ※
『良い子じゃ、ドラコ──さあ、こちらへ──』
ツユリの喉からは、もはやツユリではない──何者かの声が響いていた。
魂の底に響くような声。
水底より響き渡るような深い音色が、頼りなげに歩むドラコを励ましていた。
そんな中、彼は差し出された手に手を重ねる。
糸が切れたかのように座り込むドラコを、ツユリがやさしく受け止める。
『よう頑張った。偉いのう。なんと愛しい、我が子よ──』
頬をひやりと包み込まれ、ドラコは嬉しそうに微笑んだ。
幼い子供のような無邪気な表情に、棒立ちになっている大人が苦しげに声を上げるが──
「違う······この子は······!!」
ドラコにはその意味など分からない。
興味もない──ただ、目の前の愛しい母を見つめるだけだ。
『ドラコ──ドラコ・マルフォイ──』
母の声が心を満たす。
『そなたは我らの家族になるのじゃ──母の名を、呼んでおくれ』
魂の底に、その名が灯る──目の前の母と家族に──それはとても幸せなことのように思われた。
この母ならば、守ってくれる──愛してくれるのだから。
たとえハリー・ポッターにクィディッチで勝てなくとも、ハーマイオニー・グレンジャーに勉強で勝てなくとも、責められることは、なくなる。
抱き締めてもくれない父親に、命令されることも──。
「──我が母──」
でも、なぜだろう?
不意に、別の顔が頭を掠めた。
ドラコと同じプラチナブロンドに、薄水色の瞳の女。
か弱く、儚く、いつまでも少女のようだったナルシッサ・マルフォイが、目にいっぱいの涙を浮かべている──。
(僕は、なぜツユリを避けていたんだっけ? こうなることを恐れていたはずだ──でもルシウスは、父は僕より、ツユリを選んだ──)
父に吠えメールを送り付けられたことを思い出す──それがスリザリン内で、どれほどドラコにとって致命的だったか、分からない父ではなかったはずだ。
手紙で再三、訴えた──まるで聞こうともしてくれなかった。
そして、ついさっきの出来事──苦しくて座り込んだドラコよりも、ルシウスは散々ドラコを苦しめてきたツユリに駆け寄っていった。
(名前を──名前を呼ぶだけでいい)
津柚利比女は急かさなかった。
やさしい、つめたい微笑でもって──しずかに待ってくれている。
ドラコはついに口を開いた──しかし、その瞬間。
「やめろ!! 私の息子だ!! ドラコはたったひとりの、私とナルシッサの息子だ······!!」
ツユリとの絆を断ち切るように、ルシウスが割り込んできた。ドラコは大きく目を見開く。抱き締められていたのだ──父の力強いぬくもりに守られ、ドラコの視界は開かれていく。
「ドラコ、ドラコ······!!」
ドラコは呆然としていた。
「父上······」
小さく呟くと、長いプラチナブロンドの向こうでツユリは笑みを浮かべていた。
ゆっくり、ひとつ頷いて、何も言わずに踵を返す。
ドラコはもう、彼女の名前を呼ばなかった。
名も無き少女をそっと見送り、むせび泣く父の背中に手を回す。
ぼんやりと、天井を見上げた。
──姉ができると知って嬉しかった。
──親友がほしかった。
──恋人でもいい。
誰もいない──だけど、自分には父がいる。
完璧ではないかもしれない──押しつけがましく、何も分かってくれない父だ──だけど、それでいいのかもしれない。
少なくとも、自分を愛してくれている──それだけでも、いいのかもしれない──。
※ ※ ※
津柚利はホグワーツの長い廊下をひとり行く。
『なぜじゃ、津柚利?』
母の声に足を止めた。物思いに耽るように、遠く、長く続く廊下の先を見つめる。
『外に出たかったのであろう? アレを気に入っていたではないか』
それは事実だった。
ルシウスを見つけたとき、津柚利はその姿に世界の広さを見た。目の覚めるようなプラチナブロンドに、青灰色の瞳。仕立てのいい黒いローブに、立派な蛇のステッキを手にした姿──黒い髪と黒い瞳を持つみかげの
そして出会った、息子のドラコ──あれほどまでに津柚利比女の影響を受けながらも、姉としての津柚利を求め、焦がれていた──それがどんなに嬉しかったか。津柚利を津柚利として求めてくれた、ただひとりの人だったかもしれない──だからこそ、できなかった。
取り込むことなど。
それは、彼から本来の生を奪うことになるのだから。
(私が、誰かを求めるということは、そういうこと──それなら、生き続けることに意味なんてあるの?)
津柚利は深く息をついた。
黒いまなざしを閉ざし、静かに告げる。
「ええ──でも、違うの。母上」
『何が違う?』
「疲れたの」
『──なに──?』
唇に笑みを刷く。
まるで子離れできぬ母に言い聞かせるように、津柚利は言葉を紡ぐ。
「人にどうして寿命があるのか、知っている?」
『それは、ヒトが脆弱だからじゃ。守ってやらねば生きられぬほどに──じゃから、妾は──』
「でもそれはね、世界の慈悲でもあるのよ」
『慈悲……?』
「ヒトの心は耐えられないの。終わりのない日々に──たた、生き続けなければならないことに」
母は言葉をなくす。
その意図を察せないはずのない母は、沈痛な気配に包まれる。津柚利は泣き笑いの表情で、天を仰いだ。
「お母様が大好きよ。誰にも渡したくないほどに。そして、一緒にいたかった──貴女を独りにしたくなかったの。
でも、ごめんなさい──私は、ヒトの倍以上は生きた。神として、生き続けてきた──とうに寿命を超えてしまった」
母は、その姿を現す。
巨大な白蛇が、哀しげに津柚利の鼻先を舐める。
津柚利は、その血のような赤い瞳を見つめ返し、眦から涙を零す。
「もう、終わりたいの──ごめんなさい──」
津柚利比女は怒らなかった。ただ、労わるようにその身体で津柚利を包み、やさしく、つめたく、声をかける。
『何を謝ることがある。母は子を守るものじゃ。なのに気づいてやれなんだ──謝るのは、妾の方じゃ──』
津柚利は両手を大きく広げた。
その腕の中に静かに収まり、大白蛇は娘の涙をそっと吸い取る。
『苦しめて、すまなかった──共に逝こう。なに、怖くはない。母も共に逝ってやろうぞ──』
その言葉と共に母娘は、ほろり、ほろりと崩れてゆく。
崩れたそばから霞となり、地に落ちもせず散ってゆく。
『いとしい娘──我が津柚利よ。共に輪廻の輪の中に──』
そのとき、津柚利は心からの安らぎを感じていた。
始めからこうすれば、よかったのだ──あの時──肉の母を殺めたときに、自分は既に、死んでいたのだから──。
その場には、何も残らなかった。
ホグワーツの地に