ヒカルの九路盤 作:九路星人
金曜日の午後。ヒカルは学校帰りに立ち寄ったファーストフード店で、ポテトをつまみながらぼんやりと空を見ていた。
脳裏には、昨晩の佐為との十九路盤での対局が残っている。勝ったはずなのに、どこか落ち着かない気分だった。
「……俺、この世界の何を変えたいんだろうな」
そのつぶやきに返事はなかった。昨日夜更かししたためか、佐為は幽霊のくせにスヤスヤと寝ている。
だから、ヒカルは自分の中にある問いと向き合うしかなかった。
そこへ、一人の少年が姿を見せる。
「……ここにいたか進藤」
塔矢アキラだった。
「なんだよ塔矢。囲碁の相手を探してたのか?」
「いや……それより大事な話がある」
塔矢アキラは、空いていたヒカルの前の席に座った。
「唐突だが、日本棋院が十九路盤を使った大会を開催することになった」
ヒカルはポテトを落としそうになった。
「……は? 今、なんて?」
「聞こえなかったのか? 『本因坊杯』と名付けられた、新しい公式大会だ。十九路盤を使用し、若手棋士を中心に競われる。その発案者として……君の名前が記されている」
「……ええええええ!?」
ヒカルは椅子から半分立ち上がった。
「な、なんで俺の名前が!? そんなの知らないし、聞いてないぞ!」
「今聞いただろう。父が棋院理事会で提案し、即日承認されたらしい。君が塔矢行洋と非公式に対局したこと、それに勝利したことが、すでに多くの棋士の間で話題になっている」
「ちょ、待てって! 勝手に名前使うとか……っつーか、俺、まだアマだぞ!?」
「それが、棋院の答えだ。プロであるかどうかよりも、十九路盤の立役者としての存在感が重要なのだと。実際、この世界で十九路盤を使いこなせる者は、今のところ君しかいない」
ヒカルは言葉を失った。
まさか、自分が……大会の発案者として関わる?
「……俺が、運営側に?」
「そうだ。棋院は君に、ルール整備や推薦選手の選定など、実務にも協力してほしいと考えている。これは前代未聞の挑戦だ。形式ばかりに囚われた大人たちには、この大会を成功させる力はない」
ヒカルはあんぐりと開けていた口を結び、少し俯いた。
(本因坊……この世界にはなかった名前。その名前で、十九路盤の大会が……)
そのとき、ヒカルの心の中に灯がついた。
(ここまでお膳立てされたんだ。だったら、俺がちゃんと最後までやらなきゃな……)
「……わかった」
ヒカルは立ち上がり、テーブルに手を置いた。
「俺がやる。中途半端な大会にはしたくない。誰もが、十九路盤の魅力に気付くような、そんな大会にしてやるよ」
アキラが微かに口元を緩めた。
「良かった。……正直、ここで断られたらすごく困っていたところだ」
その瞬間、ヒカルの背後で佐為が囁いた。
(ヒカル……ようやく、囲碁の未来が動き出すのですね)
十九路盤の宇宙が、いま囲碁界全体を巻き込み始めていた。
数週間後、本因坊杯初日。
ヒカルはこの日のために用意した小学生用のYシャツとネクタイ姿で、日本棋院の控え室にいた。逆行する前に、若手プロとして取材を受けたりしていた頃を思い出す。
普段とは違う役割に、落ち着かない気持ちを抱えながらも、視線はまっすぐだった。
「進藤ヒカル君ですね。今日はよろしくお願いします」
運営スタッフ、院生、若手棋士、報道関係者……次々に声をかけられるたび、ヒカルはその都度、軽く頭を下げて応じた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。……今日は、最高の大会にしたいと思ってます」
控え室のテレビには、初めて一般公開される十九路盤の映像が流れていた。急遽特注された本カヤ製の十九路盤と、大量の白と黒の碁石の入った
解説者が興奮気味にその広さと可能性を語っている。
ヒカルは深く息を吸い込んだ。
(ここからが本番だ)
名人・塔矢行洋がテレビに映り、これまでの経緯を話す。その中に、進藤ヒカルという名も出てきた。
十九路盤。その宇宙を、より多くの人に知ってもらうために。本因坊杯は、幕を開ける。
エタらないように、少し休憩します。