ヒカルの九路盤 作:九路星人
本因坊杯、開幕。
十九路盤で行われる、世界初の公式囲碁大会。会場である日本棋院は、今までにない熱気に包まれていた。
その中央で、進藤ヒカルはYシャツとネクタイに身を包み、控えめに運営の指揮を執っていた。
(ヒカル! 本当に十九路盤で碁が打たれるのですね……)
ヒカルの傍らで感慨深げに言ったのは佐為だった。
(十九路盤の大会……。これが、私の時代にもあれば……)
「言うなって。今は、ここが俺たちの時代だ」
ヒカルはスケジュール表を見ながら、開始時刻を確認した。午前の部、一次予選が間もなく始まる。各対局室ではすでに選手たちが着席し、開会の挨拶が終わるのを待っていた。
「では、午前の部、第一局開始します!」
進行役のアナウンスが場内に響くと、十九路盤の上に黒白の石が静かに置かれていく音が鳴り始めた。
ヒカルはスタッフ用モニターをのぞきこむ。表示された各対局の状況に目を走らせる。参加者は全国から選抜された若手棋士、院生、特例枠の強豪アマチュアを含む計32名。そのうち、注目の5名が、他を圧倒する存在感を放っていた。
第一対局:塔矢アキラ vs 有力院生
塔矢アキラの手には、迷いがなかった。彼の打ち筋は、九路盤で鍛え上げられた正確さに、十九路盤への適応力が加わり、研ぎ澄まされた直線のようだった。
「……一手一手が重い。これが、塔矢アキラの囲碁か」
対戦相手の院生が、額に汗をにじませる。十九路盤に慣れていない世界の棋士たちの中で、アキラは唯一、すでに深淵の一端を覗いていた。
結果は中盤で明確な差がつき、アキラが危なげなく勝利を収めた。
第二対局:越智康介 vs アマ代表
「おいおい、こんなに広い盤で、どう手を読めばいいんだよ……」
初手から終始冷静だったのは越智康介だった。彼の碁は堅実で、かつ読みが深い。モブのアマ代表は、序盤で一つ大きなコウを見誤り、中央で戦線を崩壊させてしまう。
淡々と石を並べながら、越智は最後の一手を置いた。
「ありがとうございました」
その静けさが、逆に怖いほどだった。
第三対局:和谷義高 vs 院生
和谷は、他の対局者と比べてもやけに楽しそうだった。
「うおっ、こんなとこに手が入るの!? 十九路ってマジおもしれーな!」
対局相手の院生は、そのテンションに圧されながらも健闘を見せた。だが、盤上の勢いは止まらない。
「読み切り勝ちィ!」
勝敗が決まると、和谷は満面の笑みで立ち上がった。
第四対局:伊角慎一郎 vs プロ試験常連
伊角は静かだった。余計な言葉は交わさず、ただ盤面とだけ対話していた。
十九路盤において、彼の正確な地取りと安定した構想力は光る。相手が攻めてきた際も、冷静に反撃し、じわじわと勝勢を築いた。
「伊角さん、さすがですね……」
運営スタッフのひとりが漏らす声に、ヒカルはうなずいた。
「うん、あの人は『勝ちに行く』棋士だよな」
第五対局:社清春 vs アマ上位
社は盤面をじっと見つめたまま、ほとんど表情を変えなかった。関西棋院の新星。独特の感性で十九路盤を飲み込んでいく姿に、会場の注目が集まっていた。
「どうして……俺の地が、こんなに……?」
対戦相手は知らず知らずのうちに中央を取られ、外周も固められ、敗北に追い込まれた。
最後の一手を打ち終えた社が、ぽつりとつぶやいた。
「おもろいわ、この盤」
ヒカルは勝者の名前を見ながら、小さく息をついた。
「……やっぱり、そうだよな」
(はい、ヒカル。この時代の棋士たちも、やはり強さに貪欲なのですね)
佐為がうれしそうに言う。ヒカルもうなずいた。
九路盤しか知らなかった世界が、十九路盤という宇宙を前にし、新しい棋譜を描き始めた。その第一歩として、午前の部は、確かに成功していた。
(午後の対局は、もっと荒れるかもしれないな……)
ヒカルは緊張と興奮が入り混じった面持ちで、会場全体を見渡した。