ヒカルの九路盤   作:九路星人

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第12話「伊角 VS 塔矢アキラ」

 本因坊杯、午後の部。

 

 伊角慎一郎(黒)と塔矢アキラ(白)が対峙した一局は、静謐な緊張感の中で幕を開けた。

 日本棋院の対局室、窓の外には薄曇りの空が広がっている。沈黙に包まれた室内では、唯一、時計の針の音だけが時を刻んでいた。盤を挟んで座るふたりの若き棋士には、観戦者の存在すら意識にない。ただ、十九路盤という宇宙だけが、目の前に厳然と広がっていた。

 

 星の下、二人は互いの視線を交わすことなく碁盤に向かった。

 伊角は黒石を左上、右下の星に軽やかに打ち込み、地を見据えた安定の布石を選ぶ。星──九路盤に慣れた者であれば、中央よりの布石に躊躇が生まれるものだが、伊角に迷いはない。

 

 一方、塔矢アキラは右上と左下の星へと白石を配した。彼の指先には揺るぎない意志が宿っている。あえて外勢よりも地を重視する構え──それは、相手の打ち筋を見極めた上での選択だった。

 

(ここまでは予想通り)

 

 ──伊角の胸中に、静かな手応えがあった。互いに星を選んだ時点で、序盤の方向性は定まっている。中央にはまだ厚みを残さず、辺をじっくりと固めるつもりだ。十九路盤の広さの中で、確かな地をひとつずつ築く。それが伊角の戦略だった。

 

 辺から火花が散ったのは、十数手を越えた頃だった。

 右辺、塔矢が打ち込んできた。浅いようで深い打ち込み──それは単なる侵入ではなく、明確な意図を含んでいた。伊角はすぐに応手を打ち込む。

 

(仕掛けてきたか)

 

 しかし、塔矢の白はそれに応じてさらに間を詰めてくる。緩やかなようでいて、着実に黒を狭めてくる白。伊角は辺の戦いを制しさえすれば中央は安泰──そう計算して打ち返していたが、その見通しが崩れたのは、次の白が打たれた瞬間だった。

 

「……ここか」

 

 塔矢は右辺の戦いをくぐり抜けるように、天元を射程に入れた、中央線近くの要点に白を置いた。打ち込みから連動したその一手は、ただの厚みではない。周囲の石をすべて生かしながら、黒の勢力圏を根こそぎにしかねない、計算された布石だった。

 

 伊角はそこで愕然とする。

 辺の勝負に集中するあまり、中央の要点を見落としていた。視界の隅にあったはずの「一点」が、白によって現実の重さを持ちはじめる。塔矢アキラの中央への一手が、まるでコーヒーに落とされたミルクのように、盤面の調和を支配していく。

 

「中央を嫌ったのは読み違いか……」

 

 それでも伊角は石を投げない。自らの判断を疑いながらも、黒石を辺で活かす。打ち手に迷いはない。ただし、その一手一手には、焦燥の色が混じりはじめていた。

 

 塔矢は一歩も引かない。むしろ、中央に白の厚みを築いたことで、彼の碁はさらに洗練されていく。終盤へと入る頃には、塔矢アキラの白は盤面に溶け込むように広がり、伊角の黒はその外周で細々と生きる形となっていた。

 

 ヨセ──勝敗を分ける最後の戦い。

 伊角は小目を細かく拾い、可能な限りの数目を稼いだ。だが、中央で失った十数目はあまりにも大きかった。塔矢の白は、細かな変化をすべて読み切り、いささかのミスもなく地を確定させていく。

 

 最後の一手を打ち終え、わずかに手を引いた伊角の手が止まる。

 そして、静かに頭を下げた。

 

「……ありません」

 

 伊角のその声は、静まり返った対局室に、凛とした響きを残して消えた。

 伊角慎一郎の黒が投了したとき、盤上には塔矢アキラの白石が中央に拡がり、広がりながら黒の勢力を包み込むようにして勝利を告げていた。

 

 雪解けのように碁盤の氷が溶ける音は聞こえない。しかし、その一局の静かな破壊力は、二人の心に深く刻まれた。白が誘い、黒が乗り、中央の一手が運命を決した──。

 

 十九路盤。失われた広大な世界が、再び目覚めようとしている。

 その第一声は、若き棋士たちの手によって、確かに紡がれ始めていた。

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