ヒカルの九路盤   作:九路星人

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エイプリルフール、三日目――。


第3話「塔矢アキラ、九路の天才」

 碁会所の静けさを破るように、扉が開いた。

 

「進藤ヒカル……やはり、ここにいたか」

 

 その声に、ヒカルは驚いて顔を上げた。そこに立っていたのは、子供の塔矢アキラだった。

 

 黒色の髪をきちんと整え、鋭い眼差しを向けてくるその姿は、ヒカルの記憶とまったく変わらない。だが。

 

(塔矢アキラも……十九路盤を知らないのか?)

 

 ヒカルは喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。佐為ですら九路盤しか知らないこの世界。ならば、アキラもまた、この狭い碁盤の上での戦いしか知らないはずだった。

 

「塔矢……なんでここに?」

 

「君を探していたんだ」

 

 塔矢アキラはそう言って、ゆっくりと室内に足を踏み入れる。碁会所にいた客たちも、アキラの登場にざわつき始めた。

 

「おや、塔矢アキラくんじゃないか」

 

「あの塔矢行洋名人の息子の……」

 

 碁会所の人々がアキラのことを知っているということは、やはりこの世界でもアキラは若き天才として知られているのだろう。ただし、それは九路盤の世界において、だ。

 

 ヒカルは唇を噛んだ。アキラが九路盤しか知らないというのなら、それはつまり――

 

「進藤ヒカル」

 

 アキラが真っ直ぐな目でこちらを見据えた。

 

「君が最近、碁の打ち方を変えたという話を聞いた。今まで見たこともないような手を使っているらしいな」

 

 ヒカルはギクリとした。

 

(俺が十九路盤の知識を応用して打ってることが、もう広まってるってことか……)

 

 当然といえば当然だ。ヒカルの打ち筋は、この世界の誰もが使わない戦略だったのだから。

 

「それで、お前はどうするんだ?」

 

「決まっている」

 

 アキラは静かに、しかし力強く言った。

 

「僕と対局しろ」

 

 碁会所の空気がピンと張り詰めた。

 

 佐為が驚いた表情でヒカルを見つめる。

 

(ヒカル……彼は強いですよ)

 

 ヒカルは内心苦笑した。

 

(そりゃあそうだろうよ。アキラは元々天才だ。たとえ十九路盤がなくても、九路盤の世界で頂点に立っていてもおかしくない)

 

 ヒカルは目の前の九路盤を見た。佐為と打っている途中だったが、佐為もまた興味深そうにアキラを見ている。

 

(佐為、悪いけどこの対局、中断してもいいか?)

 

(ええ、構いません)

 

 佐為はニコリと笑った。

 

(ヒカルと塔矢アキラ……これは見届ける価値のある対局ですね)

 

 ヒカルはゆっくりと息を吸い、目の前のアキラを見た。

 

「……いいぜ。やろう」

 

 アキラの目がさらに鋭くなる。

 

 二人は静かに座り、碁石を並べ始めた。九路盤の対局が始まる――。

 

 アキラの先手。

 

 黒い碁石が、盤上に正確に置かれた。

 

 ヒカルは盤面を見つめる。九路盤は狭い分、一手の意味が大きい。相手の意図を見抜き、先を読むことが何よりも重要だ。

 

(……まずは、アキラの実力を見てやるか)

 

 ヒカルは自然な布石を打ち、様子を探る。

 

 しかし――

 

(……っ!)

 

 アキラの次の一手を見た瞬間、ヒカルの背筋がぞわりとした。

 

(こいつ、九路盤の感覚が……異常に鋭い……!)

 

 アキラの手は、まるでこの盤面の全てを見通しているかのように、完璧な配置だった。無駄がなく、効率的で、しかも攻撃的。

 

(……さすがアキラ。十九路盤じゃなくても、こんなに強いのかよ)

 

 ヒカルは口の中が乾くのを感じながら、次の手を打つ。

 

 だが、アキラの一手がそれを封じる。

 

 さらに次の手を読まれ、押さえ込まれる。

 

(やばい……!)

 

 わずか数手の間に、ヒカルは追い詰められた。

 

 周囲の観戦者たちがざわめく。

 

「塔矢アキラの打ち回し……やはりすごい」

 

「ヒカル君も強いが、これは厳しいか?」

 

 ヒカルは左拳を握った。

 

(このままじゃ……ダメだ)

 

 自分は、この世界で十九路盤の囲碁を知る唯一の存在だ。

 

 それなら――

 

(この世界にはない打ち方を見せてやる)

 

 ヒカルは目を閉じ、十九路盤の記憶を呼び起こした。

 

(広い盤面での戦略を……九路盤に落とし込む)

 

 目を開けた瞬間、ヒカルの指が動いた。

 

 碁石を置く音が響く。

 

 アキラの目がわずかに見開かれる。

 

「……なんだ、その手は?」

 

「さあな」

 

 ヒカルはにやりと笑った。

 

 それは、この世界の誰も使わない十九路盤の考え方を応用した手だった。

 

 アキラはしばし沈黙し、じっと盤面を見つめる。そして、ゆっくりと次の一手を打った。

 

 試してきた。

 

(こいつ……この打ち方に対応しようとしてるのか?)

 

 ヒカルの胸が高鳴った。

 

 この世界で、十九路盤の戦略を九路盤に持ち込むことができるのか。

 

 それを試せる相手が、ここにいる。

 

「……面白いな」

 

 アキラが静かに言った。

 

「ヒカル、君のこの打ち方……どこで覚えた?」

 

「俺に勝ったら教えてやるよ」

 

 ヒカルは肩をすくめた。

 

「でも、俺の全力はこんなもんじゃねえぜ」

 

「そうか……なら、僕も全力で行く」

 

 二人は盤面に集中した。

 

 静かな碁会所に、碁石を打つ音だけが響く。

 

 周囲の観戦者たちは誰もが息を呑み、この対局を見守っていた。

 

 九路盤の世界に、十九路盤の戦略が入り込んだ瞬間だった。

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