ヒカルの九路盤   作:九路星人

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エイプリルフール、六日目――。


第6話「囲碁界の憂鬱」

 名人・塔矢行洋は書斎の机に向かい、静かに湯呑を手に取った。窓の外には夕焼けが広がり、橙色の光が書棚に並ぶ数々の棋譜を照らしている。

 

 彼はふと、机の上に置かれた九路盤を見つめた。

 

「……この盤の上で、我々は何を追い求めてきたのか」

 

 九路盤……それは、この世界の囲碁界において絶対的な存在だった。囲碁とは九路盤の上で競い合うもの。その前提に疑問を抱く者は誰もいない。何百年にもわたる棋士たちの研鑽が、九路盤の中に凝縮されている。

 

 しかし――

 

「このままで、本当にいいのだろうか?」

 

 彼は深く息を吐いた。

 

 若手の棋士たちは確かに才能にあふれ、日々新たな戦法を生み出している。しかし、行洋の目には、それがどこか閉じた世界に見えた。九路盤の中で完成された戦いを繰り返すばかりで、進化の限界が迫っているように思えたのだ。

 

 行洋は机の引き出しから一冊の古い書物を取り出した。それは、過去の棋士たちが記した囲碁の研究書だった。そこに書かれていた一節が彼の記憶に残っている。

 

「囲碁とは、無限の宇宙である――」

 

「無限の宇宙……か」

 

 その言葉をかみしめる。九路盤の中に、果たして無限の宇宙があるのだろうか。あるいは、彼らはまだ何かを見落としているのではないか。

 

 そこへ、書斎の扉が静かに開いた。

 

「お父さん、失礼します」

 

 塔矢アキラだった。

 

「どうした?」

 

 アキラは少し躊躇いがちに言葉を選びながら、口を開いた。

 

「……進藤ヒカルが、奇妙なものを作ったのです」

 

「奇妙なもの?」

 

「十九路盤という、大きな碁盤を」

 

 行洋の指が一瞬止まる。

 

「……十九路盤、だと?」

 

「はい。しかし、そんな大きな盤では囲碁になりません。碁とは九路盤で完成されているものです。彼は無駄なことをしていると思います」

 

 行洋は目を閉じたまま、しばらく沈黙した。

 

「……お前は、本当にそう思うのか?」

 

「え?」

 

 アキラは戸惑った。

 

「……囲碁は本当に、九路盤で完成されているのだろうか。あるいは……私たちは、何かを見落としているのかもしれない」

 

 塔矢行洋の目が、静かに十九路盤という未知の存在を見据えていた。

 

「今度、進藤ヒカル君を連れてきなさい。その十九路盤とやらで、一局打ってみよう。それで、全てがはっきりするはずだ」

 

 囲碁の世界に、無限の宇宙はあるのか。その疑問は、塔矢行洋の中で大きくなる疑問であり、確かめねばならない真実なのだった。

 

 

 

 

 数日後、塔矢行洋は自宅の奥の静かな部屋に座っていた。

 

 ふと扉が開き、塔矢アキラが進藤ヒカルを伴って入ってきた。

 

「お待たせしました、お父さん。進藤ヒカル君を連れてきました」

 

「初めまして、進藤ヒカルです」

 

 ヒカルは少し緊張した面持ちだったが、その目にはどこか挑戦的な光が宿っていた。

 

 目の前には画用紙とテープで作られた十九路盤。進藤ヒカルの作ったものだ。

 

「……これが、十九路盤か」

 

 行洋は静かに指を盤に這わせた。九路盤とは全く異なる広大な空間。それは、彼が今まで知っていた囲碁とは別次元のものに思えた。

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