ヒカルの九路盤 作:九路星人
静寂が支配する塔矢行洋邸の奥の一室。その空気には、まるで時が止まったかのような重みがあった。
部屋の中央には、一際目を引く巨大な盤――十九路盤が据えられていた。だがそれは市販のものではない。画用紙を並べ、透明なテープで補強された手作りの盤である。粗雑とも取れるそれは、しかし異様な存在感を放っていた。
塔矢行洋の目が、その盤をじっと見据える。
「十九路盤……」
その声は低く、微かな震えがあった。指先が盤の縁をなぞる。ざらりとした紙の感触が、行洋の思考を刺激する。通常の九路盤では、序盤の配置は限られ、戦いはすぐに白熱する。だが十九路盤は違う。広大で、果てしない。まるで宇宙を覗き込むようだった。
そこには、読みの力、構想力、そして胆力――すべてが試される世界が広がっている。
「進藤君、君はこの盤で打てるのか?」
問いかけに、ヒカルは一歩も引かぬ眼差しで頷いた。
「もちろん!」
進藤ヒカル。その瞳には、迷いも恐れも無い。ただ盤上に己をぶつける覚悟だけがあった。
「「お願いします」」
静かに見守る塔矢アキラの視線が、父とヒカルの間に注がれる。重い緊張が部屋を包み込んでいた。
行洋は黒石を取り、盤の中央――天元に静かに置いた。盤の中心に打つこの一手は、古来より示威の意味を持つ。まるで「この盤全体を我が支配する」と言わんばかりに。
ヒカルの表情がわずかに動いた。内心では驚きを隠せなかった。初手天元は、十九路盤の定石からは外れた一手。しかしヒカルは動じなかった。白石を指に挟み、盤の隅の星の隣――小目へと打ち込む。
これは、ヒカルの知る囲碁の基本に忠実な手だ。序盤は隅から打つ。地を固め、そこから辺、そして中央へと広げていく。進藤ヒカルの白は、理論に則った一手で応じたのだった。
十九路盤を舞台にした、前代未聞の対局が静かに幕を開けた。
序盤、塔矢行洋は九路盤で培った精密な布石を、慎重に一手一手積み上げていく。その石には無駄がなく、まるで設計図通りに配置される建築物のようだった。石の間隔は適度に保たれ、互いに連絡し、確実に地を築いていく。
しかし、その堅実さが、盤面の広さに対して窮屈さを生んでいた。
「この広さ……」
行洋が呟く。
十九路盤は広い。中央から隅まで十数手かかる距離がある。戦いが起これば、その一局はまるで長編小説のように展開し、読みの力は深く、そして果てしない。僅かなミスも、数十手後に響いてくる。
ヒカルはその広さを余すところなく使い、盤の各所に白石を配置していく。それは明確な地を目指すものではなく、模様、勢力圏の構築を意図したものだった。
模様は形にはなっていない。だが、広がれば、相手を圧倒する力を持つ。白石たちは、まるで生き物のように呼応し合い、繋がりを主張している。
数手が進んだ頃、塔矢行洋はふと違和感を覚えた。
(この局面……九路盤の感覚では通用しない……)
行洋の黒石は局所的にはしっかりしている。だが、十九路盤の広さの中では、それらは孤立し、繋がりを失い始めていた。碁とは本来、石と石が連携して力を発揮するゲーム。その連携を断たれれば、たとえ部分的に強くとも全体としては崩壊する。
中盤に差し掛かる頃、ヒカルの白石は大胆な侵入を開始した。
「ここ!」
声と共に白石が放たれる。黒の構えを切り裂く鋭い一手。その瞬間、空気が揺れた。
塔矢行洋の目が見開かれる。自身が築いた地が、音もなく断ち切られる。
(まさか……このような打ち方があるとは)
読みの精度、形のバランス、そして構想の大きさ。どれを取っても、ヒカルの白は、十九路盤に適応していた。
行洋は石を置こうとするが、指が止まる。そして、静かに手を膝の上に戻した。
「……負けました」
その一言に、塔矢アキラが息を飲む。名人・塔矢行洋が、敗北を認めた。
だが、その表情に悔しさはなかった。むしろ、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「囲碁とは、無限の宇宙である――」
広大な十九路盤の果てに、行洋は新たな世界を見たのだ。
「進藤君、これは……なんというか……素晴らしい」
模様の美しさ、戦いの深さ、構想の雄大さ。そのすべてに心を打たれた。
図らずも立会人となった塔矢アキラの目にも、黒と白の織り成す
この対局を境に、囲碁界の常識が、変わろうとしていた。