ヒカルの九路盤   作:九路星人

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エイプリルフール、八日目――。


第8話「囲碁界の動揺」

 十九路盤による非公式の一局で、塔矢行洋は敗北した。しかし、行洋はその敗北にこそ価値を見出していた。あの広大な盤面での戦いには、九路盤では決して感じることのなかった深遠な世界があった。

 

 そして、行洋は決断した。

 

「十九路盤による公式戦を開催する。それが、囲碁の未来に繋がる道だ」

 

 その翌週、塔矢行洋は日本棋院の理事会室に姿を現した。理事たちは皆、名人の登場に身を正す。

 

 行洋は一礼の後、十九路盤を描いた特注の碁盤をテーブルに置いて言った。

 

「私は、新たな棋戦『本因坊杯』の創設を提案します。この杯は、十九路盤を用いて行う、まったく新しい試みです」

 

 重苦しい沈黙が会議室を包んだ。

 

「……名人、それは一体どういう意味ですか?」

 

 最初に口を開いたのは、日本棋院の理事の一人だった。

 

「囲碁とは、九路盤を基本とするものであり、歴史的にも文化的にもそれが礎となっております。十九路盤など、前例がありません」

 

「前例がないからこそ、挑戦する価値がある」

 

 行洋の声音は静かだが、確固たる信念に満ちていた。

 

 そこへ、遅れて入室してきた男がいた。

 

「……やれやれ、また爆弾を持ち込んでくれましたね」

 

 緒方九段だった。

 

 顔にうっすらと苦笑を浮かべながらも、その眼差しは鋭い。

 

「名人が十九路盤に可能性を見出したと聞いて、ただの噂かと思ってましたが……本気だったんですね」

 

「緒方君。私は本気だ。十九路盤には、囲碁の根源的な宇宙がある」

 

「……そうおっしゃるなら、僕も意見は述べますよ」

 

 緒方はゆっくりと歩を進め、行洋の持参した十九路盤に目を落とした。

 

「面白い。けれど、この盤面で試合をするには、覚悟と理論、そして感覚が必要です。ほとんどのプロは九路盤の構造に最適化された感覚しか持っていない。名人は、それをどう埋めるおつもりで?」

 

「学び、進歩するしかない。私はこの目で、十九路盤で打つ少年を見た。その打ち筋は、すでに我々を超えていた」

 

「……進藤ヒカル、ですね」

 

 緒方がつぶやくように言った。

 

「彼の話は、私のところにも届いています。とんでもない打ち方をする少年がいる、と」

 

 会議室の空気がざわめいた。理事たちは顔を見合わせる。

 

「……緒方九段、それは本当ですか?」

 

「ええ、事実です。進藤ヒカルの存在が、今や静かにプロたちの間に波紋を呼びつつある。塔矢名人が彼に敗れたと聞けば……この動揺も無理はないでしょう」

 

「その動揺こそが、変化の兆しだ」

 

 行洋は立ち上がり、ゆっくりと語り始めた。

 

「囲碁とは、盤面における自由な発想と進歩の歴史。かつて九路盤とコミのルールが生まれた時代があり、そこから我々の囲碁は築かれてきた。ならば、十九路盤に挑むことは、必然的な進歩だ」

 

「……しかし、公式戦として成立する保証はどこにあるのですか?」

 

 別の理事が懸念を口にした。

 

「それは、我々がこれから証明していく。プロ棋士が知と技を尽くして十九路盤で競い合う姿を見せれば、観る者もまた、新しい魅力に気づくだろう」

 

 行洋の言葉には、理論ではなく実感があった。実際に十九路盤の宇宙を経験した者の確信が、そこに宿っている。

 

 緒方が息を吐くように言った。

 

「……だったら、俺も打ちたいですね。その宇宙とやらを、肌で感じてみたくなりました」

 

 会議室の空気が変わった。まだ全員の賛同は得られていない。しかし、何かが確かに動き出していた。

 

 名人・塔矢行洋の十九路盤への執着は、囲碁界全体を揺るがすほどの波紋を生んでいた。そしてその中心には、進藤ヒカルという少年がいた。

 

「ところで『本因坊』という名前の由来を聞いても?」

 

「進藤ヒカル君が言うには、江戸時代に、十九路盤で最強の棋士だった『本因坊秀策』という棋士に由来するそうだ」

 

「そんな棋士は歴史上存在しない」

 

 緒方九段はきっぱりと断言する。

 

「だが、名前の響きは悪くない……本因坊秀策……本因坊杯、か。なかなか面白いことになってきたな」

 

 名人・塔矢行洋だけでなく、緒方九段もまた、新たな時代の到来を、いち早く感じ取っていた。

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