ヒカルの九路盤 作:九路星人
夜の静寂が、進藤ヒカルの子供部屋を包み込んでいた。
蛍光灯の光が周囲を照らし、その中央には手作りの十九路盤が置かれている。
その盤面の上に、黒と白の石がひとつずつ、慎重に並べられていく。
(ヒカル……この局面、さっきと少し違いますね)
佐為が身を乗り出して言った。佐為の視線は十九路盤に吸い寄せられ、まるで盤そのものに飲み込まれていくようだった。
「うん。こっちは、秀策の『耳赤の一局』だ。いや、正確には俺の記憶を辿って再現してるだけなんだけどな」
ヒカルは穏やかに答えながら、次の一手を石でなぞった。
ヒカルの頭の中には、かつて目にした十九路盤の名局が無数に焼き付いている。
この世界には存在しない本因坊秀策の名局も、ヒカルの記憶の中だけでは鮮やかに生きていた。
(信じられません……このような広がりのある碁……。九路盤では決して生まれない美しさです)
佐為は陶酔するような口調で呟いた。
「この世界には、本因坊秀策の名前すらない。でも、お前ならわかると思った」
(はい。わかります。打てば打つほど……身体の奥から、打ちたくて打ちたくてたまらない想いが溢れてきます)
ヒカルは一瞬、笑みを浮かべた。
「だったら……今度は本番いくか。佐為、十九路盤で俺と真剣勝負してみる気はあるか?」
佐為の目が驚きで見開かれた。
(よろしいのですか……?)
「もちろん。今日まで佐為には背後から見守ってもらってばっかだったしな。でも今度は本気だ。俺も、この盤の上で勝ちにいく」
佐為は嬉しそうに笑った。
(では、お願いします……ヒカル)
ヒカルが黒石を持ち、静かに一手を打ち込んだ。広大な十九路盤が、新たな物語を紡ぎ始める。
序盤、白石の佐為は驚くほど慎重に構えた。普段の九路盤では見せないような静かな布石。だが、静かであると同時に、どこまでも深い。
一方でヒカルは、あえて現代風の布石を取り入れ、局面を積極的に揺さぶっていく。
(これは……)
佐為の眉がわずかに動く。この世界の佐為はかつて、平安時代に九路盤で囲碁を打っていた。
その時代に比べれば、十九路盤はあまりに広く、そして現代の感覚はあまりに鋭い。
(やっぱりヒカルはすごい……ヒカルはこの盤の上を、まるで自由に泳いでいるようだ)
中盤、佐為は一度リードを広げた。大模様をうまく構築し、ヒカルの侵入に対応しようとした。
だが。
「ここで割り込む」
ヒカルが冷静に打ったその一手が、佐為の構想を根本から切り崩した。
一見無謀にすら見える侵入だったが、その背後には複雑な読みと計算が潜んでいた。
(なるほど……ここで、来ますか)
佐為の声には、敗北を予感する焦りが混じっていた。
終盤戦。ヒカルはヨセでも一手一手を怠らず、冷静に地を確保していく。
最後の一石が盤に置かれたとき、佐為は長い沈黙の後、小さく頭を下げた。
(……負けました)
ヒカルは深く息を吐き、額の汗を拭った。
「あー。十九路盤で本気で打って勝てたの、めちゃくちゃ嬉しい……」
佐為はうつむいたまま、微笑んでいた。
(……これが十九路盤の勝負……。ヒカル……あなたはこの盤の理を、本当に理解しているのですね)
「お前がいたからだよ。俺一人じゃここまで打てなかった」
佐為は立ち上がり、盤を見下ろした。
(私は、この世界に十九路盤が現れたことを、心の底から嬉しく思います……)
その言葉には、八百年を越える無念の昇華が込められていた。
ヒカルは立ち上がり、碁盤に手を伸ばす。
「次はもっと上手く打ってやる。俺もまだ、全然足りないからさ」
(では次も、全力でお相手しますよ)
見つめ合う二人の間に、言葉はいらなかった。
十九路盤の上にしか存在しない、静かで激しい宇宙。それが今、確かに二人を繋いでいた。