日がすっかりと落ちた海軍本部近海は強風が吹き荒び、波は高く、十五メートルの落差を上がったり下がったり。目の前が波で真っ暗になる中で、百戦錬磨の航海士達がしっかりとした腕で航路を取っていた。白波を打ち砕きながら軍艦は一隻で大海原を征く。
「助かったよマルシル!」
「例には及びません。それより、事情を説明してください」
ウルフレッドが信を置き、彼の管轄であるサウスウェンディ島の実質的な司令に指名してから早三ヶ月は経つ。
西の海に居るはずの彼女が、どうして新世界は中盤に聳える海軍本部にいるのか。
「惚れた女がいる」
「なるほど……略奪愛ってやつですか。少将も隅に置けねェですな!」
「マルシルはどうしてここに?」
揶揄いに満ちた声を無視して問いを投げ掛ければ、マルシルはキョトンとした顔をした。
「どうしてって……呼ばれたんですよ。元帥殿に」
「センゴクさんが?! 何故……」
「サウスウェンディに帰るんでしょう? 迎えの船がいるって言われましてねェ……遥々迎えに来てみれば、港で打ちひしがれている我らがボスを見つけたってわけだ」
「……」
西の海からここまで到達するのに逆算で二週間前後。
つまり、ウルフレッドの解任は前々から決まっていたという事だろう。釈然としないながらも、そこに確かな気遣いを感じた。
ウルフレッドは甲板を一段高いところから見下ろしながら、欄干にもたれかかる。
「私が会議に参加して戻るまでそう時間は経っていない。精々が三時間から四時間だ。しかし同じ性能の軍艦である以上距離が縮まることは無い」
真剣な声を聞きながらマルシルが隣で欄干に軽く腰掛けて天を仰ぐ。荒れ狂う波の中に、わずかに見える星々が瞬いていた。闇を切り裂いて輝く希望のような光を見ながら、マルシルは考えを整理するように独りごちた。
「この船よりも速いとなると……アタシのトビコぐらいだね。ただこの波じゃあトビコで潜水する必要があるし……」
トビコとは、マルシルの相棒であるトビウオライダーの事である。シャボンディ諸島でとある人攫い集団に酷使されていたそうで、訓練生時代に押収してからの付き合いだそう。魚の寿命なぞ想像も付かないが、今の所老いは見せていないため乗って不安定なことはないだろう。
「現実的じゃ無いですね。ずっと捕まっているにも体力が持たない。水の抵抗を減らしたりできれば話は別ですが……」
「……抵抗が減ればいいのか?」
「……エッ?」
・
荒れ狂う波間に浮かぶ軍艦から幾つものライトが右側方の一部を照らしていた。海面から頭を出す巨大なトビウオと、その背に掛けられた鞍に乗るマルシルとウルフレッド。ウルフレッドは懐に入れた仕事道具を服越しに感じながら何を持ったか想起していた。縄、包帯、電伝虫……。
マルシルが大きなゴーグルを額から目元へ引き下げて叫ぶ。
「いいですか? なるべくトビウオの体に沿う様に身体を密着させてください! そして何より、絶対に手を離さないでください! 念の為胴を縄で繋いではいますが安全性を保証出来ないので!」
「わかった!」
横殴りの雨が二人の声を阻む。声を張り上げたマルシルは正義を肩から外した上官の目を貸したゴーグル越しに振り返って見つめる。
「ご武運を」
「ああ……頼むぞ、マルシル」
「こちらこそ、アタシの命はアンタが握ってるんだからね」
マルシルはトビウオのハンドルをしっかりと握り込んだ。背筋を冷や汗がツツと流れる。
実はこのマルシル、今まで悪天候時にトビウオで海に出たことが無かった。必要がなかったとも言えよう。
荒れた海の恐ろしさは海兵としての経験で身に染みている。しかし、トビウオで踏破できるのだろうか。
若干の怯みを察したのか、トビコがひとつ、大きく跳ねた。「う、おッ」とバランスを崩しかけたウルフレッドがマルシルに掴まる。しかし、マルシルにはトビコの目しか見えていなかった。
トビコは目で語っていた。
――この海を踏破できる、と。
自信に溢れた、やる気に満ちた目で、トビコは確かにそう語りかけていた。
「すまねェトビコ……ハンドル握ってる奴がビビってちゃ、お前のポテンシャルを引き出し切れねェよな……!」
「ビビって……え?」
「こんな悪天候は初めてだが、アタシとアンタなら行ける! 行くぞッ!」
「初めて……え?」
ウルフレッドの戸惑いの声を打ち消す様に、遠くで雷鳴が響く。嵐だ。
それに気を取られた刹那、ウルフレッドの肉体は後方へと引っ張られた。正確に言えば早すぎる初速により体全体にとてつもない重力がのしかかった。
空気と共に雨粒が猛烈な早さで顔にあたる。最早痛みさえ感じるほどのそれ。
呼吸も難しい様な飛行に、ウルフレッドは必死で目の前の華奢な背に身を寄せる他なかった。
「飛ぶぞォ――ッ!」
マルシルが何かを叫ぶ。それを理解する前に体を浮遊感が襲った。
大きなトビウオが波の谷を飛び越えている。
ある種幻想的な光景だが、乗っている当人達は必死である。鼓膜をトビウオの巨大な鰭が風に靡く音が打つ。何もかもが暴力的なまでの音に支配されていた。そんな中、マルシルは再び叫んだ。
「少将ッ!」
「ッ、ああ!」
空中で必死にバランスを取りながら、ウルフレッドは剣を抜かないままに剣の構えをとった。無駄のない振り払いをすれば、何処からか無数の小さな旋風が斬撃を形作るように寄り添い、海に風穴を開けた。
トビウオは鰭を器用に折り畳み、恐ろしいまでのスピードでその穴に飛び込んだ。最低限に抑えた入水時の抵抗はトビウオが本来最も速度を落とす水中での初速を緩ませない。
僅かな気泡を纏い、トビウオがキラキラと輝く。荒れ狂う海上とは異なり、海の中は至って平穏そうであった。魚も泳いでいるし、海藻もユラユラと波に身を任せている。ただ水面を仰ぎ見れば激しく白波が立っているのが見てとれた。
「……ッ!」
水中でも高速で泳ぐトビウオ。地上とはまた異なる圧力に、ウルフレッドは歯を食いしばった。息を吐き出しながら鼻に息が入るのを防ぐ。掌越しにマルシルの全身に力が入ったのがわかった。
上昇するのだ。ウルフレッドは水の抵抗を少なくするために顔を伏す。刹那、トビウオは水中でのトップスピードそのままに海面へ急上昇して行く。僅かな衝撃ののち、体を打ちつける雨粒に再び空を飛んでいるのだと理解した。咳き込みながら必死に酸素を吸い込む。
「すまんッ! タイミング逃した!」
「この調子でいけば一時間で追いつける!」
「一時間も?!」
「少将!」
「……ッ」
文句を言う間もなく、次の水面が迫っていた。
先程と同様に旋風が斬撃を形作り、海に風穴を空ける。先程と違うのは入水の直前。ウルフレッドが精密な操作で風を顔周りに纏わせることで水中での呼吸を可能にする超絶技巧。
今までとは全くジャンルの異なる操作感にウルフレッドは歯を食いしばりながら指をぐっと握りしめた。
煌めく気泡を纏う海中でマルシルはニッカリと笑いながら片手をハンドルから離し、背後にしがみつく上官の腕を叩いた。
・
ロベルト島南部に位置する繁華街は、世界的にも有名な夜の街である。
暗闇の中、幾つもの提灯が煉瓦造りの建物と建物を繋ぎ、宙を彩る。暖色系の光が美しく着飾った女たちを照らし、その姿をより一層艶やかに見せていた。華やかな顔立ちもさることながら、特筆すべきはその髪である。
シルクのように滑らかで、海を知らぬ陸の女の髪――。
それがこの街の女たちの特徴だった。
しかし、この島には不穏な噂もある。「人がよく消える」こと、そして「美しすぎる」こと。
そうした事情が相まって、口さがない連中はここを「怪物の住まう島」と呼んだ。
そんな島のメインストリートを、一人の男が歩いていた。
ずぶ濡れの白い服をまとった男――どこをどう見ても怪しさしかない。だが、鬱陶しげに濡れた髪をかき上げた途端、色白の小さな顔にバランスよく整った端正な容貌が露わになった。中々の美男子である。
遠巻きにしていた女たちは、次第に興味を持ち、ついには男の周囲に群がり始めた。
「兄さん、遊んでかない?」
「安くするわよ。ねぇ、こっちへいらっしゃい」
色めき立つ女たちに、男――ウルフレッドは首を横に振る。
「いや、すまないが人を探しているんだ」
メインストリートの娼館は質が良い。どの娘も美女揃いだったが、ウルフレッドの目はそのいずれにも留まらなかった。
“人を探している”という言葉に、女たちは一斉に目を輝かせる。彼女たちの脳裏をよぎったのは、まるで御伽話のようなラブロマンスだった。
「まさか……好いた人を迎えに、とか?」
「……ああ、間違いない」
「キャーッ! ウソみたいッ!」
「アタシもこんな素敵な殿方に熱心に追われたァ〜い!」
嬌声が飛び交う。ウルフレッドは囲まれたまま、大きな水溜まりを作りつつ身動きが取れずにいた。
どうにか話を切り上げようと隙を窺ったが、これは逃げられそうにない。ならば――と、彼は別の手を打つ。
「可憐なお嬢さん方、どうか私の探し人を見つける手助けをしてはくれないだろうか」
地の利を持つ彼女たちならば、島の内情にも詳しいはずだ。ウルフレッドの言葉に、ひとりの女が艶やかな笑みを浮かべ、彼の腕に寄り添う。そして、人差し指でツツとびしょ濡れの胴をなぞる。
「そりゃあいいけれどねェ……どんな娘を探してるんだい?」
ウルフレッドは少し困ったような顔をしながら、女を見下ろして答えた。
「黒く美しい髪に白い肌の女だ。笑う時は目を伏せる。静謐な美を秘めた娘――名をツバキと言う」
「それって……」
ウルフレッドが特徴を口にした途端、女たちは揃って顔を曇らせ、互いに視線を交わした。何か知っている。確信した彼が口を開こうとした、その瞬間――
「私、知ってるわ!」
「やめときなさいよ」
「ツバキちゃん、さっき戻って来たのよ!」
周囲に静止されても、女は強張った顔のまま叫ぶ。
「あの男に連れられて、
刹那。
ウルフレッドは女の腹を下から腕で掬い上げ、跳躍した。女が驚く声を上げる間もなく、轟音と共に土煙が立ち上る。
集まっていた女たちの甲高い悲鳴が、メインストリートに
「……」
「やはり来たか」
土埃の合間から、大きな亀裂の入った石畳に大柄な男が拳を打ち付けている姿が見えた。ゆらりと立ち上がる男のシルエットが、土埃越しに浮かび上がる。逆三角形の肉体とそれに見合わぬチキンレッグがなんともアンバランスであり、しかし屈強な印象を感じさせる。
男が動かぬ間に女達は皆そそくさと自らの店へと戻っていく。女を地面に降ろせば軽く会釈だけして駆けて行った。強かでありながらどこか手慣れた様子である。
「あの娘を……ツバキを返してもらう」
「……」
男――カンランは無言で両拳を胸の前で打ち付けた。
大槌の様な拳がぶつかることでウルフレッドの体を衝撃が震わす。
睨み合う両者は数巡の間動かずにいた。
合図は一陣の風であった。
「西風の暴風!」
弾かれる様に前に飛び出したウルフレッドは噛み締めた歯の隙間から鋭く息を吐きながら、腰元の西洋剣を振り上げた。
四方から巻き込まれる様に剣に巻き付いた風が飛ぶ斬撃となってカンランへと飛んで行く。
切り返して三連。
縦横乱雑な斬撃を、カンランは黒く染めた拳で殴りつける事で霧散、或いは空へと打ち逸らす。
金属が打ち合った様な甲高い音が静まり返った繁華街に響き、わずかに土埃が舞う。
「……ッ!」
声の無き声で気合を入れたカンランが次はこっちの番だと言わんばかりに拳を打ち鳴らして腰を落とした。
刹那、視界を遮る土埃から一陣の風となったウルフレッドが飛び出し、カンランの無防備な横腹を薙ぎ払う。
吹き飛ばされたカンランは道端に聳える建物の壁に打ち付けられた。咄嗟に硬化したカンランだったが僅かに剣先が入ったのかツツ……と生暖かいものが脇腹を伝う。
カンランは瓦礫を崩しながら立ち上がる。脇を伝うそれを指先で掬うと、目の下に塗りつけてウルフレッドを睨め付けた。
「……こちらにも、事情というものがある」
「話せるのか……!」
そこで一度言葉を切ったカンラン。鮮血に囲まれたグリーンの瞳に決死の想いが煌めく。
「……潰す」
「叩っ斬る!」
爆発音にも似た音と同時にカンランの身体が倒壊寸前の建物から弾かれるように飛び出す。
崩れる建物を背に、黒く染まった拳が剣と交差した。
文字通り手数の多いカンランのラッシュを剣一つで必死に捌く。赤い閃光さえ帯びるそれは当たれば即ゲームオーバーの攻撃力だ。地が爆ぜ、雲が掻き消える。
攻撃の合間を縫って飛び退り、彼我の距離を空けた。
一拍。
酸素を深く吸い込んで、ウルフレッドは剣を突き出す。宮廷儀礼の様な型に嵌った剣術から一転、フェンシングのような動きに虚を突かれたカンランは咄嗟の判断で肩を硬化させる。
吸い込まれるように黒く染まった皮膚を、僅かなりとも切り裂いた剣は敵を深追いすることなく軽々と主人の両手に戻って行った。
「貴様……覇気を……!」
「コツは掴んだ。後は己が……使うのみッ!」
ニヤリ。
騎士然とした風貌にはそぐわない猛獣のような野生味のある笑みを浮かべ、ウルフレッドは西洋剣のグリップを握り直した。使い込んだグリップが彼方からも握り返してくる。再び構え直した時には、カンランは衝撃から抜け出していた。
「今度は此方からだ……行くぞッ!」
カンランが大きく後ろへ飛んで距離を開けたかと思うと、雄叫びを上げながら猛烈なラッシュを空中へと放った。黒く染まった拳は鞭を打ったかのような破裂音と共に衝撃を発する。次第に加速するラッシュは音を置き去りにして行き、やがて距離をも超越した。
「!」
拳の形に歪んだ風圧と衝撃がウルフレッドの視界一面に現れたのである。飛ぶ斬撃とも似たそれを、冷や汗を一筋流しながら見据えた。
横に飛んで足元へ飛来したそれを避ける。土埃。一拍置いて爆発音が横面を叩く。土塊が視界を塞ぎ、しかし感じるままに上へ飛ぶ。再び足元が轟音と共に抉り取られた。
「ッハハ……!」
避けても避けても、避けた先に待ち構えている攻撃を紙一重で交わして進む。
チリ、と頬が熱くなり、熱が顎先から滴る。
汗が弾け、白い服が破れ、それでも隙を縫っては剣を振るう。
一進一退の攻防。
しかし決定打は互いに無く、いたずらにメインストリートが壊れていく。海軍として止めなければいけないそれに、しかし正義の代弁者は笑みを浮かべていた。
――愉しい
剣先が思い通りの軌道を描いて空を切る。強固な守りを破り、また一歩高みへと導かれる様に登っていく。ウルフレッドはいつに無く冴えていた。
冴え冴えとした剣からは薄緑のオーラの様なものさえ立ち上っているように見える。
「……いい、顔をしている……!」
「お前も、なッ!」
寡黙だったカンランは闘いにおいては雄弁になるらしい。血が昂るままに歯茎を剥き出しに笑うカンランに、ウルフレッドもニヤリと笑った。
だが、あと一歩。あと一手が足りない。届かない。
もう少しで何かを掴める。
その時、性根の曲がったような声が大通りに響き渡った。