第一章『零崎双識』 1
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焼けているのは何もかもだった。
日本、某所。などというといささかぼかしすぎではあるけれど、しかしそのくらいにぼかしてやっとなくらいの有名都市。近隣に海を抱え、古来より湾口都市として経済の要所を担ってきた某政令指定都市の一角。近隣には巨大な遊園地や水族館などの観光名所を抱える、海のそばの街。
そこが今——炎に包まれていた。
焼け爛れ、崩れゆく建物の影で、息を潜める影が一つ。
明らかに人体にとって害があるだろう真っ黒い煙を、少しでも肺に入れないようにとハンカチで口元を押さえながら、零崎双識は小さく呟く。
「——さーて、一体全体、なんでこんなことになってるんだっけ?」
かくて、双識は振り返る。己の過去を。現状へと至る道筋を。
あるいはそれは、走馬灯の類かも知れずとも。
◆ ◆
零崎常識と連絡がつかないのはいつものことだ。彼はああ見えて、個人主義なところがある。いや、個人主義という言葉は、いささか適切ではない。言うなればそう、反束縛主義とでも言うべきだろうか。とにかく、何かしらに囚われることを、彼は極端に嫌うのである。たとえば携帯電話なんかを、彼は好かない。いつ何時電話がかかってくるかわからない——プライベートが、誰かの都合に邪魔されるかもしれない。そんな状況は、見えない鎖で繋がれているようなものだ、なんてセリフを大真面目に吐く。携帯を持っていないというわけではないくせに、身内にすら番号を教えないのだから、筋金入りだ。自由であること、気儘であること。解放されていること。それが彼にとっては重要で、だから彼が爆弾を得物としているのも、そういう意味があってのことなのかも知れないな、なんて双識は思う。
それに——
(その気まぐれさは、少し)
無論、根本的な性質は異なるけれど。
常識の場合、気まぐれで気分屋なのは、あくまでも表層的な性格にすぎない。
弟のように。
心の基盤が、
ある意味では、わかりやすい男だ。
不自由を許さず、束縛を嫌い、それでいながら——家族愛だけは、人一倍。
そういう男だ。零崎常識という男は。
だからこそ。
だからこそ、そんな男の窮地に、家族が助けを寄越さないなんて、そんなことがあってはならない。
きっと彼は、鬱陶しがることだろうけれど。
それでも駆けつけないわけには、いかないのだ。
「うふふ、全く、ツンデレな兄弟というのも困りものだな」
なんて言いながら、双識は颯爽と街を歩く。その評をもしも本人が聞き及んだなら、爆弾の一つや二つが飛んできてもおかしくないのだけれど、ともかくとして。
双識は目下、零崎常識を捜索中だった。
「この辺りにいる——のは、確かだと思うんだけれどねぇ」
顎に手をやりながら、双識は首を捻る。関西でも有数の大都市。その一角、海辺の街を歩きながら。
それは情報として、この近くで零崎常識の痕跡が——爆発痕が発見されたというのももちろんだけれど、それ以上に。
それは血ではなく流血によって繋がる
視覚でなく嗅覚でなく聴覚でなく触覚でなく味覚でなく——第六感。あるいはそれすらも超越した
それを確かに——感じる。
「近くはある……ん、だよな。この荒々しい気配は、間違いなく彼のものだ。ただその割には——」
判然としない。どこか、ピントがボケているかのような。違和感とズレを、感じる。
「結界の類……かな」
その割には、いささかお粗末だが。
いやあるいは、
後者であれば、少し厄介、だ。
「ま、焦ることはない、か」
小さく呟く。
幸いにして、敵が仕掛けるよりも早く、双識の方が彼を見つけることはできたようだし——向こうからしても、双識の気配を感じてはいるだろう。この街から出なければ、少なくとも合流はできるはずだ。
そんな風に考えて、双識は街中を散策する。せっかくだからいっそ、遊園地にでも遊びに行っても良いかも知れない。同行者がいないのは寂しいが。今回ばかりはことがことであるし、以前のように、子荻ちゃん——とあるお嬢様学園に通う女子中学生。驚くべきことに、零崎双識のメル友である——を連れてくることはできなかった。はあ、やれやれ、まったく、敵さん方も空気を読んではくれないものだ。せっかく女子中学生の友達が出来たというのに、そんな時ごろに限って厄介な攻勢を仕掛けてきてくれる。まるで双識と子荻の仲を引き裂こうとしているがごときではあるまいか。戦争に注力するがために、以前は一日百通以上やり取りしていたメールも、今では一日五十通が限界だ。およそ半減である。ああ、こんなに送るメールを少なくしたら、子荻ちゃんが寂しがってしまうではないか。やはり許せない。いち早くこの件を解決して、さっさと日常に戻らなくては。そしてまた目眩く麗しの女子中学生との文通の日々を再開させるのだ。あわよくば、またデートにも行きたい。一度と言わず二度三度。四度五度六度七度八度九度十度……。いや、そんなに誘いすぎても、学業に支障が出てしまうだろうか。子荻ちゃんだって、きっと本当は毎日だって自分に会いたいだろうに、勉学のために涙を飲んで毎日学校に通っているのだ。その努力を『お兄ちゃん』である自分が穢すわけには行かないだろう。うふふ、ああ、子荻ちゃんは可愛いなあ健気だなあ頑張り屋さんだなあ。その努力を労うためにもやっぱり早くもっとたくさんのメールを送れるようにならないと——
なんて、妄想逞しく女子中学生に思いを馳せていた双識の元に。
「——すみません」
と。
背後から、誰かが声をかけてきた。
「うん?」
疑問符を浮かべながら、双識が振り返れば——そこには。
一人の子供が——立っていた。
「すみません、少し、道をお尋ねしたいんですが、よろしいですか?」
美少年、という言葉が、まず一番に浮かぶ。それはきっと、見た者が零崎双識でなかったとしてものことだろう。
未だ成熟には遠い年齢ゆえにだろうか。男性的とも女性的ともつかない、中性的な美しい顔立ち。男の子にしてはやや長めの黒髪に、純朴な白い半袖のシャツと、サスペンダーで吊られた膝上までの黒い半ズボン。革靴に、膝下までのハイソックス。理想的なファッションだった。
「素晴らしい」
双識は思わず口にした。そう、少年というものは、膝小僧を露出してこそだ。最近の子供ときたらどんなませ方をしているものか、春だろうと夏だろうと関係なく長ズボンを履く少年が増えているものだが、やはりそれではいけないだろう。スカートの下にスパッツを履くのと同じくらい無粋極まることで、許してはならない悪徳だ。膝上までの半ズボンと、膝下までのハイソックス。その二つに挟まれて見える元気な膝小僧。それがあっての少年というものではないか。弟も中学生になって以降、すっかり半ズボンを履かなくなってしまった。双識が無理やり着せようとしてもナイフを持ち出してまで拒んでくる。ああ、一体どこで育て方を間違えてしまったんだろうか? まったく嘆かわしい限りのことだ。それを考えると、この少年は実によくわかっている。無粋な長ズボンも膝を覆うようなニーソックスも身につけていない。元気一杯の、少女のそれとは異なるほんの少し骨ばった膝小僧をよく見せてくれている。このサービス精神がこそ、時に人を救うものだろう。
双識は思いながら、徐に少年の膝に向けて手を伸ばした。
「あの、え?」
普通に避けられた。そして退かれた。二メートルぐらい。ざざっと一気に後ずさられて、双識は悲しい気持ちになった。
「ああ、違うんだよ少年! ただ、君の膝に少し埃がついていたから払ってあげようとしただけでね?」
双識は必死に言うが、疑りの目は晴れない。まいったな。どうやって誤解を解いたものか。双識は首を捻るが、残念ながら、誤解ではないものを晴らそうとしても大抵は不可能だ。
「まあ、そういうことにしておきましょうか。ええ、僕もまあ、声をかけた相手が突然初対面の子供の膝を撫で回そうとする変態だったとは思いたくないですしね。……それで、あの、道を聞きたいんですけど」
良いでしょうか? と、少年は問いを繰り返した。
「ああ、もちろん構わないよ。道でもなんでもいくらでも聞いてくれたまえ。ただ、そうだな……その前に一つ、逆に質問をしても良いかな」
「え? ええ、まあ、構いませんが……」
「ありがとう。それじゃあ遠慮なく聞かせてもらおう。きみ、名前はなんと言うんだい?」
問われて、一瞬。少年は考え込むように口を噤んだ後——
「……入皆、と申します」
と、少しだけ嫌そうに答えた。
「ほう、入皆くんか! 輝かしい響きだ。良い名前だねえ!」
にこにこと笑いながら言う双識に、少年——入皆は若干の苦笑いを浮かべつつも「ありがとうございます」と礼儀正しく返した。
「そういうあなたは、なんというお名前なんでしょうか?」
「ああ、私は零崎双識という」
淀みのない答えに、入皆はほんの少しだけ、硬直する。
「うん? どうしたんだい?」
「ああ、いえ、珍しいお名前だな、と思いましてね」
「まあそうだね。なかなか、『普通』とは言えない名前だ」
言いつつも、双識は優しげな笑顔を浮かべて見せる。
「それで、道だったか。ああ、心配はいらないよ。私もこのあたりには来たばかりだが、うふふ、方向感覚には自信があってね。君が行きたい場所に必ず送り届けてあげると約束しよう」
「いや別に、送り届けてはいらないんですが……」
粘ついた気配のする過剰な親切に、入皆はやんわりと拒否を示すが、しかし双識はそれを逃さない。
「硬いことを言わないでくれよ。遠慮なんて必要ないさ。親切というものは素直に受け取るものだ。特に若いうちはね」
パチリとウィンク。決まった、と双識は確信するが、なぜか入皆の表情は晴れなかった。
なるほど、これは照れているな。双識は曇りなき眼でそう判断した。
「——っ!?」
そっと肩を抱いた。素早く、澱みない動きで。
入皆はなぜか鳥肌を立てる。多分、喜びのあまりにだろう。双識はそう解釈した。
「あ、あの……?」
混乱、という表情で見上げてくる入皆に、双識は務めて優しい声色で言った。
「不安に思うことはないよ、入皆くん。こんなところで君のような小さい子供が一人ということは、保護者の方と逸れてしまったんだろう? 大丈夫、ここは一つ、私のことを保護者と思って——そう、お兄ちゃんと思って甘えてくれて良いんだよ」
「い、いえ、遠慮します」
ぶんぶんと首を振られる。双識は不満げな顔になった。それを見て、入皆は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「——っ、くっ……………………お、お兄ちゃん」
「エクセレント!」
双識は歓喜の叫びを上げた。入皆は泣きそうだった。多分、感涙だろう。双識はそう解釈した。
「さあ、入皆くん、どこに連れて行って欲しいのかな? お兄ちゃんに教えてごらん?」
「ぐっ……うぅ……え、駅まで、一番近くの駅までお願いします」
「……………………そんなに近くでいいのかい?」
「い、良いんです! 電車にさえ乗れれば自分で帰れるので!」
双識の恨みがましい目線に負けそうになりながらも、入皆は言い切った。双識は「……残念だな」なんて心の底からの絶望を吐き出すように呟いて首を振った。
「しかしまあ、駅までで良いならそれでよしとしよう。私の方も……うん、一応は、用事の最中だしな」
「あ、ご用事があったんですね。それじゃあ邪魔しては悪いので僕は交番にでも行くことに——」
「完全無欠に勘違いだ。用事なんて一つもなかった。私は今現在宇宙で一番暇な男だ。君という少年を目的地まで送り届けることだけを唯一の使命としてこの世に生まれてきた。他の用事なんて私の人生には一つとして存在していない」
「あ……そ、そうですか」
異常な熱量に全力で退きつつも、入皆は健気に笑顔を浮かべて見せた。これは間違いなく心からの笑顔だろう、断じて愛想笑いなんかではない。双識はそう判断した。
「さて、それじゃあ行こうか入皆くん。ああ、そうそう、逸れて迷子になってはいけないからね。手を繋ごう。いやいっそ腕を組もう。さあ、私の腕にその手を絡めるんだ。ああ、もっと全身を擦り寄せるように。いっそ私の腕を抱きしめてくれ。良いよ、実にいい感じだ。うんうん、これなら逸れることはきっと万にひとつもないだろうね」
双識の針金細工のように細長い腕に抱きつくようにして体を絡めながら、入皆は必死になって笑顔を保つ。もし貼り付けた笑顔が崩れてしまえば、それ以外のいろんなものも一緒くたに崩れてしまいそうな気がした。入皆はもう、限界だった。
「さあ、それじゃあレッツゴーだ」
双識は意気揚々と歩き出す。
かくして、入皆にとって、後に振り返ってみれば生涯で随一となる、地獄の時間が始まった。
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