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もちろんのこと、この入皆という少年は一般人ではない。いや、そんな言い方をしては、一般人という存在をどう定義するかという疑問が当然浮かんでしまうものだけれど、しかしその問いについては一旦休止符を挟むとして、少なくとも彼は『普通の世界』に生きる人間ではない。
彼は。
入皆という少年は。
その名の通り——普通ではない。
彼があえてその苗字を零崎双識に名乗らなかったことからも察せられるように、その匂宮という名字には、意味がある。並々ならぬ、意味がある。
匂宮雑技団——目下、零崎双識がこの街へとやってきた理由の一つ。現在零崎一賊が直面している『戦争』——とある策士に曰くしては『小さな戦争』に、新たなプレイヤーとして盤面に参戦した——あるいは参戦させられた集団。あるいは軍団。——雑技団。
彼、匂宮入皆もまた、そんな匂宮雑技団の団員であり——それどころか。
その中核、あるいはその中枢とさえ言っていい、匂宮雑技団の
——『
それこそが、彼、匂宮入皆の正体。
そう、この誰がどう見たって十歳前後の子供にしか見えようのない、あどけない少年がこそ、真実——暴力の世界においてはあの死色の真紅という例外中の例外存在を除き、おそらくは最大限に恐れられるだろうプレイヤー——『
だからこそ、彼が零崎双識に近づいたのだって、道がわからないからなんて馬鹿げた理由ではもちろんない。見た目こそ十歳の子供であっても、中身の方はそうではないのだ。そもそも、本当に道がわからなかったとしても、道端でニヤつきながらぶつぶつと独り言を呟く針金細工のような体型の変人に、わざわざ声を掛けはしない。
普通に、お巡りさんに頼る。
だからこそ、彼が零崎双識に声を掛けたのには、意味がある。
意味があるし、裏がある。
そんな事実を——もちろんのこと、零崎双識は知らない。
知る由もない。
だからこそ——
「へぇ、入皆くんはチョコレートが好きなんだ。いいねぇ、チョコレート。甘くて香り高くてちょっぴりビター。まるで初恋のようじゃないか? 摂取のしすぎには注意ってところも含めてね。知っているかい? 実はチョコレートっていうものは、歴史を振り返ると最初は甘くなかったそうだ。むしろ、逆に唐辛子なんかが入っていて、相当スパイシーな味付けだったようだね。しかも固体ですらなく、どちらかと言えばとろみのついた液体だったらしい。うーん、現代人からすると想像がつかない味だよねぇ。ま、当時は食べ物というよりも、むしろ薬として扱われていたようだったから、味は二の次だったということかもしれないが。ちなみに言うと、それが甘くなったのは、カカオが南米からヨーロッパに持ち込まれてから、飲みやすくするためにのことだったらしいね。そう思うとまあ、面白い転換じゃないかい。原初は薬として扱われていたものが、口当たりの良さを追求しているうちに、いつの間にか逆に生活習慣病の元のようにさえ扱われてしまうようになってしまったというんだからさ。これぞ本末転倒の代表例とさえ言えるかもしれないな。良薬口に苦しという言葉の正しさがよくわかるよ」
そんな風に、双識は実に嬉しそうに入皆へと話しかけ続けていた。
零崎双識の限度を超えた長台詞に、入皆は引き攣った笑みを浮かべながら「お兄ちゃんって物知りなんですね」と世辞を述べる。口が腐りそうだ。入皆は込み上げる吐き気を堪えながらそう思った。
そんなことを思われているとは露知らず、双識は気をよくして「うふふ」と笑う。いやあ、入皆くんとのお話は楽しいなあ、こんなに素直な子供というのも今日になかなかいないものだ。流行りのツンデレも良いものだけれど、やはり子供は素直が一番。双識は思いながら、腕に抱きつく入皆の感触を楽しむ。
「——というわけで私はコサックダンスが得意でね。滅多に人前では披露しないんだが、入皆くんさえよければ特別に——」
「あの、ところでお兄ちゃん。駅への道って、こっちで本当に合っているんですか?」
思えば歩き始めてから、結構な時間が経ちつつある。つまりそれだけの長きにわたり、入皆は地獄の時間を味わってきたというわけである。
「………………ああ!」
「なんですか今の間は?」
「やだなあ変な疑いはよしてくれよ。まさかこの私が、年下の少年との会話を楽しみたいがためにあえて駅への道を遠回りしているみたいじゃないか」
双識の発言は間違っている。みたい、ではなく、そうだ。彼は年下の少年との会話を楽しみたいがために——腕に抱きつく感触を楽しみたいがために、あえて駅への道を遠回りしていた。
「…………まあ、良いですけどね」
冷たい視線をぶつけながら、入皆は言う。
「それにそのおかげで——間に合ったみたいですし」
「うん? 何か言ったかい、入皆くん」
「いえいえ、何も言ってませんよ、お兄ちゃん」
笑みを浮かべて、見上げ——
そして。
「やれ」
と。
言葉ではなくハンドサインで、それを促した。
瞬間——
ふぁ————————
と。
どこかから、音色が響く。
「おや? なんだろう。笛の音色……いや、フルートか——」
な? と。双識が言い終えるよりも早く——それは。
曲がり角の向こうから、ゆったりと現れるそれは、五人の集団だった。
男もいれば、女もいる。背丈も体格もてんでんばらばら。しかしそれでいながら、彼らを『集団』と言い表すのは、彼らが身に付けている服装にこそ理由があった。
誰も彼もが、夜会にでも出向くような真っ黒い正装を着用している。いわゆる燕尾服——と、双識がそう気付けたのは、きっと身内にそれを衣装として着用する一人の音楽家がいるからであり——そして彼らのシルエットが、
燕尾服を身に纏った五人の紳士淑女たち。彼らはその全員が——一人を除く全員が、『楽器』を所持していた。
そして、彼らはそれを——演奏する。
軽やかなリズムを奏でるスネアドラム。参入するファゴット。また追うようにヴァイオリン。フルートを合わせ、四つの楽器が一つに束なる美しい四重奏。
そしてそれらを指揮する——一人の男。
「初めまして、『
男は。
その集団の——その
「ふふ、そんなに警戒しなくても——警戒して、
男はくすりと笑って言う。双識は——額にうっすらと汗を浮かべながら、入皆の耳をその両手で必死になって塞いでいた。
音使い——音を媒介とし、他者の肉体や精神を支配する異能者。自らの家族の一人がそうであるが故に、突如として現れ、そして自らを『
「私が作曲した曲でしてね。作品ナンバー二十七——『淑やかな呟き』。いかがでしょうか、『
男はにっこりと笑みを浮かべて——そう問う。高い背。長身の双識と比べても、なお高い。二メートルはあるのではないだろうか? 細身の、引き締まった体に、燕尾服。顔は若く、髭もない。フレームレスの丸メガネをかけ、癖のない長髪を黒いリボンで一つ結びにしている。
「いい演奏だが、残念ながら、私の家族の演奏に比べれば、劣るとしか言いようがないね」
「ふふ、これは手厳しい。しかし、ええ。それは妥当な評価でしょう。私の敬愛する音楽家——零崎曲識氏が間違いなく天才であるという点を差し引いても——この演奏には致命的に欠けている音があるのですから——」
言って——彼はその手の、指揮棒と呼ぶにはあまりにも大きく、また太すぎる二本の『棍』を振りかぶる。双識は咄嗟に、入皆の目を塞いだ。
そして——
「——ねぇっ!」
——振り下ろす。
それは、
ごしゃり。と、人体の破壊される音色が鳴り響いて——その瞬間。
演奏が——完成する。
「く、あ——っ!?」
思わず、眩みそうになる。ありえない。悪趣味だ。狂っている。だがそれでも——双識は思ってしまったのだ。
「何かが破壊される音は、美しい——」
そうでしょう? と。スネアドラムの奏者にさらなる追撃を叩き込みながら——その両手のバチによって、
ごしゃり、ぐしゃり、びしゃり。人体の砕ける音色が——フルートと、ファゴットと、ヴァイオリンと、調和し、飽和し、総和する。
その音色は、吐き気がするほどに——美しく。
「……悪趣味だ」
荒く息を吐きながら、双識は吐き捨てた。
「悪趣味もまた趣味ですよ」
ニタニタと言いながら、男は
男の奏でる破壊音楽。それが続けば続くほど、双識は自らのコンディションが悪くなっていくのを感じる。体の力が抜け、倦怠感が体を支配する。脳が考えることに嫌気を感じ、今すぐにでもこの場を逃げ出してどこかで眠ってしまいたいなんて泣き言をほざき始める。それは目の前で行われている残酷なる演奏劇に対する嫌悪感なんてもので片付けられるそれではなく——男は。
「おっと、もう壊れきってしまいましたか」
かつてスネアドラムの奏者だった何かを
瞬間——演奏は止み。
静寂が、満ちる。
「ご清聴、ありがたく。改めまして、ご挨拶を。やあやあやあ、どうも、どうも。私の名は『
恭しく、彼は慇懃にも深々と頭を下げる。
「罪鼓——ね」
その名前は、双識にも聞き覚えがあった。
罪鼓——罪鼓交響楽団。
近年、メキメキとその実力を伸ばしているというプレイヤー集団だ。団員の誰もが『楽士』であり、殺し名と呪い名の境界にあるとも語られる。ともすれば、そのうち、どちらかが『一名』増えるのではないか、と語られているほどで——その中でも。
「罪鼓罰撥——確か、罪鼓交響楽団のコン・マスだったか」
立場としては、零崎一賊内における双識のそれに近い。
つまりは——長兄にして特攻隊長。
それこそが、罪鼓交響楽団のコン・マス——人呼んで、『
「おやおやなんとまあ、我が敬愛する零崎曲識氏の兄たる『
「残念ながら、聞き及んでいるのは音楽家としてではなくてプレイヤーとしての名前だけれどね」
言いながら、双識はこの場をどう切り抜けるべきかを考える。演奏が終わってなお、体は重たいままだ。コンディションは最悪に近い。
音使いとしては、どうやら、彼らは二流だ。
タイプとしては、音による精神操作を主としたタイプの音使い。人間は音楽に影響を受ける生き物だ。陽気な音楽を聞けば気分が上がり、悲壮な音楽を聞けば胸が張り詰める。そのような、音による精神の変化作用を極端に突き詰め、音によって他人の心身を自由に操る——そのような音使いのハイエンドを知っているからこそ、彼らが二流であると断言できる。双識は演奏中も、決して心身を支配されたわけではない。わけではないが、
彼らは間違いなく二流だが、
特にこの、
双識は苦々しく彼らを——罪鼓の楽団を見つめる。
「それで? 君たちは何をしに来たわけだい? 演奏を聴かせに来てくれたっていうのなら、もう十分以上だけれど」
「おやおや、奥ゆかしいですね、『
彼は言って、ニタニタと、三日月のような笑みを浮かべる。
「特に——私たちのクライアントは、
けひゃ——と。それまでの薄ら笑いを投げ捨てて、男は頬を裂いて笑い始める。
「けひゃ、けひゃ、けひゃひゃひゃひゃ——! 年貢の納め時ですよぉおおおおおマインドレンデル氏ぃぃぃぃいいいいいい! この罪鼓罰撥が! あなたという楽器を奏で、極上の音楽を演奏して差し上げますよぉおおおおおお!」
迫り来る二本のバチ。それを——咄嗟に、両腕を盾にして防ぐ。瞬間——ごぃん、と。強烈な打撃音が響く。それを皮切りに——楽団員たちの演奏が始まった。
「けひゃひゃひゃひゃ——作品ナンバー四十四! 『厳かなる殺戮学級会』! あなたを奏でるために作った楽曲です、どうか心ゆくまでお楽しみあれぇえええええっ!」
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